豊田合成:企業再建整備法による名古屋ゴムの分離独立
1934年〜豊田自動織機製作所のゴム研究部門と、国華工業名古屋工場への移管
豊田喜一郎氏は1934年、豊田自動織機製作所の構内に自動車の試作工場と製鋼所を設け、その一角でゴム部品の試作研究を始めた。自動車の各部で生じる振動・衝撃・騒音を吸収する部材としてゴムを重視し、配合と成形の技術を社内に確立する方針をとった。化学研究所では東北帝国大学から招いた木村富士信氏が研究を率い、試験ロールとプレスを据えて試作に入った。品目は一般型物から窓枠ゴム、防振ゴム、ホース類、ファンベルトへ広がり、1936年には刈谷の組立工場へ部門ごと移った。刈谷のゴム部門は、1949年に名古屋ゴムとして分離独立する会社の源流にあたる。ゴムの専門知識を持つ部品メーカーがまだ少なかった時期に、試作から量産までを自前で抱える体制を選んだとみられる。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「当社の起源になったゴム研究部門の誕生」
- [1]1934年、豊田自動織機製作所内に試作工場・製鋼所を設置し、試作工場内でゴムの試作研究を開始
- [2]豊田喜一郎は振動・衝撃・騒音の吸収にゴムを重視し、配合・成形技術の社内確立を図った
- [3]化学研究所で木村富士信(東北帝大金属材料研究所から招聘)がゴム研究を主導、試験ロールとプレスで試作開始
- [4]生産品目は窓枠ゴム・防振ゴム・ホース類・ファンベルトへ拡大、1936年に刈谷の組立工場内へ移転
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [5]1949年6月、名古屋ゴム株式会社として分離独立(会社創立)
1943年5月、トヨタ自動車工業のゴム部門は国華工業と合併し、旧菊井織布の工場跡で国華工業名古屋工場として操業を始めた。発端は同年の商工省の勧告で、60種類のゴム部品を生産しながら、設備・人員・ゴム使用量が企業整備令の基準に達しないと判断された。同じ時期にトヨタ自動車工業は高島屋飯田から国華工業株式の引き取りを打診され、その過半数を取得した。菊井織布は1942年に綿布事業を事実上閉鎖して織布設備を朝鮮へ移し、残った約300名の従業員がゴムの生産に移った。名古屋工場は戦後、岡崎工場とともに名古屋ゴムの母体にあたる。単独では存続できないゴム部門を、株式の取得と遊休工場の転用を組み合わせて残したのだろう。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「国華工業㈱に移されたゴム部門」
- [6]1943年5月、トヨタ自動車工業のゴム部門が国華工業と合併し、旧菊井織布跡地で国華工業名古屋工場として生産開始
- [7]1943年、60種のゴム部品を生産するも企業整備令の基準に達せず、商工省がゴム会社との統合を勧告
- [8]トヨタ自動車工業が高島屋飯田所有の国華工業株式の過半数を取得
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第1節「300名の残留者と国華工業㈱への併合」
- [9]菊井織布は織布設備を朝鮮紡績へ移し1942年に国内綿布事業を事実上閉鎖、残留者300名
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [10]国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を名古屋ゴムの名で分離独立
1946年8月に会社経理応急措置法、同年10月に企業再建整備法が公布され、戦時補償を打ち切られた会社は勘定を新旧2つに分け、旧勘定を整理しながら新勘定で事業を続けられるようになった。国華工業は足利・古河・桐生・戸塚・愛知の各事業所を一体で再建する計画を探ったものの、見通しは立たなかった。足利工場は統合時の契約に戦後の再独立を盛り込んでおり、事業所ごとに来歴と再建の希望が異なった。トヨタ系の人材と設備を継いだ愛知工場は、製品技術でも他の工場と異なり、自動車部品の専業会社としての独立を求めた。国華工業は1948年、主要な事業所をそれぞれ別会社に分ける方針を決め、5社に分かれて事実上解散した。愛知工場の名古屋・岡崎両工場が独立してできた第2会社が、名古屋ゴムである。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第4節「国華工業㈱の解散と名古屋工場の分離・独立」
- [11]1946年8月15日会社経理応急措置法、10月19日企業再建整備法が公布
- [12]国華工業は各事業所を統一した再建を図ったがめどが立たず
- [13]足利工場は統合時に戦後の再独立を条件とする契約を交わしていた
- [14]愛知工場はトヨタ系の人材・設備を継承し、自動車部品メーカーとしての独立を希望
- [15]1948年に主力事業所を新会社として分離独立させ事実上解散、5社に分離
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [16]企業再建整備法により国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を名古屋ゴムの名で分離独立
参考文献[1]-[16]
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「当社の起源になったゴム研究部門の誕生」
- [1]1934年、豊田自動織機製作所内に試作工場・製鋼所を設置し、試作工場内でゴムの試作研究を開始
- [2]豊田喜一郎は振動・衝撃・騒音の吸収にゴムを重視し、配合・成形技術の社内確立を図った
- [3]化学研究所で木村富士信(東北帝大金属材料研究所から招聘)がゴム研究を主導、試験ロールとプレスで試作開始
- [4]生産品目は窓枠ゴム・防振ゴム・ホース類・ファンベルトへ拡大、1936年に刈谷の組立工場内へ移転
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [5]1949年6月、名古屋ゴム株式会社として分離独立(会社創立)
- [10]国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を名古屋ゴムの名で分離独立
- [16]企業再建整備法により国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を名古屋ゴムの名で分離独立
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「国華工業㈱に移されたゴム部門」
- [6]1943年5月、トヨタ自動車工業のゴム部門が国華工業と合併し、旧菊井織布跡地で国華工業名古屋工場として生産開始
- [7]1943年、60種のゴム部品を生産するも企業整備令の基準に達せず、商工省がゴム会社との統合を勧告
- [8]トヨタ自動車工業が高島屋飯田所有の国華工業株式の過半数を取得
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第1節「300名の残留者と国華工業㈱への併合」
- [9]菊井織布は織布設備を朝鮮紡績へ移し1942年に国内綿布事業を事実上閉鎖、残留者300名
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第4節「国華工業㈱の解散と名古屋工場の分離・独立」
- [11]1946年8月15日会社経理応急措置法、10月19日企業再建整備法が公布
- [12]国華工業は各事業所を統一した再建を図ったがめどが立たず
- [13]足利工場は統合時に戦後の再独立を条件とする契約を交わしていた
- [14]愛知工場はトヨタ系の人材・設備を継承し、自動車部品メーカーとしての独立を希望
- [15]1948年に主力事業所を新会社として分離独立させ事実上解散、5社に分離
1949年〜資本金800万円で分かれた名古屋ゴムと、生ゴム暴落で閉じた岡崎工場
名古屋ゴムの設立計画は1948年8月に日本銀行と関係官庁へ提出され、審査に10カ月を要して1949年6月3日に認可された。会社は同年6月15日に登記を終え、資本金800万円、本店を名古屋市西区西藪下町に置いて発足した。新会社は国華工業から名古屋・岡崎の両工場を継ぎ、初代社長は発起人代表の佐野力氏が務めた。商号に名古屋を冠したのは、将来の海外輸出を見据え、外国でも比較的知られた地名を選んだためである。発足から半年後の1949年12月10日、設立時に決めていたとおり佐野力氏が辞任し、豊田佐吉氏の末弟の豊田佐助氏が社長に就任した。国華工業の経営者からトヨタ系の経営者への交代で、トヨタ自動車工業を主要顧客とする部品メーカーという位置づけが社内外に定まったと思われる。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「名古屋ゴム株式会社の設立」
- [17]設立計画を1948年8月に日銀・関係官庁へ提出、1949年6月3日認可
- [18]1949年6月15日設立登記、資本金800万円、本店名古屋市西区西藪下町
- [20]海外輸出に備え外国でも知名度の高い「名古屋」を商号に冠した
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [19]国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を継承し名古屋ゴム創立
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [21]1949年12月10日、設立時の取り決めどおり佐野力が辞任し豊田佐助が社長就任
ドッジラインの不況で受注が激減し、名古屋ゴムは第2期(1949年11月〜1950年5月)に249万円の欠損を計上した。名古屋・岡崎の2工場を抱える会社では、給料が分割払いとなり、岡崎工場は本社からの送金の遅れに悩まされた。会社は1950年8月、在籍245名から51名を減らし、残る従業員の賃金を1割下げる再建案を労働組合に示した。組合はストライキや職場討議で反対し、約1カ月の紛争の末、経営悪化を受けて再建案を受け入れた。紛争の2カ月前の1950年6月に朝鮮戦争が始まり、解決後まもなく特需で受注が急増した。人員整理で固定費を下げた直後に特需を迎えたことが、業績の好転を早めたと推察される。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [22]第2期(24.11.21〜25.5.20)に欠損249万円
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [23]名古屋ゴムは名古屋・岡崎両工場で発足
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「労使紛争の発生と会社再建」
- [24]給料は分割支給、岡崎工場では本社からの送金が慢性的に滞った
- [25]1950年8月、在籍245名中51名整理・残留者1割賃下げの再建案を組合に提示
- [26]約1カ月の紛争の後、組合が再建案を承認
- [27]1950年6月の朝鮮戦争勃発後の特需で、紛争解決後まもなく受注が急増
朝鮮特需で業績は好転し、第4期(1950年11月〜1951年5月)は受注と生産量が大きく増えた。1950年初頭から同年11月までに4倍へ上がった生ゴム相場は、1951年9月に休戦会談が始まると急落した。政府の勧告で生ゴムを備蓄していた業界は高値の在庫を抱え、名古屋ゴムも経営の悪化に見舞われた。名古屋ゴムは1951年12月に岡崎工場の閉鎖を決め、1952年3月に名古屋工場へ併合。岡崎工場の業績は本社工場より良かったものの、建物は賃借であり、2工場体制の不利を解消して生産を1カ所に集める判断が優先された。移転費用と製品価格の引き下げが重なり、第6期(1951年11月〜1952年4月)は再び赤字を計上した。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [28]第4期(25.11.21〜26.5.20)は朝鮮動乱を契機に受注増大・好成績
- [29]生ゴム相場は1950年初頭比で11月までに4倍、1951年9月の休戦会談開始で暴落
- [30]政府勧告で生ゴムを備蓄していた業界は高値ゴムを抱え経営不振、名古屋ゴムも影響
- [32]岡崎工場は業績が比較的良かったが建物は賃借、二工場の不利解消と集中生産のため閉鎖
- [33]移転費用と製品価格引き下げで第6期(26.11.1〜27.4.30)は赤字
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [31]1952年3月、岡崎工場を閉鎖し名古屋工場に併合(閉鎖決定は1951年12月)
参考文献[17]-[33]
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「名古屋ゴム株式会社の設立」
- [17]設立計画を1948年8月に日銀・関係官庁へ提出、1949年6月3日認可
- [18]1949年6月15日設立登記、資本金800万円、本店名古屋市西区西藪下町
- [20]海外輸出に備え外国でも知名度の高い「名古屋」を商号に冠した
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [19]国華工業の第2会社として名古屋・岡崎両工場を継承し名古屋ゴム創立
- [23]名古屋ゴムは名古屋・岡崎両工場で発足
- [31]1952年3月、岡崎工場を閉鎖し名古屋工場に併合(閉鎖決定は1951年12月)
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [21]1949年12月10日、設立時の取り決めどおり佐野力が辞任し豊田佐助が社長就任
- [22]第2期(24.11.21〜25.5.20)に欠損249万円
- [28]第4期(25.11.21〜26.5.20)は朝鮮動乱を契機に受注増大・好成績
- [29]生ゴム相場は1950年初頭比で11月までに4倍、1951年9月の休戦会談開始で暴落
- [30]政府勧告で生ゴムを備蓄していた業界は高値ゴムを抱え経営不振、名古屋ゴムも影響
- [32]岡崎工場は業績が比較的良かったが建物は賃借、二工場の不利解消と集中生産のため閉鎖
- [33]移転費用と製品価格引き下げで第6期(26.11.1〜27.4.30)は赤字
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「労使紛争の発生と会社再建」
- [24]給料は分割支給、岡崎工場では本社からの送金が慢性的に滞った
- [25]1950年8月、在籍245名中51名整理・残留者1割賃下げの再建案を組合に提示
- [26]約1カ月の紛争の後、組合が再建案を承認
- [27]1950年6月の朝鮮戦争勃発後の特需で、紛争解決後まもなく受注が急増
1954年〜48オンス機で成形したハンドルと、春日村に出たプラスチック部門
1952年9月1日の取締役会で、名古屋ゴムは米ワットソン・スチルマン社の48オンス射出成形機の導入を決定。トヨタ自動車工業は他社の射出成形ハンドルを試作発注しており、結果次第で発注先を移すと伝えていた。機械の価格3,600万円は当時の資本金1,500万円の2.4倍にあたり、購入資金はトヨタ自動車工業からの借入金で賄った。ハンドルは当時の売上高の3分の1にあたり、圧縮成形のままでは主力製品の取引を失うおそれがあった。1954年1月に据え付けた48オンス機で、トヨタのFA型トラック向けに国内初の射出成形ハンドルの量産に入った。48オンス機は1957年に春日村へ建てた新工場に真っ先に移された。
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第3節「大型射出成形機の導入と射出成形ハンドルの開発」
- [34]1952年9月1日の取締役会で48オンス射出成形機(ワットソン・スチルマン社製)の導入を決定
- [35]トヨタは他社に射出成形ハンドルを試作発注、結果次第で転注もあり得るとした
- [36]購入価格3,600万円は資本金1,500万円の2.4倍、資金はトヨタ自動車工業からの借り入れ
- [37]ハンドルは売上高の3分の1を占めていた
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [38]1954年1月に48オンス機を設置、第1号はトヨタFA型トラック用射出成形ハンドル(国内初)
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [39]1957年、愛知県西春日井郡春日村に春日工場を建設(48オンス機から移設)
名古屋ゴムは1949年6月の創立に先立つ同年2月15日、国華工業時代に八重洲口の近くに置いた営業所を継いで東京出張所を開設。初代所長は加藤宗平氏で、所員は所長と女性の事務員1名だけであり、製品は名古屋からトラックで運んだ。関東での営業は、朝鮮特需を受けて自動車の生産台数が増えた1950年以降に本格化し、日産自動車・いすゞ自動車・本田技研工業を含む8社と相次いで契約を結んだ。名古屋以外に自前の販売網を持たない会社は、三協自動車やミヤコ自動車工業を含む代理店5社と契約し、資金繰りでも代理店の支援に依存した。東京出張所は1956年6月に日本橋へ移り、所員は4名に増えた。
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [40]1949年6月、名古屋ゴム株式会社として分離独立(会社創立)
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第4節「関東地区での営業活動と市場基盤の整備」
- [41]1949年2月15日、国華工業時代の八重洲口近くの営業所を引き継ぎ東京出張所を開設
- [42]初代責任者は加藤宗平、所員は責任者と女子事務員1名、製品は名古屋からトラック輸送
- [43]関東での営業は1950年以降本格化、日産・いすゞ・富士自動車工業・民生デイゼル・三井精機・日本内燃機・三菱ふそう・本田技研と契約
- [45]1956年6月、日本橋の服飾センタービルへ移転し所員4名に増員
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 扉「代理店5社との主要な取引の開始」
- [44]名古屋以外に販売網がなく代理店5社(三協自動車・ミヤコ自動車工業・大栄産業・渡辺ゴム商会・松尾産業)と契約、資金面で支援に依存
名古屋ゴムは1957年、愛知県西春日井郡春日村に新工場を建て、プラスチック部門を移した。名古屋市西区の本社工場は敷地約1万m2にゴムとプラスチックの設備が詰まり、土地区画整理地の内側で拡張の余地がなかった。春日村が工場誘致条例を定めて進出を働きかけ、名古屋ゴムは内陸で国道沿いにあり拡張余地もある同地を選んだ。第2工場は工費1億円で1957年11月1日に完成し、48オンス機の4倍の射出容量をもつ200オンス射出成形機を新たに入れた。社長の岡崎栄一氏は技術開発力を専門メーカーの根幹と位置づけ、1961年4月に同じ敷地で延べ1,570m2の技術センターを完成させた。新型車の内外装で部品のプラスチック化の要求が強まり、春日村は名古屋ゴムの中核拠点となった。
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [46]1957年、愛知県西春日井郡春日村に春日工場を建設
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第2節「急増する自動車部品需要への対応」
- [47]本社工場(約1万m2)はゴム・プラスチック設備で過密、復興都市計画土地区画整理地内で拡張余地なし
- [48]春日村の工場誘致条例を受け、内陸・国道22号沿い・拡張余地を理由に進出を決断
- [51]新型車の内外装を中心に部品のプラスチック化要求が急増、春日地区が中核拠点に
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第4節「プラスチック部門の独立と発展」
- [49]第2工場は工費1億円、1957年11月1日完成、200オンス射出成形機(48オンス機の射出容量4倍)を導入
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第3節「技術センターの建設と自社開発の推進」
- [50]岡崎社長の方針で1961年4月、春日工場地内に延べ1,570m2の技術センター完成
参考文献[34]-[51]
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第3節「大型射出成形機の導入と射出成形ハンドルの開発」
- [34]1952年9月1日の取締役会で48オンス射出成形機(ワットソン・スチルマン社製)の導入を決定
- [35]トヨタは他社に射出成形ハンドルを試作発注、結果次第で転注もあり得るとした
- [36]購入価格3,600万円は資本金1,500万円の2.4倍、資金はトヨタ自動車工業からの借り入れ
- [37]ハンドルは売上高の3分の1を占めていた
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- [38]1954年1月に48オンス機を設置、第1号はトヨタFA型トラック用射出成形ハンドル(国内初)
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- [39]1957年、愛知県西春日井郡春日村に春日工場を建設(48オンス機から移設)
- [40]1949年6月、名古屋ゴム株式会社として分離独立(会社創立)
- [46]1957年、愛知県西春日井郡春日村に春日工場を建設
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第4節「関東地区での営業活動と市場基盤の整備」
- [41]1949年2月15日、国華工業時代の八重洲口近くの営業所を引き継ぎ東京出張所を開設
- [42]初代責任者は加藤宗平、所員は責任者と女子事務員1名、製品は名古屋からトラック輸送
- [43]関東での営業は1950年以降本格化、日産・いすゞ・富士自動車工業・民生デイゼル・三井精機・日本内燃機・三菱ふそう・本田技研と契約
- [45]1956年6月、日本橋の服飾センタービルへ移転し所員4名に増員
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 扉「代理店5社との主要な取引の開始」
- [44]名古屋以外に販売網がなく代理店5社(三協自動車・ミヤコ自動車工業・大栄産業・渡辺ゴム商会・松尾産業)と契約、資金面で支援に依存
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第2節「急増する自動車部品需要への対応」
- [47]本社工場(約1万m2)はゴム・プラスチック設備で過密、復興都市計画土地区画整理地内で拡張余地なし
- [48]春日村の工場誘致条例を受け、内陸・国道22号沿い・拡張余地を理由に進出を決断
- [51]新型車の内外装を中心に部品のプラスチック化要求が急増、春日地区が中核拠点に
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第4節「プラスチック部門の独立と発展」
- [49]第2工場は工費1億円、1957年11月1日完成、200オンス射出成形機(48オンス機の射出容量4倍)を導入
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第3節「技術センターの建設と自社開発の推進」
- [50]岡崎社長の方針で1961年4月、春日工場地内に延べ1,570m2の技術センター完成
出典・参考
14件
- 豊田合成 有価証券報告書【沿革】
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「当社の起源になったゴム研究部門の誕生」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第2節「国華工業㈱に移されたゴム部門」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第1節「300名の残留者と国華工業㈱への併合」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 前史 第4節「国華工業㈱の解散と名古屋工場の分離・独立」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「名古屋ゴム株式会社の設立」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「佐野力社長から豊田佐助社長へ」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第2節「労使紛争の発生と会社再建」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第3節「大型射出成形機の導入と射出成形ハンドルの開発」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 1章 第4節「関東地区での営業活動と市場基盤の整備」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 扉「代理店5社との主要な取引の開始」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第2節「急増する自動車部品需要への対応」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第4節「プラスチック部門の独立と発展」
- 創造への挑戦 豊田合成40年史(1990) 2章 第3節「技術センターの建設と自社開発の推進」