第1章 年〜年

アマノ:天野製作所の創業と国産タイムレコーダーの誕生

1931年〜原価計算の宿題から生まれた電気式タイムレコーダー

海軍の予算消化を疑い原価計算へ踏み込む

天野修一氏は、海軍技師として工廠の原価管理に行き当たったところからタイムレコーダーへ入った人物である。海軍技師として過ごした歳月は、およそ15年に及ぶ。1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村に生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となって、1909年の卒業後に技師として海軍に入った。大正初年に工務係長となると、年度末に予算を使い切らなければ翌年度分が減らされる慣行に疑問を持ち、工場庫での材料の中央管理と、工程別の所要時間を金額へ置き換える方式を試した。所要時間を測る道具として英国製のタイムスタンプを取り寄せたものの、すぐに故障した。これを改良するという着想は、退官するまで宿題として持ち越された。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [1]天野修一は1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村で生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となり、1909年の卒業後に海軍技師として約15年在籍した
    • [2]海軍工廠の工務係長時代に年度末の予算消化の慣行を不合理と考え、材料の中央管理と工程ごとの作業所要時間の金額換算を行った
    • [3]作業時間の計測のため英国からタイムスタンプを購入したが、使うとすぐ壊れた
壊れない機械という条件から電気式を選ぶ

天野氏が海軍を退いたのは1925年6月で、民間への転出を勧める上官と衝突したうえでの退官であった。1928年からは神奈川県藤沢の東京螺子製作所で工場長に就き、山梨高等工業学校でも精密機械講座を担当した。その前には名古屋の浅野木工場の技師長を1年足らずで辞め、岩手県宮古に設立した東洋ベニアも14ヵ月で閉じている。同じ時期には鉄道省の車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、商工省合理局の嘱託としてJISの前身にあたる規格の制定委員にも加わった。螺子工場の現場に接するうちに海軍時代の原価計算への関心がよみがえり、故障しない機械なら将来の役に立つとの考えから、ナンバリングとワーレンモーターの時計をマグネットでつなぐ電気式を構想した。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [4]天野修一は1925年6月に海軍を退官した。民間企業への転出を勧める上官と衝突した末の退官であった
    • [5]退官後は名古屋の浅野木工場の技師長、岩手県宮古の東洋ベニア設立を経て、1928年から東京螺子製作所(神奈川県藤沢)の工場長を務め、山梨高等工業学校で精密機械講座の講師も務めた
    • [6]1925年に鉄道省車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、1928年に商工省合理局嘱託としてJESの制定委員を務めた
    • [7]壊れない機械をつくるという発想から、ナンバリングとワーレンモーター使用の時計をマグネットで連結する電気式タイムレコーダーを構想した
資金3,000円を三つに割って冒険に踏み切る

天野氏が自ら経営を引き受けたのは、設計を譲った相手が立ち行かなくなったからであった。知人の牧師を介して東京・大崎で工場を営む人物へ設計を渡したところ、工員がいないというので東京螺子時代の工員を集めて補い、資金がないというので3,000円を貸したが、その金は生活費と借金返済で消えてしまった。世話をした工員への責任から、1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の町工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を興した。当時のタイムレコーダーは輸入品ばかりで国産化は一種の冒険であったため、天野氏は3,000円を設備・給与・予備へ1,000円ずつ割り、以後も社員を1名採るたびに1,000円を積み立てた。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [8]知人を介して東京・大崎の工場主へタイムレコーダーの設計を譲り、工員の補充と3,000円の貸与まで行ったが資金が費消され、天野修一自身が経営を引き受けた
    • [10]設立資金3,000円を設備資金・給与・予備に1,000円ずつ割り当て、以後も社員1名の採用ごとに1,000円を積み立てた
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)
    • [9]1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を創立した
参考文献[1]-[10]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [1]天野修一は1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村で生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となり、1909年の卒業後に海軍技師として約15年在籍した
    • [2]海軍工廠の工務係長時代に年度末の予算消化の慣行を不合理と考え、材料の中央管理と工程ごとの作業所要時間の金額換算を行った
    • [3]作業時間の計測のため英国からタイムスタンプを購入したが、使うとすぐ壊れた
    • [4]天野修一は1925年6月に海軍を退官した。民間企業への転出を勧める上官と衝突した末の退官であった
    • [5]退官後は名古屋の浅野木工場の技師長、岩手県宮古の東洋ベニア設立を経て、1928年から東京螺子製作所(神奈川県藤沢)の工場長を務め、山梨高等工業学校で精密機械講座の講師も務めた
    • [6]1925年に鉄道省車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、1928年に商工省合理局嘱託としてJESの制定委員を務めた
    • [7]壊れない機械をつくるという発想から、ナンバリングとワーレンモーター使用の時計をマグネットで連結する電気式タイムレコーダーを構想した
    • [8]知人を介して東京・大崎の工場主へタイムレコーダーの設計を譲り、工員の補充と3,000円の貸与まで行ったが資金が費消され、天野修一自身が経営を引き受けた
    • [10]設立資金3,000円を設備資金・給与・予備に1,000円ずつ割り当て、以後も社員1名の採用ごとに1,000円を積み立てた
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)
    • [9]1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を創立した

1932年〜商工省の国産奨励と海軍工廠の町に張った代理店網

試作を壊しながら第1号機を仕上げる

ゼンマイ仕掛けの時計部と機械式の印字部を備えた従来のタイムレコーダーと違い、天野方式はワーレンモーターの電気で動くため、カードを差し込むと強い力がかかって紙が裂け、時計と活字の連動も安定しなかった。天野氏は山田市作氏らと1ヵ月以上工場に泊まり込み、仕上がりかけた試作品をハンマーで壊したことも幾度もあった。出来上がった第1号機は、部品を集めて組むだけの機械ではなく作動方式から替えた製品で、タイムスタンプに出退時刻を記すカードの差込口を付けていた。1932年5月2日に特許を出願し、東京瓦斯電気へ納めた試作機は高く評価され、本生産では16台を1台280円で売った。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [11]従来のタイムレコーダーは時計部がゼンマイ式で印字部も機械式だったが、天野方式はワーレンモーターの電気で作動するため、カードの破損や時計と活字の連動不良が生じた
    • [12]山田市作ら数名とともに1ヵ月以上工場に泊まり込んで試作し、ほとんど完成した試作品を壊すことも一度や二度ではなかった
    • [13]1932年5月2日に特許を出願し、国産第1号機の試作品を東京瓦斯電気(現いすゞ自動車)へ納入して高い評価を得た
    • [14]東京瓦斯電気への納入後、1台280円で16台の本生産に入った
国産奨励の風に乗って輸入品を押し返す

国産化の時機は、天野製作所が選んだというより当時の政策が用意したものであった。当時のタイムレコーダーは、黒沢商会などがドイツのイスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製を輸入して扱っていたが、使っていたのはごく一部にとどまった。世の中では1927年の金融恐慌、1929年からの世界恐慌が続き、浜口内閣が臨時産業審議会を置いて企業の統制や能率の向上と並べて国産品を使うよう国民運動として訴えるなど、官も民も国産を口にしていた。そうしたなか国産第1号機の完成を知った商工省は、1932年11月、国産品の奨励と輸入を防ぐという国の方針にかなうとして製作を急ぐよう求めた。翌1933年8月に完成品が出されると、国産優良品として推薦している。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [15]日本では明治40年ごろから黒沢商会や小林捨次郎商店がドイツ・イスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製のタイムレコーダーを輸入販売していたが、これらの輸入品はごく一部で使用されていたにすぎなかった
    • [16]1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌を背景に、浜口内閣は臨時産業審議会を設け、企業統制・能率増進・産業金融の改善とともに国産品愛用を国民運動として呼びかけた
    • [17]商工省は1932年11月に個人会社天野製作所へ国産品奨励・輸入防止の国策に合致するとして製作を急ぐよう伝え、1933年8月に提出された完成品を国産優良品として推薦した
海軍工廠の町ごとに代理店を設置する

販路は、葉書1枚から作られた。天野氏は大阪方面へタイムレコーダーができたと書いた葉書を300枚出したが返事は2件で、機械2台とカードラックをかついで汽車に乗り、着いた先では次の機会にと言われて雨の中を歩いて帰ったという。1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年にはこれを解いて、支店設置の最初となる大阪販売所を自ら置いた。続いて呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山へ代理店が広がったが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地であり、需要の大半は軍関係が占めた。1935年には満州や朝鮮半島へも市場を広げ、天野氏自身が大陸へ渡って販売に当たっている。国産の競合はヤマトやニデカなど数社が現れ、生産量に大きな差はなかった。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [18]大阪方面へ葉書300枚を送る販売を試みたが返事は2件にとどまり、天野修一自身が機械2台とカードラックを運んで訪問した
    • [19]1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年に契約を解いて大阪市北区梅田新道にアマノタイムレコーダー大阪販売所を設けた。これが支店設置の最初であった
    • [20]呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山に代理店が置かれたが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地で、需要の大半は軍関係であった
    • [21]1935年には中国東北部(満州)や朝鮮半島へも市場を広げ、天野修一自身も大陸へ渡って販売活動を行った
    • [22]国産の競合はヤマト(原口電機製作所)、ニデカ(日本電気)、精工タイムレコーダーなどが現れ、主力3社の生産量に大差はなかった
参考文献[11]-[22]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [11]従来のタイムレコーダーは時計部がゼンマイ式で印字部も機械式だったが、天野方式はワーレンモーターの電気で作動するため、カードの破損や時計と活字の連動不良が生じた
    • [12]山田市作ら数名とともに1ヵ月以上工場に泊まり込んで試作し、ほとんど完成した試作品を壊すことも一度や二度ではなかった
    • [13]1932年5月2日に特許を出願し、国産第1号機の試作品を東京瓦斯電気(現いすゞ自動車)へ納入して高い評価を得た
    • [14]東京瓦斯電気への納入後、1台280円で16台の本生産に入った
    • [15]日本では明治40年ごろから黒沢商会や小林捨次郎商店がドイツ・イスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製のタイムレコーダーを輸入販売していたが、これらの輸入品はごく一部で使用されていたにすぎなかった
    • [16]1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌を背景に、浜口内閣は臨時産業審議会を設け、企業統制・能率増進・産業金融の改善とともに国産品愛用を国民運動として呼びかけた
    • [17]商工省は1932年11月に個人会社天野製作所へ国産品奨励・輸入防止の国策に合致するとして製作を急ぐよう伝え、1933年8月に提出された完成品を国産優良品として推薦した
    • [18]大阪方面へ葉書300枚を送る販売を試みたが返事は2件にとどまり、天野修一自身が機械2台とカードラックを運んで訪問した
    • [19]1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年に契約を解いて大阪市北区梅田新道にアマノタイムレコーダー大阪販売所を設けた。これが支店設置の最初であった
    • [20]呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山に代理店が置かれたが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地で、需要の大半は軍関係であった
    • [21]1935年には中国東北部(満州)や朝鮮半島へも市場を広げ、天野修一自身も大陸へ渡って販売活動を行った
    • [22]国産の競合はヤマト(原口電機製作所)、ニデカ(日本電気)、精工タイムレコーダーなどが現れ、主力3社の生産量に大差はなかった

1938年〜雷道計と菊名工場が進めた軍需への傾斜

資本金の半分を雷道計の開発に投じる

軍需への傾斜は、1933年5月に海軍航空技術廠から航空機試験装置の製作依頼を受けたところから始まった。翌1934年5月には海軍艦政本部から魚形水雷に用いる雷道計の研究開発を求められ、天野製作所は当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じてこれに応じた。開発に成功すると生産も任され、タイムレコーダーの生産余力を雷道計へ振り向けることになった。雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部にも装着されている。民生用の時間管理機器から出発した会社が、海軍の調達に深く組み込まれていった。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [23]1933年5月、海軍航空技術廠から航空機試験装置および部品の製作依頼を受けたことが、天野製作所が軍需会社化していく直接の契機となった
    • [24]1934年5月、海軍艦政本部から魚形水雷に使用する雷道計の研究開発の依頼を受け、当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じて研究開発を行った
    • [25]雷道計の開発成功後は海軍当局から生産も依頼され、タイムレコーダー生産の余力を雷道計の生産に充てた
    • [26]雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部に装着された
積み立てた定期預金で菊名の専門工場を建てる

菊名工場は、軍の機密を民需品と分けるために建てられた工場であった。海軍当局は、雷道計のような機密に属する機器をタイムレコーダーと同じ蒲田工場で生産すれば機密が漏れるとして、事実上の命令として別の場所へ軍需の専門工場を建てるよう申し入れた。天野製作所は1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建てた。会社設立と工場建設には約50万円を要したが、創業以来社員1名につき1,000円ずつ積み立ててきた定期預金が20数万円に達しており、不足分は第一銀行の明石照男頭取が融資に応じた。1939年、主力を菊名へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [27]海軍当局は、雷道計など軍機に属する機器を民需品と同じ蒲田工場で生産すると機密が漏れるとして、別の場所に軍需の専門工場を建設するよう申し入れた
    • [28]1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建設した
    • [29]会社設立と工場建設に約50万円を要し、社員1名の採用ごとの積立が20数万円に達していたうえ、不足分は第一銀行の明石照男頭取の融資でまかなった
    • [30]1939年に個人会社天野製作所の主力を菊名工場へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。営業目的は兵器および精密計器の製造販売であった
軍需会社の指定で主力製品を手放す

1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづく軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けてきたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造を中止した。指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、以後は会社経理も労務管理も政府の干渉を受けることになった。同年上期の営業報告書は、主要生産品目の製造を中止して設備を航空兵器へ転換したため売上高が直線的な伸びを失ったと記し、代わりに稼働を始めた三重工場への期待を述べている。従業員は1931年の4名から1944年には1,195名へ増えたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であった。会社に残されたのは民生用の事業ではなく軍需の生産体制であった。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [31]1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづき軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造中止に至った
    • [32]軍需会社の指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、指定後は会社経理・労務管理などすべての面で政府の干渉を受けた
    • [34]従業員数は1931年の4名から1944年には1,195名となり、うち約500名が徴用工・学徒動員・女子挺身隊であった
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
    • [33]1944年上期の営業報告書は、主要生産品目であったタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造を中止して設備を航空兵器の製造へ転換したため売上高が直線的向上を失ったと記し、稼働を始めた三重工場への期待を述べた
参考文献[23]-[34]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [23]1933年5月、海軍航空技術廠から航空機試験装置および部品の製作依頼を受けたことが、天野製作所が軍需会社化していく直接の契機となった
    • [24]1934年5月、海軍艦政本部から魚形水雷に使用する雷道計の研究開発の依頼を受け、当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じて研究開発を行った
    • [25]雷道計の開発成功後は海軍当局から生産も依頼され、タイムレコーダー生産の余力を雷道計の生産に充てた
    • [26]雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部に装着された
    • [27]海軍当局は、雷道計など軍機に属する機器を民需品と同じ蒲田工場で生産すると機密が漏れるとして、別の場所に軍需の専門工場を建設するよう申し入れた
    • [28]1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建設した
    • [29]会社設立と工場建設に約50万円を要し、社員1名の採用ごとの積立が20数万円に達していたうえ、不足分は第一銀行の明石照男頭取の融資でまかなった
    • [30]1939年に個人会社天野製作所の主力を菊名工場へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。営業目的は兵器および精密計器の製造販売であった
    • [31]1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづき軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造中止に至った
    • [32]軍需会社の指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、指定後は会社経理・労務管理などすべての面で政府の干渉を受けた
    • [34]従業員数は1931年の4名から1944年には1,195名となり、うち約500名が徴用工・学徒動員・女子挺身隊であった
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
    • [33]1944年上期の営業報告書は、主要生産品目であったタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造を中止して設備を航空兵器の製造へ転換したため売上高が直線的向上を失ったと記し、稼働を始めた三重工場への期待を述べた

筆者考察

天野修一氏が国産タイムレコーダーへ向かったのは、機械を作りたかったからではなく、作業時間を金額へ換算する手立てが海軍工廠になかったからである。予算を年度末に使い切らなければ翌年度を削られる慣行を不合理と考えた工務係長が、工程ごとの所要時間を計るために英国製のタイムスタンプを買い、それがすぐ壊れた。壊れない機械をつくるという条件から電気式という方式が選ばれ、1931年に資金3,000円・従業員4名の町工場が蒲田に置かれた。輸入品しかない市場へ国産で入るという判断は、恐慌下の商工省が国産品奨励を国策に掲げていた時機と重なり、1933年には国産優良品の推薦を受けている。

ところが、この会社を早く育てた条件が、そのまま主力製品を奪う条件にもなった。呉・舞鶴・門司と並んだ代理店はほとんどが海軍工廠の所在地にあり、需要の大半は軍関係だった。海軍から雷道計の開発を求められれば資本金の半分にあたる5万円を投じ、機密を民需品と分けよと言われれば菊名に専門工場を建てる。1944年に軍需会社の指定を受けたとき、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造は止まった。従業員は4名から1,195名へ膨らんでいたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であり、残ったのは民生用の事業ではなく軍需の生産体制であった。

天野製作所の従業員数 1931年〜1944年(名)

4 1931 34 1937 118 1939 207 1941 592 1942 1,195 1944
  • 1931年は個人会社天野製作所、1939年以降は株式会社天野製作所の人員。
  • 出所はアマノ50年史(アマノ、1982年)。

出典・参考

3件
出典・参考
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)

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