SWCC:東京電気からの昭和電線電纜の独立と東証上場
1936年〜東京電気が川崎・東渡田に建てた電線工場と、古河・住友・藤倉3社の経営参加
東京電気は1936年5月26日に川崎の本社で昭和電線電纜の創立総会を開催し、資本金100万円を全額出資。東京電気社長の山口喜三郎氏は1927年の就任直後から総合電機メーカーを目指す多角経営を掲げ、銅と電線の実務経験を背景に電線を重点分野とした。東京電気は1933年に川崎の堀川町工場へエナメル線工場を設け、自社で使う電線の少量生産を始めていた。東京電気は川崎にエナメル線の独立工場を建てる計画を保留し、自社用に加えて一般の需要にも応じる一貫電線メーカーを別に立てる方針へ切り替えた。元相談役の氏家竹之進氏は後年、急な需要や特殊な品種に他社の対応を待たずに済む点を電線自給の理由に挙げた。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「当社の誕生」
- [1]1936年5月26日、川崎市堀川町の東京電気で創立総会。資本金100万円は全額東京電気の出資
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「東京電気㈱多角経営を計画」
- [2]山口喜三郎は1927年6月に東京電気社長に就任し多角経営方針を発表。銅・電線の実務経験から電線に特に注力
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [3]東京電気は1933年に川崎に絶縁線研究室とエナメル線工場を新設し自社使用の電線の研究製造に着手
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「自社用電線の製造開始」
- [4]エナメル線独立工場の計画を保留。自社用のほか一般需要にも応じ全種の電線を製造販売する本格的電線会社が必要と判断
- [5]元相談役氏家竹之進は、急な需要や特殊品種に他社では対応してもらえないことを電線自給の理由に挙げた
昭和電線電纜は川崎市東渡田3丁目に約8万1,000m2の工場用地を取得した。社長の山口喜三郎氏が用地選びで求めたのは、豊富な水と鉄道の引込線、潮風の届かない海路の便の3条件である。芦の茂る低湿地だったため海砂と丘陵の土で計6尺を盛り、敷地の中央を流れる天飛川は用地の東側へ付け替えた。構内には100tの伝馬船6隻が向きを変えられる約700坪の船溜りと船入堀を掘り、鉄道省川崎支線から側線を引き込んだ。設備はドイツのクルップ社製の熱間圧延機を据え、裸線から被覆線・ケーブルまでの全工程を同じ構内に集めた。米国から輸入する銅と重い製品を船と貨車で直接出し入れする配置は、練銅から一貫で手がける後発メーカーに欠かせない条件だったと考えられる。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「川崎市東渡田に工場用地確保」「土盛工事と天飛川の移動」「船入堀の開削と側線の布設」
- [6]工場用地は川崎市東渡田3丁目、約8万1,000m2
- [7]山口社長は立地条件として水の豊富さ・鉄道引込線・潮風のない海路の便の3つを想定
- [8]低湿地に海砂4尺と丘陵の土2尺の計6尺を盛土し、天飛川を用地の東側に移設
- [9]100t伝馬船6隻が転回できる約700坪の船溜りと船入堀を開削し、鉄道省川崎支線から側線を布設
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [10]クルップ社製熱間圧延機を据え、裸線から被覆線・ケーブルまで全工程を同一構内に集中配置
建設中の1937年、住友電線製造所・古河電気工業・藤倉電線の3社が業界を代表し、昭和電線電纜へ業界の安定を求めて申し入れた。大陸の動乱が長引くなかで銅は電線業界の最重要資材となり、業界は自治統制で銅の需給を調整した。昭和電線電纜は銅の大半を米国から輸入する手配を済ませていたものの、申入れに応じて折衝を重ねた。1937年7月に3社の出資が決まり、持株率は東京電気37.5%、古河と住友が各23.4%、藤倉が15.7%となった。同年8月には資本金を750万円に増やし、3社から2名ずつ迎えて取締役8名・監査役4名の体制である。夏に第一工場のクルップ社製圧延機が月産1,000tで動き出し、10月に綿巻線、11月上旬に裸より線の製造に入った。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「社長交代」「業界3社,経営に参加」「増資と役員の増員」「操業開始」
- [11]1937年、住友・古河・藤倉の3社が業界を代表して業界の安定に関する申入れ
- [12]銅は電線業界の最重要資材で、大陸動乱下で業界は需給均衡のため自治統制意識が強かった
- [13]銅の大部分は米国から輸入手配済みで既に川崎港に到着していたが、申入れを応諾し折衝を重ねた
- [15]1937年8月に資本金750万円に増資、3社から各2名計6名を含む取締役8名・監査役4名が就任
- [16]1937年夏に第一工場が操業し圧延機は当面月産1,000t、10月に第二工場で綿巻線、11月上旬に裸より線の製造開始
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [14]1937年7月に古河・住友・藤倉の資本を入れ共同経営。持株率は東京電気37.5%、古河23.4%、住友23.4%、藤倉15.7%
参考文献[1]-[16]
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「当社の誕生」
- [1]1936年5月26日、川崎市堀川町の東京電気で創立総会。資本金100万円は全額東京電気の出資
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「東京電気㈱多角経営を計画」
- [2]山口喜三郎は1927年6月に東京電気社長に就任し多角経営方針を発表。銅・電線の実務経験から電線に特に注力
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [3]東京電気は1933年に川崎に絶縁線研究室とエナメル線工場を新設し自社使用の電線の研究製造に着手
- [10]クルップ社製熱間圧延機を据え、裸線から被覆線・ケーブルまで全工程を同一構内に集中配置
- [14]1937年7月に古河・住友・藤倉の資本を入れ共同経営。持株率は東京電気37.5%、古河23.4%、住友23.4%、藤倉15.7%
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「自社用電線の製造開始」
- [4]エナメル線独立工場の計画を保留。自社用のほか一般需要にも応じ全種の電線を製造販売する本格的電線会社が必要と判断
- [5]元相談役氏家竹之進は、急な需要や特殊品種に他社では対応してもらえないことを電線自給の理由に挙げた
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「川崎市東渡田に工場用地確保」「土盛工事と天飛川の移動」「船入堀の開削と側線の布設」
- [6]工場用地は川崎市東渡田3丁目、約8万1,000m2
- [7]山口社長は立地条件として水の豊富さ・鉄道引込線・潮風のない海路の便の3つを想定
- [8]低湿地に海砂4尺と丘陵の土2尺の計6尺を盛土し、天飛川を用地の東側に移設
- [9]100t伝馬船6隻が転回できる約700坪の船溜りと船入堀を開削し、鉄道省川崎支線から側線を布設
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「社長交代」「業界3社,経営に参加」「増資と役員の増員」「操業開始」
- [11]1937年、住友・古河・藤倉の3社が業界を代表して業界の安定に関する申入れ
- [12]銅は電線業界の最重要資材で、大陸動乱下で業界は需給均衡のため自治統制意識が強かった
- [13]銅の大部分は米国から輸入手配済みで既に川崎港に到着していたが、申入れを応諾し折衝を重ねた
- [15]1937年8月に資本金750万円に増資、3社から各2名計6名を含む取締役8名・監査役4名が就任
- [16]1937年夏に第一工場が操業し圧延機は当面月産1,000t、10月に第二工場で綿巻線、11月上旬に裸より線の製造開始
1938年〜第1次指定を受けた軍需会社と、終戦50日前に社長を継いだ藤井隣次氏の戦後処理
山口喜三郎氏は東京電気の経営に専念するため1937年7月に社長を退き、取締役の清水與七郎氏が第2代社長に就任した。第1期工事をほぼ終えて竣工式を挙行したのは1938年5月である。同年6月からは第三工場と350kVの試験設備を持つ超高圧研究所で低圧ケーブルを造り始め、順次高圧ケーブルへ広げた。同年末に仙台市電向けの22kV SLケーブルを納め、1939年末には日本鋼管向けにも22kV SLケーブルを納入した。大陸では1938年3月に京城と大連、1939年7月に天津と上海へ出張所を開設し、1939年5月には満州電線の経営にも出資して加わった。1938年までに裸線や被覆線から動力・通信のケーブルまで発売し、一流電線会社としての品ぞろえを整えた。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「社長交代」「業界3社,経営に参加」「増資と役員の増員」「操業開始」
- [17]1937年7月29日、山口喜三郎は東京電気社長の職務に専念するため退任し、取締役清水與七郎が第2代社長に就任
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「沼地が近代工場に変身」「電力ケーブルの製造」「大陸に営業・生産拠点」
- [18]1938年5月、第1期工事がほぼ完了し竣工式と会社披露
- [19]第三工場と350kV高圧試験設備を持つ超高圧研究所の完成で、1938年6月から低圧ケーブル、順次高圧ケーブルを製造
- [20]1938年末に仙台市電向け22kV SLケーブル、1939年末に日本鋼管向け22kV SLケーブルを納入
- [21]1938年3月京城・大連、1939年7月天津・上海に出張所開設。1939年5月満州電線に共同出資し経営参加
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [22]1937年に裸線・綿線・ゴム線・巻線、1938年に動力・通信ケーブルを発売し一流電線会社の面目を整えた
昭和電線電纜は1944年1月、政府が3次にわたって指定した軍需会社のうち、第1次の150社に含まれる。これに先立ち海軍電気工業会の電線部会に加わり、銅・鉛・錫などの統制資材の前渡しを受けて海軍向けの電線を造った。指定後は陸軍の軍用通信線、海軍の艦艇用電線、航空機用の整流子片を量産した。男子従業員の召集が続き、1944年8月以降は勤労動員の学徒と女子挺身隊を職場に迎えた。焼夷弾が多数投下された1945年4月15日の川崎空襲で従業員宿舎の大半を焼失しながら、工場は防衛隊の消火で被害を抑えて操業を続けた。太平洋戦争中の資本金は1940年12月の1,050万円から増えず、統制下で事業の拡大は止まった。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「軍需会社に指定される」「勤労動員学徒,女子挺身隊,職場に」「空襲下の生産」
- [23]政府は1944年に3次にわたり軍需会社を指定。当社は1月の第1次150社に含まれた
- [24]海軍電気工業会電線部会に加入。同会は発注と同時に銅・鉛・錫など統制資材を前渡し
- [25]指定後、陸軍軍用通信線・海軍艦艇用電線・航空機用整流子片を量産
- [26]男子従業員が相次ぎ召集。1944年8月以降、勤労動員学徒と女子挺身隊が配属
- [27]1945年4月15日の川崎空襲で焼夷弾が多数落下、従業員の防衛隊の活躍で工場被害は軽微、従業員宿舎はほとんど焼失。生産は継続
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [28]資本金は1937年8月750万円、1940年12月1,050万円。太平洋戦争中は統制下で見るべき発展なし
1944年に東京芝浦電気から取締役に転じた藤井隣次氏は、1945年6月に清水與七郎氏の後を継いで社長に就任した。就任から50日目に終戦を迎え、藤井隣次氏は戦時経営の後始末に取り組んだ。昭和電線電纜は1946年3月に制限会社、同年8月に特別経理会社の指定を受け、資産の自由な処分と従来の勘定を封じられた。並行して1947年に研究部でゴム電線の技術を転用して防振ゴムの製品化に着手し、同年末から東京芝浦電気小向工場へラジオ機器用などを納めた。1948年11月の減資と12月の増資で再建整備計画を終え、1949年3月に特別経理会社の指定を解かれた。藤井隣次氏は同年に製品を防振ゴム台と名づけ、研究と製造を除く業務を営業の各部門へ移し、同年6月にはパンフレットを作って全社で売り出した。
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [29]1944年に藤井隣次が東芝から入社、1945年6月社長に就任
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「藤井隣次社長に就任」
- [30]藤井隣次は1944年取締役、1945年6月清水社長退任の後を受け社長就任。就任50日目に終戦、戦後処理に直面
- 株式会社年鑑 1951年版「昭和電線電纜」
- [31]沿革: 1946年3月制限会社、同年8月特別経理会社に指定
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「制限会社指定と解除」「特別経理会社指定と解除」「ゴム電線技術から防振ゴム台を生産」
- [32]1947年研究部で防振ゴムの企業化に着手、同年末から東京芝浦電気小向工場にラジオ送受信機用等の防振ゴムを納入
- [33]1948年11月減資で資本金1,002万円、12月増資で3,000万円。1949年3月特別経理会社指定解除
- [34]1949年、藤井社長が防振ゴム台と命名。営業各部に業務を移し全社的展開
参考文献[17]-[34]
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「社長交代」「業界3社,経営に参加」「増資と役員の増員」「操業開始」
- [17]1937年7月29日、山口喜三郎は東京電気社長の職務に専念するため退任し、取締役清水與七郎が第2代社長に就任
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「沼地が近代工場に変身」「電力ケーブルの製造」「大陸に営業・生産拠点」
- [18]1938年5月、第1期工事がほぼ完了し竣工式と会社披露
- [19]第三工場と350kV高圧試験設備を持つ超高圧研究所の完成で、1938年6月から低圧ケーブル、順次高圧ケーブルを製造
- [20]1938年末に仙台市電向け22kV SLケーブル、1939年末に日本鋼管向け22kV SLケーブルを納入
- [21]1938年3月京城・大連、1939年7月天津・上海に出張所開設。1939年5月満州電線に共同出資し経営参加
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [22]1937年に裸線・綿線・ゴム線・巻線、1938年に動力・通信ケーブルを発売し一流電線会社の面目を整えた
- [28]資本金は1937年8月750万円、1940年12月1,050万円。太平洋戦争中は統制下で見るべき発展なし
- [29]1944年に藤井隣次が東芝から入社、1945年6月社長に就任
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「軍需会社に指定される」「勤労動員学徒,女子挺身隊,職場に」「空襲下の生産」
- [23]政府は1944年に3次にわたり軍需会社を指定。当社は1月の第1次150社に含まれた
- [24]海軍電気工業会電線部会に加入。同会は発注と同時に銅・鉛・錫など統制資材を前渡し
- [25]指定後、陸軍軍用通信線・海軍艦艇用電線・航空機用整流子片を量産
- [26]男子従業員が相次ぎ召集。1944年8月以降、勤労動員学徒と女子挺身隊が配属
- [27]1945年4月15日の川崎空襲で焼夷弾が多数落下、従業員の防衛隊の活躍で工場被害は軽微、従業員宿舎はほとんど焼失。生産は継続
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「藤井隣次社長に就任」
- [30]藤井隣次は1944年取締役、1945年6月清水社長退任の後を受け社長就任。就任50日目に終戦、戦後処理に直面
- 株式会社年鑑 1951年版「昭和電線電纜」
- [31]沿革: 1946年3月制限会社、同年8月特別経理会社に指定
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「制限会社指定と解除」「特別経理会社指定と解除」「ゴム電線技術から防振ゴム台を生産」
- [32]1947年研究部で防振ゴムの企業化に着手、同年末から東京芝浦電気小向工場にラジオ送受信機用等の防振ゴムを納入
- [33]1948年11月減資で資本金1,002万円、12月増資で3,000万円。1949年3月特別経理会社指定解除
- [34]1949年、藤井社長が防振ゴム台と命名。営業各部に業務を移し全社的展開
1949年〜東京証券取引所への上場と4都市の販売網と、資本金10億円で臨んだ154kVのOFケーブル
昭和電線電纜の株式は1949年5月に東京証券取引所へ上場し、持株会社整理委員会が保有株を従業員優先で一般に売り出した。同じ1949年5月には資本金を3,000万円から1億円に増資。ドッジ勧告後の金融の引締めで売掛金の回収が極端に悪化し、銅の価格差補給金の撤廃も業界の経営を揺さぶった。昭和電線電纜は1949年4月に大阪出張所を販売店へ格上げし、名古屋・仙台・福岡に出張所を新設して輸出部門も強化した。1950年3月には制限会社の指定も解かれ、同年4月末の拠点は東京・大阪の販売店と仙台・名古屋・福岡の出張所である。官公需に依存した販路を地方の需要家へ広げ、不況下の売上を支えようとしたのだろう。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「制限会社指定と解除」「特別経理会社指定と解除」「ゴム電線技術から防振ゴム台を生産」
- [35]1949年5月東京証券取引所に上場、持株会社整理委員会が株式を一般公開し従業員に優先権
- 株式会社年鑑 1951年版「昭和電線電纜」
- [36]沿革: 1949年1月資本金3,000万円、1949年5月資本金1億円に増資
- [39]1950年3月制限会社指定解除。1950年4月30日現在の拠点は東京販売店・大阪販売店・仙台/名古屋/福岡出張所、上場市場東京
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「企業再建整備の断行」
- [37]ドッジ勧告後の安定恐慌で売掛金回収が極端に悪化、銅の価格差補給金撤廃で経営体質の変革を迫られた
- [38]1949年4月、大阪出張所を販売店に昇格し名古屋・仙台・福岡に出張所を設置、輸出部門を強化
1950年6月の朝鮮戦争で特需が生まれ、電線業界の生産は1951年3月に月産8,000tに達した。昭和電線電纜の半期売上高は1950年4月期の555,974千円から10月期の1,204,173千円へ増えた。1951年4月期の1,935,139千円は、特需前の3倍を超える。1951年11月に資本金を2億円、1952年12月に5億円へ増資。1951年にはGE社とホルマールエナメル線の技術契約を結んで新しい焼付工場を建て、1953年に月産150tへ達した。1952年ごろにはGE社の技術でBNケーブルを製品化し、自己融着テープによる接続工法も講習会で広めた。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「好況への転機朝鮮特需」「相次ぐ増資で企業体質を強化」「GE社からの技術導入」
- [40]1950年6月朝鮮戦争勃発で特需。電線業界は1951年3月に月産8,000tに達した
- [43]1951年11月資本金2億円、1952年12月5億円に増資
- [44]1951年GE社とホルマールエナメル線の技術契約、新焼付工場を建設。1953年に月産150t
- [45]1952年ごろGE社からの技術導入でBNケーブルを開発、自己融着性セルボンテープの接続工法を講習会で普及
- 株式会社年鑑 1952年版「昭和電線電纜」
- [41]売上高 1950年4月期555,974千円、1950年10月期1,204,173千円
- [42]売上高 1951年4月期1,935,139千円
昭和電線電纜は1954年、東南アジアやオランダへの輸出が好調で、年間売上高が初めて60億円を超えた。同年10月には資本金を5億円から10億円に増やした。東京都内で154kVのOFケーブルの布設が予定されるなか、1955年5月に超高圧研究所へ増築したのが超高圧ホールの新館である。1958年には日本初の154kV OFケーブルである東京電力蔵前線の布設に、先発3社と並んで加わった。同年10月には住友・古河・藤倉の3社とともに、仏リヨン社から60μm以下の薄紙を使う超高圧ケーブルの技術を導入した。超高圧の研究はのちに相模原工場の試験設備群へ引き継がれ、送電の超高圧化への備えが工場新設を促したとみられる。
- 昭和電線電纜50年史(1986) 4章「資本金10億円に増資」「超高圧送電時代」「日本初の154kVOFケーブル東電蔵前線に参加」「リヨン社超高圧ケーブル薄紙技術の導入」
- [46]1954年、東南アジア・オランダへの輸出好調もあり年度売上高60億円突破、史上最高
- [48]東京都内で154kV OFケーブル布設が予定され、1955年5月に超高圧ホール新館を増築
- [49]1958年、日本初の154kV OFケーブル蔵前線に先発3社と並び参加。絶縁厚14mmに導体近傍の薄紙で対応
- [50]1958年10月、住友・古河・藤倉と共同でリヨン社から60μm以下の薄紙を使う超高圧ケーブル技術を導入。研究は後の相模原工場の超高圧試験設備群に結実
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [47]資本金は1952年12月5億円、1954年10月10億円に増額
参考文献[35]-[50]
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「制限会社指定と解除」「特別経理会社指定と解除」「ゴム電線技術から防振ゴム台を生産」
- [35]1949年5月東京証券取引所に上場、持株会社整理委員会が株式を一般公開し従業員に優先権
- 株式会社年鑑 1951年版「昭和電線電纜」
- [36]沿革: 1949年1月資本金3,000万円、1949年5月資本金1億円に増資
- [39]1950年3月制限会社指定解除。1950年4月30日現在の拠点は東京販売店・大阪販売店・仙台/名古屋/福岡出張所、上場市場東京
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「企業再建整備の断行」
- [37]ドッジ勧告後の安定恐慌で売掛金回収が極端に悪化、銅の価格差補給金撤廃で経営体質の変革を迫られた
- [38]1949年4月、大阪出張所を販売店に昇格し名古屋・仙台・福岡に出張所を設置、輸出部門を強化
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「好況への転機朝鮮特需」「相次ぐ増資で企業体質を強化」「GE社からの技術導入」
- [40]1950年6月朝鮮戦争勃発で特需。電線業界は1951年3月に月産8,000tに達した
- [43]1951年11月資本金2億円、1952年12月5億円に増資
- [44]1951年GE社とホルマールエナメル線の技術契約、新焼付工場を建設。1953年に月産150t
- [45]1952年ごろGE社からの技術導入でBNケーブルを開発、自己融着性セルボンテープの接続工法を講習会で普及
- 株式会社年鑑 1952年版「昭和電線電纜」
- [41]売上高 1950年4月期555,974千円、1950年10月期1,204,173千円
- [42]売上高 1951年4月期1,935,139千円
- 昭和電線電纜50年史(1986) 4章「資本金10億円に増資」「超高圧送電時代」「日本初の154kVOFケーブル東電蔵前線に参加」「リヨン社超高圧ケーブル薄紙技術の導入」
- [46]1954年、東南アジア・オランダへの輸出好調もあり年度売上高60億円突破、史上最高
- [48]東京都内で154kV OFケーブル布設が予定され、1955年5月に超高圧ホール新館を増築
- [49]1958年、日本初の154kV OFケーブル蔵前線に先発3社と並び参加。絶縁厚14mmに導体近傍の薄紙で対応
- [50]1958年10月、住友・古河・藤倉と共同でリヨン社から60μm以下の薄紙を使う超高圧ケーブル技術を導入。研究は後の相模原工場の超高圧試験設備群に結実
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」
- [47]資本金は1952年12月5億円、1954年10月10億円に増額
出典・参考
15件
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「当社の誕生」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「東京電気㈱多角経営を計画」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「自社用電線の製造開始」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「川崎市東渡田に工場用地確保」「土盛工事と天飛川の移動」「船入堀の開削と側線の布設」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 1章「社長交代」「業界3社,経営に参加」「増資と役員の増員」「操業開始」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「沼地が近代工場に変身」「電力ケーブルの製造」「大陸に営業・生産拠点」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「軍需会社に指定される」「勤労動員学徒,女子挺身隊,職場に」「空襲下の生産」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 2章「藤井隣次社長に就任」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「制限会社指定と解除」「特別経理会社指定と解除」「ゴム電線技術から防振ゴム台を生産」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「企業再建整備の断行」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 3章「好況への転機朝鮮特需」「相次ぐ増資で企業体質を強化」「GE社からの技術導入」
- 昭和電線電纜50年史(1986) 4章「資本金10億円に増資」「超高圧送電時代」「日本初の154kVOFケーブル東電蔵前線に参加」「リヨン社超高圧ケーブル薄紙技術の導入」
- 株式会社年鑑 1951年版「昭和電線電纜」
- 株式会社年鑑 1952年版「昭和電線電纜」
- 会社銀行八十年史(1955)「昭和電線電纜」