第2章 年〜年

日本新薬:サントニン依存からスパイス・ケンダによる食品事業への多角化

蛔虫感染率の低下によるサントニン依存からの脱却

1949年〜駆虫対策五カ年計画とサントニンの増産

戦後の日本新薬を立て直したのは、国の保健政策だった。終戦直後の食糧事情と衛生環境の悪化を背景に、全国の蛔虫感染率は1949年の62.9パーセントを最高として、前後の年も60パーセント前後の高率で推移していた。厚生省は1948年11月8日に駆虫対策五カ年計画を発表したが、その中身は駆虫剤の供給を増やす対策そのものだった。蛔虫駆除薬の主役であるサントニンを国内で唯一つくっていた日本新薬は、この計画に対応して独自の増産五カ年計画を立て、原草ミブヨモギからサントニンまで一貫した増産を進めた。1949年6月には京都証券取引所へ株式を上場し、増産に必要な資金を市場から取れる形にしている。国の政策目標と自社の主力製品が正面から重なる、まれな局面だった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [1]1940年代後半の全国蛔虫感染率は厚生省調べで1949年の62.9パーセントを最高とし、他の年も60パーセント前後の高率を示した
    • [2]1948年11月8日に厚生省が発表した駆虫対策五カ年計画は、駆虫剤の供給増加対策そのものだった
    • [3]サントニンの国内唯一のメーカーだった日本新薬は、厚生省の駆虫対策五カ年計画に対応して独自にサントニン増産五カ年計画を策定し、原草ミブヨモギからサントニンへ一貫した増産対策を推進した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [4]1949年6月に京都証券取引所へ株式を上場した

増産の成果は、競争相手を呼び込むことでもあった。1951年8月28日にサントニンの配給統制が解かれ、全製品にわたって自由競争の時代が始まった。競争優位の源泉が原草を握ることにある以上、争点もまた畑にあった。アメリカ向けの輸出も、同じ年から三菱商事を通じて始まっていた。ところが1952年、日本新薬がミブヨモギを在来種から山科二号へ替えるため在来種の買い取りをやめると告げると、その前後から原草が横流しされ始め、翌年から1954年にかけては岐阜・富山・東京の同業者が北海道にブローカーを差し向け、日本新薬を上回る値でミブヨモギを買い集めたり新しい製法特許を出願したりして、その独占を突き崩そうとする出来事が続いた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [5]1951年8月28日に主力製品サントニンの配給統制が解除され、全製品にわたって自由競争時代を迎えた
    • [6]1951年に三菱商事を通じてサントニンをアメリカ向けに初輸出し、以後の輸出入業務は主に三菱商事へ依頼することになった
    • [7]1952年にミブヨモギの栽培を在来種から山科二号へ切り替えるため在来種の購入打ち切りを栽培農家へ通告したところ、その前後から原草の横流し傾向が現れた
    • [8]1953年から1954年にかけて、岐阜・富山・東京の同業が北海道へブローカーを進出させ、日本新薬より高値でミブヨモギを買い入れたり新たな製法特許を申請したりして独占を崩しにかかる特許侵害事件が相次いだ

サントニンは駆虫剤としての使命を果たし、その結果として自らの市場を消した。蛔虫感染率が下がるにつれて売れ行きは落ち、減退が始まったのは1954年9月期ごろである。年間の売上高は1953年の10億7800万円から1958年には8億1100万円へ、2億6600万円、およそ25パーセント減った。減少分はほぼすべてサントニンによるもので、同じ期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、88.7パーセント落ちている。次の柱に育つはずの神経痛・リウマチ治療剤アミピロは発売したばかりで、主力の交代には間に合わなかった。病気そのものを減らした製品は、減らした分だけ自社の収益を削るという構造を、日本新薬はここで正面から引き受けることになった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [9]国産サントニンは駆虫剤本来の使命を達成して蛔虫感染率を減少させたが、基幹製品であっただけに売上減の業績への影響は甚大だった
    • [10]サントニンの売れ行き減退が始まったのは1954年9月期ごろだった
    • [11]年間売上高は1953年の10億7800万円から1958年の8億1100万円へ、2億6600万円・約25パーセント減少した
    • [12]同期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、7億8200万円・88.7パーセント減少した
    • [13]次代の大型製品に育つ神経痛・リウマチ治療剤アミピロは1954年9月期には発売したばかりで育成過渡期にあり、基幹製品の交代に時間的なずれが生じた
参考文献[1]-[13]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [1]1940年代後半の全国蛔虫感染率は厚生省調べで1949年の62.9パーセントを最高とし、他の年も60パーセント前後の高率を示した
    • [2]1948年11月8日に厚生省が発表した駆虫対策五カ年計画は、駆虫剤の供給増加対策そのものだった
    • [3]サントニンの国内唯一のメーカーだった日本新薬は、厚生省の駆虫対策五カ年計画に対応して独自にサントニン増産五カ年計画を策定し、原草ミブヨモギからサントニンへ一貫した増産対策を推進した
    • [5]1951年8月28日に主力製品サントニンの配給統制が解除され、全製品にわたって自由競争時代を迎えた
    • [6]1951年に三菱商事を通じてサントニンをアメリカ向けに初輸出し、以後の輸出入業務は主に三菱商事へ依頼することになった
    • [7]1952年にミブヨモギの栽培を在来種から山科二号へ切り替えるため在来種の購入打ち切りを栽培農家へ通告したところ、その前後から原草の横流し傾向が現れた
    • [8]1953年から1954年にかけて、岐阜・富山・東京の同業が北海道へブローカーを進出させ、日本新薬より高値でミブヨモギを買い入れたり新たな製法特許を申請したりして独占を崩しにかかる特許侵害事件が相次いだ
    • [9]国産サントニンは駆虫剤本来の使命を達成して蛔虫感染率を減少させたが、基幹製品であっただけに売上減の業績への影響は甚大だった
    • [10]サントニンの売れ行き減退が始まったのは1954年9月期ごろだった
    • [11]年間売上高は1953年の10億7800万円から1958年の8億1100万円へ、2億6600万円・約25パーセント減少した
    • [12]同期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、7億8200万円・88.7パーセント減少した
    • [13]次代の大型製品に育つ神経痛・リウマチ治療剤アミピロは1954年9月期には発売したばかりで育成過渡期にあり、基幹製品の交代に時間的なずれが生じた
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [4]1949年6月に京都証券取引所へ株式を上場した

1959年〜成人病領域への転換と食品事業への技術転用

穴を埋める手は、大型製品を一本立てることではなく、中規模の製品を並べることだった。1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は、主なものだけで20余り、細かいものを合わせると56品目に達した。熟眠剤イソミタール、心臓薬コルフィリン、神経痛治療剤アミピロと、成人病に関わる薬が順に並んでいる。生産の側も作り替えた。1954年3月、西大路工場の敷地内に総合工場が完成する。当初は注射薬工場の改善から出た話だったが、競争の激化を前に試験・製剤・包装の生産ラインを一新する構想へ膨らみ、予算約4400万円の鉄筋コンクリート5階建てとして建てられた。1957年2月には本社と壬生工場もこの敷地へ移り、開発から製造までが一か所にまとまった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [14]1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は主なもので20余、その他を合わせると56品目にのぼった
    • [17]総合工場は注射薬工場の改善・新築から出発し、競争激化を受けて試験・製剤・包装部門の生産ライン一新へ構想が拡大した。予算は約4400万円、鉄筋コンクリート造り地上5階建て塔屋付きだった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [15]1950年のイソミタール(熟眠剤)、1953年のコルフィリン(心臓薬)、1954年のアミピロ(神経痛治療剤)などによりサントニンの需要衰退をカバーした
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [16]1954年3月に西大路工場内へ総合工場を新設した
    • [18]1957年2月に本社・壬生工場を西大路工場の敷地内へ移転した

食品への進出は、失った設備と技術の行き先を探した結果だった。1961年5月にスパイス工場を建て、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売する。パプリカやナッツメグなど18種類の単品と、取引先ごとに調合したミックスを揃えたこの製品は、当時興隆期にあったハム・ソーセージ業界、とりわけ全盛だった魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた。次の一手は、サントニンの需要減少で低操業に陥っていた札幌工場に向かった。1964年11月から、北海道産の玉葱を原料に、抽出と濃縮という得意の技術を生かした玉葱エキスの試験製造を始めたのである。サントニン工場用に払い下げを受けていた盛岡の用地も1965年に食品工場への転用が許され、1966年12月に食品専門の盛岡工場が竣工した。

  • 有価証券報告書(沿革)
    • [19]1961年5月にスパイス工場を新設し、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売して食品事業へ参入した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [20]スパイス・ケンダはパプリカ・ナッツメグ・タイムなど18種類の単品とユーザーごとの調合品からなり、発売当時に全盛を迎えていた魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた
    • [21]サントニンの需要減少で低操業を余儀なくされていた札幌工場において、北海道産玉葱を原料に抽出・濃縮技術を生かした玉葱搾汁の濃縮エキスの試験製造を1964年11月から開始した
    • [22]サントニン工場用として払い下げを受けた盛岡工場用地は1965年11月に食品工場への転用が許可され、1966年12月3日に食品専門工場として盛岡工場が竣工した

医薬品の側では、他社と正面から競合しない領域を選ぶ方針が固まった。1962年4月に新研究所を設け、脳卒中治療剤チトマックや前立腺肥大症治療剤エビプロスタットのように、大手が手を付けにくい適応の製品を続けて開発した。1968年3月末の時点で、半期に1億円を超える主力品は11品目に達している。1本の大型製品が全体を支える形は、ここで完全に崩れた。伝え方も合わせて変えた。1968年3月からは全国紙の朝刊で企業広告を始め、当初の企業紹介から、成人病関連の製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ予防の健康情報を届ける形へ切り替えている。単一製品の会社という像を、成人病を扱う会社という像へ置き直す作業だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [23]1962年4月に新研究所を新設し、チトマック(脳卒中治療剤)、アポプレクタール、サーカネッテン、エビプロスタット(前立腺肥大症治療剤)など他メーカーと競合しない医薬品を開発した
    • [24]1968年3月末現在で半期1億円を越す主力品は11品目に達していた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [25]1968年3月から全国紙の朝刊全国版と京都新聞で全5段の企業広告を開始し、当初の企業紹介シリーズから、成人病関連製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ成人病予防の健康情報を提供する形へ切り替えた
参考文献[14]-[25]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [14]1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は主なもので20余、その他を合わせると56品目にのぼった
    • [17]総合工場は注射薬工場の改善・新築から出発し、競争激化を受けて試験・製剤・包装部門の生産ライン一新へ構想が拡大した。予算は約4400万円、鉄筋コンクリート造り地上5階建て塔屋付きだった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [15]1950年のイソミタール(熟眠剤)、1953年のコルフィリン(心臓薬)、1954年のアミピロ(神経痛治療剤)などによりサントニンの需要衰退をカバーした
    • [23]1962年4月に新研究所を新設し、チトマック(脳卒中治療剤)、アポプレクタール、サーカネッテン、エビプロスタット(前立腺肥大症治療剤)など他メーカーと競合しない医薬品を開発した
    • [24]1968年3月末現在で半期1億円を越す主力品は11品目に達していた
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [16]1954年3月に西大路工場内へ総合工場を新設した
    • [18]1957年2月に本社・壬生工場を西大路工場の敷地内へ移転した
    • [19]1961年5月にスパイス工場を新設し、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売して食品事業へ参入した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [20]スパイス・ケンダはパプリカ・ナッツメグ・タイムなど18種類の単品とユーザーごとの調合品からなり、発売当時に全盛を迎えていた魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた
    • [21]サントニンの需要減少で低操業を余儀なくされていた札幌工場において、北海道産玉葱を原料に抽出・濃縮技術を生かした玉葱搾汁の濃縮エキスの試験製造を1964年11月から開始した
    • [22]サントニン工場用として払い下げを受けた盛岡工場用地は1965年11月に食品工場への転用が許可され、1966年12月3日に食品専門工場として盛岡工場が竣工した
    • [25]1968年3月から全国紙の朝刊全国版と京都新聞で全5段の企業広告を開始し、当初の企業紹介シリーズから、成人病関連製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ成人病予防の健康情報を提供する形へ切り替えた

1970年〜GMPへの先行実施と安全性規制への対応

1970年代に入ると、競争の焦点は製品から製造管理の水準へ移った。国が医薬品の製造管理および品質管理の基準を完全実施する期限は1979年4月だったが、日本新薬はこれに先んじて工場の作り替えに入った。1974年5月に京都工場のGMP化工事を起こし、翌月には小田原工場の北第二工場を基準に準じて起工している。清潔度に応じた区画で工程間の汚染を防ぎ、中央秤量室に二重チェックの仕組みを置き、製造記録の様式を整えて完全に保管する体制まで作り込んだ。一連の工事に投じた金額は6億2800万円にのぼった。旧来の工場を基準へ適合させたモデルとして、完成当初は同業他社の見学者が相次いだ。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [26]国と業界はGMPを1979年4月より完全実施の状態に置くこととしていた
    • [27]1974年5月11日に京都工場のGMP化工事を起工し、6月13日には小田原工場の北第二工場をGMPに準じて起工した
    • [28]GMP関連工事により、清潔度に即応した区画による内部交差汚染の防止、中央秤量室の設置と二重チェックシステムの確立、製造記録様式の整備と完全保管などを達成した
    • [29]一連のGMP関連工事に6億2800万円を投入した
    • [30]旧工場をGMP化したモデル工場として、完成当座は両工場に同業他社からの参考見学者が多かった

規制は製造の現場だけでなく、開発の原価構造そのものを押し上げた。新薬の承認基準が厳格になるにつれて安全性試験の項目が増え、動物試験の比重も大きくなって、試験の件数は1970年以降に急増した。1978年4月には医薬品の薬効再評価が実施され、すでに売っている薬についても効果を証明し直す必要が生じた。翌1979年9月7日には薬事法の一部改正と薬害救済制度の創設が重なっている。工場の外では公害への対応も求められ、1970年7月に公害防止対策委員会を置いて全社的な取り組みを始めた。開発費も設備投資も、売るための支出から売り続けるための支出へ性格を変えていった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [31]新薬承認基準の厳格化にともなう安全性試験項目の増加と動物試験の比重増大により、試験は1970年以降急増した
    • [34]1970年7月に公害防止対策委員会を設置し、工場の無公害化に向けた全社的な活動を開始した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
    • [32]1978年4月に医薬品の薬効再評価が実施された
    • [33]1979年9月7日に薬事法の一部改正および薬害救済制度の創設が行われた

自前で起こす薬だけでは、規制の強化に見合う開発の速度を保てなかった。1971年にはイタリアの製薬会社から導入した血圧降下剤アンダノールと、フランスの製薬会社から導入した胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを相次いで発売している。原草の探索から始めた国産主義は、海外からの導入を組み合わせる形へ広がった。売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期には346億円へ伸び、経常利益も20億円から45億円になった。単一の大型製品が消えてから四半世紀をかけて、日本新薬は複数の製品と複数の事業で伸びる会社へ作り替えられていた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [35]1971年9月6日にイタリア・インベルニィデラベファ社との提携品である血圧降下剤アンダノールを、同年12月1日にフランス・ローンプーラン社との提携品である胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを発売した
  • 会社年鑑
    • [36]単体の売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期の346億円へ、経常利益は20億円から45億円へ増加した
参考文献[26]-[36]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [26]国と業界はGMPを1979年4月より完全実施の状態に置くこととしていた
    • [27]1974年5月11日に京都工場のGMP化工事を起工し、6月13日には小田原工場の北第二工場をGMPに準じて起工した
    • [28]GMP関連工事により、清潔度に即応した区画による内部交差汚染の防止、中央秤量室の設置と二重チェックシステムの確立、製造記録様式の整備と完全保管などを達成した
    • [29]一連のGMP関連工事に6億2800万円を投入した
    • [30]旧工場をGMP化したモデル工場として、完成当座は両工場に同業他社からの参考見学者が多かった
    • [31]新薬承認基準の厳格化にともなう安全性試験項目の増加と動物試験の比重増大により、試験は1970年以降急増した
    • [34]1970年7月に公害防止対策委員会を設置し、工場の無公害化に向けた全社的な活動を開始した
    • [35]1971年9月6日にイタリア・インベルニィデラベファ社との提携品である血圧降下剤アンダノールを、同年12月1日にフランス・ローンプーラン社との提携品である胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを発売した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
    • [32]1978年4月に医薬品の薬効再評価が実施された
    • [33]1979年9月7日に薬事法の一部改正および薬害救済制度の創設が行われた
  • 会社年鑑
    • [36]単体の売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期の346億円へ、経常利益は20億円から45億円へ増加した

1949年〜1981年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 110 n/a 20 10 9.1% n/a
1972年03月期 単体 117 +6.4% 16 8 6.8% n/a
1973年03月期 単体 129 +10.3% 15 7 5.4% n/a
1974年03月期 単体 158 +22.5% 19 7 4.4% n/a
1975年03月期 単体 202 +27.8% 27 7 3.5% n/a
1976年03月期 単体 221 +9.4% 25 9 4.1% n/a
1977年03月期 単体 243 +10.0% 26 8 3.3% n/a
1978年03月期 単体 269 +10.7% 36 12 4.5% n/a
1979年03月期 単体 294 +9.3% 40 13 4.4% n/a
1980年03月期 単体 327 +11.2% 42 15 4.6% n/a
1981年03月期 単体 346 +5.8% 45 16 4.6% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
  • 会社年鑑

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