第1章 年〜年

三井ハイテック:三井孝昭の金型製造と三井工作所の設立

1949年〜安川電機を辞めた三井孝昭氏の八幡の金型製造と、売上50万円から始めた総研削仕上げ

三井孝昭氏は1948年12月に安川電機製作所を退職して独立し、1949年1月に福岡県八幡市筒井町で金型の製造販売業を始めた。三井孝昭氏は1921年2月に熊本県で生まれ、家具店勤めの後に安川電機製作所へ入社。安川電機で金型を作る部署に回された当初、精緻さを求められ労働条件も厳しい仕事を好まなかった。召集された戦場で敵の兵器がプレス加工により1分間に60個の速さで均一に量産されていると知り、金型への見方を改めた。安川電機在職中には、先に熱処理を済ませてから金型を加工する方式を社内に提案したものの、取り上げられなかった。退職金は工場に電気を引く費用で尽き、最初の注文を得たのは1949年12月である。社内で退けられた製法を自ら試すには、独立のほかに手立てがなかったとみられる。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年12月に独立、1949年1月に八幡市筒井町で金型の製造販売業を開始
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号
    • [2]三井孝昭氏は1921年2月熊本県生まれ、家具店を経て安川電機製作所に就職、48年12月独立
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [3]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
    • [4]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
    • [5]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
  • 日経ビジネス 1990年9月10日号
    • [6]退職金は電気を引く費用で使い果たし、最初の注文は創業翌年の12月

三井孝昭氏はモーター用の金型に絞り、熱処理の後に全面を研削して仕上げる金型の製造販売を始めた。米国では1世帯当たり15台のモーターが使われ、日本は15世帯に1台だったため、三井孝昭氏はモーター用金型の需要増を見込んだ。当時の一般的な金型で打ち抜ける珪素鋼板の上限は100万枚、熱処理後に加工した金型では500万枚である。不況下の取引先は、値段・性能・納期のいずれかが格段に優れていれば発注すると答えた。三井孝昭氏はこの条件を受け、工数を3分の1、性能を3倍とする目標を掲げた。1954年3月には熱処理後総研削仕上げ金型の1号機を納入。売上高は1949年の50万円から、毎年40〜50%の割合で増えた。

  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [7]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [8]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [9]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [13]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
  • 日経ビジネス 1990年9月10日号
    • [10]取引先が示した発注条件(安さ・性能・納期)を受け、工数3分の1・性能3倍を目標とした
    • [11]取引先が示した発注条件(安さ・性能・納期)を受け、工数3分の1・性能3倍を目標とした
  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1954年3月に熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
参考文献[1]-[13]
  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年12月に独立、1949年1月に八幡市筒井町で金型の製造販売業を開始
    • [12]1954年3月に熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号
    • [2]三井孝昭氏は1921年2月熊本県生まれ、家具店を経て安川電機製作所に就職、48年12月独立
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [3]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
    • [4]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
    • [5]金型製造部門に配属、戦場で敵兵器のプレス加工(1分60個)を知る、熱処理先行の加工を提案し不採用
    • [7]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [8]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [9]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
    • [13]モーター用の金型を専門にオール研磨仕上げで製造販売、米1世帯15台対日本15世帯1台、100万枚→500万枚、1949年売上50万円・年40〜50%成長
  • 日経ビジネス 1990年9月10日号
    • [6]退職金は電気を引く費用で使い果たし、最初の注文は創業翌年の12月
    • [10]取引先が示した発注条件(安さ・性能・納期)を受け、工数3分の1・性能3倍を目標とした
    • [11]取引先が示した発注条件(安さ・性能・納期)を受け、工数3分の1・性能3倍を目標とした

1957年〜資本金150万円の株式会社三井工作所と、20倍もつタングステンカーバイド金型で達した1億円

三井孝昭氏は1957年4月、資本金150万円で株式会社三井工作所を設立した。上場時の資料では、設立年月日が1957年4月12日、形式上の設立日が1934年7月3日である。三井孝昭氏は法人化を、業容の発展に伴う個人企業からの改組と位置づけた。創業期の三井工作所は社歴が短く、東京や大阪の取引先からは九州の無名の業者として門前払いを受けた。三井孝昭氏は製品を持参して性能を高める方法について教えを乞う売り込みに切り替え、ようやく商談の糸口をつかんだ。売上高は1958年に5,000万円まで拡大した。社歴の短さからくる信用の薄さを補う上でも、株式会社の形態が要ったと推察される。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1957年4月に資本金150万円で株式会社三井工作所を設立
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [15]設立年月日 昭和32年4月12日(形式上昭和9年7月3日)、昭和32年4月に株式会社に改組
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [16]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [17]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [18]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [19]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円

三井工作所は1958年12月にタングステンカーバイド製のノッチング型を開発した。1959年5月には、モーターコア用の精密順送り金型の製造販売を開始。超硬金型の耐久性は、スチール製の金型の約20倍にあたる。研磨仕上げの金型は、取引先に請われるまま研磨のノウハウを明かしたため、5年ほどで同等品を自製され注文が急減していた。三井孝昭氏は1億枚以上を打ち抜ける超硬金型を国内で拡販するのは難しいとみて、モーターの普及した米国へ輸出した。米国の工場で三井工作所の金型が使われるのを視察した日本の業界首脳が、帰国後に改めて発注してきた。国内の家電量産期と重なり、受注残は一時3年分近くに積み上がった。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1958年12月タングステンカーバイド金型(ノッチング型)開発、1959年5月モーターコア用精密順送り金型の製造販売開始
    • [21]1958年12月タングステンカーバイド金型(ノッチング型)開発、1959年5月モーターコア用精密順送り金型の製造販売開始
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [22]1959年1月に従来のスチール金型の約20倍の耐性をもつタングステンカーバイド金型の量産化に成功
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [23]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [24]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [25]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [26]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く

三井工作所は1960年10月、八幡市小嶺に小嶺工場を新設した。小嶺工場はのちに本社と八幡事業所の所在地となった。小嶺は、創業地の筒井町と同じ八幡市内の地区だった。売上高は1958年の5,000万円から、創業10周年の1959年には1億円へ倍増した。超硬金型の開発から数年間、売上高はほぼ毎年倍のペースで増え続けた。1959年1月の超硬金型の量産化は、熱処理後に全面を研削する技術と並び、上場時にも金型事業の出発点に数えられた。1985年の上場時の本店所在地も、八幡西区小嶺980番地の1である。3年分近い受注残を消化するには、創業地の筒井町とは別に量産の拠点が要ったと思われる。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
    • [28]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
    • [29]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [30]1958年売上5,000万円、創業10周年の1959年に売上1億円、数年間は毎年倍々のペース
    • [31]1958年売上5,000万円、創業10周年の1959年に売上1億円、数年間は毎年倍々のペース
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [32]超硬金型量産化と総研磨技術で金型メーカーの基盤確立、本店所在地は八幡西区小嶺980番地の1
    • [33]超硬金型量産化と総研磨技術で金型メーカーの基盤確立、本店所在地は八幡西区小嶺980番地の1
参考文献[14]-[33]
  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1957年4月に資本金150万円で株式会社三井工作所を設立
    • [20]1958年12月タングステンカーバイド金型(ノッチング型)開発、1959年5月モーターコア用精密順送り金型の製造販売開始
    • [21]1958年12月タングステンカーバイド金型(ノッチング型)開発、1959年5月モーターコア用精密順送り金型の製造販売開始
    • [27]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
    • [28]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
    • [29]1960年10月に八幡市小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設、創業地は八幡市筒井町
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [15]設立年月日 昭和32年4月12日(形式上昭和9年7月3日)、昭和32年4月に株式会社に改組
    • [22]1959年1月に従来のスチール金型の約20倍の耐性をもつタングステンカーバイド金型の量産化に成功
    • [32]超硬金型量産化と総研磨技術で金型メーカーの基盤確立、本店所在地は八幡西区小嶺980番地の1
    • [33]超硬金型量産化と総研磨技術で金型メーカーの基盤確立、本店所在地は八幡西区小嶺980番地の1
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [16]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [17]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [18]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [19]業容の発展に伴い32年4月に株式会社三井工作所として発足、九州所在で知名度が低く信用が薄かった、製品持参で教えを乞う作戦に転換、1958年売上5,000万円
    • [23]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [24]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [25]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [26]研磨ノウハウの流出で5年ほどで注文急減、打ち抜き1億枚以上の超硬金型を米国へ輸出、訪米した業界首脳が帰国後発注、受注残は3年分近く
    • [30]1958年売上5,000万円、創業10周年の1959年に売上1億円、数年間は毎年倍々のペース
    • [31]1958年売上5,000万円、創業10周年の1959年に売上1億円、数年間は毎年倍々のペース

1961年〜自社用に開発した平面研削盤の外販と、ICリードフレーム打抜き金型の試作とシカゴ事務所

三井工作所は1961年4月に平面研削盤の量産に入り、社外への販売を始めた。平面研削盤は、金型の加工精度を高め作業を省力化する目的で、三井工作所が自社向けに開発していた機械だった。上場時の資料が記す販売の開始は、1961年5月である。三井孝昭氏は安川電機在職中から、一人前に育てるのに10年を要する金型職人の仕事を機械に置き換えられないかと考えていた。三井工作所は会社の目的にも、金型と並べて工作機械と工具の製造販売を掲げた。1998年の時点でも、三井ハイテックは金型と工作機械を手掛けていた。職人の技能を機械へ移す社内の工夫が、そのまま工作機械の商品になったのだろう。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1961年4月に平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [35]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
    • [36]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
    • [38]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [37]金型職人の育成に10年かかると知り、安川電機在職時から機械化を考えていた
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号
    • [39]1998年時点で金型、工作機械も手掛ける

三井工作所がICリードフレームを打ち抜くタングステンカーバイド製の試作金型を開発したのは、1966年5月である。三井孝昭氏は好調が続いて社内の緊張が緩んだとみて、次の開発商品を探した。カラオケやドライヤーの開発には成功したものの、一般消費者向けの販売と代金回収で行き詰まった。バーやスナックに置いたコイン式のカラオケは、店の経営者が1年ほどで代わるため集金が滞った。三井孝昭氏は真空管に代わって伸びるICに着目し、リードフレームを打ち抜く精密金型の開発を進め、1968年5月に成功させた。打ち抜き方式で作るコストは、フォト・エッチング方式で作る場合の10分の1にあたる。打ち抜き方式は、大量生産に適した製法でもあった。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1966年5月にICリードフレーム打抜き用のタングステンカーバイド試作金型を開発
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [41]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [42]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [43]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [44]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [46]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [45]超硬・超精密金型による打ち抜き方式でフォト・エッチング方式の10分の1のコスト

三井工作所は1966年8月、米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設した。三井工作所は国内で拡販の難しかった超硬金型を、モーターの普及した米国へ輸出した経験を持っていた。ICリードフレームも当時の国内には十分な需要がなく、三井孝昭氏は米国市場への売り込みに力を注いだ。テキサス・インスツルメント社が大量の注文を出し、その受注価格は1個7円20銭、1,000個で20ドルである。ICリードフレームを売り始めた時期を、有価証券報告書は1969年6月、上場時の資料は1970年3月と記載している。売上高は創業20周年に10億円を超え、創業10周年の1億円から10年で10倍に拡大した。

  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1966年8月に米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設、1969年6月ICリードフレームの製造販売を開始
    • [51]1966年8月に米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設、1969年6月ICリードフレームの製造販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [48]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [49]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [50]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [53]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [52]昭和45年3月にICリードフレームの製造販売を開始
参考文献[34]-[53]
  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1961年4月に平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
    • [40]1966年5月にICリードフレーム打抜き用のタングステンカーバイド試作金型を開発
    • [47]1966年8月に米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設、1969年6月ICリードフレームの製造販売を開始
    • [51]1966年8月に米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設、1969年6月ICリードフレームの製造販売を開始
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)
    • [35]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
    • [36]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
    • [38]金型の加工精度向上と作業の合理化・省力化のために自社開発していた平面研削盤を1961年5月に販売開始、会社の目的に工作機械・工具の製造販売
    • [45]超硬・超精密金型による打ち抜き方式でフォト・エッチング方式の10分の1のコスト
    • [52]昭和45年3月にICリードフレームの製造販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
    • [37]金型職人の育成に10年かかると知り、安川電機在職時から機械化を考えていた
    • [41]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [42]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [43]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [44]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [46]好調でだらけてきたため次の開発商品を模索、カラオケ・ドライヤー等は販売・回収で不成功、ICに着目しリードフレーム打ち抜き金型を開発し昭和43年5月に成功
    • [48]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [49]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [50]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
    • [53]超硬金型は米国へ輸出、IC用リード・フレームは国内需要不足で米国へ売り込みテキサス・インスツルメント社から1,000個20ドル(7円20銭)で大量受注、創立20周年に売上10億円
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号
    • [39]1998年時点で金型、工作機械も手掛ける

出典・参考

5件
出典・参考
  • 三井ハイテック 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 22(11) 1984年11月号 三井孝昭(社長)
  • 日経ビジネス 1990年9月10日号
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号
  • 証券 37(10) 1985年(新規上場会社紹介)

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