住友ベークライト:三共からのフェノール樹脂事業継承と住友ベークライトの発足
1932年〜三共からの分社独立と、成形材料の外販が生んだ下請の成形網
日本ベークライトは1932年1月25日、三共のベークライト部門を分離独立させて設立された。ベークライトはアメリカのレオ・ベークランドが1907年に発明したフェノール樹脂の商品名で、三共は高峰譲吉が特許の実施許諾を受けて1911年から試作を始め、1914年に製造販売へ移っていた。設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち1万1,920株を三共が引き受け、社長は三共社長の塩原又策が兼ねた。分離の引き金は収益の乏しさにあり、1926年下期から1932年までのベークライト部の利益累計は4万160円にとどまって、投下資本400万円にほとんど報いていなかった。米国ベークライトコーポレーションとの1926年のロイヤリティー契約は、利益を支えていた積層板が対象外で、実質的な支払いのないまま数年が過ぎていた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [1]1932年1月25日に三共本社で創立総会を開き、1月29日に日本ベークライトの設立登記を行った
- [4]設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち三共が1万1,920株を引き受け、取締役社長は三共社長の塩原又策が兼任した
- [5]1926年下期から1932年までの三共ベークライト部の利益累計は4万160円で、三共の投下資本は400万円であった
- [6]1926年1月11日にベークランドと三共代理人の間でロイヤリティー契約を結んだが、利益を支えていた積層板は契約対象外で、実質的な支払いがないまま数年が経過した
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [2]ベークライト(フェノール樹脂)はアメリカのレオ・ベークランド博士が1907年に発明した合成樹脂である
- [3]高峰譲吉博士が特許権実施の許諾を受け、三共の品川工場で1911年に試作を開始し、1914年に製造販売を始めた
1932年9月、日本ベークライトは成形材料の外販を始めた。三共ベークライト部の時代、成形材料は例外なく自家用として生産され、門外不出とされていた。電気絶縁材料の需要が急に伸びても自社の成形能力では応じきれず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが現れ始めていた。外販に転じると東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が生まれ、フェノール樹脂の用途は食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へと広がった。成形品の生産を自社に限る代わりに、材料を売って下請の成形業者を育て、向島工場の成形部門を補う組織として使う形へ切り替えたことになる。営業は日本橋の三共ビル内に置いた販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日から本格的に始まった。仕入と経理は、1948年に三共が経営権を手放すまで親会社が担い続けた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [7]1932年9月に成形材料の外販を開始した
- [8]成形材料はそれまで例外なく自家用として生産され、門外不出とされてきた
- [9]三共ベークライト部は成形材料を外販せずすべて成形品として売る方針で、電気絶縁材料用の需要急増に対応できず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが登場していた
- [10]成形材料の市販により東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が誕生し、石炭酸樹脂の用途が食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へ拡大した
- [11]外販により下請成形業者を育成し、向島工場成形部門の補助機関として独自の組織を形成する方向へ転じた
- [12]日本橋の三共ビル内の販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日を期して本格営業を開始した
- [13]仕入および経理は親会社である三共が引き続き行ない、この関係は1948年に三共が経営権を放棄するまで続いた
日本ベークライトが戦前に伸ばした需要先は、電話機と人絹の紡糸機という二つの大口だった。1923年の関東大震災で東京と横浜の間の電話施設が壊れ、逓信省が交換方式を手動式から自動式へ改めたことが、フェノール樹脂を電気通信機器へ入れる端緒になった。1932年9月には日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を、総額6,000円余で受注している。人絹の紡糸に使うスピニングポットでは、生産能力を年6,000個から年3万個へ引き上げた。1932年12月に人絹業界が3年間の操業短縮を打ち切ると注文が一挙に増え、紡糸速度の高速化に合わせて布片成形品から強度が2倍の積層品へ主力を移した。販売網は1936年7月の大阪出張所を皮切りに、金型を自社で持って下請工場へ貸し与える方式で広げた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [14]戦前の主力は3号電話機向け成形品と人絹用スピニングポットで、スピニングポットは1950年代においても会社の一方の有力商品であり続けた
- [15]1923年の関東大震災で東京-横浜間の電話施設が破壊され、逓信省が交換方式を手動式から自動式に改めたことが石炭酸樹脂の電気通信機器利用の端緒となった
- [16]1932年9月に日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を価格総計6,000円余で受注した
- [17]1931年度の人絹用スピニングポット使用数を7万4,000個と推定し、生産能力を年間6,000個から年間3万個へ引き上げた
- [18]1932年12月に人絹業界が3年間の長期操短を打ち切って需要が増大し、紡糸速度が毎分4,000回転から1万回転へ高速化したため布片成形品から強度2倍の積層品へ主力を移した
- [19]1936年7月に大阪出張所を発足させ、金型を所有して下請工場に貸与し成形品をつくる方法をとった
参考文献[1]-[19]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [1]1932年1月25日に三共本社で創立総会を開き、1月29日に日本ベークライトの設立登記を行った
- [4]設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち三共が1万1,920株を引き受け、取締役社長は三共社長の塩原又策が兼任した
- [5]1926年下期から1932年までの三共ベークライト部の利益累計は4万160円で、三共の投下資本は400万円であった
- [6]1926年1月11日にベークランドと三共代理人の間でロイヤリティー契約を結んだが、利益を支えていた積層板は契約対象外で、実質的な支払いがないまま数年が経過した
- [7]1932年9月に成形材料の外販を開始した
- [8]成形材料はそれまで例外なく自家用として生産され、門外不出とされてきた
- [9]三共ベークライト部は成形材料を外販せずすべて成形品として売る方針で、電気絶縁材料用の需要急増に対応できず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが登場していた
- [10]成形材料の市販により東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が誕生し、石炭酸樹脂の用途が食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へ拡大した
- [11]外販により下請成形業者を育成し、向島工場成形部門の補助機関として独自の組織を形成する方向へ転じた
- [12]日本橋の三共ビル内の販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日を期して本格営業を開始した
- [13]仕入および経理は親会社である三共が引き続き行ない、この関係は1948年に三共が経営権を放棄するまで続いた
- [14]戦前の主力は3号電話機向け成形品と人絹用スピニングポットで、スピニングポットは1950年代においても会社の一方の有力商品であり続けた
- [15]1923年の関東大震災で東京-横浜間の電話施設が破壊され、逓信省が交換方式を手動式から自動式に改めたことが石炭酸樹脂の電気通信機器利用の端緒となった
- [16]1932年9月に日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を価格総計6,000円余で受注した
- [17]1931年度の人絹用スピニングポット使用数を7万4,000個と推定し、生産能力を年間6,000個から年間3万個へ引き上げた
- [18]1932年12月に人絹業界が3年間の長期操短を打ち切って需要が増大し、紡糸速度が毎分4,000回転から1万回転へ高速化したため布片成形品から強度2倍の積層品へ主力を移した
- [19]1936年7月に大阪出張所を発足させ、金型を所有して下請工場に貸与し成形品をつくる方法をとった
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [2]ベークライト(フェノール樹脂)はアメリカのレオ・ベークランド博士が1907年に発明した合成樹脂である
- [3]高峰譲吉博士が特許権実施の許諾を受け、三共の品川工場で1911年に試作を開始し、1914年に製造販売を始めた
1938年〜石炭酸の配給統制が招いた住友との折半出資と、戦後の経営権移行
1938年8月24日、日本ベークライトは住友化学工業と折半出資で合成樹脂工業所を設立した。資本金100万円を両社が半数ずつ引き受けている。1937年の臨時資金調整法以降、主原料の石炭酸は配給制となり、国内の生産量が少ないうえ爆薬の原料でもあったため大部分が軍需へ回っていた。塩原が提携に応じたのは、原料の入手が有利になり、関西で検討していた分工場の設置にも合うからだった。住友化学の側は、新居浜の設備でホルマリンの原料となるメタノールを作れるようになったことを足場に、肥料専業から総合化学工業への展開を図っていた。覚書は、日本ベークライトの技術すべてを無償かつ無条件で新会社へ提供し、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を新会社が担うと定めた。社名に住友を冠さなかったのは、軍部が住友の進出を好まなかったためでもある。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [20]1938年8月24日の創立総会をもって、日本ベークライトと住友化学の共同出資で株式会社合成樹脂工業所を設立した
- [21]合成樹脂工業所の資本総額は100万円で、1株50円の2万株に分けて日本ベークライトと住友化学が半数ずつ引き受けた
- [22]統制経済への移行で主原料の石炭酸とホルマリンが配給制となり、国内の合成石炭酸は生産量が少なく爆薬原料でもあるため大部分が軍需方面にとられた
- [23]塩原が提携に応じたのは原料入手が有利になることに加え、関西での販売増進に伴う分工場設置を検討していた時期だったためである
- [24]大屋敦が合成樹脂進出を決意したのは新居浜製造所のアンモニア合成工場でホルマリン原料のメタノールを製造できるようになったためで、住友化学を肥料専門から総合化学工業へ展開させることをめざしていた
- [25]1938年6月1日の覚書は、日本ベークライトが有するすべての技術を無償無条件で新会社に提供すること、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を合成樹脂工業所とすることを定めた
- [26]社名に住友の商号を冠さなかったのは、まだその資格のない小規模な事業であったことと、軍部がこの分野への住友の進出を好まなかったことによる
1939年、日本ベークライトは陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる材料を求められ、飛行機用の強化木に乗り出した。大馬力の発動機に合わせて木製プロペラは金属製へ替わっていたが、ボーキサイトの入手難が樹脂を浸み込ませた木材への関心を呼んでいた。1941年3月には住友金属工業と組んで石炭酸樹脂を浸みこませた積層材プロペラの製造試験に入り、1943年に陸軍が半硬化方式、海軍が全硬化方式を採用した。かさばる原料を扱う作業は向島工場の面積に収まらず、亀有から宮野原まで工場を広げ、資本金も1943年からの三度の増資で500万円から1,700万円になった。しかし1943年12月からの割当7,360片に対し、生産実績は1,672片にとどまる。全硬化方式は正式採用の決定が出ないまま空襲の混乱が始まり、実用品は皆無に終わった。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [27]1939年に立川の陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる合成樹脂材料の研究依頼を受け、同年10月よりプロペラ素材・構造材料としての強化木の研究に着手した
- [28]大馬力エンジン搭載の進行で木製プロペラはジュラルミン製に替わっていたが、1939年頃からボーキサイト入手難と低比重材質の要求で強化木への関心が高まった
- [29]1941年3月に住友金属プロペラ製造所と提携して石炭酸樹脂浸漬硬化積層材製プロペラの製造試験に着手し、1943年に陸軍は半硬化積層材方式、海軍は全硬化積層材方式を採用した
- [30]強化木の生産は向島工場の作業面積では足りず、亀有、墨田、大割野、宮野原、西尾、中野に工場を設けた
- [31]資本金は1943年4月に300万円、1943年11月に500万円、1944年12月に400万円を増資し、500万円から1,700万円になった
- [32]1943年12月から1945年2月までのプロペラ素材生産割当はシュワルツ式7,360片、モールド式100片で、生産実績は前者1,672片、後者52片であった
- [33]全硬化積層材方式は正式採用の決定が出ぬまま空襲による混乱が始まり、実用品は皆無であった
1945年3月9日の東京大空襲で、向島工場は延べ坪の71%を焼き、成形部門が大きな打撃を受けた。戦前の石炭酸樹脂製品は全国生産の70%から80%を占めていたが、1948年度の実績は18.5%まで落ちている。1946年8月11日には会社経理応急措置法による特別経理会社に指定され、新旧勘定の分離を迫られた。1948年2月、過度経済力集中排除法の施行とともに三共は経営権を放棄する。1949年2月に850万円を増資して資本金を2,550万円とし、3月には東京と大阪の両証券取引所へ上場して売買が始まった。三共が手放した株の多くを引き受けて新しい大株主になったのは、住友化学工業の前身である日新化学工業と日本カーバイド工業の2社で、筆頭株主はここで入れ替わった。1949年9月末の株主数は744名である。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [34]1945年3月9日の東京大空襲で向島工場の罹災率は建坪で62%、延坪で71%に達し、成形部門が大打撃を受けた
- [35]戦前の石炭酸樹脂製品の生産量は全国の70〜80%を占めていたが、1948年度の実績では18.5%であった
- [36]1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社の指定を受けた
- [38]1948年2月の過度経済力集中排除法の施行とともに、三共は日本ベークライトに対する経営権を放棄した
- [39]1949年2月21日に850万円の増資を行ない資本金を2,550万円とした
- [41]三共が放出した日本ベークライト株の多くを肩代わりして新しい大株主となったのは日新化学工業(現・住友化学工業)と日本カーバイド工業の2社で、1949年に経営権は三共から住友に移った
- 株式会社年鑑 1950年版
- [37]1946年8月に特別経理会社に指定され、1949年7月末日付で決定整備計画変更申請書の認可を受けて新旧勘定を併合した
- [42]1949年9月30日現在の株主数は744名、株式数は510千株であった
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [40]1949年3月 株式上場
参考文献[20]-[42]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [20]1938年8月24日の創立総会をもって、日本ベークライトと住友化学の共同出資で株式会社合成樹脂工業所を設立した
- [21]合成樹脂工業所の資本総額は100万円で、1株50円の2万株に分けて日本ベークライトと住友化学が半数ずつ引き受けた
- [22]統制経済への移行で主原料の石炭酸とホルマリンが配給制となり、国内の合成石炭酸は生産量が少なく爆薬原料でもあるため大部分が軍需方面にとられた
- [23]塩原が提携に応じたのは原料入手が有利になることに加え、関西での販売増進に伴う分工場設置を検討していた時期だったためである
- [24]大屋敦が合成樹脂進出を決意したのは新居浜製造所のアンモニア合成工場でホルマリン原料のメタノールを製造できるようになったためで、住友化学を肥料専門から総合化学工業へ展開させることをめざしていた
- [25]1938年6月1日の覚書は、日本ベークライトが有するすべての技術を無償無条件で新会社に提供すること、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を合成樹脂工業所とすることを定めた
- [26]社名に住友の商号を冠さなかったのは、まだその資格のない小規模な事業であったことと、軍部がこの分野への住友の進出を好まなかったことによる
- [27]1939年に立川の陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる合成樹脂材料の研究依頼を受け、同年10月よりプロペラ素材・構造材料としての強化木の研究に着手した
- [28]大馬力エンジン搭載の進行で木製プロペラはジュラルミン製に替わっていたが、1939年頃からボーキサイト入手難と低比重材質の要求で強化木への関心が高まった
- [29]1941年3月に住友金属プロペラ製造所と提携して石炭酸樹脂浸漬硬化積層材製プロペラの製造試験に着手し、1943年に陸軍は半硬化積層材方式、海軍は全硬化積層材方式を採用した
- [30]強化木の生産は向島工場の作業面積では足りず、亀有、墨田、大割野、宮野原、西尾、中野に工場を設けた
- [31]資本金は1943年4月に300万円、1943年11月に500万円、1944年12月に400万円を増資し、500万円から1,700万円になった
- [32]1943年12月から1945年2月までのプロペラ素材生産割当はシュワルツ式7,360片、モールド式100片で、生産実績は前者1,672片、後者52片であった
- [33]全硬化積層材方式は正式採用の決定が出ぬまま空襲による混乱が始まり、実用品は皆無であった
- [34]1945年3月9日の東京大空襲で向島工場の罹災率は建坪で62%、延坪で71%に達し、成形部門が大打撃を受けた
- [35]戦前の石炭酸樹脂製品の生産量は全国の70〜80%を占めていたが、1948年度の実績では18.5%であった
- [36]1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社の指定を受けた
- [38]1948年2月の過度経済力集中排除法の施行とともに、三共は日本ベークライトに対する経営権を放棄した
- [39]1949年2月21日に850万円の増資を行ない資本金を2,550万円とした
- [41]三共が放出した日本ベークライト株の多くを肩代わりして新しい大株主となったのは日新化学工業(現・住友化学工業)と日本カーバイド工業の2社で、1949年に経営権は三共から住友に移った
- 株式会社年鑑 1950年版
- [37]1946年8月に特別経理会社に指定され、1949年7月末日付で決定整備計画変更申請書の認可を受けて新旧勘定を併合した
- [42]1949年9月30日現在の株主数は744名、株式数は510千株であった
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [40]1949年3月 株式上場
1955年〜1対1の対等合併から、多樹脂を扱う素材企業への品目拡張
1955年3月1日、日本ベークライトと住友化工材工業が合併し、住友ベークライトが発足した。合併を促したのは主力であるフェノール樹脂の地位低下で、恒常的な原料高と製品安のなかで伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂、1952年には塩化ビニル樹脂にも抜かれていた。大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新を進めて品質で対抗できなくなる恐れがある一方、低級品では中小企業に価格で並べなかった。両社の大口出資者であり主原料の供給者でもある住友化学が合併を支援した。形式は日本ベークライトが住友化工材工業を吸収する合併だが、株式は1株につき1株を交付する1対1の対等合併で、資本金は両社を合算した2億2,000万円となった。規程類は大筋で住友化工材のものが踏襲され、初代社長には住友化学から来た原田珍重が就いた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [43]1955年2月1日に両社が合併し、2月28日の株主総会を経て3月1日に住友ベークライトとして正式発足した
- [45]フェノール樹脂は恒常的な原料高・製品安で伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂に、1952年には塩化ビニル樹脂に抜かれた
- [46]大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新と技術開発を進めており品質面で対抗できなくなる恐れがあり、低級品では中小企業の製品に価格競争力がなかった
- [47]両社の大口出資会社であり主原料供給者でもある住友化学が合併を強力に支援した
- [48]合併契約は日本ベークライトが存続して住友化工材を解散させ、額面株式200万株を住友化工材株主に1株につき1株の割合で交付すると定めた
- [49]合併後の資本金は日本ベークライトの1億2,000万円と住友化工材の1億円を合算した2億2,000万円となった
- [50]規程類は大筋において住友化工材のものがそのまま踏襲された
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [44]1955年3月 日本ベークライト㈱と住友化工材工業㈱が合併して住友ベークライト㈱となる
- 日本企業要覧 1961年版
- [51]初代社長には住友化学工業から転じた原田珍重が就任した
両社は同種の製品に別々の商標を付けていたため、1956年6月からは頭にスミを付けた名称にそろえ、成形材料はスミコン、積層品はスミライトとなった。こうした商標と設備の一本化が、合併の後に最初に手がけた仕事だった。組織の面では、1955年3月に定めた事務章程が前身2社の組織を単に寄せ集めた内容にとどまった。そこで2カ月後に技術部を新設し、工場単位で進めていた研究の管理を本社が一手に担う形にした。空襲を避けた疎開工場だった長野県の中野工場は、関連する大工場が周りになく立地に難があり、1957年10月に閉じて成形品を津、西尾、川崎の3工場へ分けた。1959年11月には尼崎工場で行っていた積層板の製造も向島工場へ移している。労働条件の差は段階的に詰められ、労働組合が連合会から単一の組合になったのは合併から5年半後の1960年9月である。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [52]1956年6月11日から新製品名称の使用を開始し、成形材料はスミコン、積層品はスミライト、メラミン樹脂化粧板はデコラとした
- [53]両社は同種製品に別商標を使っており、製品名称の統一が合併後の課題となった
- [54]1955年3月1日制定の事務章程は旧2社の組織をそのまま合体させた程度だったため、5月25日の取締役会で一部改正した
- [55]1955年5月25日の事務章程改正で技術部を設置し、従来各支店や工場が個別に実施していた研究管理を本社技術部門に一元化した
- [56]中野工場は本質的に空爆を避けた疎開工場であり、周辺に関連大工場も存在せず立地条件がきわめて不利であった
- [57]1957年10月31日に中野工場を閉鎖し、成形品製造は津、西尾、川崎の3工場体制となった
- [58]1959年11月28日をもって尼崎工場の積層板製造を中止し、設備をすべて1960年初めに向島工場へ移管した
- [59]労働組合連合会が単一労働組合となったのは1960年9月1日である
1962年、住友ベークライトは横浜市戸塚区に中央研究所を、静岡県藤枝市に静岡工場を開いた。研究は合併後も向島工場の建物を使い、各工場に研究課を置く形のままで、弾力的な運営を妨げていた。2月に発足した中央研究所は敷地31,053平方メートルで、研究を一元的に統轄し、必要な研究を経営の意志に従って進めることが設置の狙いだった。静岡工場の用地選定では、何を作るかを積み上げるのではなく経営陣が描く将来像から広さを決め、約30万平方メートルを取得した。尼崎の敷地の6倍半にあたる。製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸び、フェノール樹脂の構成比は35.8%から26.7%へ下がった。単一の樹脂に寄りかからない品揃えを作ることが、研究と用地の両方に形を与えていた。
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [60]1962年1月 中央研究所(基礎研究所)発足
- [61]1962年10月 静岡工場開設
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [62]合併後の研究部門は向島工場の建物を研究所として使い各工場に研究課を置く形態を残しており、業務の弾力的・有機的運営を妨げる要因となっていた
- [63]中央研究所は1962年2月1日に発足し、敷地面積31,053平方メートル、建築延床面積9,293平方メートルであった
- [64]原田社長は中央研究所の設置について、研究を一元的に統轄して会社の必要とする研究が経営の意志に従って迅速的確に行なわれることを願ってと述べた
- [65]静岡工場の用地選定では、用地の広さは何の生産設備を置くかという積上げ方式でなくトップマネジメントが描く会社の将来の姿の構想によって決定すべきとされ、藤枝市高松地区の約30万平方メートルを購入した
- [66]静岡工場の30万平方メートルは、1938年に着手した尼崎工場の敷地約4万6,000平方メートルの6倍半にあたる
- [67]製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸びた
- [68]品目別売上構成でフェノール樹脂は1955年に35.8%で第1位だったが、1964年には26.7%へ低下した
参考文献[43]-[68]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [43]1955年2月1日に両社が合併し、2月28日の株主総会を経て3月1日に住友ベークライトとして正式発足した
- [45]フェノール樹脂は恒常的な原料高・製品安で伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂に、1952年には塩化ビニル樹脂に抜かれた
- [46]大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新と技術開発を進めており品質面で対抗できなくなる恐れがあり、低級品では中小企業の製品に価格競争力がなかった
- [47]両社の大口出資会社であり主原料供給者でもある住友化学が合併を強力に支援した
- [48]合併契約は日本ベークライトが存続して住友化工材を解散させ、額面株式200万株を住友化工材株主に1株につき1株の割合で交付すると定めた
- [49]合併後の資本金は日本ベークライトの1億2,000万円と住友化工材の1億円を合算した2億2,000万円となった
- [50]規程類は大筋において住友化工材のものがそのまま踏襲された
- [52]1956年6月11日から新製品名称の使用を開始し、成形材料はスミコン、積層品はスミライト、メラミン樹脂化粧板はデコラとした
- [53]両社は同種製品に別商標を使っており、製品名称の統一が合併後の課題となった
- [54]1955年3月1日制定の事務章程は旧2社の組織をそのまま合体させた程度だったため、5月25日の取締役会で一部改正した
- [55]1955年5月25日の事務章程改正で技術部を設置し、従来各支店や工場が個別に実施していた研究管理を本社技術部門に一元化した
- [56]中野工場は本質的に空爆を避けた疎開工場であり、周辺に関連大工場も存在せず立地条件がきわめて不利であった
- [57]1957年10月31日に中野工場を閉鎖し、成形品製造は津、西尾、川崎の3工場体制となった
- [58]1959年11月28日をもって尼崎工場の積層板製造を中止し、設備をすべて1960年初めに向島工場へ移管した
- [59]労働組合連合会が単一労働組合となったのは1960年9月1日である
- [62]合併後の研究部門は向島工場の建物を研究所として使い各工場に研究課を置く形態を残しており、業務の弾力的・有機的運営を妨げる要因となっていた
- [63]中央研究所は1962年2月1日に発足し、敷地面積31,053平方メートル、建築延床面積9,293平方メートルであった
- [64]原田社長は中央研究所の設置について、研究を一元的に統轄して会社の必要とする研究が経営の意志に従って迅速的確に行なわれることを願ってと述べた
- [65]静岡工場の用地選定では、用地の広さは何の生産設備を置くかという積上げ方式でなくトップマネジメントが描く会社の将来の姿の構想によって決定すべきとされ、藤枝市高松地区の約30万平方メートルを購入した
- [66]静岡工場の30万平方メートルは、1938年に着手した尼崎工場の敷地約4万6,000平方メートルの6倍半にあたる
- [67]製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸びた
- [68]品目別売上構成でフェノール樹脂は1955年に35.8%で第1位だったが、1964年には26.7%へ低下した
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [44]1955年3月 日本ベークライト㈱と住友化工材工業㈱が合併して住友ベークライト㈱となる
- [60]1962年1月 中央研究所(基礎研究所)発足
- [61]1962年10月 静岡工場開設
- 日本企業要覧 1961年版
- [51]初代社長には住友化学工業から転じた原田珍重が就任した
筆者考察
この会社の始まりは、技術を買い切れなかったところにある。三共は1911年からベークライトの試作を続けながら、米国ベークライトコーポレーションへ払うべきロイヤリティーを、利益が出ないという理由でほとんど払えずにいた。日米折半で会社を作る構想は流れ、資料の提供も打ち切られた。1932年に三共が98%を出資して日本ベークライトを分けたのは、伸びない部門を身軽にして立て直すためであり、独立というより切り離しに近い。資本金60万円で出発した会社が最初に選んだ手は、門外不出だった成形材料を外へ売ることだった。成形品まで自分で作る代わりに、300軒を超える成形業者へ材料を売り、その下請網の上に立つ。資本を持たない会社の戦い方が、ここで決まった。
戦前から戦後にかけて、この会社の親会社は二度替わった。石炭酸が軍需へ回る配給統制のもとで、日本ベークライトは原料を握る住友化学と折半出資の会社を作り、技術を無償で渡し、名古屋を境に市場を東西で分けた。戦時には飛行機用の強化木へ転じたが、割当7,360片に対して作れたのは1,672片で、残ったのは使われなかった工場だけだった。1948年に三共が経営権を放棄すると、その株を引き受けたのは住友化学の前身である。1955年の合併は、東西に分かれた二つの分身が一つに戻る手続きだった。フェノール樹脂はすでにユリア樹脂と塩化ビニル樹脂に生産量で抜かれており、単一の樹脂で食べていける時代は終わっていた。樹脂の品目を増やすほかに道はなかった。
1932年〜1962年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 7 | n/a | 0 | 0 | 1.9% | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 10 | +42.9% | 0 | 0 | 2.2% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 9 | ▲10.0% | 0 | 0 | 2.0% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 18 | +100.0% | 2 | 0 | 3.5% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 30 | +66.7% | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 38 | +26.7% | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 38 | 0.0% | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 60 | +57.9% | 7 | 1 | 1.7% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 82 | +36.7% | 12 | 3 | 3.7% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 96 | +17.1% | n/a | 6 | 6.3% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 95 | ▲1.0% | n/a | 4 | 4.2% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1959年版 半期合算、会社年鑑(1963年版)、上場会社総覧 1961年版 半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1963年版、1967年版)半期合算
出典・参考
5件
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- 住友ベークライト社史(1986年)
- 株式会社年鑑 1950年版
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- 日本企業要覧 1961年版