第1章 年〜年

エーザイ:田辺の脇道を走った中堅と循環器への集中

1936年〜東京田辺の新薬部長が三河島に開いた桜ケ岡研究所と、本庄の日本衛材

1936年11月、田辺元三郎商店の新薬部長だった内藤豊次氏は、勤め先の外に桜ケ岡研究所を発足させた。内藤豊次氏はエビオス、ハリバ、サロメチール、チミツシンを手がけ、田辺元三郎商店の主力品を育てた当人である。欧米の視察を経て、後続の新薬には技術陣を備えた研究機関が要ると考え、同商店の経営陣に設置を求めた。経営陣は採算を理由に取り合わず、内藤豊次氏は自力で研究所を設けると決めた。堀井工場長と順天堂病院の横田医師を同志とし、実務の代行に清水泰夫氏を立て、田辺商店の了承も得た。1937年には荒川区三河島に約462平方メートルの研究所を建て、製薬営業の許可を取得。雇われの立場のまま新薬の開発を続ける手段を、勤め先の外に求めたとみられる。

  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [1]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [2]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [3]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [4]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [5]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [6]桜ケ岡研究所を創設し、1937年に荒川区三河島へ約462平方メートルの研究所を建築、製薬営業の許可を得た

研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンは、1938年に東京田辺から発売された。研究所は試作までを受け持ち、販売は内藤豊次氏の勤め先の営業網に委ねた。1941年、内藤豊次氏は埼玉県本庄の鶴巻製糸工場を取得して研究所を三河島から移した。同年12月6日には本庄で日本衛材を設立し、製薬会社としての歩みを始めた。研究所と日本衛材の2つの組織は、いずれも実質的に内藤豊次氏の采配で動く法人である。内藤豊次氏自身は東京田辺の常務取締役新薬部長にとどまり、東京田辺の経営を事実上指導する立場にあった。自前の販路を持たないまま、開発は自分の組織で、販売は東京田辺でという分業で新薬を市場に出したのだろう。

  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [7]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [8]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [11]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [12]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [9]1941年に本庄の鶴巻製糸工場を買い取って移転し、同年12月6日に日本衛材を設立
    • [10]1941年に本庄の鶴巻製糸工場を買い取って移転し、同年12月6日に日本衛材を設立

内藤豊次氏は東京田辺の役員を続けながら、自分の会社には毎週木曜の晩しか出向かなかった。1943年、田辺元三郎氏が東京田辺に復帰すると、同社の経営方針は大きく転じた。日本衛材の設立直後に太平洋戦争が始まり、統制経済の下で研究所と日本衛材の経営も難しくなった。内藤豊次氏は1943年8月に東京田辺を辞し、2社の経営に専念した。1944年2月には2社を合併して社名を日本衛材に一本化し、本社を小石川竹早町に置いた。資本金36万円の製薬企業として、日本衛材は新たに出発した。東京田辺での立場が変わったことが、兼業から独立へ踏み切る転機になったと推察される。

  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [13]内藤豊次は東京田辺のため週に木曜の晩しか自社へ行かなかった。1943年に田辺元三郎が田辺に戻り経営方針が一変
    • [14]内藤豊次は東京田辺のため週に木曜の晩しか自社へ行かなかった。1943年に田辺元三郎が田辺に戻り経営方針が一変
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [15]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [16]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [17]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [18]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
参考文献[1]-[18]
  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [1]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [2]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [3]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [4]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [5]1936年11月、田辺商店新薬部長の内藤豊次が欧米視察を踏まえ研究機関の必要を説いたが経営陣が採算を理由に応じず、堀井工場長・横田医師・清水泰夫と研究所を設立
    • [7]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [8]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [11]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [12]研究所で試作したビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンを1938年に東京田辺から発売。内藤豊次は東京田辺の常務取締役新薬部長で、研究所と日本衛材は事実上同氏が主宰
    • [13]内藤豊次は東京田辺のため週に木曜の晩しか自社へ行かなかった。1943年に田辺元三郎が田辺に戻り経営方針が一変
    • [14]内藤豊次は東京田辺のため週に木曜の晩しか自社へ行かなかった。1943年に田辺元三郎が田辺に戻り経営方針が一変
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [6]桜ケ岡研究所を創設し、1937年に荒川区三河島へ約462平方メートルの研究所を建築、製薬営業の許可を得た
    • [9]1941年に本庄の鶴巻製糸工場を買い取って移転し、同年12月6日に日本衛材を設立
    • [10]1941年に本庄の鶴巻製糸工場を買い取って移転し、同年12月6日に日本衛材を設立
    • [15]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [16]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [17]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発
    • [18]統制経済で経営が困難になり、内藤豊次は1943年8月に田辺を辞任。1944年2月に両社を合併して日本衛材とし、本社を小石川竹早町、資本金36万円で出発

1945年〜避妊薬サンプーンの公認と、全国の代理店を組織したチョコラ会

戦中から戦後の数年間、日本衛材は原料と販売の両面で制約を受け、竹早町の本社も戦災に遭った。1949年5月、婦人衛生薬サンプーンが避妊薬として公認され、戦後最初の製品として反響を呼んだ。公認を機に同種の製品が30余種も市場に出回り、日本衛材は再び逆境に追い込まれた。1949年から1952年ごろが、日本衛材にとってもっとも苦しい時期にあたる。資金繰りは専務の清水泰夫氏と経理課員の内藤祐次氏、斉藤光昭氏の3人が担った。3人は埼玉銀行の本庄支店と本店に詰め、融通手形を含む多数の手形の割引で毎週の決済をつないだ。一品の当たりが模倣ですぐ崩れる脆さを、地元銀行との信用で補った時期といえる。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [19]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
    • [20]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
    • [21]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [22]1949年から1952年ごろが同社にとって最も苦しい時代
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [23]戦後の数年間、清水泰夫専務・内藤祐次(経理課員)・斉藤光昭が資金繰りを担い、埼玉銀行本庄支店・本店で融通手形を含む手形割引を受けて週ごとの決済をしのいだ
    • [24]戦後の数年間、清水泰夫専務・内藤祐次(経理課員)・斉藤光昭が資金繰りを担い、埼玉銀行本庄支店・本店で融通手形を含む手形割引を受けて週ごとの決済をしのいだ

サンプーンで市場が開けるにつれ、日本衛材の商品を扱う代理店も増えた。ルチンC、チヨコラA、チヨコラD滴の高単位ビタミン剤を再開発し、医療用のネオフィリンも評価を得て販路は広がった。社長の内藤豊次氏と各責任者は、増えた販路を管理して合理的な代理店網に組み替える構想を進めた。1952年10月、全国の代理店を会員とするチヨコラ会が発足し、契約は3年ごとに更新する仕組みとした。競合メーカーや代理店は当初その成果を疑い、数年後には多くのメーカーが日本衛材の方式に倣った。本庄の一地方企業は、チョコラ会とクリニ会を通じて全国に販路を持つ企業になった。有力商品の当否に左右されない販売の基盤を、代理店の組織化で先に固めたと考えられる。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [25]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [26]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [27]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [28]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [29]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [30]本庄の一ローカル企業だったエーザイがチョコラ会・クリニ会を通じて全国的な販路を得た

1955年5月、日本衛材からエーザイへの商号変更。改称した当時、片仮名の社名を掲げる企業はまだ珍しかった。新しい社名は、旧社名の日本衛材から衛材の読みだけを残して片仮名に置き換えたものである。エーザイは後に社名を英字でつづり、左右を赤と青に塗り分けた社章を定めた。赤は動脈、青は静脈を表し、心臓を中心に休まず働くという使命を重ねた。社章の形には、活動の舞台に東西の区別がなく、目標の重点を中堅と中庸に置くという意味も込めた。代理店網が固まった時点で、衛生材料を思わせる漢字の社名を改め、医薬品の銘柄として通る名に揃えたと思われる。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [31]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [33]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [34]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [35]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [36]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [32]1955年に当時としては珍しい片仮名のエーザイへ社名変更
参考文献[19]-[36]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [19]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
    • [20]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
    • [21]戦時・戦後は原料・販売に制約があり竹早町本社が戦災。1949年5月のサンプーン公認後、30余種の同種品が氾濫し経営は再び逆境へ
    • [25]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [26]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [27]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [28]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [29]ルチンC・チヨコラA・チヨコラD滴の再開発とネオフィリンの評価で販路が拡大し、1952年10月に全国規模の代理店組織チヨコラ会を結成。3年ごとの契約更新で、のちに他メーカーも方式を踏襲
    • [31]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [33]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [34]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [35]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
    • [36]1955年5月に日本衛材からエーザイへ改称。社章は英字の社名を赤(動脈)と青(静脈)に塗り分け、中堅・中庸を目標の重点とする意味を持つ
  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
    • [22]1949年から1952年ごろが同社にとって最も苦しい時代
    • [32]1955年に当時としては珍しい片仮名のエーザイへ社名変更
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [23]戦後の数年間、清水泰夫専務・内藤祐次(経理課員)・斉藤光昭が資金繰りを担い、埼玉銀行本庄支店・本店で融通手形を含む手形割引を受けて週ごとの決済をしのいだ
    • [24]戦後の数年間、清水泰夫専務・内藤祐次(経理課員)・斉藤光昭が資金繰りを担い、埼玉銀行本庄支店・本店で融通手形を含む手形割引を受けて週ごとの決済をしのいだ
    • [30]本庄の一ローカル企業だったエーザイがチョコラ会・クリニ会を通じて全国的な販路を得た

1957年〜月商3億6000万円を掲げた三六計画と、岐阜県川島町の工場

1957年、エーザイは初の長期計画として三六計画を立案し、実施に移した。月商3億6000万円を3年半・7期で実現する計画で、製薬業として最低限の水準の達成が目標である。立案では内藤祐次氏が長期計画委員の助手に付き、3月に本郷の清雅荘にこもって作業した。内藤祐次氏は当時を、自分の人生も会社の前途も先が見えなかった時期と振り返った。三六計画の成果は細かく検証され、次の三八計画と第3次長期計画に引き継がれた。計画を重ねる過程で、エーザイは生産・販売・研究・事業の4部門を確立した。数値の目標を置いて結果を検証する手順が、中堅の製薬会社としての経営の型になったと推定される。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [37]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [38]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [41]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [42]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [39]内藤祐次は三六計画(第一次長期経営計画)立案時に長計委員の助手として本郷の清雅荘にこもり、前途は一寸先も見えなかったと回想
    • [40]内藤祐次は三六計画(第一次長期経営計画)立案時に長計委員の助手として本郷の清雅荘にこもり、前途は一寸先も見えなかったと回想

1961年9月、エーザイは東京証券取引所第1部に上場した。1963年、社長の内藤豊次氏は岐阜県川島町に13万5000坪の工場用地を取得し、将来の生産能力を描いた川島構想をまとめた。1966年3月には、川島町に川島工場を新設。内藤祐次氏は代理店を川島に招き、10年以内に月商20億円の生産能力を持つ工場を築くと表明した。本庄工場と合わせ、月商約30億円の供給力を見込む計画だった。1968年の川島工場はビタミンE、ノイチーム、キモプシンを合成し、同年3月にクリニットの合成設備も動かした。需要に先んじて広い用地を押さえ、生産能力を段階的に積み増す方針だったと解される。

  • エーザイ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1961年9月に東京証券取引所第1部に上場、1966年3月に岐阜県に川島工場を新設
    • [45]1961年9月に東京証券取引所第1部に上場、1966年3月に岐阜県に川島工場を新設
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [44]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
    • [46]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
    • [47]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [48]1968年時点で川島工場はビタミンE・ノイチーム・キモプシンを合成し、1968年3月にクリニット合成設備が稼働

1966年、内藤祐次氏は46歳で父の内藤豊次氏から社長を継いだ。会長の内藤豊次氏は、4年間は旧役員を解任しないこと、2年間は人事権と投資権を会長に残すことを条件にした。エーザイは昭和30年代まで規模が小さく、抗生物質のように巨額の資金を要する大型新薬には着手できなかった。このため他社の参入が少ない循環器系を中心に、市場規模の小さな領域へ開発を集中した。『武田や三共、塩野義といった大手が大型バスで名神高速道路を突っ走っている時、うちは小型自動車やオートバイを何台か連ねて旧東海道を走ってきた』とは、内藤祐次氏が後年に大手との対比で用いた表現である。海外では1970年6月にインドネシアで合弁会社P・T・エーザイ・インドネシアを設立し、日本側が80%を出資した。大手と同じ領域を避け、小さな市場で確実に製品を積む方針が、次の新薬の土台になったとうかがえる。

  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [49]1966年、46歳の内藤祐次が父から社長を譲られ、4年間は旧役員を解任せず2年間は人事権・投資権を会長に残す条件が付いた
    • [50]1966年、46歳の内藤祐次が父から社長を譲られ、4年間は旧役員を解任せず2年間は人事権・投資権を会長に残す条件が付いた
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号
    • [51]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
    • [52]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
    • [53]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
    • [54]P・T・エーザイ・インドネシアを1970年6月に設立、日本側出資80%、1971年10月操業開始
参考文献[37]-[54]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
    • [37]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [38]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [41]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [42]1957年に初の長期計画「三六計画」(月商3億6000万円を3年半・7期で実現。製薬業として最低水準)を実施し、三八計画・第3次長期計画へつなげて生産・販売・研究・事業の4部門を確立
    • [48]1968年時点で川島工場はビタミンE・ノイチーム・キモプシンを合成し、1968年3月にクリニット合成設備が稼働
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
    • [39]内藤祐次は三六計画(第一次長期経営計画)立案時に長計委員の助手として本郷の清雅荘にこもり、前途は一寸先も見えなかったと回想
    • [40]内藤祐次は三六計画(第一次長期経営計画)立案時に長計委員の助手として本郷の清雅荘にこもり、前途は一寸先も見えなかったと回想
    • [44]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
    • [46]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
    • [47]1963年に岐阜県川島町の13万5000坪の工場用地を取得し豊次社長が川島構想を描く。代理店に対し10年以内に月商20億円の生産力の工場をつくり本庄と合わせ月商約30億円とする考えを表明
    • [49]1966年、46歳の内藤祐次が父から社長を譲られ、4年間は旧役員を解任せず2年間は人事権・投資権を会長に残す条件が付いた
    • [50]1966年、46歳の内藤祐次が父から社長を譲られ、4年間は旧役員を解任せず2年間は人事権・投資権を会長に残す条件が付いた
  • エーザイ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1961年9月に東京証券取引所第1部に上場、1966年3月に岐阜県に川島工場を新設
    • [45]1961年9月に東京証券取引所第1部に上場、1966年3月に岐阜県に川島工場を新設
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号
    • [51]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
    • [52]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
    • [53]昭和30年代まで規模が小さく抗生物質など大型新薬に手を出せず、他社の参入が少ない循環器系中心の小さな市場に取り組んだ
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
    • [54]P・T・エーザイ・インドネシアを1970年6月に設立、日本側出資80%、1971年10月操業開始

1936年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年05月期 単体 14 n/a n/a 1 n/a n/a n/a
1957年05月期 単体 19 +37.1% n/a 2 n/a n/a n/a
1958年05月期 単体 24 +23.4% n/a 2 n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 24 +3.3% n/a 2 n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 36 +48.6% n/a 3 n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 43 +18.0% n/a 4 n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 52 +20.4% 10 5 3 5.7% n/a
1963年03月期 単体 67 +28.8% 15 6 3 5.9% n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 台湾に医薬品輸入会社を設立(1969)
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 355 n/a n/a 50 26 7.6% n/a
1972年03月期 単体 370 +4.3% n/a 45 21 5.7% n/a
1973年03月期 単体 377 +1.9% n/a 38 17 4.6% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1976年版

出典・参考

6件
出典・参考
  • エーザイ 有価証券報告書【沿革】
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
  • オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号
  • 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)

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