第1章 年〜年

インフロニア・ホールディングス:前田又兵衛氏の前田事務所創業と高野組の設立

1919年〜飛島組の下請で始めた前田又兵衛氏の前田事務所と、資本金5万円の高野組

前田又兵衛氏(初代)は1919年1月、個人経営の前田事務所を開設して土木請負を始めた。自前の看板で受注する業者ではなく、戦前を通じて飛島組の下請として工事を施工した。つまり前田建設工業の出発点は、飛島組前田班としての創業だった。前田又兵衛氏は同年秋、飛島組が請けた鉄道省の北海道天塩線で第四工区の工事部長に就任した。その後は長野県で東信電気の高瀬川発電所など水力発電所の土木工事を重ね、1929年に阿賀野川の豊実発電所を完成させた。同じ1929年、前田又兵衛氏は飛島組の取締役に推された。前田事務所の元手は資金ではなく、飛島組の名で積んだ山岳土木の施工経験だったとみられる。

  • 証券 14(7) 1962年7月
    • [1]前身は1919年(大正8年)1月に個人経営で土木建築工事請負業として創業した前田事務所
    • [2]前田事務所は戦前、飛島組(現飛島土木)の下請業者として工事を施行した
  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
    • [3]1919年(大正8年)1月に飛島組前田班として創業した
  • 前田又兵衛翁伝記編纂会編『前田又兵衛翁伝』(1939年)第二章「事業家としての翁」
    • [4]1919年秋、飛島組が担当した鉄道省北海道天塩線第三・四工区のうち第四工区の工事部長に任じられた(工事は1919年10月着工・1920年11月完成)
    • [5]東信電気の高瀬川・徳積・海瀬・小諸などの発電所土木工事を経て、1927年着工の阿賀野川・豊実発電所を1929年に完成させた
    • [6]豊実発電所が完成した1929年、推されて飛島組取締役に就任した

高野政造氏は東京市で道路の改良と舗装に携わり、関東大震災の後は復興局に移ってアスファルト道路を造った。1925年に個人で土木建築の請負を始め、大倉土木の嘱託として舗装の下請を担った。資力が乏しく発注者から直接は請けられず、下請や他社の名義を借りた代行で仕事をつないだ。やがて直接の指名も受けるようになり、1930年7月19日に個人経営を改めて資本金5万円の株式会社高野組を設立した。高野政造氏は36歳で専務取締役に就任し、本社を丸ビルの6階へ移した。高野政造氏は後年、舗装の道に入ったことを『道路と生を共にすることになつた』と言い表した。株式会社への改組は、直接受注に見合う信用を整える手だてだったのだろう。

  • 経済知識 (118) 1959年5月
    • [7]高野政造は後藤新平市長時代の東京市で道路改良・舗装に携わり、関東大震災後は復興局でアスファルト道路の建設にあたった
    • [8]1925年(大正14年)に個人企業で土木建築請負業を始め、大倉土木(現大成建設)の嘱託として道路舗装の下請をした
    • [12]高野は個人で請負を始めたことを「道路と生を共にすることになった」と表した
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)第3編第1章「高野組創立」
    • [9]資力がなく発注者から直接工事を請けられないため、舗装工事の下請や有力会社の名義を借りた代行で仕事をした
    • [10]直接の指名も受けるようになり、苦闘6年ののち1930年7月19日に個人経営を改組して資本金5万円で株式会社高野組を創立した
    • [11]創立時の陣容は専務取締役高野政造ほか。本社を丸の内3丁目三菱21号館から丸ビル6階へ移した。高野は当時36歳
参考文献[1]-[12]
  • 証券 14(7) 1962年7月
    • [1]前身は1919年(大正8年)1月に個人経営で土木建築工事請負業として創業した前田事務所
    • [2]前田事務所は戦前、飛島組(現飛島土木)の下請業者として工事を施行した
  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
    • [3]1919年(大正8年)1月に飛島組前田班として創業した
  • 前田又兵衛翁伝記編纂会編『前田又兵衛翁伝』(1939年)第二章「事業家としての翁」
    • [4]1919年秋、飛島組が担当した鉄道省北海道天塩線第三・四工区のうち第四工区の工事部長に任じられた(工事は1919年10月着工・1920年11月完成)
    • [5]東信電気の高瀬川・徳積・海瀬・小諸などの発電所土木工事を経て、1927年着工の阿賀野川・豊実発電所を1929年に完成させた
    • [6]豊実発電所が完成した1929年、推されて飛島組取締役に就任した
  • 経済知識 (118) 1959年5月
    • [7]高野政造は後藤新平市長時代の東京市で道路改良・舗装に携わり、関東大震災後は復興局でアスファルト道路の建設にあたった
    • [8]1925年(大正14年)に個人企業で土木建築請負業を始め、大倉土木(現大成建設)の嘱託として道路舗装の下請をした
    • [12]高野は個人で請負を始めたことを「道路と生を共にすることになった」と表した
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)第3編第1章「高野組創立」
    • [9]資力がなく発注者から直接工事を請けられないため、舗装工事の下請や有力会社の名義を借りた代行で仕事をした
    • [10]直接の指名も受けるようになり、苦闘6年ののち1930年7月19日に個人経営を改組して資本金5万円で株式会社高野組を創立した
    • [11]創立時の陣容は専務取締役高野政造ほか。本社を丸の内3丁目三菱21号館から丸ビル6階へ移した。高野は当時36歳

1946年〜個人経営から改組した前田建設工業と、高野建設への改称

前田事務所は1946年11月6日、個人経営を株式会社に改め、資本金150万円の前田建設工業として発足した。きっかけは同じ1946年、元請の飛島組が企業再建整備法のもとで解散したことで、前田はこれを機に傘下を離れて独立した。戦前の前田は朝鮮を含む各地で、ダムとトンネルの工事を主に手がけていた。『企業の歴史』は、改組の理由を事業規模の拡充に置いた。1962年の上場時点で、前田建設工業は建設大臣登録の総合建設業者となっていた。下請として積んだ施工の力を、自らの名で受注につなげるには会社組織が要ったと推察される。

  • 『株式会社年鑑』1963年版「前田建設工業」
    • [13]1946年(昭和21年)11月、株式会社に組織を変更し資本金150万円で設立(設立日は11月6日)
  • 証券 14(7) 1962年7月
    • [14]1946年に飛島組が企業再建整備法により解散したのを機に、傘下を離れて独立した
    • [17]1962年6月の東証第二部上場時点で建設大臣登録の総合建設業者
  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
    • [15]創業以来、全国各地・朝鮮などで主にダム・ずい道工事に従事した
    • [16]1946年11月、事業規模の拡充に伴い個人企業を改組して前田建設工業株式会社を設立した

高野組は戦時中、千島から南洋諸島まで道路舗装と飛行場の建設を請けていたが、1945年8月の終戦で各作業所の業務を止めた。戦後は建築部を立て直す一方、主力を米軍飛行場の滑走路工事に移した。米軍の仕事は1955年ごろまで売上高の約70%を占め、本業の道路舗装は約30%だった。米軍が大工事を高野政造氏に出したのは、その機械力に着目したためという。1948年3月、高野組は社名を高野建設に改めた。改称のあと社員の顔ぶれも変わり、高野政造氏の呼び名は組長から社長に移った。戦時に積んだ滑走路の施工と機械が、占領下の受注をそのまま支えた格好だった。

  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)年表
    • [18]戦時中に飛行場滑走路・南洋諸島の飛行場工事へ進出し、1945年8月の終戦により各作業所の業務を停止した
  • 経済知識 (118) 1959年5月
    • [19]戦時中は千島から南洋諸島まで道路舗装・飛行場建設にあたり、終戦後は米軍飛行場の滑走路工事を引き受けた
    • [20]1955年頃までは米軍飛行場の仕事が売上高の約70%、道路舗装は30%。1959年には米軍関係30%・国内官庁の道路関係70%に逆転した
    • [21]米軍が大工事を発注したのは同社の機械力に目をつけたためとされる
  • 『株式会社年鑑』1960年版「高野建設」
    • [22]1948年(昭和23年)3月、高野建設株式会社に社名変更
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)第3編第1章「高野組創立」
    • [23]高野組創立時に組長と呼ばれた高野は、高野建設と改称してからインテリ社員が増え、社長と呼ばれるようになった

前田建設工業は戦後の電源開発で大規模なダム工事を請け、国内の五大ダムのうち田子倉と有峰の二つを施工した。ダム工事では只見川の水系に的を絞り、ほかの地域へ広げない方針を取った。河川と土地の事情に通じ、仮設資材を動かす費用を抑え、労務の手当ても円滑に運ぶというのが、その利点だった。この方針で採算の良い工事が続き、同業より高い収益と厚い内部留保が積み上がった。資本金は1954年12月に1億円、1957年1月に2億円へ増えた。1961年11月期でも完成工事高の91%が土木で、前田は間組・鹿島建設などと並ぶダム6社の一つに数えられた。下請時代の山岳土木の経験は、一つの水系に工事を集めることで高収益に変わった。

  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
    • [24]戦後の産業復興期に大規模な電源開発工事に取り組み、五大ダムのうち田子倉・有峰の二つを施工してダム五社の一角に立った
    • [25]ダム建設では工事を只見川水系にしぼり、他地域への進出を抑える方針をとった
    • [26]方針の利点は①河川や土地の事情に通じる②仮設資材の移動等の経費を抑える③労務者対策が円滑、の三つ
    • [27]採算面で有利な工事が続き、同業他社に比べ高収益と厚い内部留保をもつようになった
  • 『株式会社年鑑』1963年版「前田建設工業」
    • [28]資本金は1954年12月に1億円、1957年1月に2億円
  • 証券 14(7) 1962年7月
    • [29]1961年11月期の完成工事高は土木91%・建築9%。田子倉・有峰の実績で間組・鹿島建設・熊谷組・西松建設とともにダム6社の一つ
参考文献[13]-[29]
  • 『株式会社年鑑』1963年版「前田建設工業」
    • [13]1946年(昭和21年)11月、株式会社に組織を変更し資本金150万円で設立(設立日は11月6日)
    • [28]資本金は1954年12月に1億円、1957年1月に2億円
  • 証券 14(7) 1962年7月
    • [14]1946年に飛島組が企業再建整備法により解散したのを機に、傘下を離れて独立した
    • [17]1962年6月の東証第二部上場時点で建設大臣登録の総合建設業者
    • [29]1961年11月期の完成工事高は土木91%・建築9%。田子倉・有峰の実績で間組・鹿島建設・熊谷組・西松建設とともにダム6社の一つ
  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
    • [15]創業以来、全国各地・朝鮮などで主にダム・ずい道工事に従事した
    • [16]1946年11月、事業規模の拡充に伴い個人企業を改組して前田建設工業株式会社を設立した
    • [24]戦後の産業復興期に大規模な電源開発工事に取り組み、五大ダムのうち田子倉・有峰の二つを施工してダム五社の一角に立った
    • [25]ダム建設では工事を只見川水系にしぼり、他地域への進出を抑える方針をとった
    • [26]方針の利点は①河川や土地の事情に通じる②仮設資材の移動等の経費を抑える③労務者対策が円滑、の三つ
    • [27]採算面で有利な工事が続き、同業他社に比べ高収益と厚い内部留保をもつようになった
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)年表
    • [18]戦時中に飛行場滑走路・南洋諸島の飛行場工事へ進出し、1945年8月の終戦により各作業所の業務を停止した
  • 経済知識 (118) 1959年5月
    • [19]戦時中は千島から南洋諸島まで道路舗装・飛行場建設にあたり、終戦後は米軍飛行場の滑走路工事を引き受けた
    • [20]1955年頃までは米軍飛行場の仕事が売上高の約70%、道路舗装は30%。1959年には米軍関係30%・国内官庁の道路関係70%に逆転した
    • [21]米軍が大工事を発注したのは同社の機械力に目をつけたためとされる
  • 『株式会社年鑑』1960年版「高野建設」
    • [22]1948年(昭和23年)3月、高野建設株式会社に社名変更
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)第3編第1章「高野組創立」
    • [23]高野組創立時に組長と呼ばれた高野は、高野建設と改称してからインテリ社員が増え、社長と呼ばれるようになった

出典・参考

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出典・参考
  • 『株式会社年鑑』1960年版「高野建設」
  • 『株式会社年鑑』1963年版「前田建設工業」
  • 『企業の歴史』(明治百年、1968年)「前田建設工業」
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)第3編第1章「高野組創立」
  • 高野建設『高野建設風雪30年 1930-1960』(1960年)年表
  • 前田又兵衛翁伝記編纂会編『前田又兵衛翁伝』(1939年)第二章「事業家としての翁」
  • 経済知識 (118) 1959年5月
  • 証券 14(7) 1962年7月

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