第3章 年〜年

山一證券:日銀特融による再建と東証への再上場

282億円の日銀特融と新旧会社の分離から1973年の再上場を経て、損失の密室処理へ

1965年〜運用預りの取り付けと8回282億円の日銀特融

1964年11月、日高輝氏は取締役に選ばれた株主総会を経て、そのまま山一證券の社長に就任した。1962年9月末に117店・9,114人を数えた山一は、1964年9月期には人員を8,060人まで減らしていた。日高氏はそこからさらに、1965年4月までに店舗を19店、人員を1,300人減らした。だが縮小で釣り合わせられるのは利払いを除いた収支までで、借入金は800億円に達し、その利息が経常支出の4割を占めていた。公表した赤字は34億円でも、有価証券報告書から読み取れる実質の赤字は90億円に上っていた。日高氏は健全化委員会を置いて各部署の実情を洗い、銀行借入金の元利の棚上げを求めるほかないと判断した。

  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [1]日高輝は1964年11月24日の山一の株主総会で取締役に選任され、社長に就任した
    • [8]日高輝は大森常務を長とする健全化委員会を組織して実情の把握に努め、銀行借入金の元利の棚上げを願わざるを得ないと考えるに至った
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [2]日高輝は山一證券の7代社長で、在任は1964年から1972年
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
    • [3]1962年9月末の山一証券の店舗数は117、従業員数は9,114人
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [4]有価証券報告書による1964年9月期の四大証券の資産状況で、山一証券の人員は8,060人
    • [5]日高輝社長は経常収支の均衡を図るため店舗・人員の縮小に取りかかり、1964年9月末から1965年4月までに店舗は19店、人員は1,300人縮小した
    • [6]山一証券には借入金800億円の金利が残り、借入金利息は経常支出の4割を占める最大の支出項目だった
    • [7]1964年9月期の山一証券の赤字は34億円だったが、有価証券報告書からみても実質90億円の赤字であることが知られていた

銀行への了解工作が始まったばかりの1965年5月21日、西日本新聞が宮崎支店の閉鎖を山一の行き詰まりと結びつけて報じた。同日午後、日高氏は富士銀行・日本興業銀行・三菱銀行の首脳と並んで銀行倶楽部で会見した。示したのは店舗を90店から77店へ、人員を6,700人から6,000人へ減らし、1967年9月までに再建を終える計画である。月11億円の手数料収入を見込み、金利の棚上げで月1億5,000万円の負担を軽くして収支を合わせる筋書きだった。ところが会見は安心より不安を広げ、運用預りと投資信託の解約が連日10億円規模で押し寄せた。5月28日には、手当てした30億円前後の資金が一日で引き出された。

  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [9]1965年5月21日、西日本新聞が宮崎支店の閉鎖を山一の行き詰まりに関連づける記事を朝刊に載せ、時事通信社も山一再建問題を朝の時事ファックスに流した
    • [10]1965年5月21日午後、丸の内の銀行倶楽部で、富士銀行・日本興業銀行の両頭取と三菱銀行副頭取が列席して山一と主力三行の共同記者会見が行われた
    • [14]1965年5月28日、四苦八苦の末に手当てした30億円前後の資金が一日で引き出された
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [11]1965年5月21日に日高輝が明らかにした再建計画は、店舗90店を77店へ、人員6,700人を6,000人へ削減し、1967年9月までに再建を完了する予定とした
    • [12]再建計画は東証1日平均出来高1億株・山一のシェア14%を基準に月間手数料収入11億円を見込み、棚上げ金利月間1億5,000万円の負担軽減で収支全体を均衡させるとした
    • [13]5月21日を口火に、山一証券には連日、運用預りと投資信託を合わせて10億円の解約が殺到した

その夜、日銀氷川寮に田中角栄蔵相ら大蔵省の幹部、佐々木直日銀副総裁、主力三行の頭取が集まり、日本銀行法25条による特別融資を決めた。担保は形式にとどまる実質無担保・無制限の融資で、6月7日の第1次45億円を皮切りに7月28日まで8回、合計282億円が山一に入った。中央銀行が一証券会社へ資金を出したのは、運用預りと投資信託が大衆投資家の資金を預かり、預金に近い働きをしていたからだった。取り付けが広がれば、金融債を発行する興銀・長銀から金融市場の全体へと信用不安が波及するおそれがあった。同年7月には福田赳夫蔵相が国債の発行を閣議で決め、1966年1月の国債発行が縮んでいた山一の営業に活気を戻した。救済の根拠は山一の債務の大きさより、その債務が預金の代わりとして大衆に持たれていたことにあったとみられる。

  • 松沢卓二『私の銀行昭和史』(1985年)5章「山一證券の破綻と日銀特融」
    • [15]1965年5月28日、大蔵省(田中角栄蔵相・佐藤一郎次官ほか)、日本銀行(佐々木直副総裁)、興銀・富士・三菱の三頭取が日銀氷川寮に集まり、日銀の特別融資を決定した
    • [16]日本銀行法25条に基づき、形式的に担保をとるだけの実質無担保・無制限融資が認められ、6月7日に第1次45億円の特別融資が行われた
  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [17]山一は1965年6月7日から7月28日までの間に合計8回、金額にして282億円に達する特融を受けた
    • [20]1965年7月、福田赳夫蔵相は景気てこ入れのため内国債の発行を閣議決定し、翌年1月の国債発行をきっかけに萎縮していた山一の営業が活気付いた
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [18]日銀法25条発動の理由は、山一の経営危機を導火線に、一般大衆投資家と直結し預金業務的性格を持つ運用預りと投資信託が取り付けとなるおそれがあったことにある
    • [19]取り付けは証券恐慌にとどまらず、金融債の発行銀行である興長銀を手始めに金融市場全般をおおう信用不安ないし恐慌に発展するおそれがあった
参考文献[1]-[20]
  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [1]日高輝は1964年11月24日の山一の株主総会で取締役に選任され、社長に就任した
    • [8]日高輝は大森常務を長とする健全化委員会を組織して実情の把握に努め、銀行借入金の元利の棚上げを願わざるを得ないと考えるに至った
    • [9]1965年5月21日、西日本新聞が宮崎支店の閉鎖を山一の行き詰まりに関連づける記事を朝刊に載せ、時事通信社も山一再建問題を朝の時事ファックスに流した
    • [10]1965年5月21日午後、丸の内の銀行倶楽部で、富士銀行・日本興業銀行の両頭取と三菱銀行副頭取が列席して山一と主力三行の共同記者会見が行われた
    • [14]1965年5月28日、四苦八苦の末に手当てした30億円前後の資金が一日で引き出された
    • [17]山一は1965年6月7日から7月28日までの間に合計8回、金額にして282億円に達する特融を受けた
    • [20]1965年7月、福田赳夫蔵相は景気てこ入れのため内国債の発行を閣議決定し、翌年1月の国債発行をきっかけに萎縮していた山一の営業が活気付いた
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [2]日高輝は山一證券の7代社長で、在任は1964年から1972年
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
    • [3]1962年9月末の山一証券の店舗数は117、従業員数は9,114人
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [4]有価証券報告書による1964年9月期の四大証券の資産状況で、山一証券の人員は8,060人
    • [5]日高輝社長は経常収支の均衡を図るため店舗・人員の縮小に取りかかり、1964年9月末から1965年4月までに店舗は19店、人員は1,300人縮小した
    • [6]山一証券には借入金800億円の金利が残り、借入金利息は経常支出の4割を占める最大の支出項目だった
    • [7]1964年9月期の山一証券の赤字は34億円だったが、有価証券報告書からみても実質90億円の赤字であることが知られていた
    • [11]1965年5月21日に日高輝が明らかにした再建計画は、店舗90店を77店へ、人員6,700人を6,000人へ削減し、1967年9月までに再建を完了する予定とした
    • [12]再建計画は東証1日平均出来高1億株・山一のシェア14%を基準に月間手数料収入11億円を見込み、棚上げ金利月間1億5,000万円の負担軽減で収支全体を均衡させるとした
    • [13]5月21日を口火に、山一証券には連日、運用預りと投資信託を合わせて10億円の解約が殺到した
    • [18]日銀法25条発動の理由は、山一の経営危機を導火線に、一般大衆投資家と直結し預金業務的性格を持つ運用預りと投資信託が取り付けとなるおそれがあったことにある
    • [19]取り付けは証券恐慌にとどまらず、金融債の発行銀行である興長銀を手始めに金融市場全般をおおう信用不安ないし恐慌に発展するおそれがあった
  • 松沢卓二『私の銀行昭和史』(1985年)5章「山一證券の破綻と日銀特融」
    • [15]1965年5月28日、大蔵省(田中角栄蔵相・佐藤一郎次官ほか)、日本銀行(佐々木直副総裁)、興銀・富士・三菱の三頭取が日銀氷川寮に集まり、日銀の特別融資を決定した
    • [16]日本銀行法25条に基づき、形式的に担保をとるだけの実質無担保・無制限融資が認められ、6月7日に第1次45億円の特別融資が行われた

1966年〜新旧勘定の分離と4年余りでの特融完済、7年ぶりの再上場

特融を返す仕組みには、戦後の金融機関の再建整備で使われた新旧勘定分離の方式が借りられた。債務は旧会社に残し、商号と営業の一切は新たに設ける会社へ移した。旧会社は新会社から営業権の対価と、店舗や電子計算機の賃貸料を受け取り、その収入を特融の返済に充てる。この仕組みで計算すると、完済までには18年8か月を要する見込みだった。1966年6月10日に再建計画が固まり、新会社は7月に設立されて9月1日に営業を譲り受け、同時に改正証券取引法による免許の第1号を得た。資本金は払込済み90億円で、取引先に出資を募ると申込みは120億円を超え、株主は系列にとらわれない85に上った。債務と営業を切り離したことで、稼いだ利益を返済に充当する経路が帳簿の上に引かれた。

  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [21]特融には、戦後の金融機関再建整備で役割を果たした金融緊急措置令施行規則改正と金融機関経理応急措置法の「新旧勘定分離」の故知にならって対処することになった
    • [22]債務を「旧勘定」に棚上げし、従来の山一証券は旧会社となって、商号をはじめ営業の一切を譲り受ける新会社を設立する方式をとった
    • [24]新旧勘定分離の方式では、特融の完済に計算上18年8カ月を要する勘定だった
    • [27]新会社は募集設立とし、取引先への出資申込みは120億円余に達したが、払込済み資本金90億円、株主数は系列にとらわれない85とした
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [23]旧会社は新会社から営業権(40億円)の譲渡対価を受け、不動産・電子計算機などの賃貸業務を行って日銀特融を返済する
    • [26]1966年6月10日に山一証券の再建計画が確立され、7月に新会社が設立され、9月1日に新会社への営業譲渡が行われて改正証券取引法による大蔵大臣の免許(第1号)を取得した
  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
    • [25]当初、特融の返済には18年8カ月かかるといわれた

新会社の名をめぐっては、特融の印象を拭うため改めるべきだという有力な意見もあった。日高氏はこれを退けて新会社を山一証券、旧会社を株式会社山一とし、全国約80店の看板を掛け替える資金は返済に充当すべきだとした。返済の原資は新会社の利益と資産の処分で、かつて大阪店のために確保した大阪・北浜の土地も野村證券へ売られ、代金が返済に充てられた。1968年には株価が持ち直し、9月にダウ平均が1,839円82銭の史上最高値をつけて返済を後押しした。決め手は1969年1月の日本証券保有組合の解散で、山一が受け取った還付金67億3,000万円が返済を大きく進めた。のれんを捨てなかった判断は、看板の費用を浮かせただけでなく、顧客をつなぎとめる役も果たしたと推察される。

  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [28]新会社については日銀特融のイメージを払拭すべきだという有力な意見があった
    • [29]日高輝は伝統ある名称を守るべきだと考え、全国の支店約80店舗の社名看板を変える資金があれば特融の返済に振り向けるべきだとして、新会社を「山一証券」、旧会社を「株式会社山一」とした
    • [30]山一の先輩が自社の大阪店用地として確保した大阪北浜の土地を手放し、野村証券が大阪店用地として入手した。その代金を特融の返済に充てた
    • [32]日本証券保有組合の解散(1969年1月)に伴う利益の還付金として、山一は67億3,000万円を受け入れ、これが特融返済の決め手になった
  • 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
    • [31]1968年にダウ式平均株価は6月に5年ぶりに1,600円台へ戻り、9月には史上最高値の1,839円82銭を記録し、山一の再建にも拍車がかかった

1969年9月期を前に特融の残高は49億8,000万円まで減る見通しとなり、主力三行の融資で肩代わりして完済にこぎつけた。完済までにかかった期間は4年余りで、利息はおよそ61億7,000万円を払った。同年10月1日、税務上の損金が残る旧会社が新会社を吸収して合併し、実質4割の減資を経て資本金98億円の山一證券が再出発した。1970年9月期には営業収益248億7,000万円、税引利益41億1,400万円を計上し、年6分で復配した。1973年4月10日、自ら上場を廃止していた株式を約7年ぶりに東証へ再上場し、株価は公開値段の450円を上回った。翌1974年2月には市場第一部へ指定替えとなった。

  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [33]新会社4年目の1969年9月期を控えて日銀特融の残高は49億8,000万円となる見通しになり、主力三行から融資を仰いで肩代わりし特融を完済した
    • [34]山一証券は日銀特融を4年余りの期間で完済し、完済までに利息としておよそ61億7,000万円余を支払った
    • [37]税務上の損金が残っている旧会社(株式会社山一)に新会社(山一証券)を吸収合併した。合併は1969年8月の臨時株主総会で承認され、実質上4割減資となった
    • [40]1973年4月、自ら上場を廃止した株式を約7年振りで市場第二部に上場した
    • [41]山一証券の株式は1974年2月に市場第一部へ指定替えとなった
  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
    • [35]当初18年8カ月かかるといわれた特融の返済はわずか4年3カ月で完了した
    • [39]1973年4月10日に山一証券は東証再上場を果たし、株価は公開値段450円を上回った
  • 経営評論 1971年「驚異の再建実る山一証券グループ」
    • [36]1969年10月1日、清算会社である旧山一証券を4割減資して新山一証券と合併し、資本金98億円で再スタートを切った
    • [38]1970年9月期決算は営業収益248億7,000万円、税引利益41億1,400万円で、6分の復配を果たした
参考文献[21]-[41]
  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
    • [21]特融には、戦後の金融機関再建整備で役割を果たした金融緊急措置令施行規則改正と金融機関経理応急措置法の「新旧勘定分離」の故知にならって対処することになった
    • [22]債務を「旧勘定」に棚上げし、従来の山一証券は旧会社となって、商号をはじめ営業の一切を譲り受ける新会社を設立する方式をとった
    • [24]新旧勘定分離の方式では、特融の完済に計算上18年8カ月を要する勘定だった
    • [27]新会社は募集設立とし、取引先への出資申込みは120億円余に達したが、払込済み資本金90億円、株主数は系列にとらわれない85とした
    • [28]新会社については日銀特融のイメージを払拭すべきだという有力な意見があった
    • [29]日高輝は伝統ある名称を守るべきだと考え、全国の支店約80店舗の社名看板を変える資金があれば特融の返済に振り向けるべきだとして、新会社を「山一証券」、旧会社を「株式会社山一」とした
    • [30]山一の先輩が自社の大阪店用地として確保した大阪北浜の土地を手放し、野村証券が大阪店用地として入手した。その代金を特融の返済に充てた
    • [32]日本証券保有組合の解散(1969年1月)に伴う利益の還付金として、山一は67億3,000万円を受け入れ、これが特融返済の決め手になった
    • [33]新会社4年目の1969年9月期を控えて日銀特融の残高は49億8,000万円となる見通しになり、主力三行から融資を仰いで肩代わりし特融を完済した
    • [34]山一証券は日銀特融を4年余りの期間で完済し、完済までに利息としておよそ61億7,000万円余を支払った
    • [37]税務上の損金が残っている旧会社(株式会社山一)に新会社(山一証券)を吸収合併した。合併は1969年8月の臨時株主総会で承認され、実質上4割減資となった
    • [40]1973年4月、自ら上場を廃止した株式を約7年振りで市場第二部に上場した
    • [41]山一証券の株式は1974年2月に市場第一部へ指定替えとなった
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
    • [23]旧会社は新会社から営業権(40億円)の譲渡対価を受け、不動産・電子計算機などの賃貸業務を行って日銀特融を返済する
    • [26]1966年6月10日に山一証券の再建計画が確立され、7月に新会社が設立され、9月1日に新会社への営業譲渡が行われて改正証券取引法による大蔵大臣の免許(第1号)を取得した
  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
    • [25]当初、特融の返済には18年8カ月かかるといわれた
    • [35]当初18年8カ月かかるといわれた特融の返済はわずか4年3カ月で完了した
    • [39]1973年4月10日に山一証券は東証再上場を果たし、株価は公開値段450円を上回った
  • 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
    • [31]1968年にダウ式平均株価は6月に5年ぶりに1,600円台へ戻り、9月には史上最高値の1,839円82銭を記録し、山一の再建にも拍車がかかった
  • 経営評論 1971年「驚異の再建実る山一証券グループ」
    • [36]1969年10月1日、清算会社である旧山一証券を4割減資して新山一証券と合併し、資本金98億円で再スタートを切った
    • [38]1970年9月期決算は営業収益248億7,000万円、税引利益41億1,400万円で、6分の復配を果たした

1972年〜植谷久三の債券での立て直しと、横田良男期に始まった損失の密室処理

1972年5月、日高氏の後を受けて生え抜きの植谷久三氏が社長に就任した。株式営業を積極化した矢先に、主幹事を務めていた日本熱学の事件が起きた。債券でも募集能力が低下したまま大手4社の名にこだわって引受を続け、債券売買損は1975年9月期に43億円へ膨らんだ。立て直しは、大支店に限っていた法人課長をほぼ全支店に置き、機関投資家へ既発債を売り込ませるところから始まった。債券部門は1976年9月期にわずかながら黒字化し、1979年9月期の債券引受高は6,115億円と野村證券の1兆887億円に次いだ。相場で傷んだ株式ではなく、法人との取引の厚さを債券へ振り向けて収益を組み直した。

  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
    • [42]植谷久三は創業75周年の1972年5月、日高輝の後を受けて社長に就任し、興銀からの後任ではなく生え抜きの昇格だった
  • 経営コンサルタント 1978年「蘇生著しい=山一証券=」
    • [43]日銀特融後の社内は専守防衛一色となり、過剰流動性の時代に株式営業を積極化したが、主幹事証券を務めた日本熱学の事件に見舞われた
    • [44]1973〜74年当時、債券の募集能力が低下していたにもかかわらず大手4社の名にこだわって無理な引受をし、大量の売れ残りを抱えて損を覚悟の投げ売りに走った
    • [45]債券売買の損失は1974年9月期決算で6億円、1975年9月期決算で43億円に達した
    • [47]顧客のニーズに沿う営業方針の下、法人課長・投資相談課長・証券貯蓄課長をほぼ全支店に配置し、既発債の法人営業を法人課が担った
  • 経済ライフ 1980年「山一証券の研究(下) 資本の国際化時代に新たな戦略練る山一証券」
    • [46]支店組織を変更し、それまで大支店に限って設置していた法人課長・投資相談課長をほぼ全支店に配置した。法人課長は機関投資家への債券ブローカーとして食い込む役割を課せられた
    • [48]山一証券は1976年9月期に債券部門の建て直しに成功し、若干ながら黒字基調まで持ち込んだ
    • [49]大手4社の1979年9月期の債券引受高は、野村証券1兆887億円、山一証券6,115億円、日興証券5,983億円、大和証券5,804億円だった

1980年12月、植谷氏はニューヨーク山一への出向や企画室長を経た横田良男氏に社長を譲った。1982年9月期に経常利益で日興証券を抜いたものの、株価の上昇が続いた翌期には株式に強い日興に抜き返される見通しとなった。特融後の日高体制は株式営業に厳しい枠をはめ、その後も募集商品に力を注いだため、株に弱いという評が定着していた。横田社長は研修を株式中心に改め、1983年6月には証券界初のATMを稼働させた。法人の地盤は保たれ、1986年3月末の上場企業の主幹事数は野村の566社に次ぐ516社で、M&Aの専門部署も1981年に設けていた。1987年9月期の経常利益は2209億円と最高を更新したが、同じ期に野村證券は4937億円を稼いだ。

  • 経済ライフ 1979年「山一証券の研究(中) 復活した山一証券〈組織・人材の研究〉」
    • [50]横田良男は電子計算部長、ニューヨーク山一副社長(1964年出向)、金融法人部長を経て1966年に取締役となり、企画室長などを務めた
  • 日経ビジネス 1983年10月3日号
    • [51]植谷久三は1980年末に社長禅譲を決断して横田良男を後継に指名し、任期途中で社長交代を役員会で決めた
    • [53]山一は1982年9月期に経常利益で日興証券を抜いて3位に上がったが、1983年9月期は日興が再び3位に返り咲き、山一に80億円近い差をつける見通しとなった
    • [54]日興の挽回は株価上昇・出来高増加の下で株式の強さを発揮したためで、山一はその面で遅れをとった
    • [55]1964年11月に社長となった日高輝の下では株式営業に厳しい枠がはめられ、信用取引の枠も厳しかった。その後、債券や投資信託の販売に力を入れ、1982年発売の投資信託「ジャンボ」など募集商品の比重を高めた結果、株に弱いという定評ができた
    • [56]横田良男社長の指示で、支店次長クラスの株式専門研修と入社3年までの研修を株式中心に転換し、1983年10月から事業承継の税務相談「財産管理インフォメーション」を始め、同年6月に証券界初のATMを赤坂営業所で稼働させた
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [52]横田良男の社長就任は1980年12月
    • [58]横田の社長在任中に経常利益は6回最高を更新し、1987年9月期には2209億円に達したが、同期に野村は4937億円の経常利益を稼いだ
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [57]1986年3月末の4大証券の上場企業主幹事数は野村566社、山一516社、日興381社、大和264社。山一は1981年に企業開発部の中にM&A専門セクションを設けた

好決算の続いた横田社長の後半、山一は顧客の資金運用で損失を重ねた。1985年10月の債券先物の暴落では、自社と顧客の損失の一部を補填し、100億円を超える損失を負ったという。表向きの利益と隠された損失が帳簿を分けて動くようになったのは、この時期からとみられる。1986年8月には三菱重工業の転換社債を総会屋が受け取っていた件が発覚し、同年12月、事業法人担当専務の行平次雄氏はロンドン現地法人会長へ移された。翌1987年の9月にタテホ・ショック、10月にブラックマンデーと相場の急落が重なり、営業特金をはじめ山一の運用に損が出た。およそ1000億円とされるその損のうち、評価損を抱える債券は決算期のずれた他社へ移されたといい、副社長として行平氏が本社に呼び戻されたのは同年12月である。

  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [59]横田社長時代の後半、山一は顧客の資金運用で何度か大きな損失を出した。1985年10月の債券先物の暴落で山一自身と顧客の損失が膨らみ、その一部を補填し、山一が負った損失額は100億円を超えたという
    • [60]横田社長時代の後半、山一は顧客の資金運用で何度か大きな損失を出した。1985年10月の債券先物の暴落で山一自身と顧客の損失が膨らみ、その一部を補填し、山一が負った損失額は100億円を超えたという
    • [61]1986年8月、三菱重工業の1000億円の転換社債の新発分を山一が総会屋に配分した(重工事件)。事業法人担当専務の行平次雄は同年12月に山一を退任してロンドン現地法人の会長に転じ、1987年12月に副社長として復帰した
    • [65]1987年9月のタテホ・ショックで営業特金に多額の損失が出て、含み損を抱えた債券は決算期の異なる別会社に一時避難させたと当時の関係者が証言した。10月のブラックマンデーと合わせ、山一が責任を負わされた損失額は1000億円前後に上ったといわれる
    • [66]1987年9月のタテホ・ショックで営業特金に多額の損失が出て、含み損を抱えた債券は決算期の異なる別会社に一時避難させたと当時の関係者が証言した。10月のブラックマンデーと合わせ、山一が責任を負わされた損失額は1000億円前後に上ったといわれる
    • [67]1986年8月、三菱重工業の1000億円の転換社債の新発分を山一が総会屋に配分した(重工事件)。事業法人担当専務の行平次雄は同年12月に山一を退任してロンドン現地法人の会長に転じ、1987年12月に副社長として復帰した
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
    • [62]1986年8月、三菱重工業が1000億円の転換社債を発行して「三菱重工事件」に発展し、同年12月に行平次雄専務が退任してロンドン現地法人会長に就任した
    • [63]1987年9月、タテホ化学工業の債券先物での286億円の損失が発覚した(タテホ・ショック)
    • [64]1987年10月20日、米国株暴落で日経平均株価が3836円安となった(ブラックマンデー)
参考文献[42]-[67]
  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
    • [42]植谷久三は創業75周年の1972年5月、日高輝の後を受けて社長に就任し、興銀からの後任ではなく生え抜きの昇格だった
  • 経営コンサルタント 1978年「蘇生著しい=山一証券=」
    • [43]日銀特融後の社内は専守防衛一色となり、過剰流動性の時代に株式営業を積極化したが、主幹事証券を務めた日本熱学の事件に見舞われた
    • [44]1973〜74年当時、債券の募集能力が低下していたにもかかわらず大手4社の名にこだわって無理な引受をし、大量の売れ残りを抱えて損を覚悟の投げ売りに走った
    • [45]債券売買の損失は1974年9月期決算で6億円、1975年9月期決算で43億円に達した
    • [47]顧客のニーズに沿う営業方針の下、法人課長・投資相談課長・証券貯蓄課長をほぼ全支店に配置し、既発債の法人営業を法人課が担った
  • 経済ライフ 1980年「山一証券の研究(下) 資本の国際化時代に新たな戦略練る山一証券」
    • [46]支店組織を変更し、それまで大支店に限って設置していた法人課長・投資相談課長をほぼ全支店に配置した。法人課長は機関投資家への債券ブローカーとして食い込む役割を課せられた
    • [48]山一証券は1976年9月期に債券部門の建て直しに成功し、若干ながら黒字基調まで持ち込んだ
    • [49]大手4社の1979年9月期の債券引受高は、野村証券1兆887億円、山一証券6,115億円、日興証券5,983億円、大和証券5,804億円だった
  • 経済ライフ 1979年「山一証券の研究(中) 復活した山一証券〈組織・人材の研究〉」
    • [50]横田良男は電子計算部長、ニューヨーク山一副社長(1964年出向)、金融法人部長を経て1966年に取締役となり、企画室長などを務めた
  • 日経ビジネス 1983年10月3日号
    • [51]植谷久三は1980年末に社長禅譲を決断して横田良男を後継に指名し、任期途中で社長交代を役員会で決めた
    • [53]山一は1982年9月期に経常利益で日興証券を抜いて3位に上がったが、1983年9月期は日興が再び3位に返り咲き、山一に80億円近い差をつける見通しとなった
    • [54]日興の挽回は株価上昇・出来高増加の下で株式の強さを発揮したためで、山一はその面で遅れをとった
    • [55]1964年11月に社長となった日高輝の下では株式営業に厳しい枠がはめられ、信用取引の枠も厳しかった。その後、債券や投資信託の販売に力を入れ、1982年発売の投資信託「ジャンボ」など募集商品の比重を高めた結果、株に弱いという定評ができた
    • [56]横田良男社長の指示で、支店次長クラスの株式専門研修と入社3年までの研修を株式中心に転換し、1983年10月から事業承継の税務相談「財産管理インフォメーション」を始め、同年6月に証券界初のATMを赤坂営業所で稼働させた
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [52]横田良男の社長就任は1980年12月
    • [58]横田の社長在任中に経常利益は6回最高を更新し、1987年9月期には2209億円に達したが、同期に野村は4937億円の経常利益を稼いだ
    • [59]横田社長時代の後半、山一は顧客の資金運用で何度か大きな損失を出した。1985年10月の債券先物の暴落で山一自身と顧客の損失が膨らみ、その一部を補填し、山一が負った損失額は100億円を超えたという
    • [60]横田社長時代の後半、山一は顧客の資金運用で何度か大きな損失を出した。1985年10月の債券先物の暴落で山一自身と顧客の損失が膨らみ、その一部を補填し、山一が負った損失額は100億円を超えたという
    • [61]1986年8月、三菱重工業の1000億円の転換社債の新発分を山一が総会屋に配分した(重工事件)。事業法人担当専務の行平次雄は同年12月に山一を退任してロンドン現地法人の会長に転じ、1987年12月に副社長として復帰した
    • [65]1987年9月のタテホ・ショックで営業特金に多額の損失が出て、含み損を抱えた債券は決算期の異なる別会社に一時避難させたと当時の関係者が証言した。10月のブラックマンデーと合わせ、山一が責任を負わされた損失額は1000億円前後に上ったといわれる
    • [66]1987年9月のタテホ・ショックで営業特金に多額の損失が出て、含み損を抱えた債券は決算期の異なる別会社に一時避難させたと当時の関係者が証言した。10月のブラックマンデーと合わせ、山一が責任を負わされた損失額は1000億円前後に上ったといわれる
    • [67]1986年8月、三菱重工業の1000億円の転換社債の新発分を山一が総会屋に配分した(重工事件)。事業法人担当専務の行平次雄は同年12月に山一を退任してロンドン現地法人の会長に転じ、1987年12月に副社長として復帰した
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [57]1986年3月末の4大証券の上場企業主幹事数は野村566社、山一516社、日興381社、大和264社。山一は1981年に企業開発部の中にM&A専門セクションを設けた
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
    • [62]1986年8月、三菱重工業が1000億円の転換社債を発行して「三菱重工事件」に発展し、同年12月に行平次雄専務が退任してロンドン現地法人会長に就任した
    • [63]1987年9月、タテホ化学工業の債券先物での286億円の損失が発覚した(タテホ・ショック)
    • [64]1987年10月20日、米国株暴落で日経平均株価が3836円安となった(ブラックマンデー)

1965年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1965年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年09月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年09月期 単体 537 n/a 39 7.3% 24 n/a
1976年09月期 単体 733 +36.3% 133 18.2% 59 n/a
1977年09月期 単体 950 +29.6% 222 23.4% 124 n/a
1978年09月期 単体 1,060 +11.7% 241 22.8% 141 n/a
1979年09月期 単体 1,049 ▲1.0% 223 21.3% 130 n/a
1980年09月期 単体 1,100 +4.8% 226 20.6% 115 n/a
1981年09月期 単体 1,328 +20.8% 302 22.8% 150 n/a
1982年09月期 単体 1,353 +1.9% 264 19.5% 126 n/a
1983年09月期 単体 1,641 +21.3% 408 24.9% 171 n/a
1984年09月期 単体 2,138 +30.3% 664 31.1% 279 n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

14件
出典・参考
  • 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
  • 日経ビジネス 1973年6月11日号
  • 日経ビジネス 1983年10月3日号
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号
  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
  • アナリスト 1966年「山一証券事件――その再建過程と問題」(吉田栄夫)
  • 経営評論 1971年「驚異の再建実る山一証券グループ」
  • 経営コンサルタント 1978年「蘇生著しい=山一証券=」
  • 経済ライフ 1979年「山一証券の研究(中) 復活した山一証券〈組織・人材の研究〉」
  • 経済ライフ 1980年「山一証券の研究(下) 資本の国際化時代に新たな戦略練る山一証券」
  • 松沢卓二『私の銀行昭和史』(1985年)5章「山一證券の破綻と日銀特融」

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