日清食品ホールディングス:チキンラーメンの開発と即席めん製造法の特許取得
1948年〜中交総社からチキンラーメンまでの十年
1948年9月、安藤百福氏は魚介類の加工販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版及び販売を目的として株式会社中交総社を大阪府泉大津市汐見町に設立した。資本金は500万円で、翌1949年9月にはサンシー殖産株式会社へ商号を変更し、本店を大阪市北区へ移した。安藤氏は1910年3月5日、台湾南部で生まれた。22歳でメリヤス製品を日本内地へ移入する事業を興したのち、幻燈機の製造やバラック住宅の製造など複数の事業に携わっている。戦時中は飛行機部品の下請けを営んでいた際に憲兵隊へ連行され、出獄まで45日を要し、その後さらに60日間を大阪市北区の中央病院で過ごした。戦後は泉大津で製塩業やいわしの干物作りに着手したが、大阪府警の告発を受けGHQに逮捕され、出獄した時点では財産の大半を没収された後だった。
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
- [2]設立時の資本金 500万円
- [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
- [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
- [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収
サンシー殖産の時代、安藤氏は大阪華銀という信用組合の理事長を引き受けていた。戦後の日本は食糧難のなかで政府が粉食を奨励し、学校給食にパンを取り入れていたが、安藤氏は日本人に合うのはパンよりめん類ではないかと考え、美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価の五つを大衆食品の条件に置いて製品を組み立てた。1年近い試行錯誤の末にたどり着いたのが油熱乾燥法で、1958年8月、その応用第1弾として即席袋めん"チキンラーメン"の製造販売を開始した。同年12月には本店を大阪市中央区へ移すとともに、商号を日清食品株式会社へ変更した。
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
- 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
- [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
- [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
- [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
- [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始
参考文献[1]-[13]
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
- [2]設立時の資本金 500万円
- [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
- [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
- [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
- [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
- [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収
- [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
- 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
- [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
- [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
- [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始
1959年〜大商社を担保にした量産と全国流通の確保
チキンラーメンは1袋35円と、うどん1玉6円の6倍にあたる値で、当初は問屋が引き取らなかった。安藤氏は袋に販売を三菱商事が担う旨を刷り込んで問屋の信用を取りつけ、現金での決済を迫った。三菱商事大阪支店の穀肥部長だった佐南正司氏が社名を外すよう頼んだ直後、安藤氏は社名入りの袋を大量に印刷所へ発注しており、社長の高垣勝次郎氏から取引をやめると怒鳴られても袋は変わらなかった。原料代や設備費の支払いには手形を使ったため、手元には現金が積み上がった。1959年春、安藤氏はその現金を注ぎ込んで大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を一気に購入し、床面積6,600平方メートルの工場を建設して量産を開始した。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [14]チキンラーメン1袋35円に対し、問屋はうどん1玉6円と比べて6倍の値だと渋った
- [15]包装に「発売元・三菱商事」の文字を印刷し、三菱商事との取引も現金とした
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
- [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
- [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
- [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設
工場は1959年12月に完成し、日清食品は同時に本店を高槻へ移した。従業員は1961年に1,000人を超えた。販売では当初から三菱商事、伊藤忠商事、東食の三社を総発売元に据え、それぞれの傘下の流通機構へ製品を流すことで販売上のリスクを避けた。直売はほとんどなく、原材料の仕入も大部分をこの三社に頼った。資本金は1960年3月に2,000万円、同年8月に5,000万円、同年11月に1億円、1961年6月に1億5,000万円と、1年余りで30倍に増えた。1960年にはテレビCMの放映を始め、取引金融機関には三和銀行と三井銀行が並んだ。1962年6月にはウェーブ食品の営業権を譲り受け、その地に東京工場を置いて関東の生産拠点とした。
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [21]1961年に従業員1,000人超
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
- 証券 1963年15(11)(174)
- [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
- [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
- [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
- [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [25]1960年3月からテレビ番組の提供を始め、テレビ媒体へ本格的に進出
製品を少しでも多く回してもらおうと、出荷の作業に手を貸す問屋まで現れた。真冬の夜にはたき火を焚きながら"チキンラーメン"の積み込みを待つ問屋のトラックが、仕上がった端から運び出そうと高槻工場の前に二重三重に並んだ。日清食品の二つ目の製品は、1960年7月20日に売り出した"即席冷し千金蕎麦"である。そば粉を主な原料とし、抹茶と葉緑素を加えたもので、湯を注いだ後、そばとつゆを分けて氷で冷やしてから食べる。1961年6月20日発売の"チキンラーメンプラスカレー"では、高槻工場ができた記念に、空袋10枚で特賞100万円を狙える抽せんを行った。のちに各社が繰り返す消費者向けキャンペーンは、これが先がけとなった。同年9月には、製品の多様化によって企業体質を強化するねらいから高槻工場内に研究所を開設し、所長は安藤氏が兼任した。"千金蕎麦"は1年、"プラスカレー"は3年で生産を打ち切ったが、以後も焼そばや日本そばと、新しい即席めんのジャンルを先んじて開発していった。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [28]製品の割り当てを優先させようと出荷を手伝った問屋関係者
- [29]高槻工場前に並んだ問屋のトラックの列と真冬の夜のたき火での待機
- [30]1960年7月20日「即席冷し千金蕎麦」の発売(そば粉主原料・抹茶と葉緑素を配合・氷で冷やして食べる)
- [31]1961年6月20日「チキンラーメンプラスカレー」の発売と空袋10枚・特賞100万円の抽せん(消費者向けキャンペーンのはしり)
- [32]1961年9月 高槻工場内への研究所開設・所長は社長の安藤百福が兼任
- [33]「千金蕎麦」1年・「チキンラーメンプラスカレー」3年での生産打ち切り
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [34]製法特許のチキンラーメン企業化以来、焼そば・日本そばなど新しい即席めんのジャンルを先んじて開発
参考文献[14]-[34]
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [14]チキンラーメン1袋35円に対し、問屋はうどん1玉6円と比べて6倍の値だと渋った
- [15]包装に「発売元・三菱商事」の文字を印刷し、三菱商事との取引も現金とした
- [25]1960年3月からテレビ番組の提供を始め、テレビ媒体へ本格的に進出
- [28]製品の割り当てを優先させようと出荷を手伝った問屋関係者
- [29]高槻工場前に並んだ問屋のトラックの列と真冬の夜のたき火での待機
- [30]1960年7月20日「即席冷し千金蕎麦」の発売(そば粉主原料・抹茶と葉緑素を配合・氷で冷やして食べる)
- [31]1961年6月20日「チキンラーメンプラスカレー」の発売と空袋10枚・特賞100万円の抽せん(消費者向けキャンペーンのはしり)
- [32]1961年9月 高槻工場内への研究所開設・所長は社長の安藤百福が兼任
- [33]「千金蕎麦」1年・「チキンラーメンプラスカレー」3年での生産打ち切り
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
- [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
- [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
- [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設
- [21]1961年に従業員1,000人超
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
- [34]製法特許のチキンラーメン企業化以来、焼そば・日本そばなど新しい即席めんのジャンルを先んじて開発
- 証券 1963年15(11)(174)
- [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
- [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
- [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
- [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化
1961年〜特許の行使と公開、そして二部上場
即席めんは装置が簡単で大量生産が利くため、新規参入が相次いだ。1961年には130社に達し、需給が崩れて乱売と粗悪品が出回った。日清食品は、〈チキンラーメン〉の名称が1960年9月に周知商標として公告決定されると、この名称を使っていた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁へ提訴した。製法特許を争ったエース食品に対しては、1962年5月に大阪地裁が工場へ立ち入って証拠保全の写真を撮った。当時の即席ラーメンのメーカー数はセミ・インスタントを含めて全国140社を超え、特許騒動は業者の去就を迷わせた。特許の先願をめぐっては、大和通商の陳栄泰氏が、自分が最初に開発し出願したのに日清食品の対応は横暴だとして仮処分を申請した。
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [35]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
- [37]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
- 証券 1963年15(11)(174)
- [36]1961年のメーカー数 130社
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [38]1960年9月の周知商標の公告決定を受け、〈チキンラーメン〉の名称を使用していた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁に提訴
- [39]1962年5月29日、大阪地裁がエース食品の工場に立ち入り証拠保全の写真を撮影
- 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
- [40]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
- [41]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請
日清食品は同業他社の要望を受けて特許を公開し、61社と使用許諾契約を締結した。安藤氏は1959年に日本即席ラーメン協会を設立し、1964年には社団法人日本即席ラーメン工業協会として品質向上と業界の共存共栄を図る組織に改めて、自ら理事長を務めた。300社を超えた業者の整理では、気心の合う者どうしを組ませてヘッドとなるメーカーを10社ほどに絞り、残りをその翼下へ入れる方法を取った。メーカー数は1962年末には約50社まで減り、特許で争っていた大和通商とも和解が成立した。安藤氏は後年、『私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです』と振り返っている。
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [42]同業他社の要望を受けた特許の公開
- [44]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
- 日経ビジネス 2004年2月23日号
- [43]特許使用許諾契約 61社
- [47]安藤百福の発言「私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです」
- 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
- [45]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
- 証券 1963年15(11)(174)
- [46]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立
1963年10月21日、日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は1億5,000万円、上場株式数は300万株、従業員は930名で、大株主には安藤百福氏の158万600株に続いて安藤宏寿氏の42万株、三菱商事の12万4,000株が並んだ。1963年3月期の製品別売上比率はチキンラーメンとチキンラーメンプラスカレーで89%を占め、残る11%がチキンラーメンニュータッチだった。売上高は3年で10倍に伸び、2件の特許取得と三菱商事・伊藤忠商事・東食を販売代理店としたことがその背景にあった。上場時の役員は社長の安藤百福氏、専務の安藤宏寿氏、常務の砥上峰次氏と有元一馬氏らで、決算期は3月31日の年1回だった。上場と同じ1963年6月には"日清焼そば"の製造販売を始め、上場の翌年には資本金を2億2,500万円へ増資した。
- 証券 1963年15(11)(174)
- [48]上場年月日 1963年10月21日
- [50]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
- [51]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
- [52]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
- [55]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
- [56]決算期 3月31日の年1回
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [49]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
- 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
- [53]3年で10倍の増収
- [54]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [57]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
- [58]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円
参考文献[35]-[58]
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [35]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
- [37]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
- [42]同業他社の要望を受けた特許の公開
- [44]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
- 証券 1963年15(11)(174)
- [36]1961年のメーカー数 130社
- [46]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立
- [48]上場年月日 1963年10月21日
- [50]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
- [51]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
- [52]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
- [55]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
- [56]決算期 3月31日の年1回
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [38]1960年9月の周知商標の公告決定を受け、〈チキンラーメン〉の名称を使用していた同業13社へ警告書を送り、大阪地裁に提訴
- [39]1962年5月29日、大阪地裁がエース食品の工場に立ち入り証拠保全の写真を撮影
- 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
- [40]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
- [41]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請
- 日経ビジネス 2004年2月23日号
- [43]特許使用許諾契約 61社
- [47]安藤百福の発言「私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです」
- 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
- [45]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [49]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
- 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
- [53]3年で10倍の増収
- [54]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [57]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
- [58]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円
筆者考察
日清食品の創業期を貫いていたのは、めんの製法そのものよりも、誰に作らせ誰に売らせるかという判断だった。安藤百福氏は1958年に油熱乾燥法でチキンラーメンを作り、うどん1玉6円の時代に35円という高い値を付けた。高いものを扱わせるには信用が要る。袋に発売元として三菱商事の名を刷り込んで問屋から現金を取り、その現金で高槻の土地と工場を取得した。原料代と設備費は手形で払ったから、手元には常に現金が残る。売れることが確かめられる前に量産の構えを作っておく順序が、模倣が追いつくまでの時間を買っていた。
1961年に130社まで増えた同業は、日清食品にとって脅威であると同時に市場そのものでもあった。安藤氏は名称を使う同業13社へ警告書を送って提訴し、製法を争う業者の工場には証拠保全が入った。その直後に特許を公開して61社と使用許諾を結んだのは譲歩ではない。誰に作らせるかを選べる立場と、業界団体の理事長という席を、同じ手で取りにいったのである。1962年末に業者は約50社へ減り、残った各社は日清食品の製法で作ることになった。上場の年に売上高が3年で10倍へ伸びた背景には、この整理がある。
- 出所は証券 1963年15(11)(174)「新規上場会社紹介 日清食品株式会社」。
出典・参考
11件
- 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
- 日経ビジネス 1985年10月7日号
- 日経ビジネス 2004年2月23日号
- 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
- 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
- 証券 1963年15(11)(174)