第1章 年〜年

日本新薬:京都新薬堂の創設と国産サントニンによる垂直統合

ミブヨモギ栽培による輸入サントニンの代替

1911年〜京都新薬堂の開業と日本新薬への改組

市野瀬潜は、輸入新薬を医師へ直に説いて回る職能を先に身につけ、それを元手に独立した人物である。明治末年の京都では、薬舗と称しても和漢薬や家伝薬を扱う店が大半で、蛤貝に詰めた膏薬や丸薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった。そのなかで市野瀬は薬種商である織田自然堂の支配人として、補血滋養剤ヘマトパンなど当時としては目新しい新薬を任され、関東から九州まで自ら回って医家を訪ねた。1910年には常用新薬の定価表を全国の病院と開業医家へ無料で配り、求めに応じて見本を提供している。薬の効能を医師へ直接説く職種が日本の薬業に根づきはじめたのは、ようやく明治の末から大正の初めにかけてのことだった。1911年、市野瀬はヘマトパンの商標を自らの名義へ移したうえで、京都新薬堂を開いた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [1]市野瀬潜は織田自然堂の支配人を務めたのち、京都新薬堂を個人経営した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
    • [2]明治末年の薬業界は和漢薬・家伝薬を扱う薬舗が大部分で、膏薬・丸薬・散薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった
    • [3]市野瀬潜は織田自然堂の支配人として、ヘマトパンを主体に関東・中部・北陸・近畿・九州各地を自ら回った
    • [4]明治43年に常用新薬の定価表を発行し、全国の病院・開業医家へ無料配布して求めに応じ試供見本を提供した
    • [5]医薬品の宣伝を担うプロパの活動が本格化したのは明治末年から大正初年にかけてである
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [6]明治44年9月7日にヘマトパンの商標が市野瀬潜へ譲渡され、同年に京都新薬堂が創設された

京都新薬堂が製造業へ移ったのは、第一次大戦で輸入医薬品が途絶えたときだった。大戦の末期には医薬品の欠乏が国民の医療に支障をきたし、国産医薬品を求める声が高まっていた。市野瀬潜は京都財界の有力者から支援を得て、1919年10月、個人経営だった京都新薬堂を資本金50万円の株式会社へ改組した。払い込みは4分の1にとどまっており、手元の資金が潤沢だったわけではない。翌1920年5月には京都の壬生に本社事務所と工場を構え、皮膚薬ピチロールと催眠剤ブロバリンの製造を始めた。輸入品を取り次いで売る側から、自らつくって売る側へ回ったのである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [7]欧州大戦の末期に医薬品の欠乏が著しく、国産医薬品を求める声が高まった
    • [8]医薬品の欠乏が国民の医療に大きな支障を来たしていた
    • [9]1919年10月、京都財界の有力者の支援を得て京都新薬堂を改組し、資本金50万円の日本新薬株式会社を設立した
    • [10]設立時の資本金50万円は4分の1払込だった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [11]1920年5月に京都壬生へ本社事務所と工場を設け、皮膚薬ピチロール・催眠薬ブロバリンなどの製造を始めた

ところが製造へ回った直後に、参入の前提が崩れた。1920年の戦後恐慌で情勢は一変し、勢いを盛り返した輸入医薬品との競争が重なって、日本新薬は苦境に立たされた。輸入が止まるから国産が要るという条件は、講和とともに消えたのである。それでも研究は手放さず、科学的な基礎に立脚した新薬を順次提供することで、この局面に対処した。1920年春から続く慢性不況のなかで、会社は「堅実漸進」を経営の方針に据えた。競争の焦点を規模の拡張ではなく、他社が持たない製品を時間をかけて育てる側へ移したことになる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [12]1920年の戦後パニックにより、戦後の不況と再び勢力を盛り返した輸入医薬品の競争で苦境に立たされた
    • [13]苦境のなかでも研究を続け、科学的な基礎に立脚した新薬を漸次提供して対処した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [14]1920年春から始まった慢性不況のもとで「堅実漸進」を経営方針に掲げた
参考文献[1]-[14]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [1]市野瀬潜は織田自然堂の支配人を務めたのち、京都新薬堂を個人経営した
    • [11]1920年5月に京都壬生へ本社事務所と工場を設け、皮膚薬ピチロール・催眠薬ブロバリンなどの製造を始めた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
    • [2]明治末年の薬業界は和漢薬・家伝薬を扱う薬舗が大部分で、膏薬・丸薬・散薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった
    • [3]市野瀬潜は織田自然堂の支配人として、ヘマトパンを主体に関東・中部・北陸・近畿・九州各地を自ら回った
    • [4]明治43年に常用新薬の定価表を発行し、全国の病院・開業医家へ無料配布して求めに応じ試供見本を提供した
    • [5]医薬品の宣伝を担うプロパの活動が本格化したのは明治末年から大正初年にかけてである
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [6]明治44年9月7日にヘマトパンの商標が市野瀬潜へ譲渡され、同年に京都新薬堂が創設された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [7]欧州大戦の末期に医薬品の欠乏が著しく、国産医薬品を求める声が高まった
    • [8]医薬品の欠乏が国民の医療に大きな支障を来たしていた
    • [9]1919年10月、京都財界の有力者の支援を得て京都新薬堂を改組し、資本金50万円の日本新薬株式会社を設立した
    • [10]設立時の資本金50万円は4分の1払込だった
    • [12]1920年の戦後パニックにより、戦後の不況と再び勢力を盛り返した輸入医薬品の競争で苦境に立たされた
    • [13]苦境のなかでも研究を続け、科学的な基礎に立脚した新薬を漸次提供して対処した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [14]1920年春から始まった慢性不況のもとで「堅実漸進」を経営方針に掲げた

1926年〜ミブヨモギの発見と国産サントニンの確認

日本新薬が狙いを定めたのは、駆虫薬サントニンだった。サントニンはソ連の独占品で、原料となるアルテミシア・シナは国外へ持ち出すことが禁じられていた。一方の日本は寄生虫王国と呼ばれるほどで、蛔虫の感染は都市にも農村にも広がっており、需要は国内にあるのに供給源は他国が握っている状態だった。日本新薬が最初に調べ尽くした日本産のヨモギ60余種には、サントニンは少しも含まれておらず、外国のヨモギを何種か取り寄せて育てる試みもみな失敗した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [15]1927年に虫下しサントニンの国産化を企てた
    • [16]サントニンはソ連が独占し、その原料植物の国外持出しは禁止されていた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [17]古来わが国は寄生虫王国といわれ、都市・農村を問わず蛔虫の感染が広がっていた
    • [18]日本産のヨモギ60余種をことごとく調べたが、サントニンは全く含有していなかった
    • [19]外国産のヨモギをいくつか取り寄せて栽培を試みたが、いずれも失敗に終わった

ロンドンで出ていた薬業雑誌を1926年11月に調べていた取締役技師長の高田桂が、ドイツのチューリンゲン地方でアルテミシア・シナが栽培されているとの記事を見つけ、社外から突破口が開けた。記事は市野瀬潜の手で、スウェーデンで外交官を務めていた親戚の出納功に送られ、現地での調査と種子の入手が頼まれた。苦労の末に出納がストックホルムの種苗店で入手した種子は2グラム、約3000粒で、1927年3月5日に市野瀬の手元へ届いた。これを播いて育ったのは60本ほどで、秋まで残ったのは30株ほどにとどまった。1929年8月23日、研究部長の伏見新造らが乾草2.68キログラムから3.5グラムの物質を抽出し、市野瀬が自ら試服して黄色く見える視界からサントニンだと確かめた。壬生の地に根を下ろしたヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと名づけられた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [20]1926年11月、取締役技師長の高田桂がロンドン発行の雑誌でドイツのチューリンゲン地方におけるアルテミシア・シナ栽培の記事を見付けた
    • [21]市野瀬潜は、スウェーデン駐在の外交官で親戚の出納功へ調査と種子の入手方を依頼した
    • [22]出納功がストックホルム市内の種苗店で入手した種子2グラム・約3000粒が1927年3月5日に市野瀬潜の手もとへ届いた
    • [23]会社の裏畑に播いた種から60本ばかりが生育し、秋まで生長をつづけたものは30株ほどであった
    • [24]1929年8月23日、伏見新造と土江好景が乾草2.68キログラムから3.5グラムのサントニン様物質を抽出し、市野瀬潜が試服して確認した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [25]壬生の地に根を下ろして生育したヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと命名された

確認できても、増やせなければ薬にはならない。内地ではミブヨモギの種子がほとんど採れず、増殖は芽分けと挿木に頼るほかなかった。サントニンは花蕾にもっとも多く含まれ、その含有量は0.2から1.5パーセント、しかも開花すれば花も葉も茎も含量を失うため、収穫の時期を外せない。日本新薬は会社の裏畑から始めて、1931年には西院の山の内に畑地を借り、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培に入った。1932年、市野瀬潜は国が事業として取り上げるなら種苗をすべて政府へ寄贈してよいと申し出たが、内務省の技師は私企業のほうが事業の責任遂行に適していると答えている。翌年には栽培研究奨励金の交付が決まり、第1回として2000円を受け取った。原料の栽培そのものを内製化する道は、このとき定まった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [26]内地では種子がほとんど採種できず、ミブヨモギの増殖は芽分けと挿木によるほかなかった
    • [27]サントニンの含量は花蕾にもっとも多く0.2〜1.5パーセント、開花すれば花葉茎とも消失するため収穫時期の選定が重要だった
    • [28]1931年5月に西院山の内赤山町へ畑地一反歩を借り入れ、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培を開始した
    • [29]1932年、市野瀬潜がミブヨモギの官業化に際し種苗のすべてを政府へ寄贈してよいと申し出たのに対し、内務省の松尾仁技師は私企業の方が事業の責任遂行に適していると言明した
    • [30]1933年6月9日に内務省でミブヨモギ栽培研究奨励金の下付が決定され、7月12日に第1回分2000円を受領した
参考文献[15]-[30]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [15]1927年に虫下しサントニンの国産化を企てた
    • [16]サントニンはソ連が独占し、その原料植物の国外持出しは禁止されていた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [17]古来わが国は寄生虫王国といわれ、都市・農村を問わず蛔虫の感染が広がっていた
    • [18]日本産のヨモギ60余種をことごとく調べたが、サントニンは全く含有していなかった
    • [19]外国産のヨモギをいくつか取り寄せて栽培を試みたが、いずれも失敗に終わった
    • [20]1926年11月、取締役技師長の高田桂がロンドン発行の雑誌でドイツのチューリンゲン地方におけるアルテミシア・シナ栽培の記事を見付けた
    • [21]市野瀬潜は、スウェーデン駐在の外交官で親戚の出納功へ調査と種子の入手方を依頼した
    • [22]出納功がストックホルム市内の種苗店で入手した種子2グラム・約3000粒が1927年3月5日に市野瀬潜の手もとへ届いた
    • [23]会社の裏畑に播いた種から60本ばかりが生育し、秋まで生長をつづけたものは30株ほどであった
    • [24]1929年8月23日、伏見新造と土江好景が乾草2.68キログラムから3.5グラムのサントニン様物質を抽出し、市野瀬潜が試服して確認した
    • [26]内地では種子がほとんど採種できず、ミブヨモギの増殖は芽分けと挿木によるほかなかった
    • [27]サントニンの含量は花蕾にもっとも多く0.2〜1.5パーセント、開花すれば花葉茎とも消失するため収穫時期の選定が重要だった
    • [28]1931年5月に西院山の内赤山町へ畑地一反歩を借り入れ、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培を開始した
    • [29]1932年、市野瀬潜がミブヨモギの官業化に際し種苗のすべてを政府へ寄贈してよいと申し出たのに対し、内務省の松尾仁技師は私企業の方が事業の責任遂行に適していると言明した
    • [30]1933年6月9日に内務省でミブヨモギ栽培研究奨励金の下付が決定され、7月12日に第1回分2000円を受領した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [25]壬生の地に根を下ろして生育したヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと命名された

1937年〜西大路工場の抽出設備と戦時下の増産

研究を製品へ変えたのは、抽出を工場の規模で回せる装置だった。1938年3月、本社工場にあった抽出精製の設備はすべて分工場へ移された。翌1939年3月には分工場で工業的中規模のタンク式連続抽出機が完成し、一日およそ130キログラムの原料を仕込んでサントニンの結晶を約300グラム得られるようになり、同年7月には抽出法の特許を取得している。そして1940年5月10日、日本新薬は国産サントニンを初めて発売した。最初の販売量は100キログラム、当初から公定価格が決められ、1キログラム当たり620円だった。原草の探索に着手してから14年が経っていた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [31]1938年3月、本社工場にあった抽出精製設備をすべて分工場へ移設した
    • [32]1939年3月に分工場でタンク式連続抽出機が完成し、一日約130キログラムの原料からサントニンの結晶約300グラムの製造を可能とし、同年7月5日に特許第130933号を取得した
    • [34]最初の販売量は100キログラムで、公定価格は1キログラム当たり620円だった
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [33]1940年5月に国産サントニンを発売した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [35]サントニンの国産化には1926年から15年間の研究を要した

ただしタンク式は仕込みと粕出しが手動で、人手を多く要し、有機溶剤の損失も比較的多かった。日本新薬は大豆油や糠油、カフェイン、除虫菊など類似した工業の抽出装置を見学して回ったが、いずれも原料が違うために参考にならなかった。転用できたのは理化学研究所で研究中だった自動糠油抽出機で、浸出を三段式から四段式へ改良してもらう条件をつけ、1939年6月に買入契約を結んだ。この理研式連続抽出機は1940年12月、分工場から改称した西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に要する人手を5、6人まで減らした。もっとも良質な鋼鉄の不足から付属品に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月である。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [36]タンク式連続抽出機は仕込み・粕出しがバッチ式手動で人手を多く要し、有機溶剤のロスも比較的多い欠点があった
    • [37]大豆油・糠油・カフェイン・エフェドリン・除虫菊など類似工業の抽出装置を見学したが、原料が違うため参考にならなかった
    • [38]理化学研究所で研究中の自動糠油抽出機を浸出三段式から四段式へ改良する条件で、1939年6月に買入契約を結んだ
    • [39]理研式連続抽出機は1940年12月1日に西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に人手は5、6人で足りた
    • [40]良質鋼鉄の不足で付属類に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月だった

陸軍衛生材料本廠は1943年11月5日、有機溶剤はもう供給を約束できないとして、別の抽出法を研究して早急に設備を整えるよう求めてきた。専務の森下弘らは他社のコカ葉やカフェインの工場を見て回り、水浸法で大量に抽出する研究を始め、1944年10月には原料産地の北海道に札幌工場を新たに建てた。だが食糧が足りないなかでミブヨモギの畑は次々と食用作物に切り替えられ、サントニンはほぼ生産できない状態のまま終戦を迎えたのであり、戦争は溶剤に続いて畑も奪った。1946年、市野瀬潜は会長に退き、森下弘が社長に就いた。森下は翌1947年1月から新しい機構を発足させ、人事課と総務部を設けて、創業者の個人経営の色を残す組織を近代経営の軌道へ乗せた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [41]1943年11月5日、陸軍衛生材料本廠が有機溶剤の供給は保証できないとして、代わる抽出法を研究し速やかに設備を完成せよと催促した
    • [42]森下弘専務と石正研究部長が他社のコカ葉・カフェインの水浸法工場を調査し、水浸法による大量抽出法の研究に着手した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [43]1944年10月、サントニンの現地生産のため札幌工場を新設した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [44]ミブヨモギの栽培は食糧不足に伴い食用作物へ転換され、サントニンの生産はほとんど不可能に近い状態で終戦を迎えた
    • [45]1946年、市野瀬潜に代わり森下弘が社長に就任した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
    • [46]1946年12月28日に機構改革を発表し、1947年1月1日から人事課の新設・総務部の設置を含む新機構を発足させて近代経営への軌道を敷いた
参考文献[31]-[46]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [31]1938年3月、本社工場にあった抽出精製設備をすべて分工場へ移設した
    • [32]1939年3月に分工場でタンク式連続抽出機が完成し、一日約130キログラムの原料からサントニンの結晶約300グラムの製造を可能とし、同年7月5日に特許第130933号を取得した
    • [34]最初の販売量は100キログラムで、公定価格は1キログラム当たり620円だった
    • [36]タンク式連続抽出機は仕込み・粕出しがバッチ式手動で人手を多く要し、有機溶剤のロスも比較的多い欠点があった
    • [37]大豆油・糠油・カフェイン・エフェドリン・除虫菊など類似工業の抽出装置を見学したが、原料が違うため参考にならなかった
    • [38]理化学研究所で研究中の自動糠油抽出機を浸出三段式から四段式へ改良する条件で、1939年6月に買入契約を結んだ
    • [39]理研式連続抽出機は1940年12月1日に西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に人手は5、6人で足りた
    • [40]良質鋼鉄の不足で付属類に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月だった
    • [41]1943年11月5日、陸軍衛生材料本廠が有機溶剤の供給は保証できないとして、代わる抽出法を研究し速やかに設備を完成せよと催促した
    • [42]森下弘専務と石正研究部長が他社のコカ葉・カフェインの水浸法工場を調査し、水浸法による大量抽出法の研究に着手した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [33]1940年5月に国産サントニンを発売した
    • [43]1944年10月、サントニンの現地生産のため札幌工場を新設した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [35]サントニンの国産化には1926年から15年間の研究を要した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [44]ミブヨモギの栽培は食糧不足に伴い食用作物へ転換され、サントニンの生産はほとんど不可能に近い状態で終戦を迎えた
    • [45]1946年、市野瀬潜に代わり森下弘が社長に就任した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
    • [46]1946年12月28日に機構改革を発表し、1947年1月1日から人事課の新設・総務部の設置を含む新機構を発足させて近代経営への軌道を敷いた

出典・参考

7件
出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」

免責事項およびポリシー