第1章 年〜年

フジクラ:藤倉電線護謨合名会社からの藤倉電線の分離設立と木場移転

1910年〜資本金50万円で切り出した電線部門と、深川平久町2万2000坪の新工場

1910年3月、藤倉電線護謨合名会社は電線とゴム引防水布の2事業を分け、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として発足させた。合名会社は社名と資本金20万円を据え置き、防水布の事業を続けた。新会社の株式1万株のうち8400株は藤倉一族の発起人が引き受け、残る1600株の公募で28名の株主が加わった。経営陣は専務取締役の松本留吉氏と常務取締役の岡田顕三氏が両社を兼ね、千駄谷を電線の工場とした。合名会社は東京府大崎町に新工場を建てて移り、岡田顕三氏が経営の実権を握った。分離の底流にあるのは、松本留吉氏の「一社一業」の信条である。売り先と設備の異なる事業を切り分けたことで、電線部門は増資と設備投資を単独で決められるようになったと推察される。

  • 藤倉電線社史(1973)「1電線とゴム事業の分離」
    • [1]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [3]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [4]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [5]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [6]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [7]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [2]1910年3月、時勢の進運に鑑み事業を二分し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線(株)として発足

1916年2月、藤倉電線は千駄谷工場の一角に前年末に建てた溶銅・圧延・伸線の新工場を稼働させた。それまで藤倉電線は編組から出発した経緯もあって伸線を手掛けず、主に古河鉱業の銅線を仕入れていた。銅線を古河鉱業から調達していた関係で、一時は古河との合併問題も持ち上がった。新工場の設備は反射炉1基・圧延機1台・焼鈍炉1基と十数台の製線機である。同じ年、ロシアから軍用線5万露里の注文を受け、藤倉電線は昼夜兼行で生産した。1916年7月には資本金を200万円へ増資。素材の銅線を自社で揃えることで、仕入れ先でもある同業の古河に原価と品質を左右される状態から離れようとしたのだろう。

  • 藤倉電線社史(1973)「海を越えて」
    • [8]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [9]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [10]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [11]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [12]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [13]1916年4月に熔銅・伸線・製線の作業を開始、同年7月に資本金200万円へ増資

1920年5月、藤倉電線は東京市深川区平久町に2万2000坪の土地を取得し、新工場の建設に着手した。千駄谷工場の敷地は1913年ごろに6350坪あまりまで広げており、深川の用地はその3倍を超える。同年7月の増資後の資本金は500万円である。深川工場は全体の完成を待たず、出来上がった設備から動かす方針をとり、1921年2月13日に溶銅工場が最初に作業を始めた。溶銅を先に移したのは、1920年秋に落成した明治神宮の神苑へ、千駄谷工場の煙が風向き次第で流れたためである。社長の松本留吉氏は溶銅工場の早期移転を指示し、同年5月11日には伸銅作業も始まった。煙の問題を機に、生産の中心を敷地の限られた千駄谷から広い深川へ移す判断が早まったと思われる。

  • 藤倉電線社史(1973)「3業界の競争激化」
    • [14]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [16]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [18]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [19]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [20]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [21]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [15]1920年に事業の発展を期して深川に本社・工場の建設に着手
  • 藤倉電線社史(1973)「海を越えて」
    • [17]大正初年の千駄谷工場の敷地は6350坪あまり(移転当初は1000坪未満)
参考文献[1]-[21]
  • 藤倉電線社史(1973)「1電線とゴム事業の分離」
    • [1]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [3]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [4]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [5]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [6]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
    • [7]1910年3月に合名会社は防水布事業を継続(資本金20万円)し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として分離。株式1万株中8400株を発起人、1600株を公募(株主28名)。専務松本留吉・常務岡田顕三。合名会社は大崎へ移り岡田顕三が実権。分離の底流に一社一業の信条
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [2]1910年3月、時勢の進運に鑑み事業を二分し、電線部門を資本金50万円の藤倉電線(株)として発足
    • [13]1916年4月に熔銅・伸線・製線の作業を開始、同年7月に資本金200万円へ増資
    • [15]1920年に事業の発展を期して深川に本社・工場の建設に着手
  • 藤倉電線社史(1973)「海を越えて」
    • [8]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [9]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [10]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [11]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [12]前年末千駄谷工場の一部に建設した溶銅・圧延・伸線の新工場が1916年2月に稼動。それまで伸線をせず主に古河鉱業の銅線を使用、一時古河との合併問題。反射炉・圧延機・焼鈍炉各1基と製線機十数台。ロシアの軍用線注文5万露里を昼夜兼行で生産
    • [17]大正初年の千駄谷工場の敷地は6350坪あまり(移転当初は1000坪未満)
  • 藤倉電線社史(1973)「3業界の競争激化」
    • [14]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [16]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [18]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [19]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [20]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始
    • [21]1920年5月深川区平久町に2万2000坪を買収し新工場建設に着手、同年7月資本金500万円。1921年2月13日溶銅工場が作業開始(出来た所から稼動させる方針)。明治神宮の神苑に千駄谷の煙が吹きつけるため松本留吉社長が溶銅工場移転を指示。5月11日伸銅作業開始

1923年〜関東大震災で全滅した深川工場と、山口県電気局が採った44キロボルトのケーブル

1923年1月、藤倉電線は深川の本社事務所を竣工させ、本社と工場の移転を終えた。9月1日の関東大震災の時点で、深川工場は建物がすべて完成し、機械設備の移転も8割方済んでいた。地震による直接の被害は煙突2本の折損などにとどまり、人的被害も無かった。ところが午後6時ごろ洲崎弁天町で起きた火災が風向きの変化で工場へ広がった。事務所・研究所・溶銅工場・ゴム工場など約7500坪の建物は午前0時前に焼け落ち、焼け残りはケーブル工場と材料倉庫の一部、格納庫のみ。一方、千駄谷工場は煉瓦塀の一部が倒れた程度で、深川へ移さずに残した機械設備も無事だった。移転を終えた直後だったため、焼失は新設備のほぼ全体に及び、手元に残った生産能力は千駄谷の旧設備に限られたとみられる。

  • 藤倉電線社史(1973)「1火の海の記録」
    • [22]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [24]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [25]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [26]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [27]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [29]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [23]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微
    • [28]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微
    • [30]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微

震災後、社長の松本留吉氏は千駄谷に残った設備を最大限に使い、深川の工員をいったん全員解雇し、職員の大部分を休職とする方針を示した。9月18日には常務の岡田顕三氏が千駄谷工場主任に任命された。復興の資金は、第一次世界大戦後に海外から取り消されて倉庫に保管していた電灯線を、震災復興向けに現金で売却した代金が支えた。この間、関西に工場を持つ住友は9月6日から逓信省・鉄道省・東京市電・東京電燈と受注交渉を始め、全国のケーブル需要をほぼ一手に受注した。深川のケーブル工場は11月に稼働し、1924年3月の本社事務所竣工で復旧を終えた。藤倉電線のケーブル工場が止まっていた9月から11月までに、住友は関東の大口需要家との取引を押さえた。官需の大口を扱うケーブル工場の再建を最優先にした背景には、この住友の関東進出への危機感があったと考えられる。

  • 藤倉電線社史(1973)「1火の海の記録」
    • [31]震災後の松本留吉社長の善後策:千駄谷の設備を最大限活用、深川の工員は一応全員解雇・職員大部分休職、焼け残り機械を千駄谷へ、ケーブル工場修理を急ぐ
  • 藤倉電線社史(1973)「2復興はしたけれど」
    • [32]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [33]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [34]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [35]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [37]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [36]1923年11月ケーブル工場・製線工場の操業開始、1924年3月に一切の復旧工事完了

1932年、山口県電気局が44キロボルトの電力ケーブルの購入を公示し、藤倉電線・古河・住友の3社が受注を争った。3社は種類の異なるケーブルを持ち込み、藤倉電線はSLケーブル、古河はHケーブル、住友はOFケーブルを提案した。長期の交渉の末、山口県電気局が採用したのは藤倉電線のSLケーブルである。社史は採用の理由として、44キロボルト程度では高価なOFケーブルは不要で、Hケーブルには不安が残った点を挙げる。SLケーブルは1933年までに宇部第二発電所と変電所の間に布設され、この納入が宇部炭坑との長い取引の始まりとなった。藤倉電線はSL型電纜やOFケーブルなどの高級品を相次いで製造品目に加えた。財閥を背景に持つ2社との競争では、需要家の電圧に見合う品種を選ぶ提案力が競争の焦点になったと考えられる。

  • 藤倉電線社史(1973)「1決戦--山口県電」
    • [38]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [39]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [40]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [41]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [42]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [43]震災復旧後、SL型電纜・OFケーブル・藤光線などの高級品を次々に製造
参考文献[22]-[43]
  • 藤倉電線社史(1973)「1火の海の記録」
    • [22]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [24]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [25]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [26]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [27]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [29]1923年1月本社事務所竣工移転、震災時深川工場は建物全部完成・機械移転8分通り。地震被害は煙突2本折損等で軽微。夕刻洲崎弁天町の火災が延焼し約7500坪の建物が深夜までに焼失、残存はケーブル工場・材料倉庫の一部と格納庫。千駄谷工場は健在で未移転の機械設備が残存
    • [31]震災後の松本留吉社長の善後策:千駄谷の設備を最大限活用、深川の工員は一応全員解雇・職員大部分休職、焼け残り機械を千駄谷へ、ケーブル工場修理を急ぐ
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [23]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微
    • [28]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微
    • [30]1923年1月深川の本社・工場が完成し移転、同年の大震災で全滅。千駄ケ谷工場は被害軽微
    • [36]1923年11月ケーブル工場・製線工場の操業開始、1924年3月に一切の復旧工事完了
    • [43]震災復旧後、SL型電纜・OFケーブル・藤光線などの高級品を次々に製造
  • 藤倉電線社史(1973)「2復興はしたけれど」
    • [32]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [33]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [34]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [35]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
    • [37]9月18日岡田常務が千駄谷工場主任に。大戦後キャンセルされ保管の電灯線を復興向けに現金販売し復興資金に。住友は9月6日から大手需要家と交渉しケーブル需要をほぼ受注、3か月で関東の地盤確立。11月ケーブル工場稼動、1924年3月本社事務所竣工で完全復旧
  • 藤倉電線社史(1973)「1決戦--山口県電」
    • [38]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [39]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [40]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [41]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒
    • [42]1932年山口県電気局の44kV電力ケーブル購買に藤倉(SL)・古河(H)・住友(OF)が競い藤倉のSLケーブルを採用。44kV程度ではOFは不要、Hは不安という理由。1933年まで宇部第二発電所〜変電所間に布設、宇部炭坑との取引の端緒

1935年〜藤倉式高周波同軸ケーブルと、深川の戦災を越えて残った富士工場

藤倉電線は1933年に同軸ケーブルの開発に着手した。欧米の電線メーカーは1931年から1932年にかけて開発を競い、国内にはまだ実用に耐える構造が無かった。開発を担当したのは、製造部長の木村介次氏の指示を受けた専門の異なる技術者たちである。電力ケーブル担当の牧実氏は、ラセン状の金属支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案した。新構造に合う製造機は、工作課の安岡一十四氏が数か月で完成させた。製品は藤倉式高周波同軸ケーブルと名付けられ、1935年7月に導体、1937年12月に製造機の特許を得た。のちに米・英・仏・独・伊・オランダ・オーストラリアの7か国でも特許を取得し、藤倉型同軸ケーブルは藤倉電線の技術陣の評価を高めた。

  • 藤倉電線社史(1973)「3藤倉式高周波同軸ケーブル」
    • [44]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [45]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [46]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [47]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [48]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
  • 藤倉電線社史(1973)「ーブルの成果」
    • [49]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
    • [50]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
    • [51]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [52]藤倉型同軸ケーブル等が技術陣の声価を高めた

1938年3月、社長の松本留吉氏が71歳で死去し、長男の松本新太氏が2代社長に就任した。松本留吉氏は1901年に藤倉電線護謨合名会社の代表社員となって以来、38年にわたり会社を率いた。松本新太氏は京都帝国大学理学部物理学科の出身で、就任時は46歳。松本新太氏は常務の岡田顕三氏を相談相手とし、父の手堅い経営方針を引き継いだ。同年4月には松本留吉氏が準備を終えていた藤倉鉱業を自ら社長として発足させ、9月には資材の自給を目指す藤倉化学工業を藤倉工業と共同で設立した。1937年の日華事変以降、銅使用制限規則などが公布され、原料銅は従来の実績に応じた配給制に移った。統制で規格と需要家が固定されるなか、資材を系列会社で賄う体制づくりは、自社技術で差を保つための手立てだったと思われる。

  • 藤倉電線社史(1973)「4準戦時体制下の発展」
    • [53]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [55]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [56]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [57]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [58]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [54]1938年3月松本留吉社長逝去により松本新太が2代社長に就任
  • 藤倉電線社史(1973)「5国家の命運とともに」
    • [59]1937年日華事変以降、軍需工業動員法・銅使用制限規則等が公布、電線原料銅配給統制協会により実績に従い原料銅を配給。統制で規格統一・需要家固定

1944年4月、藤倉電線は軍部の仲介で静岡県富士郡富士根村の王子製紙富士第二工場を借り受け、深川工場の一部を疎開させた。ゴム線・巻線・航空機用電線の製造機械を移し、深川の従業員の一部が転任した。1945年3月9日夜の空襲で深川工場は焼け、残業者や社宅の家族などから百数十名の犠牲者が出た。戦災直後に生産の続行を決め、深川の焼け残りの機械を運んで生産の主力を富士工場へ移した。終戦後の9月には生産の再開を決め、通信線の製造を優先する方針を定めた。1946年2月に深川、3月に富士で、第二製造課長の木野二郎氏らを中心に工場の再建と生活の安定を掲げた従業員組合が結成された。

  • 藤倉電線社史(1973)「電線創立と工場疎開」
    • [60]1944年4月、軍部の仲介で静岡県富士郡富士根村の王子製紙富士第二工場を借り、深川工場の一部を疎開
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [61]1944年4月王子製紙富士第二工場を借用し富士工場として生産施設を疎開、1945年3月深川工場が戦火で焼失
    • [64]1944年4月王子製紙富士第二工場を借用し富士工場として生産施設を疎開、1945年3月深川工場が戦火で焼失
  • 藤倉電線社史(1973)「6大いなる破局」
    • [62]ゴム線巻線・航空機用電線などの製造機械を富士へ移転し一部従業員が転任。1945年3月9日夜の空襲で深川工場焼失、百数十名の犠牲者
    • [63]ゴム線巻線・航空機用電線などの製造機械を富士へ移転し一部従業員が転任。1945年3月9日夜の空襲で深川工場焼失、百数十名の犠牲者
  • 藤倉電線社史(1973)「1はばたく不死鳥」
    • [65]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)
    • [66]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)
    • [67]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)
参考文献[44]-[67]
  • 藤倉電線社史(1973)「3藤倉式高周波同軸ケーブル」
    • [44]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [45]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [46]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [47]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
    • [48]欧米メーカーは1931〜32年に同軸ケーブル開発、藤倉は1933年に着手。国内に実用構造なし。製造部長木村介次の指示で開発、牧実がラセン状支持体の中心に導体を糸で保持する構造を考案、製造機を工作課安岡一十四に命じる
  • 藤倉電線社史(1973)「ーブルの成果」
    • [49]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
    • [50]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
    • [51]製造機は数か月で完成。藤倉式高周波同軸ケーブルと命名、1935年7月牧実の電気通信導体、1937年12月安岡一十四の製造機が特許。のち7か国で特許取得
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」
    • [52]藤倉型同軸ケーブル等が技術陣の声価を高めた
    • [54]1938年3月松本留吉社長逝去により松本新太が2代社長に就任
    • [61]1944年4月王子製紙富士第二工場を借用し富士工場として生産施設を疎開、1945年3月深川工場が戦火で焼失
    • [64]1944年4月王子製紙富士第二工場を借用し富士工場として生産施設を疎開、1945年3月深川工場が戦火で焼失
  • 藤倉電線社史(1973)「4準戦時体制下の発展」
    • [53]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [55]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [56]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [57]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
    • [58]松本留吉が71歳で逝去、1901年から38年間主宰。長男松本新太(京都帝大理学部物理学科、取締役総務部長、46歳)が社長就任。常務岡田顕三を相談相手に父の方針を継承。4月藤倉鉱業を自ら社長で発足、9月藤倉工業と共同で藤倉化学工業を発足
  • 藤倉電線社史(1973)「5国家の命運とともに」
    • [59]1937年日華事変以降、軍需工業動員法・銅使用制限規則等が公布、電線原料銅配給統制協会により実績に従い原料銅を配給。統制で規格統一・需要家固定
  • 藤倉電線社史(1973)「電線創立と工場疎開」
    • [60]1944年4月、軍部の仲介で静岡県富士郡富士根村の王子製紙富士第二工場を借り、深川工場の一部を疎開
  • 藤倉電線社史(1973)「6大いなる破局」
    • [62]ゴム線巻線・航空機用電線などの製造機械を富士へ移転し一部従業員が転任。1945年3月9日夜の空襲で深川工場焼失、百数十名の犠牲者
    • [63]ゴム線巻線・航空機用電線などの製造機械を富士へ移転し一部従業員が転任。1945年3月9日夜の空襲で深川工場焼失、百数十名の犠牲者
  • 藤倉電線社史(1973)「1はばたく不死鳥」
    • [65]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)
    • [66]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)
    • [67]戦災直後に生産続行を決め焼け残り機械を運び富士工場に重点を移す。1945年9月生産再開を決定し通信線優先。1946年2月深川・3月富士に木野二郎らを中心に従業員組合結成(工場再建・生活安定のため)

出典・参考

14件
出典・参考
  • 藤倉電線社史(1973)「1電線とゴム事業の分離」
  • 藤倉電線社史(1973)「海を越えて」
  • 藤倉電線社史(1973)「3業界の競争激化」
  • 藤倉電線社史(1973)「1火の海の記録」
  • 藤倉電線社史(1973)「2復興はしたけれど」
  • 藤倉電線社史(1973)「1決戦--山口県電」
  • 藤倉電線社史(1973)「3藤倉式高周波同軸ケーブル」
  • 藤倉電線社史(1973)「ーブルの成果」
  • 藤倉電線社史(1973)「4準戦時体制下の発展」
  • 藤倉電線社史(1973)「5国家の命運とともに」
  • 藤倉電線社史(1973)「電線創立と工場疎開」
  • 藤倉電線社史(1973)「6大いなる破局」
  • 藤倉電線社史(1973)「1はばたく不死鳥」
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「藤倉電線」

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