山一證券:太田収の鐘紡株投機事件と1964年の巨額赤字
杉野喜精の株式会社化から1964年の赤字計上へ
1926年〜株式会社への改組と、恐慌下で守った取引所での地位
山一合資会社を株式会社へ改めたのは、相場の先行きを読み切った経験を積んだ社長の杉野喜精氏だった。1920年の初頭、杉野氏は先行きの不安を察知して手持ち有価証券の売却を始め、同年3月1日の大暴落と4月からの一か月に及ぶ立会停止を、顧客ともども被害を最小限にとどめて切り抜けた。株価が再び高騰して1926年2月に平均株価が220円へ迫ったときには、大相場の再来説を否定している。同年10月、山一合資会社は発展的に解消して組織を株式会社へ変え、資本金500万円の山一證券株式会社として新発足した。世界的に政治経済の見通しが立たない時期の組織変更であり、危険をはらむとみられていた。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [1]1920年初頭、山一合資会社社長の杉野喜精は先行き不安を察知して手持ち有価証券の売却を開始し、同年3月1日の株式市場の大暴落と4月1日からの1か月の立会停止で被害を最小限に食い止めた
- [2]1926年2月に平均株価が220円に迫った際、杉野喜精は大相場再来説を否定した
- [3]1926年10月、山一合資会社は発展的に解消して組織を株式会社に変更し、山一證券株式会社として新発足した
- [5]1926年の株式会社への組織変更は、日本のみならず世界的に政治経済の見通しがつきにくい状況下での判断で、危険をはらむものとされていた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [4]1926年10月、資本金500万円の旧山一証券株式会社を設立し、社長は杉野喜精が務めた
株式会社となった直後に、山一證券は二つの恐慌に挟まれた。1927年の金融恐慌が日本経済に打撃を与え、立ち上がる間もなく1929年の世界恐慌が続き、株式市場は低迷の極にあった。そのなかでも山一證券は東京株式取引所で一、二位を争う位置を占め続けた。もっとも公社債では逆の結果が出ている。1927年から1928年にかけて公社債の売買と引受は未曾有の活況を呈し、公社債に重点を置く方針をとっていた山一證券はこれを満喫したが、1928年9月の金融引締政策で公社債市場は暴落した。積極策をとってきただけに痛手は大きく、一時は巨額の借入金を抱えて、立ち直るには相当の時間を要した。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [6]1927年の金融恐慌で日本は大きな打撃を受け、続く1929年の世界恐慌に巻き込まれて株式市場はひたすら低迷の極にあった
- [7]恐慌下でも山一證券は東京株式取引所において一、二位を争う位置を占めていた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [8]1927年から1928年にかけて公社債の売買・引受業務は未曾有の活況を呈し、公社債重点政策をとっていた山一証券はこの活況を満喫したが、1928年9月の金融引締政策で公社債市場は暴落した
- [9]公社債市場の暴落で積極策をとってきた山一証券の痛手は大きく、一時は巨額の借入金を抱え、立ち直るには相当の時間を要した
1927年の銀行法が銀行の業務を明確にしたため、公社債の引受募集を主な業務としていた小池銀行から、1930年に公社債の引受と売買の専業会社である小池証券株式会社が分かれて設立された。小池国三氏がいったん銀行へ移した引受業は、こうして回り道をしながら山一へ帰ってくる。柱の業務を手放した小池銀行は存在の意味をなくし、1933年に小池証券と合併して消滅した。小池証券は銀行時代の手堅い経営を受け継いで公社債の引受募集を業務の中心とし、資本金500万円も1943年に山一證券と合併するまで動かさなかった。引受を銀行の上に置くという1917年の解は、法規が銀行と証券の境を引き直したことで13年後に効力を失った。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [10]小池銀行の主たる業務は公社債の引受け募集だったが、1927年の銀行法で銀行の業務が明確に規定されたため、1930年に公社債の引受けや売買部門を専業とする別会社・小池証券株式会社が分離設立された
- [11]小池銀行は主要業務を小池証券に移管して存在理由がなくなり、1933年に小池証券との合併をもって姿を消した
- [12]小池証券は小池銀行の堅実経営を踏襲し、業務の中心は公社債の引受募集であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [13]1943年9月の合併時点の小池証券の資本金は500万円であった
参考文献[1]-[13]
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [1]1920年初頭、山一合資会社社長の杉野喜精は先行き不安を察知して手持ち有価証券の売却を開始し、同年3月1日の株式市場の大暴落と4月1日からの1か月の立会停止で被害を最小限に食い止めた
- [2]1926年2月に平均株価が220円に迫った際、杉野喜精は大相場再来説を否定した
- [3]1926年10月、山一合資会社は発展的に解消して組織を株式会社に変更し、山一證券株式会社として新発足した
- [5]1926年の株式会社への組織変更は、日本のみならず世界的に政治経済の見通しがつきにくい状況下での判断で、危険をはらむものとされていた
- [6]1927年の金融恐慌で日本は大きな打撃を受け、続く1929年の世界恐慌に巻き込まれて株式市場はひたすら低迷の極にあった
- [7]恐慌下でも山一證券は東京株式取引所において一、二位を争う位置を占めていた
- [10]小池銀行の主たる業務は公社債の引受け募集だったが、1927年の銀行法で銀行の業務が明確に規定されたため、1930年に公社債の引受けや売買部門を専業とする別会社・小池証券株式会社が分離設立された
- [11]小池銀行は主要業務を小池証券に移管して存在理由がなくなり、1933年に小池証券との合併をもって姿を消した
- [12]小池証券は小池銀行の堅実経営を踏襲し、業務の中心は公社債の引受募集であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [4]1926年10月、資本金500万円の旧山一証券株式会社を設立し、社長は杉野喜精が務めた
- [13]1943年9月の合併時点の小池証券の資本金は500万円であった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [8]1927年から1928年にかけて公社債の売買・引受業務は未曾有の活況を呈し、公社債重点政策をとっていた山一証券はこの活況を満喫したが、1928年9月の金融引締政策で公社債市場は暴落した
- [9]公社債市場の暴落で積極策をとってきた山一証券の痛手は大きく、一時は巨額の借入金を抱え、立ち直るには相当の時間を要した
1935年〜太田収の鐘紡株と、戦時統合による再出発
1935年、杉野喜精氏は東京株式取引所の理事長として転出した。証券業界の出身者が理事長に就くのはこれが初めてだった。1936年12月、資本金は1,000万円に増やされ、社長の座は太田収氏が継いだ。1937年、太田氏の率いる株式部門は鐘淵紡績の新株に目をつけて買い上がり、勝ちを重ねた。その強気から、太田氏には兜町で飛将軍という渾名がついた。しかし1937年7月に北支派兵が起こり、経済統制も進んで情勢が激しく動くなか、社長は1938年に平岡伝章氏へ、さらに木下茂氏へと代わった。自社の計算で相場を張る力は、業績の源にもなれば会社の存続を脅かす要因にもなった。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [14]1935年、山一證券社長の杉野喜精は東京株式取引所理事長として転出した。証券業界出身者が同理事長に就くのは初めてであった
- [17]太田収が率いる山一證券の株式部門は1937年に鐘紡新株に着目して買い進み、連戦連勝した
- [18]太田収は兜町の飛将軍と渾名される剛腕ぶりを発揮したが、1937年7月の北支派兵や経済統制の進行のなかで社長は平岡伝章、さらに木下茂へと受け継がれた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [15]1935年12月、太田収が山一証券社長に就任した
- [16]1936年12月、山一証券は資本金1,000万円に増資した
- [19]1938年5月に平岡伝章、1938年12月に木下茂が山一証券社長に就任した
統制は引受の商売そのものを細らせた。有価証券引受業法によって政府の監督統制を受けることになり、債券引受の分野で証券会社が動ける余地は小さくなった。山一證券がその代わりに始めたのが投資信託で、1942年9月から募集に入っている。創業以来の引受で稼ぐ道が法規で塞がれたとき、不特定多数から小口の資金を集めて運用する商売へ乗り換えたことになる。1941年12月の太平洋戦争の開戦後も、日本軍の進撃が伝えられるあいだ株式市場は未曾有の活況を呈したが、1943年2月にガダルカナルの陥落が公表されて戦局悪化が次々に報じられると、市場は混迷し、同年8月を頂点に株価は反落へ転じた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [20]有価証券引受業法により政府の監督統制を受けることになったため、債券引受けの分野における証券会社の活躍の余地が小さくなった
- [21]1942年9月より、山一証券は投資信託の募集を新たに開始した
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [22]1941年12月の太平洋戦争開戦後も株式市場は未曾有の活況を呈したが、1943年2月にガダルカナル陥落が公表され戦局悪化が報じられると市場は混迷し、同年8月を頂点として株価は反落に転じた
1942年に公布された金融事業整備令は金融機関の合併を促した。これを受けて1943年9月30日、山一證券と小池証券は解散したうえで、資本金1,500万円の山一證券株式会社として新たに設立された。会長には木下茂氏、社長には小池銀行の頭取を務めた小池厚之助氏が就いている。元は同じ小池国三商店を根とする二社であり、仲買を担う会社と公社債引受を担う会社が互いの業務を補い合う点でも、この合併は自然なものだった。1944年末からの本土空襲で証券市場は衰退の一途をたどり、1945年には爆撃のため市場は再三の休会を繰り返した。敗戦に際して小池厚之助氏は、これからは日本再建のために茨の道を切り拓かねばならないと社内へ示している。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [23]1942年に金融事業整備令が公布され、金融機関の合併が促進された
- [24]1943年9月、山一證券と小池証券は合併し、新会社である山一證券が設立された
- [27]山一證券と小池証券は元来根を一つとする会社であり、互いの業務を補完し合うためにもこの合併は自然であった
- [28]1944年末からのアメリカ空軍による本土空襲で証券市場は衰退の一途をたどり、1945年には爆撃のため市場は再三休会を繰り返した
- [29]1945年8月15日の敗戦にあたり、小池厚之助社長は「今後は日本再建のため、茨の道を切り拓かなければならない」と再建の決意を示した
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [25]1943年9月30日、山一證券と小池證券は解散のうえ、資本金1,500万円をもって山一證券株式会社を設立した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [26]1943年9月の新会社設立にあたり、会長は木下茂、社長は小池厚之助が務めた
参考文献[14]-[29]
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [14]1935年、山一證券社長の杉野喜精は東京株式取引所理事長として転出した。証券業界出身者が同理事長に就くのは初めてであった
- [17]太田収が率いる山一證券の株式部門は1937年に鐘紡新株に着目して買い進み、連戦連勝した
- [18]太田収は兜町の飛将軍と渾名される剛腕ぶりを発揮したが、1937年7月の北支派兵や経済統制の進行のなかで社長は平岡伝章、さらに木下茂へと受け継がれた
- [22]1941年12月の太平洋戦争開戦後も株式市場は未曾有の活況を呈したが、1943年2月にガダルカナル陥落が公表され戦局悪化が報じられると市場は混迷し、同年8月を頂点として株価は反落に転じた
- [23]1942年に金融事業整備令が公布され、金融機関の合併が促進された
- [24]1943年9月、山一證券と小池証券は合併し、新会社である山一證券が設立された
- [27]山一證券と小池証券は元来根を一つとする会社であり、互いの業務を補完し合うためにもこの合併は自然であった
- [28]1944年末からのアメリカ空軍による本土空襲で証券市場は衰退の一途をたどり、1945年には爆撃のため市場は再三休会を繰り返した
- [29]1945年8月15日の敗戦にあたり、小池厚之助社長は「今後は日本再建のため、茨の道を切り拓かなければならない」と再建の決意を示した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [15]1935年12月、太田収が山一証券社長に就任した
- [16]1936年12月、山一証券は資本金1,000万円に増資した
- [19]1938年5月に平岡伝章、1938年12月に木下茂が山一証券社長に就任した
- [26]1943年9月の新会社設立にあたり、会長は木下茂、社長は小池厚之助が務めた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [20]有価証券引受業法により政府の監督統制を受けることになったため、債券引受けの分野における証券会社の活躍の余地が小さくなった
- [21]1942年9月より、山一証券は投資信託の募集を新たに開始した
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [25]1943年9月30日、山一證券と小池證券は解散のうえ、資本金1,500万円をもって山一證券株式会社を設立した
1948年〜投資信託と店舗網がもたらした膨張
戦後の再出発は資本の積み増しから始まった。1948年7月に資本金を5,000万円へ増やし、これは当時の日本の証券業界で最大規模の資本金だった。同年8月には企業再建整備計画の認可を受け、11月30日に新旧勘定の併合を完了している。1949年には2月に1億5,000万円、3月に2億円と増資が続いた。同年の店舗は本店のほかに京橋・新宿から札幌・名古屋・大阪・小倉まで19支店、函館や富山など7出張所、丸ビルや日本橋高島屋に置いた投資相談所で構成されていた。同年5月16日、東京・大阪・名古屋の三証券取引所で立会が一斉に再開されたが、ドッジ・ラインのもとでの金融引締と放出株による株式の供給過剰から、相場は8月末を頂点に反落して恐慌状態に陥った。
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [30]1948年7月、山一證券は資本金5,000万円に増資した
- [32]1948年8月に企業再建整備計画の認可を受け、新旧勘定を併合し、同年11月30日に計画の実行を完了した
- [33]1949年2月に資本金1億5,000万円、同年3月に2億円へ増資した
- [34]1949年時点の山一証券の営業拠点は、本店のほか京橋・新宿・浅草・渋谷・札幌・仙台・新潟・金沢・静岡・浜松・名古屋・京都・大阪・神戸・高松・岡山・広島・福岡・小倉の19支店、函館・富山・豊橋・和歌山・松山・熊本・小松の7出張所、丸ビル・日本橋高島屋・浅草松屋などの投資相談所
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [31]1948年の増資による資本金5,000万円は、当時の日本の証券業界における最大規模の資本金であった
- [35]1949年5月16日に東京・大阪・名古屋の三証券取引所で立会が一斉に再開されたが、ドッジ・ライン下の金融引締と放出株による株式の供給過剰から、相場は8月末をピークに反落して恐慌状態に陥った
1950年代の山一證券を伸ばしたのは、投資信託と店舗網だった。1951年に戦後第一回の投資信託を募集し、1950年の朝鮮戦争による特需景気と1954年の神武景気を経て株式市場は拡大と大衆化へ向かう。店舗は1957年に60店を数え、同年4月には創立60周年の記念式典が開かれた。組織・人事・事務・設備の改善も進み、超短波無線局の設置、テレタイプ網の整備、レミントンランド統計会計機の導入などが行われている。1960年には国内営業店舗102店・海外2店に加えて国内案内所が704か所へ達し、投資信託の残存元本1,000億円は業界首位だった。営業収益は1950年9月期の8億7,900万円から1959年9月期には94億5,300万円へ伸びた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [36]1951年、山一証券は戦後第1回の投資信託を募集した
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [37]1950年の朝鮮戦争勃発による特需景気、1954年の神武景気を経て株式市場は拡大し、大衆化の時代を迎えた
- [38]山一證券の店舗は1957年に60店舗を数え、同年4月に創立60周年記念式典が行われた
- [39]組織・人事・事務・設備の改善により、超短波無線局の設置、テレタイプ網の整備、仮名文字タイプライターの採用、レミントンランド統計会計機の導入が行われた
- [40]1960年に国内営業店舗102、海外2、国内案内所704か所に達し、業界トップの投資信託残存元本1,000億円を達成した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」過去の業績
- [41]山一證券の営業収入は1950年9月期8億7,911万円、1959年9月期94億5,320万円
膨らんだ規模は、相場が反転したときの重さになった。1961年3月に資本金は80億円へ達し、同年10月2日に東京証券取引所第二部へ上場している。1962年9月末の店舗は117、従業員は9,114人で、平均年齢は24.8歳だった。同期の収益は委託手数料89億8,862万円が40.2パーセント、有価証券売買益54億1,748万円が24.2パーセントで、自己の計算による売買への依存が他社より高いのが特色とされた。借入金は同じ時点で501億6,670万円に上っている。委託と自己売買の両方が相場に連動する収益構造のうえに、117の店舗と9,000人の人件費が固定費として載っていた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [42]1961年3月、山一証券は資本金80億円に増資した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- [43]山一証券は1961年10月2日に東京証券取引所第二部へ上場した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
- [44]1962年9月末の山一証券の店舗数は117、従業員数は9,114人(男4,482人・女4,632人)、平均年齢24.8歳
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」営業実績
- [45]1962年9月期の委託手数料は89億8,862万円で収益の40.2パーセント、有価証券売買益は54億1,748万円で24.2パーセント
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」概説
- [46]山一証券は他社に比較すると売買益に依存する度合いがやや高く、自己計算の売買が比較的多いのが特色であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」銀行借入
- [47]1962年9月末の山一証券の銀行借入金は長短合計501億6,670万円
参考文献[30]-[47]
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [30]1948年7月、山一證券は資本金5,000万円に増資した
- [32]1948年8月に企業再建整備計画の認可を受け、新旧勘定を併合し、同年11月30日に計画の実行を完了した
- [33]1949年2月に資本金1億5,000万円、同年3月に2億円へ増資した
- [34]1949年時点の山一証券の営業拠点は、本店のほか京橋・新宿・浅草・渋谷・札幌・仙台・新潟・金沢・静岡・浜松・名古屋・京都・大阪・神戸・高松・岡山・広島・福岡・小倉の19支店、函館・富山・豊橋・和歌山・松山・熊本・小松の7出張所、丸ビル・日本橋高島屋・浅草松屋などの投資相談所
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [31]1948年の増資による資本金5,000万円は、当時の日本の証券業界における最大規模の資本金であった
- [35]1949年5月16日に東京・大阪・名古屋の三証券取引所で立会が一斉に再開されたが、ドッジ・ライン下の金融引締と放出株による株式の供給過剰から、相場は8月末をピークに反落して恐慌状態に陥った
- [37]1950年の朝鮮戦争勃発による特需景気、1954年の神武景気を経て株式市場は拡大し、大衆化の時代を迎えた
- [38]山一證券の店舗は1957年に60店舗を数え、同年4月に創立60周年記念式典が行われた
- [39]組織・人事・事務・設備の改善により、超短波無線局の設置、テレタイプ網の整備、仮名文字タイプライターの採用、レミントンランド統計会計機の導入が行われた
- [40]1960年に国内営業店舗102、海外2、国内案内所704か所に達し、業界トップの投資信託残存元本1,000億円を達成した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [36]1951年、山一証券は戦後第1回の投資信託を募集した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」過去の業績
- [41]山一證券の営業収入は1950年9月期8億7,911万円、1959年9月期94億5,320万円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [42]1961年3月、山一証券は資本金80億円に増資した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- [43]山一証券は1961年10月2日に東京証券取引所第二部へ上場した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
- [44]1962年9月末の山一証券の店舗数は117、従業員数は9,114人(男4,482人・女4,632人)、平均年齢24.8歳
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」営業実績
- [45]1962年9月期の委託手数料は89億8,862万円で収益の40.2パーセント、有価証券売買益は54億1,748万円で24.2パーセント
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」概説
- [46]山一証券は他社に比較すると売買益に依存する度合いがやや高く、自己計算の売買が比較的多いのが特色であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」銀行借入
- [47]1962年9月末の山一証券の銀行借入金は長短合計501億6,670万円
1961年〜相場の反転と1964年9月期の赤字
国際収支の悪化がはっきりしてきたのは1961年1月からで、これを受けて金融が引き締められると、株式市場で資金を調達しようとする企業の増資が膨らみ、株が供給過剰となって株価は沈んだ。日本経済にとってこの年は転機だった。1962年には金融がいったん緩んだが、国際収支の悪化とケネディ・ショックが重なり、引締めに逆戻りした。証券業界を重く圧迫したのは投資信託の解約である。株価の下落が投信の人気を冷やして解約を増やし、その解約が株価を一段と押し下げた。投資信託の草分けだった山一證券には、この悪循環が最も痛いところを突いた。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [48]1961年1月から国際収支の悪化が顕著となって金融引締策が推進され、資金源を株式市場に求める企業の増資が増大した結果、株式の供給過剰を引き起こして株価は低迷した
- [49]1962年は金融が緩和されたが、国際収支の悪化に加えケネディ・ショックが起きたため再び引き締め策が取られた
- [50]株価が下落すれば投資信託への人気が薄まって解約が増え、解約が株価の下落を招くという悪循環が生じた
過剰な株式を市場から吸収する機関が、銀行の主導で作られた。1964年1月、日本共同証券が資本金25億円で発足し、3月から本格的な買い出動に入ったが、たちまち資金が不足して同年10月には資本金を300億円へ増やさなければならなくなる。それでも相場を押し上げることはできず、12月に買い出動は打ち切られた。証券会社の業績は急激に悪化し、山一證券でも店舗の削減や不動産の処分といった合理化が進められた。営業収入は1961年9月期の240億7,650万円から1962年9月期には223億4,968万円へ落ち、税込利益も22億4,490万円から17億7,985万円へ減っている。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [51]1964年1月、日本共同証券が資本金25億円で発足し、3月から本格的な買い出動を行なったが資金ショートを起こし、同年10月に資本金を300億円に増資した
- [52]日本共同証券の買い出動は相場を押し上げることができず、1964年12月に打ち切られた
- [53]証券会社の業績が急激に悪化するなか、山一證券でも店舗の削減や不動産の処分など思い切った合理化対策が進められた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」業績一覧表
- [54]山一証券の営業収入は1961年9月期240億7,650万円・1962年9月期223億4,968万円、税込利益は同22億4,490万円・17億7,985万円
合理化の効果が出るより早く、決算に穴が開いた。1964年9月期、山一證券は約34億5,000万円の赤字を計上する。同年11月24日の株主総会で取締役に選ばれたのが、日産化学工業の社長から移った日高輝氏だった。日高氏は主力銀行である富士・三菱・興銀の三行の支援を前提に山一入りを決めており、財務内容の実態は誰からも知らされていなかったという。製造業なら資金の流れが止まって危険信号に気づくが、証券業では資金が絶えず回り続けるため、気づいたときには赤信号になっている。1897年に一軒の仲買店として始まった会社は、117店舗と9,000人を抱えたところで、自らの資金繰りを見失っていた。
- 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
- [55]山一證券の1964年9月期決算は約34億5,000万円の赤字だった
- [56]1964年11月24日の山一の株主総会で日高輝が取締役に選任された。日高輝は日産化学工業の社長から転じた
- [57]日高輝は山一のメーンバンクである富士・三菱・興銀3行の支援を条件に山一入りを決め、山一の財務内容の実態は誰からも知らされなかった
- [58]製造業は資金の流れが止まるため注意信号に気づくが、証券界では資金が絶えず回り続けるため気づいたときには赤信号である
参考文献[48]-[58]
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [48]1961年1月から国際収支の悪化が顕著となって金融引締策が推進され、資金源を株式市場に求める企業の増資が増大した結果、株式の供給過剰を引き起こして株価は低迷した
- [49]1962年は金融が緩和されたが、国際収支の悪化に加えケネディ・ショックが起きたため再び引き締め策が取られた
- [50]株価が下落すれば投資信託への人気が薄まって解約が増え、解約が株価の下落を招くという悪循環が生じた
- [51]1964年1月、日本共同証券が資本金25億円で発足し、3月から本格的な買い出動を行なったが資金ショートを起こし、同年10月に資本金を300億円に増資した
- [52]日本共同証券の買い出動は相場を押し上げることができず、1964年12月に打ち切られた
- [53]証券会社の業績が急激に悪化するなか、山一證券でも店舗の削減や不動産の処分など思い切った合理化対策が進められた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」業績一覧表
- [54]山一証券の営業収入は1961年9月期240億7,650万円・1962年9月期223億4,968万円、税込利益は同22億4,490万円・17億7,985万円
- 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝
- [55]山一證券の1964年9月期決算は約34億5,000万円の赤字だった
- [56]1964年11月24日の山一の株主総会で日高輝が取締役に選任された。日高輝は日産化学工業の社長から転じた
- [57]日高輝は山一のメーンバンクである富士・三菱・興銀3行の支援を条件に山一入りを決め、山一の財務内容の実態は誰からも知らされなかった
- [58]製造業は資金の流れが止まるため注意信号に気づくが、証券界では資金が絶えず回り続けるため気づいたときには赤信号である
筆者考察
山一證券が戦前に持っていた強みは、相場を当てる力ではなく、相場から離れた収入だった。公社債の引受は、株価が下がろうと発行さえあれば手数料が入る。だがこの収入は二度、法規に削られている。1927年の銀行法が銀行の業務を明確に定めたことで、引受を担っていた小池銀行は業務を小池証券へ移して姿を消し、有価証券引受業法は債券引受で証券会社が動ける余地を狭めた。1942年に始めた投資信託は、その空いた場所を埋めるために選ばれた代替であって、引受が与えていた相場からの独立までは引き継がなかった。投信の残高は株価が下がれば解約で減る。相場と切り離された収入は、この時点で会社から消えていた。
戦後に膨らんだ規模が、その差を決定的にする。1948年の資本金5,000万円は業界で最大、1960年には国内102店と704か所の案内所を持ち、投資信託の残存元本1,000億円で首位に立った。しかし1962年9月期の収益は委託手数料が40.2パーセント、自己の計算による売買益が24.2パーセントで、どちらも株価が下がれば同時に細る。そこへ117店舗と9,114人の人件費が固定費として載り、借入金は501億円に達していた。1961年に始まった株価の低迷は、投資信託の解約を通じて収益と相場の両側から会社を締めた。34億5,000万円の赤字は相場の事故ではなく、相場に全部を賭けた構造の帰結だった。
1926年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年09月期 | 単体 | 8 | n/a | n/a | 0 | ▲6.3% | n/a | n/a |
| 1951年09月期 | 単体 | 9 | +6.3% | n/a | 1 | 11.8% | n/a | n/a |
| 1952年09月期 | 単体 | 17 | +91.0% | n/a | 3 | 20.5% | n/a | n/a |
| 1953年09月期 | 単体 | 31 | +78.8% | n/a | 5 | 18.1% | n/a | n/a |
| 1954年09月期 | 単体 | 15 | ▲52.8% | n/a | ▲3 | ▲21.8% | n/a | n/a |
| 1955年09月期 | 単体 | 23 | +52.8% | n/a | 1 | 8.6% | n/a | n/a |
| 1956年09月期 | 単体 | 48 | +108.6% | 13 | 5 | 10.9% | 3 | n/a |
| 1957年09月期 | 単体 | 46 | ▲3.1% | 5 | 5 | 11.8% | 3 | n/a |
| 1958年09月期 | 単体 | 53 | +15.1% | 9 | 5 | 10.5% | 3 | n/a |
| 1959年09月期 | 単体 | 94 | +76.5% | 27 | 17 | 18.1% | 9 | n/a |
| 1960年09月期 | 単体 | 142 | +51.3% | 46 | 30 | 21.3% | 17 | n/a |
| 1961年09月期 | 単体 | 240 | +68.4% | 101 | 22 | 9.3% | 13 | n/a |
| 1962年09月期 | 単体 | 223 | ▲7.2% | 80 | 17 | 8.0% | 11 | n/a |
| 1963年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | ▲34 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、私の履歴書 日高輝
出典・参考
12件
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」過去の業績
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」労務状況
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」営業実績
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」概説
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」銀行借入
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」業績一覧表
- 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)日高輝