第1章 年〜年

オンワードホールディングス:樫山純三氏の樫山商店創業と樫山の設立

1927年〜三越の運動具仕入れから独立した樫山商店と、百貨店に絞った売り先

1927年2月、25歳の樫山純三氏は雇い人1人を連れて大阪・東区備後町に樫山商店を創業した。資本金は1,000円で、2階建ての借家を店と住まいに充て、三越時代に扱った運動具・香水・化粧品の輸入卸から商いを始めた。樫山純三氏は三越のおもちゃ部で運動具売り場の新設に携わり、国内外からの仕入れを受け持った。1924年3月に三越を辞めたあとは神戸・元町の島田商会の再建を2年間担い、共同経営者の金銭の扱いに見切りをつけて独立した。輸入品は60〜90日の支払期限付きで届くため、関税さえ納めれば決済の前に売りさばく時間を得られた。小資本でも『輸入販売なら何とか食っていける』という見立てで、運動具は集金の効率がよい個人向けのスキーや登山用品に絞った。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [1]1927年(昭和2年)2月、雇い人1人と樫山商店を創業。資本金1,000円、大阪・東区備後町、運動具・化粧品・香水などの輸入卸。25歳で創業、2階建ての借家の1階を店と住まいに
    • [2]1927年(昭和2年)2月、雇い人1人と樫山商店を創業。資本金1,000円、大阪・東区備後町、運動具・化粧品・香水などの輸入卸。25歳で創業、2階建ての借家の1階を店と住まいに
    • [4]三越ではおもちゃ部の仕入れ担当となり、運動具売り場の新設で国内外の運動具を仕入れた
    • [5]1924年(大正13年)3月に三越を退職し神戸・元町の島田商会の再建に共同経営で当たったが、2年で共同経営者と別れて独立
    • [6]輸入品には60〜90日のサイトが付き、輸入関税を払えば支払いまでに売ればよく、小資本に向いた。野球道具は集金効率が悪く、個人向けのスキー・登山用品を中心にした
    • [7]輸入品には60〜90日のサイトが付き、輸入関税を払えば支払いまでに売ればよく、小資本に向いた。野球道具は集金効率が悪く、個人向けのスキー・登山用品を中心にした
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [3]三越時代に担当した運動具・香水・化粧品の輸入販売で樫山商店を設立

樫山商店は創業後、北海道から九州まで各地の小売店へ出向いて取引を始め、店員は10人ほどになった。大阪で輸入化粧品を扱う百貨店は三越にほぼ限られ、他の百貨店や地方の小売店は手つかずだった。ところが創業から2〜3年で、売れた輸入品と同じ国産品が翌年には出回るようになった。樫山純三氏は成長していた繊維に目を移し、運動服装やジャケットを外注で作らせて百貨店に売り込む方針へ切り替えた。1933年に東区南久宝寺町へ店を移すころには運動服装が本業となって店員は70〜80人に増え、同じ年に東京・日本橋にも出張所を設けた。三越で百貨店の仕入れを内側から見た経験が、売り先を百貨店に定める判断を支えたとみられる。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [8]創業後、北海道から九州まで地方の小売店を回り販売力をつけ、店員を10人ほどに増やした。大阪の輸入化粧品類の販売は三越がほぼ独占し、他の百貨店・小売店への余地が大きかった
    • [9]創業後、北海道から九州まで地方の小売店を回り販売力をつけ、店員を10人ほどに増やした。大阪の輸入化粧品類の販売は三越がほぼ独占し、他の百貨店・小売店への余地が大きかった
    • [10]輸入して売れる雑貨はすぐ国産品が出回るため、運動服装へ転じ、製品は外注して百貨店を中心に売ることにした
    • [12]輸入して売れる雑貨はすぐ国産品が出回るため、運動服装へ転じ、製品は外注して百貨店を中心に売ることにした
    • [14]1933年(昭和8年)に東区南久宝寺町へ移転した時点で運動服装が本業となり店員70〜80人、同年東京・日本橋橘町に出張所を設立
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [11]創業2〜3年で輸入品と同じ国産品が出回り、繊維製品に目をつけて運動着・ジャケット類を外注し百貨店に売り込んだ
    • [13]創業2〜3年で輸入品と同じ国産品が出回り、繊維製品に目をつけて運動着・ジャケット類を外注し百貨店に売り込んだ
参考文献[1]-[14]
  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [1]1927年(昭和2年)2月、雇い人1人と樫山商店を創業。資本金1,000円、大阪・東区備後町、運動具・化粧品・香水などの輸入卸。25歳で創業、2階建ての借家の1階を店と住まいに
    • [2]1927年(昭和2年)2月、雇い人1人と樫山商店を創業。資本金1,000円、大阪・東区備後町、運動具・化粧品・香水などの輸入卸。25歳で創業、2階建ての借家の1階を店と住まいに
    • [4]三越ではおもちゃ部の仕入れ担当となり、運動具売り場の新設で国内外の運動具を仕入れた
    • [5]1924年(大正13年)3月に三越を退職し神戸・元町の島田商会の再建に共同経営で当たったが、2年で共同経営者と別れて独立
    • [6]輸入品には60〜90日のサイトが付き、輸入関税を払えば支払いまでに売ればよく、小資本に向いた。野球道具は集金効率が悪く、個人向けのスキー・登山用品を中心にした
    • [7]輸入品には60〜90日のサイトが付き、輸入関税を払えば支払いまでに売ればよく、小資本に向いた。野球道具は集金効率が悪く、個人向けのスキー・登山用品を中心にした
    • [8]創業後、北海道から九州まで地方の小売店を回り販売力をつけ、店員を10人ほどに増やした。大阪の輸入化粧品類の販売は三越がほぼ独占し、他の百貨店・小売店への余地が大きかった
    • [9]創業後、北海道から九州まで地方の小売店を回り販売力をつけ、店員を10人ほどに増やした。大阪の輸入化粧品類の販売は三越がほぼ独占し、他の百貨店・小売店への余地が大きかった
    • [10]輸入して売れる雑貨はすぐ国産品が出回るため、運動服装へ転じ、製品は外注して百貨店を中心に売ることにした
    • [12]輸入して売れる雑貨はすぐ国産品が出回るため、運動服装へ転じ、製品は外注して百貨店を中心に売ることにした
    • [14]1933年(昭和8年)に東区南久宝寺町へ移転した時点で運動服装が本業となり店員70〜80人、同年東京・日本橋橘町に出張所を設立
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [3]三越時代に担当した運動具・香水・化粧品の輸入販売で樫山商店を設立
    • [11]創業2〜3年で輸入品と同じ国産品が出回り、繊維製品に目をつけて運動着・ジャケット類を外注し百貨店に売り込んだ
    • [13]創業2〜3年で輸入品と同じ国産品が出回り、繊維製品に目をつけて運動着・ジャケット類を外注し百貨店に売り込んだ

1937年〜統制下で建てた老松町の被服工場と、生産と販売に割った樫山工業・樫山

樫山商店は運動服装の1937年の販売高で美津濃を上回って業界首位に立ち、売上の80%を百貨店向けが占めた。太平洋戦争が始まると店員は次々に召集され、1942年には衣料品の切符による配給制への移行。企業整備令により、既製服の業者は全国で約100の代行会社へ集約され、樫山純三氏は既製服中央第七十四代行株式会社の社長に任じられた。代行会社は割り当てられた布で国民服と幼児服を縫い、作る品も売り先も国が決める仕組みである。樫山純三氏は一反から取れる20着をすべて納めて次の布の割り当てを増やし、1942年ごろまでに130万円の蓄えを積んだ。召集で人手を失った樫山商店は事実上の休業に陥り、百貨店へ自由に売る商いは途絶えた。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [15]1937年(昭和12年)の運動服装の販売実績で美津濃を抜き業界トップ(商工省調査)。全体の80%が百貨店向け商品
    • [17]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [18]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [20]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [21]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [23]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [16]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積
    • [19]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積
    • [22]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積

東京の支店を戦災で失った樫山純三氏は、1946年6月、大阪・北区老松町に工員200人の工場と事務所を新設した。統制が続くなか、作る品も売り先も国が決め、営業を要しない代行会社の延長である。樫山商店を閉じた際、生地と商品は150万円の定期預金を置いていた取引銀行の2・3階に移した。鉄筋コンクリートの銀行の建物は周囲が焼けるなかで残り、代行会社時代の蓄積とともに再建の元手になった。終戦直後には京都で古着を1着50円で仕入れて100円で売り、100万円を超える利益を上げたとされる。そのうえで樫山純三氏は、老松町の工場が『この工場は樫山商店再建の第一歩になる』と見込んだ。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [24]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
    • [25]東京支店は焼失しており、1948年1月に日本橋一丁目に再建
    • [26]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
    • [27]樫山商店を閉じた際、150万円を定期預金にしていた大阪の取引銀行の2・3階を倉庫にし、銀行は空襲で焼け残って生地・商品が無事だった。代行会社時代の利益蓄積と合わせ戦後の基礎になった
    • [28]樫山商店を閉じた際、150万円を定期預金にしていた大阪の取引銀行の2・3階を倉庫にし、銀行は空襲で焼け残って生地・商品が無事だった。代行会社時代の利益蓄積と合わせ戦後の基礎になった
    • [30]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [29]終戦後、京都で古着を1着50円で買い100円で売り、100万円以上の利益を上げたという(近親者談)

1947年3月、樫山純三氏は共同で経営していた代行会社の株式をすべて取得し、社名を樫山工業に改めた。同年9月には販売を担う別会社として「樫山」を設立し、工場を持つ樫山工業と役割を分けた。会社を二つに分けたのは、統制が生産と販売を別の会社で営むよう定めていたためである。1949年6月、樫山が樫山工業を吸収合併して資本金500万円の1社にまとめ、再建の準備を終えた。ただし衣料統制は1951年まで続き、経営の自由はなお縛られたため、樫山純三氏はその間を自由化への備えに充てた。統制の定めに沿って会社を分け、統制が解ける前に1社へ戻したのは、統制明けの商いを見越した布石と推察される。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [31]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [32]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [33]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [34]1949年(昭和24年)6月、樫山が樫山工業を吸収合併し資本金500万円。衣料統制は1951年まで続いた。合併ですべての準備を完了し、統制期間中は自由化に備えて研究した
    • [36]1949年(昭和24年)6月、樫山が樫山工業を吸収合併し資本金500万円。衣料統制は1951年まで続いた。合併ですべての準備を完了し、統制期間中は自由化に備えて研究した
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [35]ホフマンプレス導入当時の樫山の資本金は500万円
参考文献[15]-[36]
  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [15]1937年(昭和12年)の運動服装の販売実績で美津濃を抜き業界トップ(商工省調査)。全体の80%が百貨店向け商品
    • [17]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [18]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [20]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [21]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [23]1941年から店員が召集され、1942年に繊維製品統制令で衣料品が切符制に。既製服業者は約100の代行会社に集約され、既製服中央第七十四代行株式会社の社長に。国民服・幼児服を作り、20着を納めて割り当てが増えた。樫山商店は事実上消滅
    • [24]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
    • [25]東京支店は焼失しており、1948年1月に日本橋一丁目に再建
    • [26]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
    • [27]樫山商店を閉じた際、150万円を定期預金にしていた大阪の取引銀行の2・3階を倉庫にし、銀行は空襲で焼け残って生地・商品が無事だった。代行会社時代の利益蓄積と合わせ戦後の基礎になった
    • [28]樫山商店を閉じた際、150万円を定期預金にしていた大阪の取引銀行の2・3階を倉庫にし、銀行は空襲で焼け残って生地・商品が無事だった。代行会社時代の利益蓄積と合わせ戦後の基礎になった
    • [30]1946年(昭和21年)6月、大阪・北区老松町に工員200人の被服工場と事務所を建設。統制下で売り先は国が決め、代行会社の延長だったが、樫山商店再建の第一歩と考えた
    • [31]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [32]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [33]1947年(昭和22年)3月、共同経営の代行会社の全株を買収して樫山工業と改称、9月に販売会社「樫山」を設立。統制で生産と販売を別会社にするよう定められていたため
    • [34]1949年(昭和24年)6月、樫山が樫山工業を吸収合併し資本金500万円。衣料統制は1951年まで続いた。合併ですべての準備を完了し、統制期間中は自由化に備えて研究した
    • [36]1949年(昭和24年)6月、樫山が樫山工業を吸収合併し資本金500万円。衣料統制は1951年まで続いた。合併ですべての準備を完了し、統制期間中は自由化に備えて研究した
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [16]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積
    • [19]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積
    • [22]1937年時点で運動着で美津濃を抜き業界トップ。統制下で代行会社の社長となり、20着をきちんと納めて割り当てを増やし、1942年ごろに130万円を蓄積
    • [29]終戦後、京都で古着を1着50円で買い100円で売り、100万円以上の利益を上げたという(近親者談)
    • [35]ホフマンプレス導入当時の樫山の資本金は500万円

1948年〜日本橋に再建した東京支店と、流れ作業の背広で据えた製販分離

1948年1月、樫山は戦災で焼けた東京支店を日本橋一丁目に建て直し、1950年に日本橋・久松町へ移した。戦前の樫山商店では、1933年に開設した東京出張所が2年後に支店へ上がり、売上も利益も大阪を上回った。出張所を開設した当時、樫山純三氏は『購買力の高い東京に足場を築かずして事業の本格的な発展はあり得ない』と考えた。樫山純三氏が東京の購買力の高さを初めて意識したのは、三越の店員時代である。1957年ごろには東京重視の方針を掲げ、銀行から借り入れて4,400万円を投じて東京にビルを建設した。大阪で生産と販売の会社を1社にまとめた直後に東京支店を再建したのは、戦前に得た東の売上を取り戻すためだったと思われる。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [37]1948年(昭和23年)1月、焼失した東京支店を日本橋一丁目に再建、1950年に日本橋・久松町へ移転
    • [38]1933年に東京出張所を設立し1935年に支店へ昇格、東京支店は売上・利益とも大阪を上回った。設立時「購買力の高い東京に足場を…」と考えた
    • [39]1933年に東京出張所を設立し1935年に支店へ昇格、東京支店は売上・利益とも大阪を上回った。設立時「購買力の高い東京に足場を…」と考えた
    • [40]東京の購買力の高さを最初に意識したのは三越の店員時代。1957〜58年ごろ東京重視の方針を打ち出し東京支店を強化
    • [41]東京の購買力の高さを最初に意識したのは三越の店員時代。1957〜58年ごろ東京重視の方針を打ち出し東京支店を強化
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [42]1957年ごろ銀行から借り入れ、東京に4,400万円でビルを建てた

衣料統制が続いた1949〜1951年、樫山純三氏は老松町工場で背広の既製服化を研究した。当時の既製服は職人1人が手で縫い上げる方式で、背広の三つぞろいに2日を要し、出来にもばらつきがあった。樫山純三氏は米軍の放出衣料をほどいて仕立てを調べ、『日本もいまに米国のように既製服の時代が必ず来る』と確信した。1950年には背広を30工程の流れ作業に分け、国内初のホフマンプレス機を特殊ミシン10台とともに輸入。投資額はプレス機一式の800万円を含めて資本金の2倍の1,000万円で、全額を住友銀行から借り入れた。1着2日の工程は7時間に縮み、1951年7月に登録した「オンワード」の商標を付けて統制廃止とともに売り出した。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [43]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [45]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [46]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [48]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [49]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [51]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [44]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [47]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [50]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [52]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年

1953年ごろ、樫山純三氏は工員200人の老松町工場をそれ以上広げず、生産を協力工場に任せる方針を固めた。樫山自身は市場の動きと『消費者が何を求めているか』を見極め、商品の企画と販売に専念した。協力工場を非直営としたのは、地元資本の経営者のほうが能率と利益に熱心で、人材を工場に割かず営業に充当できるからである。同じ1953年には資本金を10倍の5,000万円とし、百貨店との取引に委託制と土日の派遣店員を持ち込んだ。1959年3月からの米国視察では大量生産の大工場を見たうえで、現地大手グラマシーパークとの提携を断った。販売に資本を充てた製販分離が、次の拡大の前提になったのだろう。

  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [53]1953年ごろ、工員200人の老松町工場をこれ以上大きくせず、市場動向の把握と商品企画に専念し生産は協力工場に任せる体制を考えた。「消費者が何を求めているか」をマーケティングと販売で追った
    • [54]1953年ごろ、工員200人の老松町工場をこれ以上大きくせず、市場動向の把握と商品企画に専念し生産は協力工場に任せる体制を考えた。「消費者が何を求めているか」をマーケティングと販売で追った
    • [55]協力工場はほぼ非直営。経営者の熱意が高く、優秀な人材を工場へ送ると営業に響くため
    • [56]1953年(昭和28年)に資本金を10倍の5,000万円に増資。百貨店販売で委託取引制と土日の派遣店員制度を始めた
    • [58]1959年3月から約2カ月米国を視察、大量生産方式に疑問を持ち、グラマシーパークからのマーク使用の提案を断った。同年8月に老松町工場を旭区高殿へ移転、自社工場は1カ所
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [57]衣料品で初めて百貨店への委託販売制度を導入。1950年代半ばの米国視察で大手の過剰生産・在庫を見て、小規模下請けに多品種を少しずつ作らせた
    • [59]衣料品で初めて百貨店への委託販売制度を導入。1950年代半ばの米国視察で大手の過剰生産・在庫を見て、小規模下請けに多品種を少しずつ作らせた
参考文献[37]-[59]
  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
    • [37]1948年(昭和23年)1月、焼失した東京支店を日本橋一丁目に再建、1950年に日本橋・久松町へ移転
    • [38]1933年に東京出張所を設立し1935年に支店へ昇格、東京支店は売上・利益とも大阪を上回った。設立時「購買力の高い東京に足場を…」と考えた
    • [39]1933年に東京出張所を設立し1935年に支店へ昇格、東京支店は売上・利益とも大阪を上回った。設立時「購買力の高い東京に足場を…」と考えた
    • [40]東京の購買力の高さを最初に意識したのは三越の店員時代。1957〜58年ごろ東京重視の方針を打ち出し東京支店を強化
    • [41]東京の購買力の高さを最初に意識したのは三越の店員時代。1957〜58年ごろ東京重視の方針を打ち出し東京支店を強化
    • [43]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [45]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [46]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [48]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [49]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [51]1949〜1951年の統制下で背広の既製服化を研究。当時の既製服は1人が手縫いで仕上げ三つぞろいに2日。米軍放出衣料をほどいて研究し、1950年に背広を30工程の流れ作業にしてホフマンプレス機(800万円)と特殊ミシン10台を輸入、計1,000万円(資本金の2倍)を住友銀行から調達。1着7時間に短縮。1951年7月「オンワード」商標登録
    • [53]1953年ごろ、工員200人の老松町工場をこれ以上大きくせず、市場動向の把握と商品企画に専念し生産は協力工場に任せる体制を考えた。「消費者が何を求めているか」をマーケティングと販売で追った
    • [54]1953年ごろ、工員200人の老松町工場をこれ以上大きくせず、市場動向の把握と商品企画に専念し生産は協力工場に任せる体制を考えた。「消費者が何を求めているか」をマーケティングと販売で追った
    • [55]協力工場はほぼ非直営。経営者の熱意が高く、優秀な人材を工場へ送ると営業に響くため
    • [56]1953年(昭和28年)に資本金を10倍の5,000万円に増資。百貨店販売で委託取引制と土日の派遣店員制度を始めた
    • [58]1959年3月から約2カ月米国を視察、大量生産方式に疑問を持ち、グラマシーパークからのマーク使用の提案を断った。同年8月に老松町工場を旭区高殿へ移転、自社工場は1カ所
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号
    • [42]1957年ごろ銀行から借り入れ、東京に4,400万円でビルを建てた
    • [44]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [47]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [50]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [52]1949年ごろ米軍関係者の既製服を見て既製服化を予想し、放出衣料を研究。ホフマンプレス機と特殊ミシン10台で1,000万円の設備投資、30工程の流れ作業で1着2日を7時間に。オンワードの商標で売り出し、紳士既製服に乗り出したのは1951年
    • [57]衣料品で初めて百貨店への委託販売制度を導入。1950年代半ばの米国視察で大手の過剰生産・在庫を見て、小規模下請けに多品種を少しずつ作らせた
    • [59]衣料品で初めて百貨店への委託販売制度を導入。1950年代半ばの米国視察で大手の過剰生産・在庫を見て、小規模下請けに多品種を少しずつ作らせた

出典・参考

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出典・参考
  • 私の履歴書 経済人16(1981)「樫山純三(樫山会長)」
  • 日経ビジネス 1986年2月17日号

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