山一證券:小池国三商店の創業と公社債引受への転換
小池国三商店の取次から小池銀行への引受移管へ
1897年〜兜町の仲買店に据えた信用第一の営業方針
小池国三氏は山梨県甲府に生まれ、甲州の実業家若尾逸平氏の下で修業を積んだあと、1895年に兜町の有力な仲買店である小布施商店に入り、証券取引の実務を覚えた。公債と株式の仲買人として氏が小池国三商店を開業したのは1897年4月で、東京・兜町のこの一軒の仲買店が山一證券の出発点となる。仲買人の仕事は、客から預かった有価証券の売買の注文を取引所で執行することにあり、その際には間に立ち、取り次ぎ、あるいは代理となる。70年余り後まで引き継がれる「〈一」の商標は、若尾家の「命」の商標にちなんだものである。株式会社となったのちの本店も、同じ日本橋兜町一丁目三番地に置かれた。扱うのは他人の注文であって自分の資本ではなく、開業に要ったのは元手よりも、奉公先から引き継いだ信用と後ろ盾だった。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [1]小池国三は山梨県甲府の出身で、甲州の実業家・若尾逸平のもとで修業した後、1895年に兜町の有力仲買店・小布施商店に入って証券取引の実務を身につけた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [2]1897年4月、小池国三が公債株式の仲買人として兜町に小池国三商店を開業した(企業の歴史は4月15日、ポケット社史は4月23日と記す)
- [4]山一証券の「〈一」の商標は若尾家の商標「命」にちなんで作られた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」事業の内容
- [3]有価証券の売買の媒介・取次ぎ・代理は、顧客の売買注文を媒介し取次ぎまたは代理して執行する業務である
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- [5]山一証券の本店所在地は東京都中央区日本橋兜町1丁目3番地
小池国三氏が店の方針に据えたのは信用第一だった。店員が自分の計算で相場を張ることを一切禁じ、店が扱う注文を顧客のものだけに限った。この顧客本位の方針は世間の賛辞と信用を集めた。仲買人が客の注文を見ながら同じ銘柄を自分でも売買すれば、店と客は同じ相場の反対側に立つ。当時は大阪株式取引所の仲買人に比べ、東京株式取引所の仲買人は資産や信用の面で遠く及ばないと評されるほどだった。創業から十年を経た1907年4月、小池商店は資本金100万円の小池合資会社へ改組された。思惑を断つとは店の収入を取次ぎの手数料だけに絞ると決めることであり、法人への改組はその約束を会社の形態の側から支える手続きでもあった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [6]小池国三の営業方針は信用第一で、店員の思惑売買を一切厳禁した
- [7]小池国三商店の顧客本位の方針は世間の賛辞と信用を博した
- [9]1907年4月、創業10周年を期して小池商店を改組し、小池合資会社を設立した
- 大阪証券取引所十年史(大阪証券取引所、1964年)大正時代
- [8]大正期、東京株式取引所の仲買人の資産・信用は大阪株式取引所の仲買人に遠く及ばないと評された
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [10]1907年4月、小池合資会社(資本金100万円)へ社名変更した
小池国三商店は創業から五年で、東京株式取引所五十余店の仲買店のうち上位五店に数えられるまでになった。大正期の北浜市場を評した記録は、東京株式取引所で最も有力な仲買人として小池国三氏の名を挙げ、大阪にはその水準の仲買人が七、八人はいると比べている『東株ニ於テ最モ有力ナル仲買人ハ旧仲買小池国三ナリシカ大株ニハ小池級或ハ是以上ノモノ尠クモ七八指ヲ屈スルニ足ル』。東京の客筋は関東と東北が中心で、富豪や銀行・会社が市場を利用する度合いは大阪より低かった。これに対し大阪は阪神を中心に東は名古屋、西は長崎までを客筋とし、当時もっとも富の集まる地域を相手にしていた。1917年当時、東京株式取引所の資本金は2,000万円、大阪株式取引所は1,400万円で、売買高では東京が大阪を上回るのが常だった。筆頭と呼ばれた店であっても、取次ぎの手数料だけで満たせる規模には限りがあった。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [11]小池国三商店は創業5年後の1902年に、東京株式取引所の五十余店の仲買店の上位五店に数えられるまで成長した
- 大阪証券取引所十年史(大阪証券取引所、1964年)大正時代
- [12]当時の東京の委託者は関東と東北が中心で、富豪・資産家や銀行・会社が市場を利用する度合いは大阪より低かった
- [13]大阪の委託者は阪神を中心に東は名古屋、西は長崎に及び、当時もっとも富力の大きい地方を相手としていた
- [14]1917年当時、東京株式取引所の資本金は2,000万円(払込1,400万円)、大阪株式取引所は資本金1,400万円(払込1,050万円)で、売買高は東株が大株を上回るのが常だった
参考文献[1]-[14]
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [1]小池国三は山梨県甲府の出身で、甲州の実業家・若尾逸平のもとで修業した後、1895年に兜町の有力仲買店・小布施商店に入って証券取引の実務を身につけた
- [11]小池国三商店は創業5年後の1902年に、東京株式取引所の五十余店の仲買店の上位五店に数えられるまで成長した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [2]1897年4月、小池国三が公債株式の仲買人として兜町に小池国三商店を開業した(企業の歴史は4月15日、ポケット社史は4月23日と記す)
- [4]山一証券の「〈一」の商標は若尾家の商標「命」にちなんで作られた
- [6]小池国三の営業方針は信用第一で、店員の思惑売買を一切厳禁した
- [7]小池国三商店の顧客本位の方針は世間の賛辞と信用を博した
- [9]1907年4月、創業10周年を期して小池商店を改組し、小池合資会社を設立した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」事業の内容
- [3]有価証券の売買の媒介・取次ぎ・代理は、顧客の売買注文を媒介し取次ぎまたは代理して執行する業務である
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- [5]山一証券の本店所在地は東京都中央区日本橋兜町1丁目3番地
- 大阪証券取引所十年史(大阪証券取引所、1964年)大正時代
- [8]大正期、東京株式取引所の仲買人の資産・信用は大阪株式取引所の仲買人に遠く及ばないと評された
- [12]当時の東京の委託者は関東と東北が中心で、富豪・資産家や銀行・会社が市場を利用する度合いは大阪より低かった
- [13]大阪の委託者は阪神を中心に東は名古屋、西は長崎に及び、当時もっとも富力の大きい地方を相手としていた
- [14]1917年当時、東京株式取引所の資本金は2,000万円(払込1,400万円)、大阪株式取引所は資本金1,400万円(払込1,050万円)で、売買高は東株が大株を上回るのが常だった
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- [10]1907年4月、小池合資会社(資本金100万円)へ社名変更した
1910年〜四分利公債から始まった引受業務への進出
小池合資が取次ぎの外へ出たのは、1910年の国債募集だった。同年の四分利公債で下引受団に加わり、日本の証券業者として初めて引受という分野を開いた。日本の社債制度の揺籃期には第三者が引受けて売出す制度そのものが無く、明治30年代に銀行を仲介とする発行が始まってからも、引受機関は日本興業銀行と有力普通銀行が独占していた。1910年の国債引受シンジケート団の結成に際して東京現物団が組織され、日本興業銀行を通じて500万円の国債下引受に成功すると、大阪をはじめ各地でも現物団ができて一般会社債の引受募集へ進んだ。取次ぎが他人の注文を運ぶ仕事であるのに対し、引受は自分の資本と信用を担保に差し出す仕事であり、店の性格を根本から変える選択だった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [15]1910年、小池合資会社は四分利公債の下引受団として国債募集に参加し、日本の証券業者として初めて引受という分野を開拓した
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [16]日本の社債制度の揺籃期には第三者が引受けて売出す制度は存在せず、明治30年代に銀行を仲介機関とする社債発行が始まってからも、社債引受機関は日本興業銀行および有力普通銀行が独占していた
- [17]1910年の国債引受シンジケート団の結成に際して東京現物団が組織され、日本興業銀行をへて500万円の国債下引受に成功すると、大阪をはじめ各地で現物団が組織され一般会社債の引受募集に進出した
1910年は起債市場が空前の活況を呈した年だった。桂内閣による国債の低利借換が進むなかで金利は史上最低となり、金利革命と呼ばれた四分利公債の登場が起債市場を刺激した。同年中に発行された社債は8,607万円、翌1911年は社債9,500万円、地方債3,800万円に達した。公債の下引受に成功した小池合資は、江ノ島電鉄の担保付社債の元引受に証券業者として初めて参加し、続いて金融債の募集へ進み、やがて株式の引受にまで参入した。この年には単独で下引受を行う現物商も現れ、一部には元引受まで手がけた例があったという。有力な銀行以外が単独で債券の元引受にあたることは、当時としては特筆に値する事実だった。以後、小池合資は現物団の一員として発行市場に位置を占め続けた。
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [18]1910年ごろは桂内閣による国債の低利借換が行われた異常な金融緩慢期で、1910年初めに金利は史上最低を示し、金利革命といわれた四分利公債の登場で起債市場は空前の活況を呈した
- [19]1910年中に発行された社債は8,607万円、1911年の社債発行高は9,500万円、地方債発行高は3,800万円に達した
- [21]1910年の起債界の活況に際し、単独で下引受を行なった現物商もあり、一部には元引受まで行なった例もあったといわれる
- [22]当時、有力な銀行以外のものが単独で債券の元引受に当たったことは特筆に値する事実であった
- [23]小池合資会社は1910年以来、現物団の一員として証券発行市場で活動した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [20]小池合資会社は江の島電鉄の担保付社債の元引受けに証券業者として初めて参加し、金融債の募集にも進出し、やがて株式引受にまで広げた
引受は店の収益の性格を変えた。取次ぎの手数料は相場の高下に合わせて増減するが、引受の手数料は証券が発行されるたびに入る。引受とは売出しを目的として有価証券を自ら取得するか募集・売出しの責任を負うことであり、売れ残りが出ればそれを自分で引き取る。抱える危険と引き換えに、引受業務の成功は新しい収入源となり、小池合資の経営に安定をもたらした。同時にこの参入は、証券業者の実力と信用を金融界に認めさせる役割を果たした。このころ公社債を専門に扱う業者が相次いで現れ、発行市場そのものが厚みを増していた。銀行が引受を独占してきた時代に、仲買の出自を持つ店が発行体の側から仕事を受けるには、財務内容と人的な信用の両方を示す必要があった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」事業の内容
- [24]引受とは有価証券を売出の目的をもって取得すること、もしくは募集または売出の責任を引受けることで、売残りが生じた場合はこれを引受けることをいう
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [25]引受業務の成功は小池合資会社の新たな収入源となり、経営に安定をもたらした
- [26]小池合資会社の引受業務への進出は、証券界の実力と信用を高めるパイオニアとしての役割を果たした
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [27]大正期には公社債専門業者が多く出現するに至った
参考文献[15]-[27]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [15]1910年、小池合資会社は四分利公債の下引受団として国債募集に参加し、日本の証券業者として初めて引受という分野を開拓した
- [20]小池合資会社は江の島電鉄の担保付社債の元引受けに証券業者として初めて参加し、金融債の募集にも進出し、やがて株式引受にまで広げた
- [25]引受業務の成功は小池合資会社の新たな収入源となり、経営に安定をもたらした
- [26]小池合資会社の引受業務への進出は、証券界の実力と信用を高めるパイオニアとしての役割を果たした
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [16]日本の社債制度の揺籃期には第三者が引受けて売出す制度は存在せず、明治30年代に銀行を仲介機関とする社債発行が始まってからも、社債引受機関は日本興業銀行および有力普通銀行が独占していた
- [17]1910年の国債引受シンジケート団の結成に際して東京現物団が組織され、日本興業銀行をへて500万円の国債下引受に成功すると、大阪をはじめ各地で現物団が組織され一般会社債の引受募集に進出した
- [18]1910年ごろは桂内閣による国債の低利借換が行われた異常な金融緩慢期で、1910年初めに金利は史上最低を示し、金利革命といわれた四分利公債の登場で起債市場は空前の活況を呈した
- [19]1910年中に発行された社債は8,607万円、1911年の社債発行高は9,500万円、地方債発行高は3,800万円に達した
- [21]1910年の起債界の活況に際し、単独で下引受を行なった現物商もあり、一部には元引受まで行なった例もあったといわれる
- [22]当時、有力な銀行以外のものが単独で債券の元引受に当たったことは特筆に値する事実であった
- [23]小池合資会社は1910年以来、現物団の一員として証券発行市場で活動した
- [27]大正期には公社債専門業者が多く出現するに至った
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」事業の内容
- [24]引受とは有価証券を売出の目的をもって取得すること、もしくは募集または売出の責任を引受けることで、売残りが生じた場合はこれを引受けることをいう
1917年〜小池銀行への引受移管と山一合資会社の開業
1917年1月15日、小池国三氏は仲買業の廃業と小池合資会社の解散予告を新聞に発表した。開業20年を期しての判断で、事業整理は好景気の途中で行うべきだという氏の持論を実行したものだった。解散は同年4月である。解散から四か月後の同年8月、商栄銀行を改組改称した小池銀行が設けられ、公社債の引受業務はこの銀行のなかへ吸収されて業務の拡大がはかられた。引受は発行体へ資金を渡す仕事であり、引受けた証券を抱える間の資金が要る。社債の引受機関を長く独占してきたのは日本興業銀行と有力普通銀行であり、資金を自ら集める手段を持つかどうかが、この商売では規模の上限を決めていた。のちに山一證券の社長から会長へ進む小池厚之助氏は、この小池銀行の頭取を務めた。預金を原資に持つ銀行へ引受を載せ替えたのは、その資金を自前で賄うためだったのだろう。
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [28]1917年1月15日、小池国三は仲買業の廃業と小池合資会社の解散予告を新聞発表した
- [29]小池合資会社の解散は開業20年を期したもので、「事業整理は好景気の途中で行なうべきである」という小池国三の持論を実行したものだった
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [30]1917年4月、小池合資会社は社長小池国三の明断によって解散した
- [31]1917年8月、商栄銀行を改組改称した小池銀行のうちに公社債の引受業務を吸収し、業務の拡大をはかった
- [32]明治30年代に銀行を仲介機関とする社債発行が始まって以降、社債引受機関は日本興業銀行および有力普通銀行が独占していた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」役員
- [33]小池厚之助は元小池銀行頭取で、1943年に山一証券社長、1954年に会長となった
解散した小池合資の商売は、同じ1917年に設立された山一合資会社が引き継いだ。資本金は小池合資と同じ100万円で、商標も建物も顧客もそのまま譲り受け、目的も規模も変わらない会社として開業した。代表社員には杉野喜精氏が就いた。小池国三氏はその後、1911年に小池合資の金融機関として買収した商栄銀行の経営に専念した。引受を担う銀行を持ち、仲買を合資会社に託す形が、このときに定まった。1910年に自ら開いた引受の分野は小池銀行の側に残り、山一合資が受け継いだのは創業以来の仲買と顧客だった。山一という商号が表に出たのはこのときだが、「〈一」の商標は創業から一貫して受け継がれた。一つの店が、引受を担う銀行と仲買を担う合資会社、それに小池証券の三つへ割れたことになる。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [34]1917年、小池合資会社の解散にともない資本金100万円の山一合資会社が設立され、小池合資の商標・建物・顧客を譲り受け、同一目的・同一規模の会社として開業した
- [39]「〈一」の商標は創業から一貫して受け継がれてきた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [35]1917年4月、資本金100万円で山一合資会社を設立し、杉野喜精が代表社員となった
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [36]小池国三は1911年に小池合資の金融機関として買収した商栄銀行の経営に専念し、株式部門は杉野喜精以下の社員が組織した山一合資会社へ引き継がれた
- [37]小池銀行の主たる業務は公社債の引受け募集であった
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [38]小池合資会社の公社債引受業務は小池銀行へ吸収され、山一合資会社は小池合資の商標・建物・顧客を譲り受けた
仲買人が銀行を持つ動きは山一だけのものではなかった。藤本ビルブローカー銀行が証券部を分離独立させたのは1918年7月で、同年3月には東京現物団の神田鑑蔵氏が資本金200万円の神田銀行を、6月には大阪現物団の野村徳七氏が資本金1,000万円の大阪野村銀行を開いた。1919年末には大阪株式取引所の関係者を中心に資本金5,000万円の日本信託銀行が設立され、1920年には竹原友三郎氏が資本金1,500万円の帝国信託を興して公社債の引受に乗り出した。山一合資の開業から1920年の大戦の反動に至るまで経済界は目まぐるしく動いたが、山一合資は事業を伸ばした。仲買の手数料だけでは足りず、資本を厚くして発行市場へ出るという同じ答えに、有力な業者が同時に行き着いていた。
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [40]藤本ビルブローカー銀行は1918年7月に証券部を分離独立させ、1918年3月に東京現物団の神田鑑蔵が資本金200万円で神田銀行を、6月に大阪現物団の野村徳七が資本金1,000万円で大阪野村銀行を設立した
- [41]1919年末に大阪株式取引所関係者を中心に資本金5,000万円の日本信託銀行が設立され、1920年に大阪現物団の竹原友三郎が資本金1,500万円で帝国信託株式会社を設立して公社債の引受業務に乗り出した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [42]山一合資会社は1917年の開業前後から1920年の大戦の反動に至るまでの経済変動を切り抜けて事業を伸ばした
参考文献[28]-[42]
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- [28]1917年1月15日、小池国三は仲買業の廃業と小池合資会社の解散予告を新聞発表した
- [29]小池合資会社の解散は開業20年を期したもので、「事業整理は好景気の途中で行なうべきである」という小池国三の持論を実行したものだった
- [36]小池国三は1911年に小池合資の金融機関として買収した商栄銀行の経営に専念し、株式部門は杉野喜精以下の社員が組織した山一合資会社へ引き継がれた
- [37]小池銀行の主たる業務は公社債の引受け募集であった
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- [30]1917年4月、小池合資会社は社長小池国三の明断によって解散した
- [31]1917年8月、商栄銀行を改組改称した小池銀行のうちに公社債の引受業務を吸収し、業務の拡大をはかった
- [32]明治30年代に銀行を仲介機関とする社債発行が始まって以降、社債引受機関は日本興業銀行および有力普通銀行が独占していた
- [38]小池合資会社の公社債引受業務は小池銀行へ吸収され、山一合資会社は小池合資の商標・建物・顧客を譲り受けた
- [40]藤本ビルブローカー銀行は1918年7月に証券部を分離独立させ、1918年3月に東京現物団の神田鑑蔵が資本金200万円で神田銀行を、6月に大阪現物団の野村徳七が資本金1,000万円で大阪野村銀行を設立した
- [41]1919年末に大阪株式取引所関係者を中心に資本金5,000万円の日本信託銀行が設立され、1920年に大阪現物団の竹原友三郎が資本金1,500万円で帝国信託株式会社を設立して公社債の引受業務に乗り出した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」役員
- [33]小池厚之助は元小池銀行頭取で、1943年に山一証券社長、1954年に会長となった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- [34]1917年、小池合資会社の解散にともない資本金100万円の山一合資会社が設立され、小池合資の商標・建物・顧客を譲り受け、同一目的・同一規模の会社として開業した
- [39]「〈一」の商標は創業から一貫して受け継がれてきた
- [42]山一合資会社は1917年の開業前後から1920年の大戦の反動に至るまでの経済変動を切り抜けて事業を伸ばした
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革
- [35]1917年4月、資本金100万円で山一合資会社を設立し、杉野喜精が代表社員となった
筆者考察
山一の創業者が最初に決めたのは、儲ける方法ではなく儲けない方法だった。店員が自分の計算で相場を張ることを禁じ、収入を顧客の注文の取次ぎ手数料だけに絞る。仲買人が客と同じ銘柄を売買すれば、店は客の反対側に立つ。小池国三はその利益相反を店の規則で断ち、信用のほうを売り物にした。東京株式取引所の仲買人が大阪に比べて資産も信用も劣ると評されていた時代に、この選択は創業5年で50余店中の上位5店という位置を運んできた。ただし手数料だけで立つ商売には、取引所の売買高という天井がある。注文を厚くするほど収入は増えるが、増え方は市場そのものの大きさで頭打ちになる。信用を積むほど、その天井は近くに見えたはずである。
天井を破る道として選んだのが引受だった。1910年の四分利公債で下引受団に加わり、証券業者として初めて発行市場へ出る。取次ぎが他人の注文を運ぶ仕事であるのに対し、引受は売れ残りを自分で抱える約束であり、相場ではなく自分の資本を賭ける商売である。だからこの商売では、資金を自ら集める手段を持つ者が強い。日本興業銀行と有力普通銀行が長く引受を独占していたのはそのためで、小池国三が1917年に合資会社を解散して引受を小池銀行へ移したのも同じ理屈による。神田鑑蔵の神田銀行も野村徳七の大阪野村銀行も、同じ数年のうちに生まれている。仲買から出た者が銀行を持ちたがった時代だった。
- 出所は大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充。
- 山一合資会社は仲買を担う合資会社、ほかの三社は公社債の引受を担う銀行・信託会社。
出典・参考
9件
- 大和証券60年史(大和証券、1963年)第5章 証券業務の拡充
- 大阪証券取引所十年史(大阪証券取引所、1964年)大正時代
- 株式会社年鑑 1950年版「山一証券」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「山一証券」
- 時代を先駆ける総合金融会社 山一証券(ポケット社史、1991年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」事業の内容
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」役員
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山一證券」沿革