第2章 年〜年

りそなホールディングス:大和銀行の信託兼営維持とニューヨーク支店の開設

1949年〜甲種外国為替銀行への選定と、都市銀行としての店舗網の組み替え

1949年11月、外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、当行はほかの10行とともに甲種外国為替銀行の指定を受けた。改称後の大和銀行にとって、これが初めて手にした新しい免許である。輸出手形の買取りは同年12月、輸入業務は翌1950年1月に始まり、取り扱う店舗も本店と東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店から、のちに20カ店まで増えた。コルレス契約は1950年4月にアメリカ系の6銀行と結んだのが最初で、1957年末には世界の主要各国で211行・779カ店を結ぶ網となった。1952年6月からは自己名義のドル勘定を持つことが認められ、輸出と輸入の為替を自行内で突き合わせる基盤ができた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
    • [1]1949年11月に外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、この規定にもとづいて大和銀行は他の10行と並んで甲種外国為替銀行に選定された。
    • [2]1949年12月から輸出手形の買取りを開始し、翌1950年1月から輸入業務を開始した。
    • [3]外国為替業務の取扱店舗は、当初は本店および東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店について認可を得て、その後の追加と廃止を経て20カ店となった。
    • [4]1950年4月にアメリカ系の6銀行と初めてコルレス契約を結び、その後コルレス網を拡大して1957年末には世界主要各国211行・779カ店に達した。
    • [5]1952年6月からドル資金について為替銀行が自ら外貨を保有することが実施され、各取引先外銀に自己名義のドル勘定を保有することとなった。これにより為替銀行が自立的にドル資金を操作し、輸出入為替をマリーさせる基盤ができた。

経済が落ち着いてくると、当局は店舗の単純な増設をなかなか認めなくなった。各行の競争を抑える狙いである。そこで当行は1949年から1950年にかけ、既にあった出張所や詰所を支店に格上げして独立の営業所に改め、1951年3月の時点で出張所以下の店舗をすべてなくした。新設が難しいなかで配置を組み替え、店舗網を立て直したことになる。あわせて貯蓄の増強と取引先の開拓という観点から効率の悪い支店を整理し、1952年には広島と札幌に進出した。預金の増加に歩調を合わせて資本金も増やし、再建整備の時点で5億5,000万円だったものが、1951年9月に11億円、1953年4月に22億円、1957年7月に44億円となった。1951年11月の株主総会では定款を改正して社長制を廃し、頭取制へ復した。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
    • [6]当局の方針からすれば経済が落ちつくに従って各行間の競争を制する意味で単純な増設の認可は難しくなる情勢にあったため、1949年から1950年にかけて、かつて増設を許された簡易店舗である出張所または詰所を支店に昇格させて独立の営業所とすることから手をつけた。
    • [7]多くの出張所を支店に昇格させたほかは、1951年3月までに出張所以下の店舗を全部廃止した。
    • [8]1950年から1953年にかけて支店の配置転換を実施し、貯蓄増強や取引先開拓の見地から効率的でない支店を整理する一方、1952年に広島・札幌へ進出した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [9]1948年10月の改称時の資本金は5億5,000万円、店舗は89カ店であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [10]1951年9月1日に倍額増資で資本金を11億円とし、1953年4月の増資で22億円、1957年7月の倍額増資で44億円とした。1951年11月28日の株主総会で定款を改正し、社長制を廃して頭取制に復帰した。

1952年ごろになると、協調融資方式が後退して各行は融資先を自ら選ぶようになり、旧財閥の関係会社を中心に金融の系列化が進んだ。当行はこの流れから距離を置き、広く大衆を相手にして大小の企業の発展に役立つという立場から、融資を系列に絞り込むことはしなかった。その代わりに厚みを増したのが中小企業金融で、創業のときに重点の一つとして中小金融の道を開くことを掲げて以来手がけてきた分野だった。中小金融特別店舗は1950年4月の生野支店が最初で、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計で45億6,000万円に達し、都市銀行全体の1割以上に及んだ。全貸出金残高に占める資本金1,000万円以下の企業向けの比率は、1956年3月末で40.62%と全国銀行の36.31%を上回った。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
    • [11]1952年ごろから協調融資方式が後退して各銀行が融資先を自主的に選別し始め、旧財閥関係会社間の取引緊密化という形の金融の系列化が進み、これが融資選別の一つの基準とされた。
    • [12]大和銀行は広く大衆を対象とし産業の各分野におけるあらゆる大小企業の恒久的な発展に資することを使命としてきたことにかえりみ、バランスのとれた安定性のある営業基盤の拡充を本位として、融資の系列化を重点的に進めることはしなかった。
    • [14]1950年4月に大蔵省の通牒にもとづき中小金融特別店舗としてまず生野支店を振り向け、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計額が45億6,000万円に達して都市銀行全体の1割以上を占めた。
    • [15]全貸出金残高中に占める資本金1,000万円以下の企業に対する比率は、1956年3月末で当行40.62%に対し全国銀行36.31%、1957年3月末で当行40.38%に対し全国銀行36.11%であった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [13]大阪野村銀行は創業にあたり、工業銀行としての新しい行き方、担保付社債信託法による信託業務、証券金融による資本市場の育成、中小金融の途をつけることの4点に重点を置いた。
参考文献[1]-[15]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
    • [1]1949年11月に外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、この規定にもとづいて大和銀行は他の10行と並んで甲種外国為替銀行に選定された。
    • [2]1949年12月から輸出手形の買取りを開始し、翌1950年1月から輸入業務を開始した。
    • [3]外国為替業務の取扱店舗は、当初は本店および東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店について認可を得て、その後の追加と廃止を経て20カ店となった。
    • [4]1950年4月にアメリカ系の6銀行と初めてコルレス契約を結び、その後コルレス網を拡大して1957年末には世界主要各国211行・779カ店に達した。
    • [5]1952年6月からドル資金について為替銀行が自ら外貨を保有することが実施され、各取引先外銀に自己名義のドル勘定を保有することとなった。これにより為替銀行が自立的にドル資金を操作し、輸出入為替をマリーさせる基盤ができた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
    • [6]当局の方針からすれば経済が落ちつくに従って各行間の競争を制する意味で単純な増設の認可は難しくなる情勢にあったため、1949年から1950年にかけて、かつて増設を許された簡易店舗である出張所または詰所を支店に昇格させて独立の営業所とすることから手をつけた。
    • [7]多くの出張所を支店に昇格させたほかは、1951年3月までに出張所以下の店舗を全部廃止した。
    • [8]1950年から1953年にかけて支店の配置転換を実施し、貯蓄増強や取引先開拓の見地から効率的でない支店を整理する一方、1952年に広島・札幌へ進出した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [9]1948年10月の改称時の資本金は5億5,000万円、店舗は89カ店であった。
    • [13]大阪野村銀行は創業にあたり、工業銀行としての新しい行き方、担保付社債信託法による信託業務、証券金融による資本市場の育成、中小金融の途をつけることの4点に重点を置いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [10]1951年9月1日に倍額増資で資本金を11億円とし、1953年4月の増資で22億円、1957年7月の倍額増資で44億円とした。1951年11月28日の株主総会で定款を改正し、社長制を廃して頭取制に復帰した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
    • [11]1952年ごろから協調融資方式が後退して各銀行が融資先を自主的に選別し始め、旧財閥関係会社間の取引緊密化という形の金融の系列化が進み、これが融資選別の一つの基準とされた。
    • [12]大和銀行は広く大衆を対象とし産業の各分野におけるあらゆる大小企業の恒久的な発展に資することを使命としてきたことにかえりみ、バランスのとれた安定性のある営業基盤の拡充を本位として、融資の系列化を重点的に進めることはしなかった。
    • [14]1950年4月に大蔵省の通牒にもとづき中小金融特別店舗としてまず生野支店を振り向け、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計額が45億6,000万円に達して都市銀行全体の1割以上を占めた。
    • [15]全貸出金残高中に占める資本金1,000万円以下の企業に対する比率は、1956年3月末で当行40.62%に対し全国銀行36.31%、1957年3月末で当行40.38%に対し全国銀行36.11%であった。

1956年〜信託分離の行政指導と、併営を手放さない選択

銀行が兼ねてきた信託を切り離し、独立した経営体に本来の働きを専ら担わせるというのが当局の方針であった。1950年代後半、大蔵省はこうして銀行と信託の分離へ向きを変えた。信託業務を営んできた地方銀行は1956年10月以降、自ら新たな受託をやめ、中国銀行も1957年3月末に信託勘定を閉め、信託業の認可も返上した。併営を続ける銀行は、三和・東海・神戸と当行の4行を残すのみとなった。残った4行もいずれ信託部門を切り離すことになるだろうという推測や噂が広がった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [16]大蔵省は銀行と信託の業務分野の調整を検討し、信託業を銀行の併営とする制度をあらためて信託業を独自の経営体とし、信託本来の機能を専行させる方向で行政指導を進めた。
    • [17]従来信託業務を経営してきた地方銀行7行は、1956年10月以降、自発的に新たな受託を停止した。
    • [18]中国銀行は1957年3月末をもって信託勘定を閉鎖し、信託経営の認可を返上した。
    • [19]地方銀行の受託停止と中国銀行の認可返上の結果、信託を併営する銀行は三和・東海・神戸および大和銀行の4行となった。
    • [20]業界の動きから、残る4行も早晩信託部門を分離させるのではないかとの推測や風評が飛んだ。

世論も行政も信託経営のあり方をめぐって何度も立場を変えたが、当行は最後まで併営の体制を崩さなかった。1926年の金融制度調査会特別委員会では野村徳七が信託を銀行に兼ねさせる案に賛成し、1947年11月に金融制度調査会が兼営形態の廃止を答申した際も、当行から第五特別委員会に加わった峯村英薫氏が少数派の一人として異を唱えた。その底には、信託は強い固有勘定が背後にあってこそ成り立つという、創業期から変わらない見方があった。創業時の定款に書き込んだ担保付社債信託の免許から数えて、信託は30年をまたいで持ち越された。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [21]1944年の野村信託の合併により、創業以来の念願であった信託併営銀行となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [22]1926年の金融制度調査会特別委員会において、野村徳七は信託業を銀行の兼営とする案を支持した。
    • [23]1947年11月に金融制度調査会が信託に関して銀行の兼営形態を廃止すべきことを答申した際、大和銀行から経営者代表として第五特別委員会に参加した峯村英薫は、少数派の一人として同案に反対した。
    • [24]大和銀行は創業以来の理想と経験にもとづき、また真の信託業務は強固な固有勘定を背後にもつことによって成り立つとする信念のもとに、併営体制を確守した。

併営を残した選択は、1960年代の収益で報われた。金銭信託は1955年当時の75億円から、1968年には2,800億円強へおよそ38倍に伸びた。1962年に始まった企業年金信託では業界で20数%のシェアを占め、首位に立った。銀行業務・信託業務・外国為替業務の三本柱が揃い、当行はわが国唯一の総合金融機関と称された。預金残高は1954年3月の900億円から10年後の1964年3月に5,000億円を突破し、信託部門と合わせた資金量は1968年に1兆円の大台を超えた。同年の資本金は180億円、従業員は9,000名であった。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [25]金銭信託預金は1955年当時の75億円から1968年には2,800億円強へ約38倍の伸びを示した。
    • [26]1962年から始まった企業年金信託で業界の20数パーセントのシェアを占め、首位にあった。
    • [27]1949年11月の甲種外国為替銀行の指定により、銀行業務・信託業務・外為業務を三本柱とした。大和銀行はわが国唯一の総合金融機関として活動した。
    • [28]預金残高は1954年3月の900億円が10年後の1964年3月には5,000億円を突破し、資金量は信託部門と合わせて1兆円の大台を突破した。
    • [29]1968年時点の大和銀行は資本金180億円、従業員9,000名、頭取は寺尾威夫であった。
参考文献[16]-[29]
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [16]大蔵省は銀行と信託の業務分野の調整を検討し、信託業を銀行の併営とする制度をあらためて信託業を独自の経営体とし、信託本来の機能を専行させる方向で行政指導を進めた。
    • [17]従来信託業務を経営してきた地方銀行7行は、1956年10月以降、自発的に新たな受託を停止した。
    • [18]中国銀行は1957年3月末をもって信託勘定を閉鎖し、信託経営の認可を返上した。
    • [19]地方銀行の受託停止と中国銀行の認可返上の結果、信託を併営する銀行は三和・東海・神戸および大和銀行の4行となった。
    • [20]業界の動きから、残る4行も早晩信託部門を分離させるのではないかとの推測や風評が飛んだ。
    • [22]1926年の金融制度調査会特別委員会において、野村徳七は信託業を銀行の兼営とする案を支持した。
    • [23]1947年11月に金融制度調査会が信託に関して銀行の兼営形態を廃止すべきことを答申した際、大和銀行から経営者代表として第五特別委員会に参加した峯村英薫は、少数派の一人として同案に反対した。
    • [24]大和銀行は創業以来の理想と経験にもとづき、また真の信託業務は強固な固有勘定を背後にもつことによって成り立つとする信念のもとに、併営体制を確守した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [21]1944年の野村信託の合併により、創業以来の念願であった信託併営銀行となった。
    • [25]金銭信託預金は1955年当時の75億円から1968年には2,800億円強へ約38倍の伸びを示した。
    • [26]1962年から始まった企業年金信託で業界の20数パーセントのシェアを占め、首位にあった。
    • [27]1949年11月の甲種外国為替銀行の指定により、銀行業務・信託業務・外為業務を三本柱とした。大和銀行はわが国唯一の総合金融機関として活動した。
    • [28]預金残高は1954年3月の900億円が10年後の1964年3月には5,000億円を突破し、資金量は信託部門と合わせて1兆円の大台を突破した。
    • [29]1968年時点の大和銀行は資本金180億円、従業員9,000名、頭取は寺尾威夫であった。

1958年〜プルダニア銀行の設立と、インドネシアで問われた存続

海外への最初の足場は、取引先の求めに応じて置かれた。1952年に化学会社の石原産業とインドネシアの有力者のあいだで新銀行創設の話し合いが始まったが、同社に銀行経営の経験はなく、取引関係の深い当行が誘い込まれた。当行も1952年7月に調査員を現地へ派し、東南アジア諸国の開発と産業金融に関与する意図を持っていた。1953年にインドネシア大蔵省の設立認可を得て、授権資本は5,000万ルピア、出資比率はインドネシア51%・日本49%と定まった。1956年2月に定款の認証を得て正式に設立し、1958年2月1日、ジャカルタでバンク・プルダニアが開業した。経営は主として当行に委ねられ、日本側取締役2名のうち1名と、営業関係の幹部として現職行員3名が出向した。

  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [30]1952年に石原産業とインドネシアの有力者の間で新銀行創設の話し合いが行われたが、石原産業には銀行経営の経験がなかったため、取引関係の深い大和銀行を誘い込んだ。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [31]大和銀行は東南アジア諸国の開発ならびに産業金融に関係したい意図を持ち、1952年7月に調査員を現地に派遣して各国の政治・経済事情を調査させていた。
    • [32]1953年7月に石原産業が発起人となって合弁銀行を設立することについてインドネシア大蔵省の認可を得た。銀行の授権資本は5,000万ルピアで、出資比率はインドネシア51%、日本49%であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [33]定款の認証は1956年2月に得られ、1958年2月1日に合弁銀行バンク・プルダニアがジャカルタで開業した。
    • [34]プルダニア銀行設立後の経営は主として大和銀行に委ねる約束であり、日本側取締役2名のうち1名を出すほか、営業関係の幹部に現職行員3名を出向させた。

開業から6年で、この銀行は存続そのものを問われた。1964年5月、スカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じ、合弁であるプルダニア銀行は閉鎖こそ免れたものの、インドネシア国内での預金活動を禁じられた。1965年末には1000分の1のデノミネーションが実施され、設立当初5,000万ルピアであった資本金は5万ルピアへ減価した。物価上昇率は1965年に300%、翌1966年には600%を記録した。日本の親会社では閉鎖が真剣に検討されたが、現地は営業拡大の方針を打ち出し、日本人と現地職員が組んだ勧誘チーム4組が毎日町を回って預金を集めた。1968年に民族銀行か外国銀行かの選択を迫られると、支店を設けられないかわりに外国為替を扱える外国銀行を選び、1969年2月から外為の取扱いを始めた。

  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [35]1964年5月にスカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じたが、プルダニア銀行は合弁銀行であるため大統領令による閉鎖は免れ、かわりにインドネシアでの預金活動を禁じられた。
    • [36]1965年のデノミネーションによって、設立当初5,000万ルピアであった資本金はわずか5万ルピアに減価した。
    • [37]1965年の300%というインフレ率に続いて、1966年は600%の物価上昇を記録した。
    • [38]日本の親会社ではプルダニアの閉鎖を真剣に検討したが、現地では意を決して営業拡大方針を打ち出し、日本人と現地職員がペアになった勧誘チーム4組が毎日町を駆けずり回って預金を集めた。
    • [39]1968年に政策当局から民族銀行か外銀かの選択を迫られ、民族銀行なら支店を開けるが外国為替を扱えないため、合弁銀行のメリットを生かすとして外銀の道を選び、1969年2月から外国為替の取扱いを始めた。

駐在員事務所から始まった海外の拠点は、やがて支店になった。1956年9月にニューヨーク、1958年3月にロンドンへ駐在員事務所を置き、1968年にはいずれも支店となって、外国為替の取引網は世界主要都市の330行1,300カ店に及んだ。国内では1958年7月末に総預金が2,405億円へ達し、都市銀行のなかで長く第10位にあった預金順位が第9位へ上がった。この時点で預金の47.5%を大阪地区が占め、京浜地区が31.3%で続いており、大阪を本拠としながら東京方面への進出が進んだことを示していた。20年後の1978年3月期には預金高2兆4,267億円、経常利益83億7,300万円、資本金200億円となった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [40]海外の枢要地に拠点を設けるべく、1956年9月にニューヨーク駐在員事務所を、1958年3月にロンドン駐在員事務所を開設した。
    • [42]1958年7月末の総預金は2,405億円となり、3月末比19%の増加で都市銀行12行の平均増加率2%を大きく上回った。都市銀行中で長く第10位にあった預金順位が第9位へ進んだ。
    • [43]1958年7月末の地区別預金残高構成比は、大阪地区47.5%、京浜地区31.3%、東海地区6.3%、兵庫地区5.8%で、1942年末の大阪62.5%・京浜22.8%から京浜の比重が高まった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [41]外国為替業務では世界主要都市に330行1,300カ店の取引網を有し、ニューヨーク、ロンドンに支店を設けていた。
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」
    • [44]1978年3月期の預金高は2兆4,267億100万円、経常利益83億7,300万円、純利益33億7,000万円で、資本金は200億円であった。
参考文献[30]-[44]
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [30]1952年に石原産業とインドネシアの有力者の間で新銀行創設の話し合いが行われたが、石原産業には銀行経営の経験がなかったため、取引関係の深い大和銀行を誘い込んだ。
    • [35]1964年5月にスカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じたが、プルダニア銀行は合弁銀行であるため大統領令による閉鎖は免れ、かわりにインドネシアでの預金活動を禁じられた。
    • [36]1965年のデノミネーションによって、設立当初5,000万ルピアであった資本金はわずか5万ルピアに減価した。
    • [37]1965年の300%というインフレ率に続いて、1966年は600%の物価上昇を記録した。
    • [38]日本の親会社ではプルダニアの閉鎖を真剣に検討したが、現地では意を決して営業拡大方針を打ち出し、日本人と現地職員がペアになった勧誘チーム4組が毎日町を駆けずり回って預金を集めた。
    • [39]1968年に政策当局から民族銀行か外銀かの選択を迫られ、民族銀行なら支店を開けるが外国為替を扱えないため、合弁銀行のメリットを生かすとして外銀の道を選び、1969年2月から外国為替の取扱いを始めた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [31]大和銀行は東南アジア諸国の開発ならびに産業金融に関係したい意図を持ち、1952年7月に調査員を現地に派遣して各国の政治・経済事情を調査させていた。
    • [32]1953年7月に石原産業が発起人となって合弁銀行を設立することについてインドネシア大蔵省の認可を得た。銀行の授権資本は5,000万ルピアで、出資比率はインドネシア51%、日本49%であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [33]定款の認証は1956年2月に得られ、1958年2月1日に合弁銀行バンク・プルダニアがジャカルタで開業した。
    • [34]プルダニア銀行設立後の経営は主として大和銀行に委ねる約束であり、日本側取締役2名のうち1名を出すほか、営業関係の幹部に現職行員3名を出向させた。
    • [40]海外の枢要地に拠点を設けるべく、1956年9月にニューヨーク駐在員事務所を、1958年3月にロンドン駐在員事務所を開設した。
    • [42]1958年7月末の総預金は2,405億円となり、3月末比19%の増加で都市銀行12行の平均増加率2%を大きく上回った。都市銀行中で長く第10位にあった預金順位が第9位へ進んだ。
    • [43]1958年7月末の地区別預金残高構成比は、大阪地区47.5%、京浜地区31.3%、東海地区6.3%、兵庫地区5.8%で、1942年末の大阪62.5%・京浜22.8%から京浜の比重が高まった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [41]外国為替業務では世界主要都市に330行1,300カ店の取引網を有し、ニューヨーク、ロンドンに支店を設けていた。
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」
    • [44]1978年3月期の預金高は2兆4,267億100万円、経常利益83億7,300万円、純利益33億7,000万円で、資本金は200億円であった。

1949年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 98 n/a 23 10 10.2% n/a
1955年03月期 単体 107 +9.2% 20 11 10.3% n/a
1956年03月期 単体 111 +3.7% n/a 9 8.1% n/a
1957年03月期 単体 127 +14.4% n/a 10 7.9% n/a
1958年03月期 単体 167 +31.5% n/a 11 6.6% n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a 33 n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 809 n/a n/a 38 4.7% n/a
1970年03月期 単体 957 +18.3% n/a 48 5.0% n/a
1971年03月期 単体 1,124 +17.5% 108 65 5.8% n/a
1972年03月期 単体 1,246 +10.9% 183 87 7.0% n/a
1973年03月期 単体 1,477 +18.5% 253 136 9.2% n/a
1974年03月期 単体 2,036 +37.8% 254 159 7.8% n/a
1975年03月期 単体 2,884 +41.7% 272 123 4.3% n/a
1976年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年03月期 単体 2,969 n/a 327 116 3.9% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑、会社年鑑(1986年版)半期合算

出典・参考

10件
出典・参考
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」

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