住友ベークライト:二度の減量経営を経た半導体封止材への集中
1965年〜中期経営計画による目標管理と、電電公社の要請が促した電子材料
1965年2月27日、原田珍重が会長に退き、野口保固が第2代社長に就いた。原田の10年で資本金は2億2,000万円から33億円、売上高は年18億円から125億円になっていたが、前年からの不況で樹脂業界は設備過剰と値崩れに直面していた。野口は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承という3つの方針を掲げ、同年7月の経営方針では経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則停止を打ち出した。事務用消耗品費や交際費など特定の経費を前期予算比で3割削る目標に対し、12月末までに約4割を削っている。同時に最重要の課題としたのが電気通信器材、すなわちエレクトロニクス部門への進出だった。日本電信電話公社が電子式自動交換機の開発を進め、住友ベークライトにも部品と材料の開発を求めていた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [1]1965年2月27日の定時株主総会と取締役会で原田珍重が取締役会長となり、野口保固副社長が第2代代表取締役社長に就任した
- [2]原田社長時代に資本金は2億2,000万円から33億円へ、売上高は年18億円から125億円へ拡大した
- [3]1965年の不況で企業収益が戦後最低水準に落ち込み、当社業績も予断を許さない状況にあった
- [4]野口新社長は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承の3基本方針を発表した
- [5]1965年7月発表の経営方針は経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則的停止という減量経営を打ち出した
- [6]事務用消耗品費、交際費、旅費交通費、通信費、図書費、広告宣伝費を前期予算比3割削減する目標に対し、1965年12月末で約4割の削減を達成した
- [7]野口社長が最重要課題に掲げたのは電気通信器材事業部門すなわちエレクトロニクス部門への進出であった
- [8]日本電信電話公社が電子式自動交換機(DEX)の開発を進め、当社にも部品・材料の開発を要請していた
1967年、野口社長は3カ年計画を毎年組み替えるローリング方式の中期経営計画を導入した。第1次計画は1967年の売上高170億円から1969年の240億円までを定め、生産性は1人当り月50万円、人員は増やさないと決めている。1967年の実績は168億円で目標に届かず、1人当り生産性も月45万円にとどまった。第2次計画のもと、1969年には売上高254億円と達成率97%まで戻し、生産性は月50万円を超えた。増員を認めない前提で売上目標を実現する手段が事務の機械化で、1966年7月にパンチカードシステムを導入して計算センターを設け、1967年12月には日本電気製の計算機を入れた。従来は何日もかかっていた製品別販売月報の作成が、印刷の完了まで45分に縮んだ。1969年12月期の売上高は136億8,111万円に達した。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [9]1967年に3カ年計画の見直しを毎年実施して各年度に新目標を示すローリング方式を採用した
- [10]第1次中期経営計画の売上高目標は1967年170億円、1968年200億円、1969年240億円で、生産性目標は従業員1人当り月50万円、人員は原則として増員しないとされた
- [11]1967年の実績は売上高168億円で目標未達、1人当り生産性も月45万円にとどまった
- [12]1969年の実績は売上高254億円で達成率97%、生産性は月50万円を突破した
- [13]1966年7月1日にパンチカードシステムを導入して計算センターが発足した
- [14]1967年12月1日に計算センターへ日本電気製NEAC-2200モデル200を設置した
- [15]製品別販売月報や原価計算用販売統計の作成は、従来の何日もかかる作業がコンピュータで印刷完了まで45分に短縮された
- 日本企業要覧 1970年版
- [16]1969年12月期の売上高は13,681,111千円、純利益は443,190千円であった
1968年10月、中央研究所はエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として売り出した。半導体の封止は金属やセラミックによる気密封止が主流だったが、工程が多く管理上の問題が絶えなかった。トランスファー成形による低圧封入なら封入工程を自動化でき、電気特性のばらつきも小さく抑えられる。溶融シリカで寸法変化を小さくし、1970年には離型性を上げたEME-130シリーズを出した。ただし生産量は月産7t程度で始まり、1976年まで動かない。この時期に伸びたのはむしろ銅張積層板で、低温での打抜き性を改めたPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、市場の50%を占めた。住友ベークライトは電子式自動交換機向けのシールド層入り銅張板を1971年8月から供給し、この品目でほぼ独占的な地位を得た。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [17]1968年10月にエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として上市した
- [18]金属やセラミックによるハーメチック封止は多くの工程を必要とし工程管理上の問題が多発していた
- [19]トランスファー成形による低圧封入は封入成形の自動化が可能で、バラツキの少ない高度な電気特性を保持できる利点があった
- [20]溶融シリカの使用で寸法変化を小さくでき、1970年には硬化剤をアミン系に替えて離型性を向上させたEME-130シリーズを開発した
- [21]EME-110、120、130シリーズは当初月産7t程度の数量で生産を開始し、1976年まで生産量に急激な変化はみられなかった
- [22]低温打抜き性を改良したフェノール樹脂銅張積層板スミライトPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、シェア50%を占めた
- [23]電子式自動交換機用シールド層入り銅張板ELC-4776は約2年の試作供試でほぼ独占的地歩を築き、1971年8月の向島工場の量産設備完成とともに供給を開始した
参考文献[1]-[23]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [1]1965年2月27日の定時株主総会と取締役会で原田珍重が取締役会長となり、野口保固副社長が第2代代表取締役社長に就任した
- [2]原田社長時代に資本金は2億2,000万円から33億円へ、売上高は年18億円から125億円へ拡大した
- [3]1965年の不況で企業収益が戦後最低水準に落ち込み、当社業績も予断を許さない状況にあった
- [4]野口新社長は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承の3基本方針を発表した
- [5]1965年7月発表の経営方針は経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則的停止という減量経営を打ち出した
- [6]事務用消耗品費、交際費、旅費交通費、通信費、図書費、広告宣伝費を前期予算比3割削減する目標に対し、1965年12月末で約4割の削減を達成した
- [7]野口社長が最重要課題に掲げたのは電気通信器材事業部門すなわちエレクトロニクス部門への進出であった
- [8]日本電信電話公社が電子式自動交換機(DEX)の開発を進め、当社にも部品・材料の開発を要請していた
- [9]1967年に3カ年計画の見直しを毎年実施して各年度に新目標を示すローリング方式を採用した
- [10]第1次中期経営計画の売上高目標は1967年170億円、1968年200億円、1969年240億円で、生産性目標は従業員1人当り月50万円、人員は原則として増員しないとされた
- [11]1967年の実績は売上高168億円で目標未達、1人当り生産性も月45万円にとどまった
- [12]1969年の実績は売上高254億円で達成率97%、生産性は月50万円を突破した
- [13]1966年7月1日にパンチカードシステムを導入して計算センターが発足した
- [14]1967年12月1日に計算センターへ日本電気製NEAC-2200モデル200を設置した
- [15]製品別販売月報や原価計算用販売統計の作成は、従来の何日もかかる作業がコンピュータで印刷完了まで45分に短縮された
- [17]1968年10月にエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として上市した
- [18]金属やセラミックによるハーメチック封止は多くの工程を必要とし工程管理上の問題が多発していた
- [19]トランスファー成形による低圧封入は封入成形の自動化が可能で、バラツキの少ない高度な電気特性を保持できる利点があった
- [20]溶融シリカの使用で寸法変化を小さくでき、1970年には硬化剤をアミン系に替えて離型性を向上させたEME-130シリーズを開発した
- [21]EME-110、120、130シリーズは当初月産7t程度の数量で生産を開始し、1976年まで生産量に急激な変化はみられなかった
- [22]低温打抜き性を改良したフェノール樹脂銅張積層板スミライトPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、シェア50%を占めた
- [23]電子式自動交換機用シールド層入り銅張板ELC-4776は約2年の試作供試でほぼ独占的地歩を築き、1971年8月の向島工場の量産設備完成とともに供給を開始した
- 日本企業要覧 1970年版
- [16]1969年12月期の売上高は13,681,111千円、純利益は443,190千円であった
1971年〜ニクソン声明と石油危機が強いた、二度の減量経営
1971年8月、住友ベークライトは管理社員へ異例の非常事態宣言を発した。1970年度下期の売上高は180億円の目標を大きく下回る165億円、1971年度上期は154億円まで落ちている。電気機器、通信機、電線、鉄鋼の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がそろって減収となった。売上が減る一方で、人件費、減価償却費、金利といった固定費は増え続けている。8月15日のニクソン声明で円は1ドル360円から308円へ切り上がり、切上げ幅は16.88%となった。経費節減を訴えたが1971年度下期の経常利益は1億8,000万円まで落ち込み、配当は8分に下がる。当時の輸出はソ連向けの電線被覆用ビニルコンパウンドに偏り、1970年には1品目で全輸出額の65.3%を占めていた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [24]1971年8月に管理社員へ異例の非常事態宣言を発して経費節減を訴えた
- [25]1970年度下期の売上高は180億円の目標を下回る165億円、1971年度上期は154億円まで減少した
- [26]電気機器、通信機、電線、鉄鋼業界の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がいずれも大幅減収となった
- [27]売上高が減少する一方で人件費、減価償却費、金利などの固定費は引き続き増加した
- [28]1971年8月15日のニクソン声明を受けて円は1ドル360円から308円となり、切上げ幅は16.88%であった
- [29]1971年度下期の経常利益は1億8,000万円に落ち込み、配当は8分となった
- [30]ソ連向けビニルコンパウンドの輸出は1970年に31億2,758万円で、全輸出額の65.3%を占めた
1975年12月期、住友ベークライトは売上高510億6,200万円と前年から18%減らし、経常損失3億5,600万円を出した。1973年10月の石油危機で石油化学業界が生産制限に入り、一時は原料調達の目処が立たなくなる。1974年半ばからは需要が止まり、減少幅は平均30%に達して各工場が操業短縮に追い込まれた。1974年12月に不況対策委員会を設け、1975年前半で約4億円を節減する対策を打ち出した。追い討ちをかけたのが塩化ビニルの安全性をめぐる騒動である。1975年9月にアメリカ食品医薬品局が硬質塩化ビニル樹脂の食品容器使用へ厳しい基準を提案すると、包装用ビニルシートの対米輸出は止まり、国内でもマーガリン容器用が360tから244tへ落ちた。代替のポリプロピレンのシート設備を1976年2月に尼崎工場へ据えた。
- 日本企業要覧 1976年版
- [31]1975年12月期の年間売上高は510億6,200万円で対前年比18%の減少、経常損失3億5,600万円、当期利益2億6,500万円であった
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [32]1975年度の年間売上高は前年度比18%減、経常損益は3億5,600万円の損失であった
- [33]石油化学業界が原油供給量の大幅削減と価格暴騰でいち早く生産制限を実施したため、一時は原料調達の目処がつかない局面に立ち至った
- [34]1974年6月頃から需要停滞があらわれ、平均30%、製品によっては50%まで減少して各工場とも操業短縮に追い込まれた
- [35]1974年12月26日付で不況対策委員会が発足し、第1次不況対策として1975年1月から6月の期間に約4億円の節減を打ち出した
- [36]1975年に塩ビモノマー騒動が起き、包装用ビニルシートの需要が落ち込んだ
- [37]1975年9月3日のアメリカ食品医薬品局の基準提案を受けて包装用ビニルシートの対米輸出は9月から停止し、マーガリン容器用は1975年前半の360tから後半244tへ、粉乳缶用は213tから75tへ減少した
- [38]代替品としてポリプロピレンに着目し、1976年2月14日に尼崎工場へ月産能力150tのPPシート製造設備を完成させた
1972年度から1978年度までの7年間で、売上高は約370億円から672億円へ伸びた一方、従業員は約3,460名から約2,640名へ減った。1977年12月31日には西尾工場を閉じている。1943年に日本ベークライトの疎開工場として生まれ、1976年度の生産高は約24億円、従業員は210名余を数えたが、建物の老朽化が進みながら住居地域にあって全面建替えが認められず、法の許す範囲で建て替えても採算の合う規模にならなかった。生産していた成形品は津工場と協力各社へ移した。同じ1977年、住友グループ各社で構成する白水会へ正式に加入している。海外では1976年2月にインドネシアで合弁会社を設け、合板用接着剤と原料のホルマリンの現地生産に入った。出資比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字に転じた。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [39]1972年度上期から1978年度下期までの7年間で年間売上高は約370億円から672億円に伸長した
- [40]同じ7年間で従業員数は約3,460名から約2,640名に減少した
- [41]1977年12月31日に西尾工場を閉鎖し、1943年の開設以来33年間の生産活動を終えた
- [42]西尾工場の1976年度生産高は約24億円、従業員は210名余であった
- [43]西尾工場は建家の老朽化が著しいが都市計画法の住居地域内にあり建築基準法上の全面建替えが許されず、法的許容範囲での建替えでは経営適正規模を得られなかった
- [44]西尾工場で生産していた成形品は1977年中に津工場と西尾地区の協力各社などへ移管した
- [45]1977年4月27日に住友グループ16社で構成されていた白水会への正式加入が決定した
- [46]1976年2月4日にインドネシアで合弁会社P.T. Pamolite Adhesive Industryを設立し、ユリア・メラミン樹脂接着剤の製造と原料ホルマリンの自家生産を行った
- [47]P.T. Pamolite Adhesive Industryは当社持株比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字基調に入った
参考文献[24]-[47]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [24]1971年8月に管理社員へ異例の非常事態宣言を発して経費節減を訴えた
- [25]1970年度下期の売上高は180億円の目標を下回る165億円、1971年度上期は154億円まで減少した
- [26]電気機器、通信機、電線、鉄鋼業界の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がいずれも大幅減収となった
- [27]売上高が減少する一方で人件費、減価償却費、金利などの固定費は引き続き増加した
- [28]1971年8月15日のニクソン声明を受けて円は1ドル360円から308円となり、切上げ幅は16.88%であった
- [29]1971年度下期の経常利益は1億8,000万円に落ち込み、配当は8分となった
- [30]ソ連向けビニルコンパウンドの輸出は1970年に31億2,758万円で、全輸出額の65.3%を占めた
- [32]1975年度の年間売上高は前年度比18%減、経常損益は3億5,600万円の損失であった
- [33]石油化学業界が原油供給量の大幅削減と価格暴騰でいち早く生産制限を実施したため、一時は原料調達の目処がつかない局面に立ち至った
- [34]1974年6月頃から需要停滞があらわれ、平均30%、製品によっては50%まで減少して各工場とも操業短縮に追い込まれた
- [35]1974年12月26日付で不況対策委員会が発足し、第1次不況対策として1975年1月から6月の期間に約4億円の節減を打ち出した
- [36]1975年に塩ビモノマー騒動が起き、包装用ビニルシートの需要が落ち込んだ
- [37]1975年9月3日のアメリカ食品医薬品局の基準提案を受けて包装用ビニルシートの対米輸出は9月から停止し、マーガリン容器用は1975年前半の360tから後半244tへ、粉乳缶用は213tから75tへ減少した
- [38]代替品としてポリプロピレンに着目し、1976年2月14日に尼崎工場へ月産能力150tのPPシート製造設備を完成させた
- [39]1972年度上期から1978年度下期までの7年間で年間売上高は約370億円から672億円に伸長した
- [40]同じ7年間で従業員数は約3,460名から約2,640名に減少した
- [41]1977年12月31日に西尾工場を閉鎖し、1943年の開設以来33年間の生産活動を終えた
- [42]西尾工場の1976年度生産高は約24億円、従業員は210名余であった
- [43]西尾工場は建家の老朽化が著しいが都市計画法の住居地域内にあり建築基準法上の全面建替えが許されず、法的許容範囲での建替えでは経営適正規模を得られなかった
- [44]西尾工場で生産していた成形品は1977年中に津工場と西尾地区の協力各社などへ移管した
- [45]1977年4月27日に住友グループ16社で構成されていた白水会への正式加入が決定した
- [46]1976年2月4日にインドネシアで合弁会社P.T. Pamolite Adhesive Industryを設立し、ユリア・メラミン樹脂接着剤の製造と原料ホルマリンの自家生産を行った
- [47]P.T. Pamolite Adhesive Industryは当社持株比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字基調に入った
- 日本企業要覧 1976年版
- [31]1975年12月期の年間売上高は510億6,200万円で対前年比18%の減少、経常損失3億5,600万円、当期利益2億6,500万円であった
1979年〜高付加価値へ寄せた第6次計画と、封止材への生産集中
1979年3月、永松孝信が会長に退き、岡田英之が社長に就いた。石油が足りなくなるのは避けられず、石油化学製品に少しばかりの付加価値を上乗せして稼ぐやり方はいずれ通用しなくなる、という見立てが背景にあった。そうしたなかで同年4月に打ち出されたのが第6次中期経営計画である。目標は最終年度の1981年に経常利益約40億円、自己資本比率30%以上とされた。同じ年度の売上高のうち15%は新製品と改良品で賄う前提だった。挙がったのは高耐熱のフェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、銅張積層板、そして血液回路をはじめとする医療関連製品である。1980年の年頭には、減量経営で得た蓄えはもう尽きたとして、この年を第2次減量経営の時期とした。経常利益は1979年度に42億8,800万円、1980年度に46億2,900万円と目標を上回ったものの、1981年度には25億8,700万円まで下がり、44%の減益となった。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [48]1979年3月29日の定時株主総会と取締役会で永松社長が退任して会長に就任し、岡田英之が社長に就任した
- [49]石油化学製品を原料としてわずかな付加価値を加えて利益を得る構造では、石油不足が避けられない以上限界があるとの判断があった
- [50]1979年4月策定の第6次中期経営計画は最終年度の経常利益を約40億円とし、自己資本比率30%以上の達成を見込んだ
- [51]岡田社長は1979年5月14日の記者会見で最終年度の売上高に新製品・改良品を15%織り込んでいると述べ、高耐熱・難燃フェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、高性能銅張積層板、食品包装用複合シート、医療関連製品などを挙げた
- [52]岡田社長は1980年の年頭に減量経営の過去の遺産はすでに使い果たしたと述べ、この年を第2次減量経営の時期と位置付けた
- [53]経常利益は1978年度20億8,900万円、1979年度42億8,800万円、1980年度46億2,900万円と伸びたが、1981年度は売上高933億円、経常利益25億8,700万円と前期比44%の減益となった
半導体封止材の生産能力は、1970年代の末から10年足らずで200倍を超える階段を上った。1968年に月産7tで始まったEMEは、1975年10月にフェノール硬化系のシリーズを完成させてから動き出し、1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びる。1979年後半に向島工場へ増産設備を入れて月産200t、1981年3月には九州ベークライト工業に月産250tの設備を立てた。九州を選んだのは、電話機需要の伸び悩みで同社の稼働率が上がらず、かつ九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる。1983年10月の第2期工事で九州の能力は月産600tとなり、全社で月産1,000tに達している。国内の集積回路の年間生産額が1976年の1,953億円から1981年の6,937億円へ増えた時期と重なる。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [54]EMEの生産は当初月産7t程度で始まり、1984年11月の宇都宮工場完成で全社の生産能力は月産1,500tとなった
- [55]1975年10月にフェノール硬化系のスミコンEME-155F、153Fシリーズを完成させた
- [56]EMEの生産量は1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びた
- [57]1979年後半に向島工場へ大型増産設備を設置して月産能力200tとし、九州ベークライト工業では1980年4月に月産250t設備の建設に着手して1981年3月6日に竣工した
- [58]EME生産拠点に九州ベークライト工業を選んだのは、電話機需要の伸悩みで稼働率が上がらなかったことと、九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる
- [59]1982年11月に始めた第2期工事が1983年10月8日に完成し、九州ベークライト工業の月産能力は250tから600tへ増えて向島工場を上回り、全社のEME生産能力は月産1,000tとなった
- [60]日本の集積回路の年間生産額は1976年1,953億円、1978年2,823億円、1980年5,702億円、1981年6,937億円と推移した
1984年11月30日、栃木県宇都宮市の清原工業団地に宇都宮工場が竣工した。静岡以来22年ぶりの新工場で、敷地5万平方メートル、EME製造ラインに約30億円を投じ、着工から約8カ月で立ち上げている。市街地に立地する既存の工場には新しい製品の設備を置く余地がなく、生産拠点を作り直す必要があった。これで封止材の生産能力は月産1,500tに増えた。1984年度の売上高は1,234億3,000万円、経常利益60億4,100万円と過去最高になり、設備投資額も106億3,100万円に達している。販売の足場も1980年の米国法人、1982年のシンガポール法人、1984年のオランダ法人と外へ伸ばし、1989年にはシンガポールに工場を構えた。フェノール樹脂の加工技術から出発した会社は、電子材料の供給者として立ち直った。
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [61]1984年4月9日に第1期工事を起工し、11月30日に竣工式を行って11月1日付で宇都宮工場を設置した
- [63]宇都宮市の清原工業団地に敷地5万平方メートルを取得し、建屋面積6,500平方メートルのEME製造ラインの工費は約30億円、工期は約8カ月であった
- [64]市街地に立地するなどの理由で新たな展開の余地の少ない既存の各工場に代わる生産拠点づくりが不可欠であった
- [65]1984年11月の宇都宮工場完成で全社のEME生産能力は月産1,000tから1,500tへ増強された
- [66]1984年度の売上高は1,234億3,000万円で前期比15.9%増、経常利益60億4,100万円、当期利益28億3,500万円と過去最高の水準となった
- [67]1984年度の設備投資総額は前期の2倍強の106億3,100万円であった
- [68]1980年1月に米国にSumitomo Plastics America Inc.、1982年4月にSumitomo Bakelite Singapore PTE. Ltd.、1984年12月にオランダにSumitomo B.V.を設立した
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [62]1984年11月 宇都宮工場を新設
- [69]1989年10月 Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設
参考文献[48]-[69]
- 住友ベークライト社史(1986年)
- [48]1979年3月29日の定時株主総会と取締役会で永松社長が退任して会長に就任し、岡田英之が社長に就任した
- [49]石油化学製品を原料としてわずかな付加価値を加えて利益を得る構造では、石油不足が避けられない以上限界があるとの判断があった
- [50]1979年4月策定の第6次中期経営計画は最終年度の経常利益を約40億円とし、自己資本比率30%以上の達成を見込んだ
- [51]岡田社長は1979年5月14日の記者会見で最終年度の売上高に新製品・改良品を15%織り込んでいると述べ、高耐熱・難燃フェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、高性能銅張積層板、食品包装用複合シート、医療関連製品などを挙げた
- [52]岡田社長は1980年の年頭に減量経営の過去の遺産はすでに使い果たしたと述べ、この年を第2次減量経営の時期と位置付けた
- [53]経常利益は1978年度20億8,900万円、1979年度42億8,800万円、1980年度46億2,900万円と伸びたが、1981年度は売上高933億円、経常利益25億8,700万円と前期比44%の減益となった
- [54]EMEの生産は当初月産7t程度で始まり、1984年11月の宇都宮工場完成で全社の生産能力は月産1,500tとなった
- [55]1975年10月にフェノール硬化系のスミコンEME-155F、153Fシリーズを完成させた
- [56]EMEの生産量は1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びた
- [57]1979年後半に向島工場へ大型増産設備を設置して月産能力200tとし、九州ベークライト工業では1980年4月に月産250t設備の建設に着手して1981年3月6日に竣工した
- [58]EME生産拠点に九州ベークライト工業を選んだのは、電話機需要の伸悩みで稼働率が上がらなかったことと、九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる
- [59]1982年11月に始めた第2期工事が1983年10月8日に完成し、九州ベークライト工業の月産能力は250tから600tへ増えて向島工場を上回り、全社のEME生産能力は月産1,000tとなった
- [60]日本の集積回路の年間生産額は1976年1,953億円、1978年2,823億円、1980年5,702億円、1981年6,937億円と推移した
- [61]1984年4月9日に第1期工事を起工し、11月30日に竣工式を行って11月1日付で宇都宮工場を設置した
- [63]宇都宮市の清原工業団地に敷地5万平方メートルを取得し、建屋面積6,500平方メートルのEME製造ラインの工費は約30億円、工期は約8カ月であった
- [64]市街地に立地するなどの理由で新たな展開の余地の少ない既存の各工場に代わる生産拠点づくりが不可欠であった
- [65]1984年11月の宇都宮工場完成で全社のEME生産能力は月産1,000tから1,500tへ増強された
- [66]1984年度の売上高は1,234億3,000万円で前期比15.9%増、経常利益60億4,100万円、当期利益28億3,500万円と過去最高の水準となった
- [67]1984年度の設備投資総額は前期の2倍強の106億3,100万円であった
- [68]1980年1月に米国にSumitomo Plastics America Inc.、1982年4月にSumitomo Bakelite Singapore PTE. Ltd.、1984年12月にオランダにSumitomo B.V.を設立した
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [62]1984年11月 宇都宮工場を新設
- [69]1989年10月 Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設
筆者考察
1965年から1971年までの6年で、住友ベークライトの半期売上高は60億円から159億円へ3倍近くになった。しかし同じ期間の経常利益の伸びは7割強、当期利益は15%にとどまる。量を積んでも利益が増えない体質を、第2代社長の野口保固は数値目標で締めにかかった。従業員1人当り月50万円、人員は原則として増やさない、3カ年計画を毎年組み替える。この管理が効いた分だけ、次に来た不況は人や設備ではなく製品の中身を問うことになった。輸出の65%を1品目のソ連向け電線被覆材が占めていたように、当時の稼ぎ頭は安く大量に出る汎用品だったからである。
石油危機のあと、住友ベークライトが減らしたのは人だった。1972年度から1978年度の7年で売上高は約370億円から672億円になり、従業員は約3,460名から約2,640名へ800名以上減っている。西尾工場を閉じ、向島と京都も移転を決めた。だが同じ7年のあいだに、月産7tで始まった半導体封止材が、集積回路の生産額の増加に引かれて年ごとに桁を上げていた。1984年の宇都宮工場は、その材料のために建てた22年ぶりの新工場である。減量経営は縮んでいく話に見えて、実際には何を残すかを決める作業だった。残ったのは、フェノール樹脂の加工技術を電子部品の側へ寄せた製品群である。
1963年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1963年12月期 | 単体 | 101 | n/a | n/a | n/a | 3 | 3.0% | 米国Hooker Chemicalとの合弁会社、住友デュレズを設立(1963/12) |
| 1964年12月期 | 単体 | 124 | +22.8% | n/a | n/a | 4 | 3.2% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 124 | 0.0% | n/a | n/a | 3 | 2.4% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 145 | +16.9% | n/a | n/a | 3 | 2.1% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 168 | +15.9% | n/a | n/a | 3 | 1.8% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 204 | +21.4% | n/a | n/a | 5 | 2.5% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 256 | +25.5% | n/a | n/a | 8 | 3.1% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 323 | +26.2% | n/a | 15 | 9 | 2.8% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 314 | ▲2.8% | n/a | 5 | 5 | 1.6% | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 370 | +17.8% | n/a | 14 | 8 | 2.2% | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 530 | +43.2% | n/a | 37 | 15 | 2.8% | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 620 | +17.0% | n/a | 50 | 26 | 4.2% | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 511 | ▲17.6% | n/a | ▲4 | 3 | 0.6% | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 655 | +28.2% | n/a | 9 | 7 | 1.1% | インドネシアで合弁会社P.T. Pamolite Adhesive Industryを設立(1976/02)尼崎工場に月産能力150tのPPシート製造設備を完成(1976/02) |
| 1977年12月期 | 単体 | 634 | ▲3.2% | n/a | 4 | 10 | 1.6% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 672 | +6.0% | n/a | 21 | 12 | 1.8% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 812 | +20.8% | n/a | 43 | 18 | 2.2% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 948 | +16.7% | 54 | 46 | 18 | 1.9% | 九州ベークライト工業で月産250t設備の建設に着手(1980/04) |
| 1981年12月期 | 単体 | 933 | ▲1.6% | n/a | 26 | 13 | 1.4% | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 941 | +0.9% | n/a | 26 | 13 | 1.4% | 中央銘板工業との合弁会社、CMK Singaporeを設立(1982/03)九州ベークライト工業で第2期工事を開始(1982/11) |
| 1983年12月期 | 単体 | 1,065 | +13.2% | n/a | 40 | 18 | 1.7% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 1,234 | +15.9% | n/a | 60 | 28 | 2.3% | 宇都宮工場の第1期工事を起工(1984/04) |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1967年版、1971年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
4件
- 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- 住友ベークライト社史(1986年)
- 日本企業要覧 1970年版
- 日本企業要覧 1976年版