アマノ:横浜機器の設立とアマノへの改称
1945年〜第二会社・横浜機器への事業の移管
1945年8月15日、天野修一氏は三重工場で玉音放送を聞き、その場で全員を集めて工場の閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員で来ていた者に郷里へ帰るよう指導した。翌16日には本社へ戻って同じことを告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、残らない一般従業員にも所定の退職金を払うと伝えた。ほとんどの従業員が退職金を受け取って工場を去り、株式会社天野製作所には残務整理の数名を残すのみとなった。同年10月の第13回定時株主総会で天野氏は、8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字になったと報告している。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [1]1945年8月15日、天野修一は三重工場で玉音放送を聞き、直ちに全員へ工場閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員の者に帰郷を指導した
- [2]翌16日に本社で全従業員へ工場閉鎖を告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、退職する一般従業員にも所定の退職金を支払うと伝えた
- [3]ほとんどの従業員が退職金を受け取って退職し、株式会社天野製作所には残務整理に数名を要するのみとなった
- アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)
- [4]1945年10月の第13回定時株主総会で、終戦の8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字となったと報告された
再開は、旧会社を立て直すのではなく、別の会社を用意して行われた。1945年10月、天野氏は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情した。許可は得られたが、天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を置いて生産を行うことにした。集まってきた従業員へ仕事を与えると同時に、旧海軍軍人の民間転出を引き受けるという狙いもあり、1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社が設立された。旧軍人10数名と旧天野製作所からの人員を合わせた約30名での出発であった。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [5]1945年10月、天野修一は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情し、許可を得た
- [6]株式会社天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を設けてタイムレコーダーを生産することにした
- [8]横浜機器は旧軍人10数名と旧天野製作所から移った人員を合わせた約30名で発足した
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社を設立し、タイムレコーダー・タイムスタンプの製造を開始した
天野製作所を解散させたのは、戦時補償の打切りであった。1946年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税でこれを相殺する方法を採り、天野製作所は特別経理会社に指定されて新旧勘定を分離した。旧勘定は補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に残された設備と材料が横浜機器へ引き継がれた。1947年に資本金を560万円から180万円へ減資したうえ、1949年4月24日に解散の手続きを取り、1939年の設立以来の歴史を閉じた。解散に先立って天野氏は株主の株を個人として買い取り、従業員の持株には額面で、一般の持株には公開値段で応じている。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [9]1946年8月、政府は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税を設け、天野製作所は特別経理会社に指定されて1946年8月10日をもって新旧勘定を分離した
- [10]旧勘定は軍需補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に保有した設備・材料などが横浜機器へ引き継がれた
- [11]1947年2月に資本金を560万円から180万円へ減資し、1949年4月24日に株式会社天野製作所は解散の手続きを取った
- [12]解散に先立ち天野修一は株主の株を個人として買い取り、従業員持株者には額面で、一般の持株者には公開値段85円で応じた
参考文献[1]-[12]
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [1]1945年8月15日、天野修一は三重工場で玉音放送を聞き、直ちに全員へ工場閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員の者に帰郷を指導した
- [2]翌16日に本社で全従業員へ工場閉鎖を告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、退職する一般従業員にも所定の退職金を支払うと伝えた
- [3]ほとんどの従業員が退職金を受け取って退職し、株式会社天野製作所には残務整理に数名を要するのみとなった
- [5]1945年10月、天野修一は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情し、許可を得た
- [6]株式会社天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を設けてタイムレコーダーを生産することにした
- [8]横浜機器は旧軍人10数名と旧天野製作所から移った人員を合わせた約30名で発足した
- [9]1946年8月、政府は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税を設け、天野製作所は特別経理会社に指定されて1946年8月10日をもって新旧勘定を分離した
- [10]旧勘定は軍需補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に保有した設備・材料などが横浜機器へ引き継がれた
- [11]1947年2月に資本金を560万円から180万円へ減資し、1949年4月24日に株式会社天野製作所は解散の手続きを取った
- [12]解散に先立ち天野修一は株主の株を個人として買い取り、従業員持株者には額面で、一般の持株者には公開値段85円で応じた
- アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)
- [4]1945年10月の第13回定時株主総会で、終戦の8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字となったと報告された
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社を設立し、タイムレコーダー・タイムスタンプの製造を開始した
1950年〜代理店依存から市場調査に立つ直販への切替え
1950年の国有鉄道からの受注は、経営から離れていた天野氏を現場へ引き戻した出来事であった。同業のニデカが納めることになったという報告を受けたのは入札の2日前で、示された仕様書は競合品と形状が酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では満たせない項目を含んでいた。天野氏は、その仕様に合う製品を用意している相手は相応の経費をかけているとみて定価のまま入札し、一番札となった。受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件のもと、1日1台の工場が43台を昼夜兼行で仕上げた。この後、新三菱重工東京製作所や日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所と大口の受注が続いた。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [13]1950年5月、国有鉄道向け43台のタイムレコーダーを同業のニデカが納入する見込みとの報告を入札2日前に受けた。仕様書は競合品と酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では不可能な項目を含んでいた
- [14]天野修一は仕様に合致する製品を用意している競合は相応の経費をかけていると判断して定価どおりで入札し、一番札となった
- [15]受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件で、1日1台の生産ペースの工場が43台を昼夜兼行で仕上げて納入した
- [16]国有鉄道への納入後、新三菱重工東京製作所、日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所からタイムレコーダーおよびタイムスタンプの大口受注が続いた
天野氏は1951年に国際科学経営会議へ日本代表団の団長として参加し、欧米各地の工場を回って蒲田時代の理想工場という考えが誤りでなかったと確信して帰国した。しかし横浜機器は1951年下期に売上高が減少し、1952年には従業員への給与が遅配気味となり、下請への支払いにも事欠いて、天野氏が個人の信用で50万円を借り入れて充てるほどであった。原因は、旧天野製作所から供給されていた部品在庫が尽きて調達費が上がったことと、好況期に生産工程の改善に着手しなかったことにあった。天野氏は横浜機器を直接変えるより別に手本を作るほうが早いと考え、1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立した。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [17]1951年4月、天野修一はベルギーで開かれた国際科学経営会議に日本代表団の団長として参加し、欧米各地を視察して8月に帰国した
- [18]横浜機器は1951年下期に売上高が落ち込み、約57万円の赤字を計上した。1952年には給与が遅配気味となり、天野修一が個人の信用で銀行から50万円を借り入れて支払いに充てた
- [19]経営悪化の原因は、旧天野製作所から供給を受けていた部品在庫が底をついて部品を新規購入せざるをえずコストが上がったことと、売上と利益の上昇に気を取られて生産工程の改善に手を打たなかったことにあった
- [20]1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立し、リクレス・モイスレス・アマークなどの新規開発製品を横浜機器から移して生産・販売した
静岡県で市場調査が始まったのは1955年夏で、担当した販売企画係長の菅原正氏はその前の半年を文献の学習に費やしていた。発端は1954年末、天野氏が菅原氏に、1,000台、2,000台という規模で売り切れる販売組織の構築を命じたことにある。調査では戦前のタイムレコーダーがまだ現役であることを確かめ、直販にかかる経費は総売上高の0.5%以内で済むと読んだ。群馬・栃木・茨城・福島にも半年をかけて調べを広げ、従業員60〜70名規模の企業を販売対象とし、200〜300キロ圏まで直販で回れると判断した。直販は、勘ではなく調査で採算を確かめてから踏み出したものである。並行して販売奨励金制度が設けられ、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ考えを自社の営業へも当てた。基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる者も出た。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [21]1954年末、天野修一は販売企画係長の菅原正へ1,000台でも2,000台でも売れる組織を作るよう指示し、菅原は半年を学習に費やしたのち1955年夏から静岡県で市場調査を行った
- [22]静岡県の調査で直販経費が総売上高の0.5%以内に収まると見通し、群馬・栃木・茨城・福島の調査で従業員60〜70名規模の企業が販売対象になり、200〜300キロ圏でも直販体制が取れると判断した
- [23]販売奨励金制度は、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ発想を自社の営業へ適用し、給料・交通費などをその20〜25%から差し引いた額を奨励金として与えるものであった
- [24]販売奨励金制度により、基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる営業も出た
参考文献[13]-[24]
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [13]1950年5月、国有鉄道向け43台のタイムレコーダーを同業のニデカが納入する見込みとの報告を入札2日前に受けた。仕様書は競合品と酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では不可能な項目を含んでいた
- [14]天野修一は仕様に合致する製品を用意している競合は相応の経費をかけていると判断して定価どおりで入札し、一番札となった
- [15]受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件で、1日1台の生産ペースの工場が43台を昼夜兼行で仕上げて納入した
- [16]国有鉄道への納入後、新三菱重工東京製作所、日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所からタイムレコーダーおよびタイムスタンプの大口受注が続いた
- [17]1951年4月、天野修一はベルギーで開かれた国際科学経営会議に日本代表団の団長として参加し、欧米各地を視察して8月に帰国した
- [18]横浜機器は1951年下期に売上高が落ち込み、約57万円の赤字を計上した。1952年には給与が遅配気味となり、天野修一が個人の信用で銀行から50万円を借り入れて支払いに充てた
- [19]経営悪化の原因は、旧天野製作所から供給を受けていた部品在庫が底をついて部品を新規購入せざるをえずコストが上がったことと、売上と利益の上昇に気を取られて生産工程の改善に手を打たなかったことにあった
- [20]1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立し、リクレス・モイスレス・アマークなどの新規開発製品を横浜機器から移して生産・販売した
- [21]1954年末、天野修一は販売企画係長の菅原正へ1,000台でも2,000台でも売れる組織を作るよう指示し、菅原は半年を学習に費やしたのち1955年夏から静岡県で市場調査を行った
- [22]静岡県の調査で直販経費が総売上高の0.5%以内に収まると見通し、群馬・栃木・茨城・福島の調査で従業員60〜70名規模の企業が販売対象になり、200〜300キロ圏でも直販体制が取れると判断した
- [23]販売奨励金制度は、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ発想を自社の営業へ適用し、給料・交通費などをその20〜25%から差し引いた額を奨励金として与えるものであった
- [24]販売奨励金制度により、基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる営業も出た
1956年〜株式公開で建てた量産工場と対米進出
1956年10月1日、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械と改めた。合併は、空気系商品の販売を強化するには資本金100万円程度の別会社では足りず、開発の進むNR型タイムレコーダーの量産工場を建てる必要が生じたためであった。1958年7月23日、20万株を公開して東京証券市場での店頭売買が始まり、売出価格80円の株は初日に128円の値をつけた。天野氏が定めたのは、会社の伸びに歩調を合わせて工場を少しずつ建て、その資金を株式公開で集めた自己資金で賄うという方針であり、1956年から1966年にかけて増資を重ねて、借り入れをせずに菊名工場を建てていった。
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- [25]1956年10月、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械へ変更した
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [26]合併の理由は、空気系商品の販売強化に旧天野特殊機械の規模では対応できなくなったことと、NR型タイムレコーダーの量産工場の建設が必要になったことであった
- [27]1958年7月23日に日興証券を幹事証券として株式20万株を公開し東京証券市場で店頭売買が始まった。売出価格1株80円に対し初日に128円の初値をつけた
- [28]工場建設は企業の成長に応じて段階的に行い、その資金は株式を公開して調達する自己資金によるという方針が定められた
- [29]増資は1956年11月、1957年8月、1958年12月、1960年7月、1962年6月、1964年11月、1966年11月と繰り返され、借入金に頼らない菊名工場の建設が目指された
第一工場は1957年8月に着工して1958年5月に完成し、組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化することで、個人の能力差によらず同じ品質の製品を量産できる工場となった。数ヵ月遅れの1958年11月、動力を電力とし打刻を全自動化したNR型タイムレコーダーの生産が始まり、1961年3月期にはタイムレコーダー全数量の73.2%を占めるまでになった。販売では1957年7月に菅原氏が福岡支店長として赴任し、九州の代理店の反発を受けながら直販を強めた。当時はタイムレコーダーを従業員100〜200名以上の企業が使うものとする通念があったが、直販の営業は30〜50名規模の工場を目標に市場を開き、1959年にはシェアが50%に達した。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [30]本社第一工場は約1億円を投じて1957年8月に着工し1958年5月に完成した。柱のないフロアに組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化し、個人の能力差によらず同じ品質の量産を可能にした
- [31]1958年11月に全自動のNR型タイムレコーダーの生産を開始した。NR型がタイムレコーダー全数量に占める比率は1961年3月期に数量で73.2%、金額で77.5%に達した
- [32]1957年7月、菅原正が福岡支店長として赴任し、直販強化のための福岡支店設置に反発した九州の代理店を説得しながら直販を進めた
- [33]タイムレコーダーは従業員100〜200名以上の企業が使うものという通念があったなか、直販の営業は従業員30〜50名規模の工場を対象に市場を開拓し、1959年にタイムレコーダーのシェアは50%に達した
対米進出は、35%の輸入税と部品税に州税まで加わる価格の不利を引き受ける判断であった。天野氏は1962年5月に渡米し、同年11月に再び発って全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ。当時の米国市場はシンプレックスが7割を握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産しており、月1,500台の天野特殊機械に対して4.7倍の生産性であった。1964年8月、ニューヨーク州法人として資本金5万ドルでアマノ タイムシステムを設立し、これが海外法人の第1号となった。同月にはIBMと技術援助契約を結び、タイムレコーダー部門から退いた同社の200件以上の特許の使用権を得た。1966年6月に商号をアマノへ改め、1967年8月には東京証券取引所第一部へ昇格した。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [34]天野修一は1962年5月に渡米して各地を視察し、同年11月に再度渡米してニューヨーク支店設置の準備と代理店契約の締結を行い、全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ
- [35]当時の米国市場はシンプレックスが70%のシェアを握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産していた。アマノはタイムレコーダーとタイムスタンプ合計で月1,500台の生産であった
- [37]1964年8月にIBMと技術援助契約を結び、電算機に力を集中すべくタイムレコーダー部門の製造・販売を中止していた同社から200件以上の特許の使用権を取得した
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- [36]1964年7月、ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立した
- [38]1966年6月に商号をアマノへ変更し、1967年8月に東京証券取引所第一部へ上場した
参考文献[25]-[38]
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- [25]1956年10月、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械へ変更した
- [36]1964年7月、ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立した
- [38]1966年6月に商号をアマノへ変更し、1967年8月に東京証券取引所第一部へ上場した
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- [26]合併の理由は、空気系商品の販売強化に旧天野特殊機械の規模では対応できなくなったことと、NR型タイムレコーダーの量産工場の建設が必要になったことであった
- [27]1958年7月23日に日興証券を幹事証券として株式20万株を公開し東京証券市場で店頭売買が始まった。売出価格1株80円に対し初日に128円の初値をつけた
- [28]工場建設は企業の成長に応じて段階的に行い、その資金は株式を公開して調達する自己資金によるという方針が定められた
- [29]増資は1956年11月、1957年8月、1958年12月、1960年7月、1962年6月、1964年11月、1966年11月と繰り返され、借入金に頼らない菊名工場の建設が目指された
- [30]本社第一工場は約1億円を投じて1957年8月に着工し1958年5月に完成した。柱のないフロアに組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化し、個人の能力差によらず同じ品質の量産を可能にした
- [31]1958年11月に全自動のNR型タイムレコーダーの生産を開始した。NR型がタイムレコーダー全数量に占める比率は1961年3月期に数量で73.2%、金額で77.5%に達した
- [32]1957年7月、菅原正が福岡支店長として赴任し、直販強化のための福岡支店設置に反発した九州の代理店を説得しながら直販を進めた
- [33]タイムレコーダーは従業員100〜200名以上の企業が使うものという通念があったなか、直販の営業は従業員30〜50名規模の工場を対象に市場を開拓し、1959年にタイムレコーダーのシェアは50%に達した
- [34]天野修一は1962年5月に渡米して各地を視察し、同年11月に再度渡米してニューヨーク支店設置の準備と代理店契約の締結を行い、全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ
- [35]当時の米国市場はシンプレックスが70%のシェアを握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産していた。アマノはタイムレコーダーとタイムスタンプ合計で月1,500台の生産であった
- [37]1964年8月にIBMと技術援助契約を結び、電算機に力を集中すべくタイムレコーダー部門の製造・販売を中止していた同社から200件以上の特許の使用権を取得した
筆者考察
敗戦で天野製作所が失ったのは工場や資産だけではなく、事業を続ける会社そのものであった。戦時補償の打切りで特別経理会社に指定され、旧勘定は1,200万円の損失を抱えて整理へ向かう。そこで採られたのは旧会社の立て直しではなく、本社工場の敷地内に別会社を置いて生産だけを移すことだった。1945年11月に資本金15万円で設立された横浜機器は、旧軍人10数名を含む約30名で始まっている。会社を替えて事業を残すという手は、1953年に天野特殊機械という手本の会社を別に立て、1956年にそれを吸収合併して商号ごと受け取るまで、二度繰り返された。
事業の中身を替えたのは、会社の形ではなく売り方だった。代理店はタイプライターも文房具も扱い、客が求めれば届けるだけで市場を広げない。菅原正氏が静岡から関東北部、九州へと半年ずつ市場調査を重ねて確かめたのは、直販の経費が総売上高の0.5%に収まり、従業員30〜50名の工場にもタイムレコーダーが売れるという一点である。そこへNR型の量産工場を株式公開の資金で建て、1959年には国内シェア5割を確保した。国内で作った販売の型をそのまま米国へ持ち込み、1964年にアマノ・タイム・システムズを置いてIBMの特許を借りたのは、機械ではなく売り方のほうに勝算を見ていたからだろう。
- 1946年から1953年は横浜機器、1959年以降は天野特殊機械の人員。
- 出所はアマノ50年史(アマノ、1982年)および株式会社年鑑1959年版・1963年版。
1945年〜1967年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 18 | n/a | 3 | 16.7% | n/a |
出所:会社年鑑(1971年版)半期合算
出典・参考
3件
- アマノ 有価証券報告書【沿革】
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)