第1章 年〜年

りそなホールディングス:大阪野村銀行の創立と大和銀行への改称

1918年〜株式で築いた資産を投じた大阪野村銀行の創業

野村徳七は、株式の売買で築いた資産を銀行業へ移すことで、相場師から金融業者へ立場を変えた。父から受けた2万円を元手に1904年に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年の暴落局面で売り方に回って700万円を超える資産を得た。第一次世界大戦下の1915年から1919年にかけての好況で野村家の資産は3,000万円に膨れ、1917年には野村商店を株式会社へ改組して、徳七自身は相場の第一線から退いた。翌1918年、野村家は1,000万円を全額払込資本金として出資し、大阪市東区安土町に本店を置く株式会社大阪野村銀行を設立した。設立の登記は6月25日に完了し、単一の店舗で8月1日に開業した。

  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [1]野村徳七は父から受けた2万円を資本に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年1月からの売り方の建玉で資本が350倍の700万円を下らない資産となった。
    • [2]1915年から1919年までの好成績により、野村家の資産は3,000万円に膨脹した。
    • [3]1917年にまず野村商店を株式会社に改組し、野村徳七自身が株式市場の第一線から退いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [4]野村家から1,000万円を出資し、これを全額払込資本金として、大阪市東区安土町二丁目61番地に本店を置き単一店舗で営業を開始した。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [5]大阪野村銀行は1918年6月25日に設立登記を完了し、同年8月1日に開業した。資本金は1,000万円。

新しい銀行が掲げたのは、預金を集めて短期資金を回す商業銀行ではなく、事業資金の供給機関であった。野村徳七が念頭に置いたのはドイツ式の銀行経営で、開業披露の席上でもこの抱負を繰り返し述べた。定款は銀行条例による一般銀行業務に加え、担保付社債信託法による信託業の兼営を目的として掲げた。営業種目には工業資金の供給と、株式・国債・市債・社債の募集もしくは売出の取扱または引受が並んだ。当時は工業者と普通銀行のあいだに十分な疎通関係がなく、銀行の側も工業金融には消極的な態度を取っていた。証券の引受を営業種目に置くことは、野村家にとっては本業の延長であっても、普通銀行としては異色とされた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [6]野村徳七が最初に描いていたのは英米流の商業銀行・預金銀行ではなく、事業資金の供給機関すなわち興業銀行的なドイツ式の銀行経営であり、開業披露の席上でもこの抱負を発表した。
    • [9]当時は工業者と普通銀行の間にまだ十分な疎通関係がなく、銀行としても工業金融には消極的な態度を取っていた。
    • [10]有価証券の募集引受業務を営業種目に加えたことは、野村家伝来のお家芸とはいえ普通銀行としては異色とされた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
    • [7]定款第二条は、銀行条例に準拠し一般銀行業務を営むことを目的とし、かつ担保付社債信託法により信託業を兼営すると定めた。
    • [8]定款第三条の業務の種類には、株式・国債・市債・社債・債券の募集もしくは売出の取扱または引受が含まれた。

開業までの難関は、資金ではなく認可であった。大阪には本店を置く銀行だけで住友以下11行があり、政府はこのうえ銀行の新設を原則として認可しない方針を採っていたため、当局は難色を示した。野村徳七は自ら上京して大蔵当局と折衝し、野村商店専務の柴山鷲雄氏は、同窓で当時大阪府内務部長を務めていた柴田善三郎氏を再三訪ねて助力を請うた。認可を得て開業した1918年8月末の払込資本金1,000万円は、住友・三十四・浪速・山口に次ぐ在阪5位であった。もっとも証券界で名を成した野村家は銀行業者としては未知数で、多年の老舗が居ながらにして預金を集めるのに比べれば、相当な不利を背負っていた。創業から25期にわたって無配を通し、利益のほとんどを内部留保へ振り向けた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [11]設立認可内伺書を提出した当時、大阪には本店銀行だけでも住友ほか10行があり、政府は銀行の新設を原則的に認可しない方針を採っていたため、認可には難色がうかがわれた。
    • [12]野村徳七が自ら上京して大蔵当局と折衝する一方、柴山鷲雄が大学の同窓で当時大阪府内務部長であった柴田善三郎を再三府庁に訪問して助力を懇請し、起業認可を得た。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [13]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金順位は、住友2,250万円、三十四1,397万5,000円、浪速1,125万円、山口1,000万円、大阪野村銀行1,000万円で第5位であった。
    • [14]証券界では名声のあった野村家も銀行業者としては未知数で、多年の老舗を誇る先進銀行が居ながらにして預金を集めうるのに比べ、相当なハンディキャップがあった。
    • [15]野村家は銀行の創始に際してその収益を当てにせず、創業以来25期にわたって無配当を押し通した。
参考文献[1]-[15]
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [1]野村徳七は父から受けた2万円を資本に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年1月からの売り方の建玉で資本が350倍の700万円を下らない資産となった。
    • [2]1915年から1919年までの好成績により、野村家の資産は3,000万円に膨脹した。
    • [3]1917年にまず野村商店を株式会社に改組し、野村徳七自身が株式市場の第一線から退いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [4]野村家から1,000万円を出資し、これを全額払込資本金として、大阪市東区安土町二丁目61番地に本店を置き単一店舗で営業を開始した。
    • [11]設立認可内伺書を提出した当時、大阪には本店銀行だけでも住友ほか10行があり、政府は銀行の新設を原則的に認可しない方針を採っていたため、認可には難色がうかがわれた。
    • [12]野村徳七が自ら上京して大蔵当局と折衝する一方、柴山鷲雄が大学の同窓で当時大阪府内務部長であった柴田善三郎を再三府庁に訪問して助力を懇請し、起業認可を得た。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [5]大阪野村銀行は1918年6月25日に設立登記を完了し、同年8月1日に開業した。資本金は1,000万円。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [6]野村徳七が最初に描いていたのは英米流の商業銀行・預金銀行ではなく、事業資金の供給機関すなわち興業銀行的なドイツ式の銀行経営であり、開業披露の席上でもこの抱負を発表した。
    • [9]当時は工業者と普通銀行の間にまだ十分な疎通関係がなく、銀行としても工業金融には消極的な態度を取っていた。
    • [10]有価証券の募集引受業務を営業種目に加えたことは、野村家伝来のお家芸とはいえ普通銀行としては異色とされた。
    • [13]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金順位は、住友2,250万円、三十四1,397万5,000円、浪速1,125万円、山口1,000万円、大阪野村銀行1,000万円で第5位であった。
    • [14]証券界では名声のあった野村家も銀行業者としては未知数で、多年の老舗を誇る先進銀行が居ながらにして預金を集めうるのに比べ、相当なハンディキャップがあった。
    • [15]野村家は銀行の創始に際してその収益を当てにせず、創業以来25期にわたって無配当を押し通した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
    • [7]定款第二条は、銀行条例に準拠し一般銀行業務を営むことを目的とし、かつ担保付社債信託法により信託業を兼営すると定めた。
    • [8]定款第三条の業務の種類には、株式・国債・市債・社債・債券の募集もしくは売出の取扱または引受が含まれた。

1920年〜野村証券の分離と昭和金融恐慌を通じた業態の集約

創業時に掲げた三つの柱のうち、最初に伸びたのは証券であった。当行は創業時から証券係を置いて公社債の引受と売買を扱い、1920年10月に証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。同年秋に大阪株式取引所へ開設された国債市場では、地元銀行として取引員に加わった。1922年2月の第四回大同電力社債500万円、翌年9月の広島電気社債の募集を成功させ、収益に少なからず寄与した。一方、当初に企画した工業金融は、自己資本に余力のあった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失った。1920年末に総貸出の74.7%を占めた証書貸付と手形貸付は1926年末に59.9%へ下がり、割引手形と当座貸越が比重を増した。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
    • [16]創業時から証券係を置いて公社債の引受・売買の事務を取扱い、1920年10月から新たに証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。
    • [17]1920年10月1日に大阪の株式取引所へ国債市場が開設され、大阪市場では地元銀行として大阪野村銀行、藤本ビルブローカー、日本信託銀行等が取引員として参加した。
    • [18]1922年2月の第四回大同電力社債500万円、1923年9月の広島電気社債の募集に成功し、銀行の収益力に少なからず寄与した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
    • [19]当初に企画した工業金融は、自己資本1,000万円の余力があった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失うに至った。
    • [20]総貸出に占める証書貸付・手形貸付の比率は1920年末の74.7%から1926年末には59.9%へ低下し、割引手形・当座貸越の比重が増大した。

銀行の内部に性質の異なる二つの部門を抱える不便が、証券部の分離を促した。野村家が証券業務を切り離し、独立した会社で営むと決めたのは片岡音吾氏の帰国後の検討を経てのことで、1924年から設立の準備が始まった。その下地には、取締役支配人から常務に進んだ片岡音吾氏がニューヨークでナショナル・シティ・カンパニーを訪れ、同社が1916年にナショナル・シティ銀行の証券部を分離して独立会社となった経緯を総裁から聞いた経験があった。片岡音吾氏を初代社長に据え、資本金500万円で1926年1月に開業した野村証券株式会社は公社債を受け持ち、株式は1923年に野村商店から改称した大阪屋商店に任された。危険の大きい株式を傍系に、銀行を最も安全な位置に据えた資本の配置である。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
    • [21]野村家は証券業務を一独立会社として経営することとし、1924年に入ってから創設準備に取りかかった。
    • [22]片岡音吾はニューヨーク滞在中にナショナル・シティ・カンパニーを訪問し、同社を1916年にナショナル・シティ銀行の証券部から独立会社に仕立てた総裁チャールス・ミッチェルから、その間の事情と経過を聞いた。
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [23]1926年1月から片岡音吾を初代社長として資本金500万円の野村証券が開業した。
    • [24]開業時の野村証券は公社債だけを取扱い、株式は1923年に野村商店を改称した大阪屋商店が担当した。

商号から「大阪」の二字が取れた直後に、金融恐慌が来た。営業圏が東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て、1927年1月1日から野村銀行となった。同年3月の預金は9,300万円に達し、1億円の大台乗せも近いと見られていた。ところが恐慌の第二波で4月19日から引出しが激化し、最高潮の21日には530万円、3月半ばからの減少は3,300万円に及んだ。当行は手持の有価証券と担保物件を早期に動員し、日銀へは一覧表と番号を付けて整然と持ち込んだ。野村徳七は私財をことごとく投げ出す腹を決めて合名会社に証券と権利書の整理を指令しており、近江・加島・藤田といった先輩の銀行が閉店するなか、恐慌期を含む一営業期の預金減少は400万円程度にとどまった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
    • [25]営業所の分布が大阪以外に東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区的に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て1927年1月1日から野村銀行と改称した。
    • [26]1927年3月に預金は9,300万円に達し、当面の目標である1億円の大台乗せも近いとみられていた。
    • [27]恐慌第二波の影響は1927年4月19日から激化し、最高潮の21日には530万円の引出しがあり、3月半ば以降この日までの預金減少は3,300万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [28]担保物件を他行のように鞄や長持に詰め込まず、一々整理して一覧表と番号をつけ、日銀の要求するとおりに持ち出した。担保整理の行き届いた銀行は三行あり、その一行が当行であった。
    • [29]野村徳七は私財をことごとく投げ出しても危機を乗り切る腹を決めて合名会社に指令し、証券・権利書等を整理させた。近江・加島・藤田等の先輩銀行が閉店あるいは経営挫折するなか、恐慌時を含む一営業期中の預金減少額は400万円程度で切り抜けた。
参考文献[16]-[29]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
    • [16]創業時から証券係を置いて公社債の引受・売買の事務を取扱い、1920年10月から新たに証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。
    • [17]1920年10月1日に大阪の株式取引所へ国債市場が開設され、大阪市場では地元銀行として大阪野村銀行、藤本ビルブローカー、日本信託銀行等が取引員として参加した。
    • [18]1922年2月の第四回大同電力社債500万円、1923年9月の広島電気社債の募集に成功し、銀行の収益力に少なからず寄与した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
    • [19]当初に企画した工業金融は、自己資本1,000万円の余力があった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失うに至った。
    • [20]総貸出に占める証書貸付・手形貸付の比率は1920年末の74.7%から1926年末には59.9%へ低下し、割引手形・当座貸越の比重が増大した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
    • [21]野村家は証券業務を一独立会社として経営することとし、1924年に入ってから創設準備に取りかかった。
    • [22]片岡音吾はニューヨーク滞在中にナショナル・シティ・カンパニーを訪問し、同社を1916年にナショナル・シティ銀行の証券部から独立会社に仕立てた総裁チャールス・ミッチェルから、その間の事情と経過を聞いた。
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [23]1926年1月から片岡音吾を初代社長として資本金500万円の野村証券が開業した。
    • [24]開業時の野村証券は公社債だけを取扱い、株式は1923年に野村商店を改称した大阪屋商店が担当した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
    • [25]営業所の分布が大阪以外に東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区的に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て1927年1月1日から野村銀行と改称した。
    • [26]1927年3月に預金は9,300万円に達し、当面の目標である1億円の大台乗せも近いとみられていた。
    • [27]恐慌第二波の影響は1927年4月19日から激化し、最高潮の21日には530万円の引出しがあり、3月半ば以降この日までの預金減少は3,300万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [28]担保物件を他行のように鞄や長持に詰め込まず、一々整理して一覧表と番号をつけ、日銀の要求するとおりに持ち出した。担保整理の行き届いた銀行は三行あり、その一行が当行であった。
    • [29]野村徳七は私財をことごとく投げ出しても危機を乗り切る腹を決めて合名会社に指令し、証券・権利書等を整理させた。近江・加島・藤田等の先輩銀行が閉店あるいは経営挫折するなか、恐慌時を含む一営業期中の預金減少額は400万円程度で切り抜けた。

1928年〜銀行合同への不参加と、野村信託の併合から大和銀行への改称

恐慌の後に来たのは、銀行を数の上で淘汰する政策であった。1928年1月に施行された銀行法は資本金の下限を100万円、特定の大都市に本店を置く銀行は200万円と定め、単独の増資による適格化を認めなかったため、小銀行には合同のほかに道がなかった。施行時に1,283行あった普通銀行は、1932年末には538行まで減った。当行は1927年11月の淡河銀行神戸支店をはじめ、加島・藤田ほか数行から営業の一部を買い取るにとどめ、1933年の在阪三行の合同にも同調しなかった。合併に頼らずに預金は伸び、1927年末から1932年末までの増加率59%は、五大銀行の21%を大きく上回った。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [30]1928年1月から施行された銀行法は、銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなくてはならないと定め、5カ年間にこの規格へ達することを求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった。
    • [31]銀行法施行当時の普通銀行数は1,283行、そのうち非適格銀行は半数の617行にのぼり、普通銀行数は1926年末の1,420行から1932年末の538行へ減少した。
    • [32]1927年11月にまず淡河銀行から神戸支店と附属出張所を、加島・藤田その他数行から営業の一部を買収して営業網に加えた。
    • [34]1927年末から1932年末にかけて当行の預金は59%増加し、五大銀行の増加率21%を大きく上回った。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [33]1933年の在阪三行の合同に際し、野村銀行はこれに同調せず、独自の立場に立って特色を生かすよう努めた。

大銀行どうしの合同が始まると、単独で残る方針はあらためて問われた。1942年12月下旬に第一銀行と三井銀行の合同が公表される前夜、三和銀行頭取の中根貞彦氏が当行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助氏と野村合名の専務理事が会合した。三行の申し合わせは互いの立場を尊重するという了解にとどまり、直後に開かれた野村合名理事会は、従来どおり自主独往の方針を貫くと決めた。合同のかわりに選んだのが、同系の野村信託の併合である。1944年8月21日に2,000万円を増資し、同月28日に野村信託を併合して資本金は5,000万円となった。信託を併営する総合銀行は当行が最初であった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
    • [35]第一銀行と三井銀行の合同が発表された1942年12月下旬、その発表の前夜に三和銀行頭取の中根貞彦が野村銀行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助と野村合名の山内専務理事が会合した。
    • [36]三行の合同が不可避となった場合は互いの立場を尊重しようという了解ができただけで終わり、会談後ただちに開かれた野村合名理事会では、家長をはじめ全員がこれまでどおり自主独往の方針を貫くことに決した。
    • [37]野村信託は1933年春に大正信託の営業を継承して大阪信託の名で発足し、1936年に加島信託を吸収、開業後10年間で全国21社中5、6位を争う有力会社に発展していた。
    • [38]信託会社の併合を予定して単独増資が認められ、1944年8月21日に2,000万円を増資して資本金を4,000万円とし、同月28日に野村信託を併合して資本金5,000万円となった。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [39]1944年の野村信託の合併により、わが国最初の総合的金融機関として信託兼営の先鞭をつけた。

野村の名を外したのは、敗戦後の再建整備であった。1946年3月、野村家の所有する株式は持株会社整理委員会へ移された。1948年3月の最終処理で銀行勘定の特別損失は4億9,900万円と確定し、資本金は90%が切り捨てられ、第二封鎖預金等の切捨率は66%となった。この切捨率は主要銀行のなかでは低い方であった。同年10月1日、行名は職員から募った候補のうち最も多数を占めたものから審議のうえ「大和銀行」に改まり、11月1日には増資によって資本金が5億5,000万円へ回復した。発足の挨拶で右松社長は、創業当時に大阪の本店銀行12行中で最弱小に過ぎなかった銀行を『殆んど合併を行わずして大銀行に仕上げた』と述べた。合併ではなく自力で地位を積んだという自負が、そこに置かれていた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [40]1946年3月、野村家族の所有株式を持株会社整理委員会に移譲した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
    • [41]最終処理において銀行勘定の特別損失額は4億9,900万円と確定し、当行は資本金の90%を切り捨てると同時に、一般の第二封鎖預金等の切捨は66%と決定した。
    • [42]各都市銀行の資本・整理債務の切捨率は、帝国100%・76%、住友100%・77%、三菱93%・70%、三和90%・69%などで、当行の預金切捨率66%は主要銀行中では割合に低い方であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
    • [43]整備計画により1948年10月1日から行名を「大和銀行」とあらため、増資の応募額が予定を超えたため10月30日の株主総会で追加増資を決議し、11月1日に新資本金を5億5,000万円とした。行名は職員から新しい名づけ方を募り、最も多数を占めた有力候補から審議のうえ決定した。
参考文献[30]-[43]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [30]1928年1月から施行された銀行法は、銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなくてはならないと定め、5カ年間にこの規格へ達することを求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった。
    • [31]銀行法施行当時の普通銀行数は1,283行、そのうち非適格銀行は半数の617行にのぼり、普通銀行数は1926年末の1,420行から1932年末の538行へ減少した。
    • [32]1927年11月にまず淡河銀行から神戸支店と附属出張所を、加島・藤田その他数行から営業の一部を買収して営業網に加えた。
    • [34]1927年末から1932年末にかけて当行の預金は59%増加し、五大銀行の増加率21%を大きく上回った。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [33]1933年の在阪三行の合同に際し、野村銀行はこれに同調せず、独自の立場に立って特色を生かすよう努めた。
    • [39]1944年の野村信託の合併により、わが国最初の総合的金融機関として信託兼営の先鞭をつけた。
    • [40]1946年3月、野村家族の所有株式を持株会社整理委員会に移譲した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
    • [35]第一銀行と三井銀行の合同が発表された1942年12月下旬、その発表の前夜に三和銀行頭取の中根貞彦が野村銀行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助と野村合名の山内専務理事が会合した。
    • [36]三行の合同が不可避となった場合は互いの立場を尊重しようという了解ができただけで終わり、会談後ただちに開かれた野村合名理事会では、家長をはじめ全員がこれまでどおり自主独往の方針を貫くことに決した。
    • [37]野村信託は1933年春に大正信託の営業を継承して大阪信託の名で発足し、1936年に加島信託を吸収、開業後10年間で全国21社中5、6位を争う有力会社に発展していた。
    • [38]信託会社の併合を予定して単独増資が認められ、1944年8月21日に2,000万円を増資して資本金を4,000万円とし、同月28日に野村信託を併合して資本金5,000万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
    • [41]最終処理において銀行勘定の特別損失額は4億9,900万円と確定し、当行は資本金の90%を切り捨てると同時に、一般の第二封鎖預金等の切捨は66%と決定した。
    • [42]各都市銀行の資本・整理債務の切捨率は、帝国100%・76%、住友100%・77%、三菱93%・70%、三和90%・69%などで、当行の預金切捨率66%は主要銀行中では割合に低い方であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
    • [43]整備計画により1948年10月1日から行名を「大和銀行」とあらため、増資の応募額が予定を超えたため10月30日の株主総会で追加増資を決議し、11月1日に新資本金を5億5,000万円とした。行名は職員から新しい名づけ方を募り、最も多数を占めた有力候補から審議のうえ決定した。

出典・参考

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出典・参考
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)

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