第1章 年〜年

横浜ゴム:横濱護謨製造の設立と空襲による横浜工場の全焼

1917年〜古河系の横濱電線が提携した資本金250万円の日米折半合弁と、平沼工場の角耳ベルト

横濱電線製造は1914年、ゴム被覆電線で得た加工の経験を工業用ゴム製品へ広げる多角化を計画した。発端は1913年の不況による経営不振で、古河合名会社は再建のために中川末吉氏を横濱電線製造へ出向させた。横濱電線製造は1908年に古河鉱業会社が株式の52%を取得して以降、古河系の電線会社である。電線業界の不振を打開するため、既存の設備で鉛とゴムの加工を副業にする構想も立てられた。当時の国内市場ではゴム製品の60%を輸入品が占め、国産品は粗悪品が多かった。のちに2代目社長となる中川末吉氏らは、参入するなら国内でまだ製造できない高級品に絞るべきだと判断した。輸入品の比率の高さは、品質で輸入品を置き換えれば国内で需要を獲得できる余地を示していたとみられる。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横濱電線製造株式会社とゴム工業」
    • [1]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [2]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [3]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [5]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [6]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [4]電線業界の不振の打開策として横浜電線製造の設備で鉛とゴムの加工を副業とする構想が立った

横濱電線製造は1917年10月13日、米国のB.F.グッドリッチと株式を50%ずつ持ち合う横濱護謨製造を資本金250万円で設立した。グッドリッチは、アクロン市で創業し、東洋に製造工場を建てる構想を持つ米国4大ゴム会社の1社である。横濱電線製造の多角化計画を知ったグッドリッチから共同工場の案が持ち込まれ、1917年9月に両社は設立覚書を交わした。覚書の定めは、技術をグッドリッチが提供し、経営を古河財閥が担う分担。中島久萬吉氏が初代の取締役会長となり、同年12月1日に商標〈ダイヤモンドY〉で営業を始めた。営業の開始にあたっては、グッドリッチの東京・大阪両支店を継承した。高級品の製造技術を自前で持たない以上、技術と販路を一度に得られる折半出資が最短の手段だったのだろう。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「注目された日・米合弁の新会社」
    • [7]1917年10月13日に資本金250万円・横濱電線製造とG社が50%ずつ出資で横濱護謨製造を設立。会長は中島久萬吉、12月1日に商標ダイヤモンドYで営業開始
    • [11]1917年10月13日に資本金250万円・横濱電線製造とG社が50%ずつ出資で横濱護謨製造を設立。会長は中島久萬吉、12月1日に商標ダイヤモンドYで営業開始
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「外国技術を導入」
    • [8]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
    • [9]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
    • [10]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [12]グ社が製造技術、古河合名が経営を担当し、1917年12月にグ社の東京・大阪両支店を継承して発足

横濱護謨製造は横浜市平沼町に用地を確保し、1918年7月に平沼工場の建設に着手した。1920年にはグッドリッチから各部門の技術者を迎えて試作を始め、1921年11月には日本人だけでの操業に切り替えた。1921年に本格操業に入った平沼工場は、ベルト・ホース・パッキングを「ハマタウン印」などの銘柄で出荷した。技術陣が開発した角耳ベルトの採用先は、皮革ベルトを使っていた紡績業界である。グッドリッチも最高級品「ハイフレックス」の設計に角耳の構造を取り入れ、米英の同業各社にも広まった。タイヤでは1921年にコードタイヤの生産を始め、「ハマタウン・コード」の名で国内初のコードタイヤとした。角耳ベルトの構造が相手先の製品に採り入れられたことから、合弁は技術を受け取るだけの関係にとどまらなかったと考えられる。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「日本ではじめてコードタイヤを生産」
    • [13]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
    • [15]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
    • [18]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [14]1920年5月にグ社技術者の参加で試作開始、1921年3月にベルト等の本格作業、11月に日本人のみで操業する態勢を確立
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「角耳ベルトを開発,欧米へ逆輸出」
    • [16]角耳ベルトが紡績業界に採用され、G社がハイフレックスに採用、米英のゴム会社にも広まった
    • [17]角耳ベルトが紡績業界に採用され、G社がハイフレックスに採用、米英のゴム会社にも広まった
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「震災禍をはねかえした努力の結晶」
    • [19]国内初のコードタイヤをハマタウン・コードの名称で製造。販売競争相手はダンロップとグッドイヤー
参考文献[1]-[19]
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横濱電線製造株式会社とゴム工業」
    • [1]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [2]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [3]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [5]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
    • [6]1913年の不況で経営不振の横濱電線製造へ1914年に古河合名が中川末吉を出向させ、ゴム被覆電線の経験から工業用ゴムの製品化を企画。当時ゴム製品の60%は輸入品
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [4]電線業界の不振の打開策として横浜電線製造の設備で鉛とゴムの加工を副業とする構想が立った
    • [12]グ社が製造技術、古河合名が経営を担当し、1917年12月にグ社の東京・大阪両支店を継承して発足
    • [14]1920年5月にグ社技術者の参加で試作開始、1921年3月にベルト等の本格作業、11月に日本人のみで操業する態勢を確立
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「注目された日・米合弁の新会社」
    • [7]1917年10月13日に資本金250万円・横濱電線製造とG社が50%ずつ出資で横濱護謨製造を設立。会長は中島久萬吉、12月1日に商標ダイヤモンドYで営業開始
    • [11]1917年10月13日に資本金250万円・横濱電線製造とG社が50%ずつ出資で横濱護謨製造を設立。会長は中島久萬吉、12月1日に商標ダイヤモンドYで営業開始
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「外国技術を導入」
    • [8]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
    • [9]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
    • [10]東洋に製造工場を望んだB.F.グッドリッチが共同工場案を持ち込み、1917年9月に技術はG社・経営は古河財閥で設立覚書を交換
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「日本ではじめてコードタイヤを生産」
    • [13]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
    • [15]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
    • [18]1918年7月平沼町で工場建設着工、1921年本格操業しベルト・ホース・パッキングをハマタウン印で出荷。1921年にコードタイヤ生産開始
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「角耳ベルトを開発,欧米へ逆輸出」
    • [16]角耳ベルトが紡績業界に採用され、G社がハイフレックスに採用、米英のゴム会社にも広まった
    • [17]角耳ベルトが紡績業界に採用され、G社がハイフレックスに採用、米英のゴム会社にも広まった
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「震災禍をはねかえした努力の結晶」
    • [19]国内初のコードタイヤをハマタウン・コードの名称で製造。販売競争相手はダンロップとグッドイヤー

1923年〜関東大震災で全壊した平沼工場と、鶴見の6165坪に建てた横浜工場

1923年9月1日の関東大震災で平沼工場は全壊し、従業員など24名が犠牲になった。平沼工場の操業期間は2年数カ月。震災前の1923年前半には、ダンロップ・グッドイヤーを交えた3社のタイヤ販売競争が一段落した。工場と東京支店の損害額は230万円に及び、本社を古河合名の社内へ移し、大阪支店を臨時の営業拠点に充てた。震災3日後の緊急取締役会は、グッドリッチ製品を輸入販売して当面の窮地を乗り切る方針を決めた。工場の復旧にはグッドリッチが反対し、古河合名の説得を経て再建が決まった。平沼工場の跡地は1926年3月に鉄道省へ売却した。自社工場の製品が出る1929年まで、販売はグッドリッチからの輸入品に依存したと推察される。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「平沼工場全壊」
    • [20]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [21]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [24]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [26]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「震災禍をはねかえした努力の結晶」
    • [22]1923年に入りダンロップ・グッドイヤーとの3社の販売競争が一段落
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [23]震災で工場と東京支店を失い損害230万円。本社を古河合名内、大阪支店を臨時営業の中心とし、工場復旧にはグ社が反対したが古河合名の説得で決定
    • [25]震災で工場と東京支店を失い損害230万円。本社を古河合名内、大阪支店を臨時営業の中心とし、工場復旧にはグ社が反対したが古河合名の説得で決定

横濱護謨製造は新工場の用地に横浜市鶴見区平安町の6,165坪を選び、取得した。選んだ理由は、交通の便と将来の工場拡張の余地である。1928年4月に着工した横浜工場は同年12月に第1期工事を終え、工業用品の製造を始めた。1929年2月に第1号のベルト・ホースを出荷し、1930年7月には第1号のタイヤを製造した。1929年にはV型ベルトの国産化に成功し、1930年にはグッドリッチのバルカロック法による製品の製造を始めた。1931年には日本フォード自動車が新車装着用として横濱護謨製造のタイヤを指定し、納入先は日本ゼネラルモータース等へ広がった。拡張余地を立地の条件に置いた判断は、自動車の普及に伴うタイヤ需要の拡大を見込んだものと思われる。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場の建設」
    • [27]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [28]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [30]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [32]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [29]1928年4月鶴見に約6千坪を買収して着工、12月第1期完成で工業用品製造開始。1930年7月タイヤ工場完成。1931年日本フォードの新車用タイヤに指定
    • [33]1928年4月鶴見に約6千坪を買収して着工、12月第1期完成で工業用品製造開始。1930年7月タイヤ工場完成。1931年日本フォードの新車用タイヤに指定
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「あいつぐ新製品開発」
    • [31]1929年V型ベルト国産化、1930年からG社のバルカロック法による製品を製造

横濱護謨製造は1937年4月、タイヤと工業用品の商標をすべて「ヨコハマ」に改め、「グッドリッチ」の名を外した。背景にあるのは、1931年の満州事変から1933年2月の国際連盟脱退へ至る情勢と、国産品の愛用運動の広がりである。日米合弁の資本構成は事業の妨げになると判断され、1935年9月にグッドリッチ保有株の一部を古河電気工業が引き受けた。製品面では1933年にゴールデンプライタイヤを発売し、タイヤ販売の主導権を握った。1931年3月にはブリヂストンが設立され、ダンロップを加えた3社が国内市場を争った。1934年6月には横浜工場のタイヤ生産能力を月産25,000本へ拡張。改称と同時に、ヨコハマの頭文字Yをトレッド模様に用いた「Y型新タイヤ」を発表した。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第二次世界大戦とゴム工業」
    • [34]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
    • [36]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
    • [41]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「全商標を「グッドリッチ」から「ヨコハマ」へ」
    • [35]満州事変・1933年2月の国際連盟脱退の中で国産品愛用運動が広がり、日米合弁が問題視された
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [37]国産奨励の時勢に応じ1935年9月にグ社持株の大部分を古河側へ肩代わり
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第一次タイヤ工場拡張」
    • [38]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張
    • [39]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張
    • [40]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張
参考文献[20]-[41]
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「平沼工場全壊」
    • [20]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [21]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [24]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
    • [26]1923年9月1日関東大震災で平沼工場全壊・24名犠牲。3日後の緊急取締役会でG社製品の輸入販売を決定。跡地は1926年3月に鉄道省へ売却
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「震災禍をはねかえした努力の結晶」
    • [22]1923年に入りダンロップ・グッドイヤーとの3社の販売競争が一段落
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [23]震災で工場と東京支店を失い損害230万円。本社を古河合名内、大阪支店を臨時営業の中心とし、工場復旧にはグ社が反対したが古河合名の説得で決定
    • [25]震災で工場と東京支店を失い損害230万円。本社を古河合名内、大阪支店を臨時営業の中心とし、工場復旧にはグ社が反対したが古河合名の説得で決定
    • [29]1928年4月鶴見に約6千坪を買収して着工、12月第1期完成で工業用品製造開始。1930年7月タイヤ工場完成。1931年日本フォードの新車用タイヤに指定
    • [33]1928年4月鶴見に約6千坪を買収して着工、12月第1期完成で工業用品製造開始。1930年7月タイヤ工場完成。1931年日本フォードの新車用タイヤに指定
    • [37]国産奨励の時勢に応じ1935年9月にグ社持株の大部分を古河側へ肩代わり
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場の建設」
    • [27]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [28]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [30]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
    • [32]交通の便と拡張の余地から鶴見区平安町に6,165坪を買収、1928年12月竣工、1929年2月第1号ベルト・ホース、1930年7月第1号タイヤ。新車用タイヤを日本フォード・日本GM等へ納入
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「あいつぐ新製品開発」
    • [31]1929年V型ベルト国産化、1930年からG社のバルカロック法による製品を製造
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第二次世界大戦とゴム工業」
    • [34]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
    • [36]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
    • [41]1935年9月G社保有株の一部を古河電工が肩代わり。1937年4月全商標をグッドリッチからヨコハマへ改称しY型新タイヤを発表
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「全商標を「グッドリッチ」から「ヨコハマ」へ」
    • [35]満州事変・1933年2月の国際連盟脱退の中で国産品愛用運動が広がり、日米合弁が問題視された
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第一次タイヤ工場拡張」
    • [38]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張
    • [39]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張
    • [40]1931年3月ブリヂストン設立で3社競争。1933年ゴールデンプライタイヤで販売の主導権。1934年6月タイヤ月産25,000本に拡張

1937年〜陸海軍へ納めた航空機タイヤと、空襲で9割を焼いた横浜工場

1937年の日華事変を機に、横濱護謨製造の生産力の大半は航空機タイヤや戦車用転輪などの軍需製品に向けられた。軍需以外の生ゴム輸入はほぼ禁じられ、ゴム工業は軍需の体制に組み込まれた。1941年には海軍機用タイヤを試験的に納め、続いて陸軍機向けにも納め、軍から量産を命じられた。増産の専用設備として1943年に東洋紡績から三重県の土地建物を取得し、1944年6月に三重工場を完成させた。海外では1942年に軍の委託でシンガポールの既設工場の経営を引き受け、東南アジアに建設した工場は16に及ぶ。航空機向けに求められた安全性と精密な設計の経験は、戦後の航空機部品事業の技術基盤になったと推測される。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「軍需産業に重要な役割り」
    • [42]1937年日華事変以降、軍需以外の生ゴム輸入はほぼ禁止され、生産力の大半が航空機タイヤ・戦車用転輪等の軍需製品へ
    • [43]1937年日華事変以降、軍需以外の生ゴム輸入はほぼ禁止され、生産力の大半が航空機タイヤ・戦車用転輪等の軍需製品へ
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「基礎固めした航空機部品技術」
    • [44]1941年海軍機用タイヤをテスト納入、陸軍機用も納入し量産命令。専用設備として三重工場を建設し1944年6月完成
    • [45]1941年海軍機用タイヤをテスト納入、陸軍機用も納入し量産命令。専用設備として三重工場を建設し1944年6月完成
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [46]1943年8月三重県山田市外の東洋紡績の土地建物を買収してタイヤ工場とした
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「年表(横浜ゴム50年の歩み)」
    • [47]1944年6月三重県度会郡に三重工場を建設(前年に東洋紡績より譲受)
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「中国,東南アジアなどへ海外進出」
    • [48]1942年軍の委託でシンガポール既設工場を経営、東南アジアに建設した工場は16工場

1945年4月の空襲で横濱護謨製造は横浜工場の90%が焼け、主力工場の操業を止めた。4月3日夜の空襲で工業用品工場と原料倉庫を失い、4月14日の京浜大空襲で残る工場も焼けた。空襲前から工場の分散を進めていたため、1945年5月に高崎擬革から高崎・金町の両工場を取得した。終戦時に残った三重・神奈川・藤沢・高崎・金町の5工場の設備は大半が軍需向けで、民需に使えるものは少数にとどまる。被害の軽い三重工場は1945年10月にタイヤの製造を再開した。1946年1月には明治ゴム製造所から三島工場を借り受け、同年3月に自動車タイヤを作り始めた。1947年3月に7工場の復興整備を終え、同年末のゴム消化能力は月間600トン強に達した。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「年表(横浜ゴム50年の歩み)」
    • [49]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
    • [55]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
    • [57]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場,空襲で焼失」
    • [50]1945年4月3日の空襲で工業用品工場・原料倉庫を失い4月14日に残る工場も焼失。5月に高崎・金町両工場を買収
    • [52]1945年4月3日の空襲で工業用品工場・原料倉庫を失い4月14日に残る工場も焼失。5月に高崎・金町両工場を買収
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「戦後の復興」
    • [51]横浜工場は4月14日の京浜大空襲で全焼し操業を休止
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「グッドリッチ社と再提携」
    • [53]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
    • [54]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
    • [56]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [58]1947年3月全工場が操業、同年末のゴム消化能力は月間600屯強

1949年12月、古河電気工業が保有する横濱護謨製造の全株式は持株会社整理委員会の手で処分され、古河系の従属関係は解消された。それまでに横濱護謨製造は証券保有制限令で古河系の従属会社とされ、過度経済力集中排除法の指定も受けた。同じ1949年12月、横濱護謨製造はグッドリッチと資本・技術の提携契約を結び直した。交渉を主導した社長の稲垣平太郎氏は、欧米の新技術を導入する必要を認めていた。開戦直前に古河電気工業が引き取ったグッドリッチの持株は、財閥解体とともに返却する取り決めである。戦時中も契約上の技術料を社内で積み立てた対応は、グッドリッチ幹部の信頼を得た。古河系を離れた横濱護謨製造は、戦災からの復興に要る技術と資本を戦前の提携相手との関係の回復で確保しようとしたとうかがえる。

  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「年表(横浜ゴム50年の歩み)」
    • [59]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
    • [60]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
    • [62]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「グッドリッチ社と再提携」
    • [61]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [64]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [65]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [67]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [63]1949年12月グ社との資本提携を復活
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第二次世界大戦とゴム工業」
    • [66]開戦直前にG社全持株を平和回復後の買戻しを条件に古河電工が取得
参考文献[42]-[67]
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「軍需産業に重要な役割り」
    • [42]1937年日華事変以降、軍需以外の生ゴム輸入はほぼ禁止され、生産力の大半が航空機タイヤ・戦車用転輪等の軍需製品へ
    • [43]1937年日華事変以降、軍需以外の生ゴム輸入はほぼ禁止され、生産力の大半が航空機タイヤ・戦車用転輪等の軍需製品へ
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「基礎固めした航空機部品技術」
    • [44]1941年海軍機用タイヤをテスト納入、陸軍機用も納入し量産命令。専用設備として三重工場を建設し1944年6月完成
    • [45]1941年海軍機用タイヤをテスト納入、陸軍機用も納入し量産命令。専用設備として三重工場を建設し1944年6月完成
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」
    • [46]1943年8月三重県山田市外の東洋紡績の土地建物を買収してタイヤ工場とした
    • [58]1947年3月全工場が操業、同年末のゴム消化能力は月間600屯強
    • [63]1949年12月グ社との資本提携を復活
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「年表(横浜ゴム50年の歩み)」
    • [47]1944年6月三重県度会郡に三重工場を建設(前年に東洋紡績より譲受)
    • [49]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
    • [55]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
    • [57]1945年4月爆撃で横浜工場の90%焼失。1946年1月明治ゴム製造所より三島工場借受。1947年3月全7工場の復興整備
    • [59]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
    • [60]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
    • [62]証券保有制限令で古河系従属、過度経済力集中排除法の指定。1949年12月古河電工の全株を持株会社整理委員会を通じ処分し古河系従属関係解除、同月G社と資本・技術提携契約
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「中国,東南アジアなどへ海外進出」
    • [48]1942年軍の委託でシンガポール既設工場を経営、東南アジアに建設した工場は16工場
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場,空襲で焼失」
    • [50]1945年4月3日の空襲で工業用品工場・原料倉庫を失い4月14日に残る工場も焼失。5月に高崎・金町両工場を買収
    • [52]1945年4月3日の空襲で工業用品工場・原料倉庫を失い4月14日に残る工場も焼失。5月に高崎・金町両工場を買収
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「戦後の復興」
    • [51]横浜工場は4月14日の京浜大空襲で全焼し操業を休止
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「グッドリッチ社と再提携」
    • [53]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
    • [54]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
    • [56]終戦時の5工場は設備の大半が軍需用。1946年1月三島工場を借り3月から自動車用タイヤを生産
    • [61]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [64]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [65]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
    • [67]古河財閥の持株は持株整理委員会を経て開放。稲垣平太郎社長が新技術導入のためG社との提携復活を交渉、古河電工肩代わり分の返却決定と戦時中の技術料積立でG社の信頼を得て1949年12月に資本・技術提携復活
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第二次世界大戦とゴム工業」
    • [66]開戦直前にG社全持株を平和回復後の買戻しを条件に古河電工が取得

出典・参考

20件
出典・参考
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横濱電線製造株式会社とゴム工業」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「注目された日・米合弁の新会社」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「外国技術を導入」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「日本ではじめてコードタイヤを生産」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「角耳ベルトを開発,欧米へ逆輸出」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「震災禍をはねかえした努力の結晶」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「平沼工場全壊」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場の建設」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「あいつぐ新製品開発」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第二次世界大戦とゴム工業」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「全商標を「グッドリッチ」から「ヨコハマ」へ」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「第一次タイヤ工場拡張」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「軍需産業に重要な役割り」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「基礎固めした航空機部品技術」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「年表(横浜ゴム50年の歩み)」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「中国,東南アジアなどへ海外進出」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「横浜工場,空襲で焼失」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「戦後の復興」
  • 刊行社史『横浜ゴム50年の歩み』(1967年)「グッドリッチ社と再提携」
  • 企業史書籍『会社銀行八十年史』(1955年)「横浜護謨製造」

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