第1章 年〜年

JSR:日本合成ゴムの設立と純民間会社への移行

1957年〜合成ゴム製造事業特別措置法が生んだ官民の会社と、四日市の9万7,418坪

日本合成ゴムは1957年12月10日に設立登記を終え、国策会社として発足した。根拠法の合成ゴム製造事業特別措置法は同年6月1日に施行され、日本開発銀行の出資10億円を含む資本金25億円の枠組みが定まった。国の助成を要した背景にあるのは、巨額の設備資金、創立後しばらく続く赤字の見込み、天然ゴム価格の不安定の3点である。石油化学各社が個別に2万トン級の工場を建てても原料を確保できないため、原料を1か所に集めて集中生産する方式が採られた。法の成立後も引き受け手は現れず、通産大臣の水田三喜男氏は1957年7月3日に日本ゴム工業会会長の石橋正二郎氏へ推進を依頼した。民間単独では負えない初期の赤字を、国の資金で支える設計だったとみられる。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [1]1957年12月9日の創立総会を経て12月10日に登記完了
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)3章 戦後における合成ゴム国産化の推移
    • [2]特別措置法は1957年6月1日施行。開銀出資を10億円とし資本金は25億円に
    • [5]引受けを名乗り出る者がなく、1957年7月3日に水田通産大臣が石橋日本ゴム工業会会長に推進を依頼
  • 証券 22(10) 1970年
    • [3]政府助成の背景は①巨額の設備資金②相当期間の赤字予想③天然ゴム価格の不安定
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [4]各社が2万トン級工場を建てても原料供給と採算が難しく、原料を集めた集中生産として半官半民会社の法案が出た

日本合成ゴムは1958年1月31日、グッドイヤー社とSBR製造の技術導入契約を結んだ。国内では1953年に米国へ調査団を送り、協和醗酵・三菱化成・日本ゼオンが企業化計画を出していた。大規模生産は日本で初めてで、海外技術を導入して量産を早期に立ち上げる方針が設立委員会の段階からあった。グッドイヤー社は1957年5月に米ヒューストンで年産22万トンのSBR工場を完成させ、技術料も他社より割安だった。フードリー社・エッソ社を含む3社の技術料は合計約15億円で、外貨の節約のため4年間の延払い。量産の経験を持たない新会社には、実績ある製法の導入が稼働を急ぐ近道だったと推察される。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [6]1958年1月31日にグッドイヤー社とSBR製造の技術導入契約を締結
    • [8]大規模製造は日本初で、設立委員会時代から海外技術の導入を調査
    • [9]グッドイヤーは1957年5月ヒューストンに年産22万トンのSBR工場を建設、技術料も割安
    • [10]フードリー(2月15日)・エッソ(2月18日)と合わせ技術料は約15億円、契約発効後4年間の延払い
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [7]1953年に調査団を組織して米国を調査し、協和醗酵・三菱化成・日本ゼオンが企業化計画を提出

日本合成ゴムは1958年4月21日、三重県知事の田中覚氏・四日市市長の吉田勝太郎氏と四日市工場の設置協定を結んだ。敷地は市内の候補4地区を地質調査で比べ、岩盤までの深さが10〜20メートルと浅い河原田地区に1958年2月25日に決めた。工場用地として9万7,418.14坪を取得し、別に社員住宅用の丘陵地約3万5,530坪を買収した。協定では県が工業用水の供給と給水単価の上限を、市が幹線道路の敷設と補償問題の解決を引き受けた。四日市では三菱化成・大協石油などの既存工場に三菱油化が加わり、石油化学が繊維に代わる主力産業になりつつあった。用水と道路を県と市が負担したことで、新会社は資金を生産設備に振り向けられたと思われる。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [11]1958年4月21日、田中覚三重県知事・吉田勝太郎四日市市長と石橋社長が設置協定書を締結
    • [12]4候補地のうち岩盤まで10〜20mのC地区(河原田)を1958年2月25日の常務会で決定
    • [13]工場敷地9万7,418.14坪、社員住宅用の丘陵地約3万5,530坪を買収
    • [14]県は工業用水の供給と単価(トン当り4円以下)、市は幅25mの道路と補償問題の解決を協定
  • ゴム時報 38(2) 1959年「日本合成ゴム工場が建つ 四日市というところ(現地を訪ねて)」奥山信一
    • [15]四日市では石原産業・三菱化成・大協石油などに昭和四日市石油・三菱油化・日本合成ゴムが加わり化学工業が主流に
参考文献[1]-[15]
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [1]1957年12月9日の創立総会を経て12月10日に登記完了
    • [6]1958年1月31日にグッドイヤー社とSBR製造の技術導入契約を締結
    • [8]大規模製造は日本初で、設立委員会時代から海外技術の導入を調査
    • [9]グッドイヤーは1957年5月ヒューストンに年産22万トンのSBR工場を建設、技術料も割安
    • [10]フードリー(2月15日)・エッソ(2月18日)と合わせ技術料は約15億円、契約発効後4年間の延払い
    • [11]1958年4月21日、田中覚三重県知事・吉田勝太郎四日市市長と石橋社長が設置協定書を締結
    • [12]4候補地のうち岩盤まで10〜20mのC地区(河原田)を1958年2月25日の常務会で決定
    • [13]工場敷地9万7,418.14坪、社員住宅用の丘陵地約3万5,530坪を買収
    • [14]県は工業用水の供給と単価(トン当り4円以下)、市は幅25mの道路と補償問題の解決を協定
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)3章 戦後における合成ゴム国産化の推移
    • [2]特別措置法は1957年6月1日施行。開銀出資を10億円とし資本金は25億円に
    • [5]引受けを名乗り出る者がなく、1957年7月3日に水田通産大臣が石橋日本ゴム工業会会長に推進を依頼
  • 証券 22(10) 1970年
    • [3]政府助成の背景は①巨額の設備資金②相当期間の赤字予想③天然ゴム価格の不安定
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [4]各社が2万トン級工場を建てても原料供給と採算が難しく、原料を集めた集中生産として半官半民会社の法案が出た
    • [7]1953年に調査団を組織して米国を調査し、協和醗酵・三菱化成・日本ゼオンが企業化計画を提出
  • ゴム時報 38(2) 1959年「日本合成ゴム工場が建つ 四日市というところ(現地を訪ねて)」奥山信一
    • [15]四日市では石原産業・三菱化成・大協石油などに昭和四日市石油・三菱油化・日本合成ゴムが加わり化学工業が主流に

1960年〜石橋正二郎氏が押した触媒冷凍機のスイッチと、輸入SBRの攻勢に耐えて出した年1割の初配当

日本合成ゴムは1960年1月6日に四日市工場で試運転開始の式典を挙げ、社長の石橋正二郎氏が触媒冷凍機のスイッチを押した。1月14日に試作品第1号ができ、4月14日には自社製ブタジエンによる重合が始まった。完成した工場の能力は、ブタジエン年3万3,500トン、SBR年4万5,000トンである。石橋正二郎氏は式典後の挨拶で、設立時に年12〜13万トンだった新ゴム消費量が前年に19万トンへ増えたと示した。そのうえで『当初心配していた需要の不足ということは当らず,意外に早く第2期の拡張工事の必要が出てきた』とし、全工場の完成を急ぐよう社員に求めた。国産の必要を示す根拠が、消費量の増加で操業前から裏づけられた形になったのだろう。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [16]1960年1月6日に試運転開始の式典、石橋社長が触媒冷凍機のスイッチを押す
    • [17]1月14日に試作品第1号、1960年4月14日に自社製ブタジエンの重合開始
    • [19]挨拶で、設立時の新ゴム消費量は年12〜13万トン、前年は19万トン、当年は22万トン見込みと述べる
    • [20]需要不足の懸念は外れ第2期拡張が必要になったとし、3月目途の全工場完成へ努力を求めた
  • 証券 22(10) 1970年
    • [18]1960年4月に四日市工場が完成し、ブタジエン3万3,500トン/年・SBR4万5,000トン/年の設備が稼働

日本合成ゴムは1960年4月に販売を始めた直後から、輸入合成ゴムの値崩れに直面した。同月の合成ゴム輸入量は4,411トン、5月は5,993トンに達し、月約5,000トンの国内消費を輸入品だけで賄える水準にあたる。国内在庫は7月に2万トン台へ膨らみ、設立時に1キログラム220円を目標とした市価は関西の一部で190円を割り込んだ。米国ではグッドイヤー社のSBR能力が年25万7,000トンに達し、戦時中に建てた設備の償却も終えていた。年4万5,000トンの日本合成ゴムは安値の輸入攻勢のもとで稼働率の低迷に苦しんだ。会長の石橋正二郎氏は1967年の創立10周年式典で、当初の2、3年は赤字が続いたと振り返った。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [21]1960年4月の販売開始時、輸入増で市況が悪化し安値競争に
    • [22]1960年4月の合成ゴム輸入4,411トン、5月5,993トン、国内消費は月約5,000トン
    • [23]国内在庫は7月に2万トン台、目標市価220円/kgに対し関西の一部で190円/kg割れ
    • [24]米グッドイヤーのSBR能力25万7,000トン/年、米国工場は戦時建設で償却済み
    • [26]創立10周年式典で石橋会長が、輸入合成ゴムの値下げで2、3年は赤字続きだったと挨拶
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [25]1960年の操業開始時は海外の安値輸入攻勢で稼動率に苦しんだ

日本合成ゴムは第8期(1963年10月〜1964年3月)から年1割の配当を始めた。転機は1961年度で、上半期の1億4,400万円の赤字に対し、下半期は1億9,000万円の利益。同年度はソ連・中国向けの初輸出を含めて約6,000トンを輸出し、売上は約5万トン・89億727万円となった。1962年度は生産量が5万1,447トンから5万8,936トンへ増えて製造原価が下がり、利益金は6億9,200万円に達した。それでも繰越欠損金10億6,700万円は消えず、同年度末に3億7,500万円の欠損金が残った。1967年の業界誌は、1963年度下期から1割配当を続ける日本合成ゴムを合成ゴムの首位メーカーと位置づけた。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [27]第8期(1963年10月1日〜1964年3月31日)から年1割配当、営業開始後約4年
    • [28]1961年度上半期は1億4,400万円の赤字、下半期は1億9,000万円の利益
    • [29]1961年度にソ連・中国向け初輸出、輸出計約6,000トン、売上約5万トン・89億727万円
    • [30]1962年度は生産量5万1,447→5万8,936トンで原価低下、利益金6億9,200万円
    • [31]繰越欠損金10億6,700万円により1962年度末に3億7,500万円の欠損金
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [32]合成ゴムのトップメーカーで38年度下期から1割配当を継続
参考文献[16]-[32]
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
    • [16]1960年1月6日に試運転開始の式典、石橋社長が触媒冷凍機のスイッチを押す
    • [17]1月14日に試作品第1号、1960年4月14日に自社製ブタジエンの重合開始
    • [19]挨拶で、設立時の新ゴム消費量は年12〜13万トン、前年は19万トン、当年は22万トン見込みと述べる
    • [20]需要不足の懸念は外れ第2期拡張が必要になったとし、3月目途の全工場完成へ努力を求めた
  • 証券 22(10) 1970年
    • [18]1960年4月に四日市工場が完成し、ブタジエン3万3,500トン/年・SBR4万5,000トン/年の設備が稼働
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [21]1960年4月の販売開始時、輸入増で市況が悪化し安値競争に
    • [22]1960年4月の合成ゴム輸入4,411トン、5月5,993トン、国内消費は月約5,000トン
    • [23]国内在庫は7月に2万トン台、目標市価220円/kgに対し関西の一部で190円/kg割れ
    • [24]米グッドイヤーのSBR能力25万7,000トン/年、米国工場は戦時建設で償却済み
    • [26]創立10周年式典で石橋会長が、輸入合成ゴムの値下げで2、3年は赤字続きだったと挨拶
    • [27]第8期(1963年10月1日〜1964年3月31日)から年1割配当、営業開始後約4年
    • [28]1961年度上半期は1億4,400万円の赤字、下半期は1億9,000万円の利益
    • [29]1961年度にソ連・中国向け初輸出、輸出計約6,000トン、売上約5万トン・89億727万円
    • [30]1962年度は生産量5万1,447→5万8,936トンで原価低下、利益金6億9,200万円
    • [31]繰越欠損金10億6,700万円により1962年度末に3億7,500万円の欠損金
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [25]1960年の操業開始時は海外の安値輸入攻勢で稼動率に苦しんだ
    • [32]合成ゴムのトップメーカーで38年度下期から1割配当を継続

1964年〜千葉工場とABS樹脂で拡充した品目と、三菱化成が1株3,160円で落札した政府株

日本合成ゴムは1964年10月にNBRなど特殊ゴムへ進出し、1965年4月には汎用ゴムのBRの生産を始めた。BRの技術は、ブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏が1962年6月に自社開発技術の譲渡を決めたことで得た。特殊ゴムへ進出した理由は、SBR国産化の使命を果たして資金に余裕が生じたことと、需要者の要望にある。樹脂では、ABS樹脂の原料となるラテックスJSR0700を1963年4月に発売した。1964年10月には販売先の浜野繊維工業と合弁でハマノレジンを設立し、ABS樹脂の製造を始めている。ブタジエンを起点に誘導品を増やせば、自社の原料設備の稼働を高められるとの判断もあったと考えられる。

  • 証券 22(10) 1970年
    • [33]1964年10月からNBR等の特殊ゴムに進出、1965年4月にBRの生産開始
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [34]1962年6月、ブリヂストンの石橋正二郎社長がシスポリブタジエン技術一切を日本合成ゴムへ譲渡すると決定
    • [35]NBR進出はSBR国産化の使命を果たし資金的余裕が生じ、需要者の要望があったため
    • [36]ABS樹脂用ラテックスJSR0700を1963年4月から市販
    • [37]1964年10月に浜野繊維工業と合弁でハマノレジン(日本合成レジンの前身)を設立

日本合成ゴムは千葉県市原市の五井・姉ケ崎地区に第2工場を建て、1968年5月に完成させた。SBRやBRの需要増で、年9万5,000トンに達した四日市工場のブタジエン能力は1968年以降に不足する見込みとなった。四日市の敷地は余裕を失いつつあり、原料のSCガスの大部分は関東で発生するため、現地でブタジエンにするほうが原価は安かった。1966年8月19日に三井石油化学と約7万坪の譲り受けで合意し、1967年4月13日に起工した。第1期はブタジエン抽出年5万トンの設備で、総工費は55億円にのぼる。千葉工場の完成でブタジエン能力は年14万5,000トン、SBR能力は年17万6,000トンとなり、創立時の4.3倍と3.9倍に拡大した。

  • 証券 22(10) 1970年
    • [38]1968年5月に千葉工場が完成
    • [43]千葉工場完成でブタジエン14万5,000トン/年・SBR17万6,000トン/年、創立時比4.3倍・3.9倍
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [39]四日市のブタジエン能力は年9万5,000トン、SBR・BRの伸びで1968年以降に不足見込み
    • [40]四日市は立地の余裕がなくなりかけ、SCガスの大部分が関東で発生するため現地でブタジエン化が安い
    • [41]1966年8月19日に三井石油化学と約7万坪の譲受けで基本合意、1967年4月13日起工式
    • [42]第1期はブタジエン抽出年産5万トン、総工費55億円

政府は1967年11月22日に保有する日本合成ゴム株式のうち10万株を競争入札にかけ、三菱化成工業が1株3,160円で全株を落札した。政府の持株は資本金25億円の4割にあたり、非上場で放出価格の目安がないことや外資の買い占めへの警戒が処分を遅らせていた。会長の石橋正二郎氏は同年の創立10周年式典で、残りの払い下げが済めば『純然たる民間会社になりまして自由かつ活発に飛躍できるチャンスになると思います』との見通しを示した。政府の出資比率が4割を占めたため、日本合成ゴムは増資を進めにくかった。資本金は1958年11月に25億円となってから、1969年10月に35億円へ増資するまで11年間据え置き。政府持株の放出は、借入金で賄ってきた設備投資を自己資本で支え直し、株式上場へ進む前提になったと推測される。

  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [44]1967年11月2日に処分決定、11月22日に10万株を競争入札、三菱化成工業が1株3,160円で全部落札
    • [46]創立10周年式典で石橋会長が、残りの払下げで純然たる民間会社になれば自由に飛躍できると挨拶
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [45]政府持株は100万株(10億円)で資本金の4割、非上場で放出価格の見当がつかず外資の買占めも懸念
  • 証券 22(10) 1970年
    • [47]政府出資比率40%のため増資が困難で、設備投資を借入金で充当
    • [48]1958年11月に資本金25億円、1969年10月まで11年間増資なし、1969年10月に35億円
参考文献[33]-[48]
  • 証券 22(10) 1970年
    • [33]1964年10月からNBR等の特殊ゴムに進出、1965年4月にBRの生産開始
    • [38]1968年5月に千葉工場が完成
    • [43]千葉工場完成でブタジエン14万5,000トン/年・SBR17万6,000トン/年、創立時比4.3倍・3.9倍
    • [47]政府出資比率40%のため増資が困難で、設備投資を借入金で充当
    • [48]1958年11月に資本金25億円、1969年10月まで11年間増資なし、1969年10月に35億円
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
    • [34]1962年6月、ブリヂストンの石橋正二郎社長がシスポリブタジエン技術一切を日本合成ゴムへ譲渡すると決定
    • [35]NBR進出はSBR国産化の使命を果たし資金的余裕が生じ、需要者の要望があったため
    • [36]ABS樹脂用ラテックスJSR0700を1963年4月から市販
    • [37]1964年10月に浜野繊維工業と合弁でハマノレジン(日本合成レジンの前身)を設立
    • [39]四日市のブタジエン能力は年9万5,000トン、SBR・BRの伸びで1968年以降に不足見込み
    • [40]四日市は立地の余裕がなくなりかけ、SCガスの大部分が関東で発生するため現地でブタジエン化が安い
    • [41]1966年8月19日に三井石油化学と約7万坪の譲受けで基本合意、1967年4月13日起工式
    • [42]第1期はブタジエン抽出年産5万トン、総工費55億円
    • [44]1967年11月2日に処分決定、11月22日に10万株を競争入札、三菱化成工業が1株3,160円で全部落札
    • [46]創立10周年式典で石橋会長が、残りの払下げで純然たる民間会社になれば自由に飛躍できると挨拶
  • 新日本経済 31(5) 1967年
    • [45]政府持株は100万株(10億円)で資本金の4割、非上場で放出価格の見当がつかず外資の買占めも懸念

1957年〜1969年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 253 n/a 10 4.0% n/a
1969年03月期 単体 312 +23.3% 16 5.1% n/a

出所:会社年鑑(1971年版)半期合算

出典・参考

6件
出典・参考
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)4章 建設期
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)3章 戦後における合成ゴム国産化の推移
  • 日本合成ゴム株式会社十年史(1968)5章 社業の発展
  • ゴム時報 38(2) 1959年「日本合成ゴム工場が建つ 四日市というところ(現地を訪ねて)」奥山信一
  • 新日本経済 31(5) 1967年
  • 証券 22(10) 1970年

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