内藤豊次
経歴1911〜1966年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1911年主要役職の状況(推定含む目安)1966年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | タムソン商会 | 1911 | 欧州に本社を置く医薬品の日本総代理店タムソン商会の社員として大阪・道修町と取引を始める | ||
| 東京田辺(田辺元三郎商店) | 1914 | 入社 | |||
| 1936 | 新薬部長 | ||||
| 1943 | 退任 | ||||
| エーザイ | 1936 | 設立 | |||
| 1941 | 設立 社長 | ||||
| 1944 | 桜ケ岡研究所と日本衛材を合併し日本衛材に一本化 | ||||
| 1955 | 商号をエーザイに変更 | ||||
| 1966 | 社長 退任 |
創業ストーリー
創業ストーリー
内藤豊次氏は、欧州に本社を置く医薬品の日本総代理店タムソン商会の社員として、1911年に大阪の道修町と取引を始めた。1914年には田辺五兵衛氏の勧めで東京田辺へ移り、以後およそ30年を田辺商店で過ごした。新薬部長としてエビオス、ハリバ、サロメチール、チミツシンを手がけ、独自の広告で東京田辺の主力品に育てた。欧米の薬業界は経営支出の5〜8%を研究に投じていたが、日本には工場に付属する研究室ほどしか無く、内藤豊次氏は視察を経て研究機関の必要を痛感した。後続の新薬を生む研究所を東京田辺の経営陣に求めたものの受け入れられず、独力で設けると決めた。
- 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)「先代と道修町との出会い」
- [1]ヨーロッパに本社をもつ医薬品の日本総代理店タムソン商会の社員内藤豊次が、明治四十四年の某日、道修町の一角に足を踏み入れたのが彼の道修町との出会いである。大正三年、商売ができなくなったタムソン商会を離れ、身の振り方を相談に行った豊次に田辺五兵衛氏は「内藤さん、いっそのこと、うちへ来ませんか」と勧め、かくて彼は東京田辺へ
- [2]ヨーロッパに本社をもつ医薬品の日本総代理店タムソン商会の社員内藤豊次が、明治四十四年の某日、道修町の一角に足を踏み入れたのが彼の道修町との出会いである。大正三年、商売ができなくなったタムソン商会を離れ、身の振り方を相談に行った豊次に田辺五兵衛氏は「内藤さん、いっそのこと、うちへ来ませんか」と勧め、かくて彼は東京田辺へ
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)
- [3]昭和一八年の夏でした。満五五歳の定年を機に三〇年勤続の田辺商店をやめることになりました(社長内藤豊次「創業史に寄せて」)
- オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
- [4]東京田辺の花形商品「エビオス」「ハリバ」「サロメチール」「チミツシン」などは、みんな内藤さんの手がけたもので、広告一つにしても独得のやり方をした。研究所でまず研究試作されたのが「ビタミンE剤ユベラ」であり、婦人衛生薬「サンプーン」である。いずれも十三年には東京田辺から発売されて好評を得た
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)「桜ケ岡研究所誕生」
- [5]欧米の薬業界では研究面にその経営支出の五%から八%を投入していた。日本の現状はわずかに申しわけ的な工場の附属物のような研究室があるにすぎなかった。内藤は有能な技術陣をもった研究機関の必要を切実に感じ、とくに欧米の薬業界を視察してその感をふかめ、これを田辺にもとめたが、意のごとくならないので、独力でもぜひつくりたいと考えるにいたった
- [6]欧米の薬業界では研究面にその経営支出の五%から八%を投入していた。日本の現状はわずかに申しわけ的な工場の附属物のような研究室があるにすぎなかった。内藤は有能な技術陣をもった研究機関の必要を切実に感じ、とくに欧米の薬業界を視察してその感をふかめ、これを田辺にもとめたが、意のごとくならないので、独力でもぜひつくりたいと考えるにいたった
研究所の名は、小石川指ケ谷町の自宅が建つ丘の通称、桜ヶ岡から取った。田辺商店工場長の堀井三郎氏と順天堂病院の横田利邦氏が参画し、3人とも現職を持つため、創立事務は友人の紹介で清水泰夫氏に任せた。田辺商店専務の了承も得たうえで、神田淡路町の事務所に毎週木曜の晩に集まって準備を進めた。1936年11月11日、資本金10万円の合資会社桜ケ岡研究所の登記を終えた。翌1937年に荒川区三河島へ約462平方メートルの研究所を建設し、製薬営業の許可を取得した。最初に試作したのはビタミンE剤ユベラと婦人衛生薬サンプーンで、1938年に東京田辺から発売した。
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)「桜ケ岡研究所誕生」
- [7]内藤の住居は小石川指ケ谷町の丘の上にあり、そこは細川侯爵の分譲地で俗に桜ヶ岡とよばれ、研究所の名称はここから生まれた。田辺商店の工場長堀井三郎、順天堂病院の横田利邦の二人がこの構想に参画し、田辺商店専務田辺金次郎氏の了承も得られた。創立者三名はいずれも現職をもっていたので、内藤の友人の紹介で清水泰夫が創立事務担当者となった。創立事務所は神田淡路町の内神田ビル二階で、毎週木曜日の晩に四人が集まって協議した。合資会社桜ケ岡研究所(資本金一〇万円)はこの年の一一月一一日に登記を完了した
- [8]内藤の住居は小石川指ケ谷町の丘の上にあり、そこは細川侯爵の分譲地で俗に桜ヶ岡とよばれ、研究所の名称はここから生まれた。田辺商店の工場長堀井三郎、順天堂病院の横田利邦の二人がこの構想に参画し、田辺商店専務田辺金次郎氏の了承も得られた。創立者三名はいずれも現職をもっていたので、内藤の友人の紹介で清水泰夫が創立事務担当者となった。創立事務所は神田淡路町の内神田ビル二階で、毎週木曜日の晩に四人が集まって協議した。合資会社桜ケ岡研究所(資本金一〇万円)はこの年の一一月一一日に登記を完了した
- [9]内藤の住居は小石川指ケ谷町の丘の上にあり、そこは細川侯爵の分譲地で俗に桜ヶ岡とよばれ、研究所の名称はここから生まれた。田辺商店の工場長堀井三郎、順天堂病院の横田利邦の二人がこの構想に参画し、田辺商店専務田辺金次郎氏の了承も得られた。創立者三名はいずれも現職をもっていたので、内藤の友人の紹介で清水泰夫が創立事務担当者となった。創立事務所は神田淡路町の内神田ビル二階で、毎週木曜日の晩に四人が集まって協議した。合資会社桜ケ岡研究所(資本金一〇万円)はこの年の一一月一一日に登記を完了した
- [10]内藤の住居は小石川指ケ谷町の丘の上にあり、そこは細川侯爵の分譲地で俗に桜ヶ岡とよばれ、研究所の名称はここから生まれた。田辺商店の工場長堀井三郎、順天堂病院の横田利邦の二人がこの構想に参画し、田辺商店専務田辺金次郎氏の了承も得られた。創立者三名はいずれも現職をもっていたので、内藤の友人の紹介で清水泰夫が創立事務担当者となった。創立事務所は神田淡路町の内神田ビル二階で、毎週木曜日の晩に四人が集まって協議した。合資会社桜ケ岡研究所(資本金一〇万円)はこの年の一一月一一日に登記を完了した
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
- [11]昭和一一年、田辺元三郎商店の新薬部長内藤豊次氏は研究所の創設を計画し、桜ケ岡研究所が生まれた。翌一二年には荒川区三河島に約四六二平方メートルの研究所を建築、製薬営業の許可も得た
- オール大衆 1969年9月号(会社研究 エーザイ)
- [12]東京田辺の花形商品「エビオス」「ハリバ」「サロメチール」「チミツシン」などは、みんな内藤さんの手がけたもので、広告一つにしても独得のやり方をした。研究所でまず研究試作されたのが「ビタミンE剤ユベラ」であり、婦人衛生薬「サンプーン」である。いずれも十三年には東京田辺から発売されて好評を得た
戦時統制で市販品の市場が狭まり、資本金18万円の合資会社は増資も認められなくなった。内藤豊次氏は姉妹会社を設立して資金を補うと決め、1941年9月に埼玉県本庄の鶴巻製糸の工場(敷地約4,000坪)を再調査して取得を決めた。同年12月6日に日本衛材の設立登記を終え、1942年6月15日に本庄工場を開設した。同年9月には三河島の研究所を、土地建物と特許権あわせて10万円で田辺商店に移譲した。
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)「本庄工場の開発」
- [13]市販品の市場が戦時下に次第にせばめられ、合資会社桜ケ岡研究所は資本金一八万円の会社になったが、資金統制で増資の可能性はなく、第二の会社、姉妹会社を設立して資金を強化し事業を拡大する道を選ばざるを得なかった。九月七日に所長内藤と堀井、粕谷、清水で本庄工場(鶴巻製糸、敷地約四、〇〇〇坪)の再調査を行ない、取引契約を終えた
- [14]市販品の市場が戦時下に次第にせばめられ、合資会社桜ケ岡研究所は資本金一八万円の会社になったが、資金統制で増資の可能性はなく、第二の会社、姉妹会社を設立して資金を強化し事業を拡大する道を選ばざるを得なかった。九月七日に所長内藤と堀井、粕谷、清水で本庄工場(鶴巻製糸、敷地約四、〇〇〇坪)の再調査を行ない、取引契約を終えた
- [15]日本衛材株式会社は土地の登記につづいて一二月六日に設立登記が完了した。工場が開設されたのは一七年六月一五日であった
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)「研究所を田辺に移譲」
- [16]一七年九月二六日、田辺商店専務田辺金次郎氏と桜ケ岡研究所代表者内藤豊次との間に移管申し合わせ書が交換され、三河島の研究所は田辺商店の研究機関として発足することになった。譲渡代金は土地建物と特許権あわせて金一〇万円
当時の内藤豊次氏は東京田辺の常務と新薬部長を兼ね、自分の2社には毎週木曜の晩しか足を運ばなかった。1943年5月に田辺元三郎氏が応召から戻ると田辺商店の方針が一変し、内藤豊次氏は同年夏、満55歳の定年を機に田辺商店を退いた。企業整備令で小規模の会社が合併か廃業を迫られるなか、2社の合併で存続の単位を確保する運動を続け、1943年12月26日に日本衛材の存続が認められた。1944年2月に2社を合併して社名を日本衛材に一本化し、本社を小石川竹早町に置いた。
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)
- [17]内藤は当時東京田辺の常務として、また新薬部長として同社にとって唯一人の指導者であり、研究所にくるのは毎週木曜日の晩だけであった。昭和一八年五月、田辺商店社長田辺元三郎氏が応召解除となり田辺にかえると田辺の方針は一変した
- [18]内藤は当時東京田辺の常務として、また新薬部長として同社にとって唯一人の指導者であり、研究所にくるのは毎週木曜日の晩だけであった。昭和一八年五月、田辺商店社長田辺元三郎氏が応召解除となり田辺にかえると田辺の方針は一変した
- [19]昭和一八年の夏でした。満五五歳の定年を機に三〇年勤続の田辺商店をやめることになりました(社長内藤豊次「創業史に寄せて」)。半生を田辺につくし五五歳の定年をむかえた内藤は、みずから育てた幼い日本衛材に専念することになった
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)「戦争苛烈をきわむ」
- [20]政府の企業整備令により資本金五〇万円以下の会社組織は強制合併または廃業の道をえらぶべく指令された。合資会社桜ケ岡研究所と日本衛材株式会社は両社の合併により最小限度の単位を確保すべく、はげしい運動をつづけた結果、海軍のお声がかりで、ついに日本衛材株式会社の存続がみとめられることになった。一八年一二月二六日のことである
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「エーザイ」
- [21]内藤豊次氏は昭和一八年八月、田辺を辞して両社の経営に専念、昭和一九年二月両社を合併し、社名も日本衛材㈱一本に改め、本社を小石川竹早町に設け、三六万円の資本金で製薬企業体として新しく出発することになった
その後、1955年5月に商号をエーザイへ改め、1961年9月に東京証券取引所第1部へ上場した。1966年、内藤豊次氏は46歳の子、内藤祐次氏に社長を譲り、会長に就任した。
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [22]1955年5月 社名を現在の「エーザイ株式会社」に変更。1961年9月 東京証券取引所市場第一部に上場
- 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
- [23]昭和四十一年、私が四十六歳のとき、父親から社長の座をゆずり受けた。私が故豊次会長から社長のバトンタッチを受けたのは四十六歳の時であった(内藤祐次)
業績貢献
内藤豊次氏:在任中の業績貢献
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1956年5月期 | 14億円 | — | — | — | 長期経営計画「三六計画」を公表 | |
| 1957年5月期 | 20億円 | +37.1% | — | — | 本社ビル(東京)が竣工 | |
| 1958年5月期 | 24億円 | +23.4% | — | — | ||
| 1959年3月期 | 25億円 | +3.3% | — | — | ||
| 1960年3月期 | 37億円 | +48.6% | — | — | 株式を公開 | |
| 1961年3月期 | 44億円 | +18.0% | — | — | ||
| 1962年3月期 | 53億円 | +20.4% | 20.0% | — | 東京証券取引所第1部に株式上場 | |
| 1963年3月期 | 68億円 | +28.8% | 23.4% | — | ||
| 1971年3月期 | 355億円 | — | — | — |
参考文献3件
参考文献
- エーザイ創業史(エーザイ株式会社社史編纂委員会編, 1964年)
- 内藤祐次『エーザイ五十年と私』(1991年)
- エーザイ Annual Report 2003「CORPORATE HISTORY」
事実根拠:出所(エーザイ)