日清食品ホールディングス:カップヌードルの発売と年商1,000億円
15円乱売からカップヌードル100円への価格帯転換
1964年〜15円ラーメンの乱売と、"出前一丁"への競争軸の移行
原料価格と販売経費から逆算すると、小売価格が最低15円を割れば品質を保てず採算も合わないというのが当時の見方だった。1960年代半ばの即席ラーメン業界は安売りの応酬とともに始まり、平均30円だった小売価格に対して1963年ごろから20円ラーメンが売られるようになり、1966年5月には15円ラーメンまで店頭に出た。試食セールや記念セールの名目による割引きは、大手各社のトップブランドにまで及んだ。これに対し、安藤百福氏が理事長を務める日本ラーメン工業協会は、景品類の提供を制限する公正競争規約案を1965年12月14日の臨時総会で可決した。規約は公正取引委員会の認可を受け、1966年4月1日に実施へ移された。それでも乱売は収まらず、公取委が乱売を不公正な取引と判定して差別価格の禁止を勧告したのは1967年6月16日である。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [1]品質保障と採算の下限としての小売価格15円
- [2]昭和40年代の即席ラーメン業界の乱売合戦での幕開け
- [3]1963年ごろからの平均小売価格30円を下回る20円ラーメンの出現
- [4]1966年5月 15円ラーメンの登場
- [5]大手各社のトップブランドの値崩れと試食セール・記念セールによる割引き
- [6]1965年12月14日 日本ラーメン工業協会臨時総会での公正競争規約案の可決
- [7]1966年4月1日 即席めん類製造業における景品類の提供の制限に関する公正競争規約の実施
- [8]1967年6月16日 公正取引委員会による差別価格禁止の勧告
即席ラーメンに求められる品質は、生めんに近いタイプを軸とした上質なものへ移り始めていた。めんの質で先を行っていたのは競合で、明星食品の"明星チャルメラ"(1966年9月7日発売)はめんの出来で抜きん出ており、1967年10月16日にエースコックが投入した"駅前ラーメン"は大判100gの流れを切り開いていた。日清食品では、1964年8月の焼そば事件が心理面の傷として残り、同年10月に一部で売り出した"日清ランチ"も出足の勢いを保てず、1967年秋の時点で社内に強い危機意識が広がっていた。他社品との違いを別添の「ごまラー油」に置いた"出前一丁"は1968年に発売され、スープを別に添える型の代表的な製品となった。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [9]生めんタイプを中心とする高品質即席ラーメンへの嗜好の移動
- [10]1966年9月7日 明星食品「明星チャルメラ」の発売とめん質の優位
- [11]1967年10月16日 エースコック「駅前ラーメン」の発売と大判100g時代
- [12]1964年8月の焼そば事件と1967年10月発売「日清ランチ」の伸び悩み
- [13]1967年秋の日清食品社内の危機感
- [14]「出前一丁」の最大の特徴かつ他社商品との差別点としてのごまラー油の添付
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [15]スープ別添の代表としての「出前一丁」
日清食品は"出前一丁"の拡販に全社を動員した。1968年7月には営業本部営業二課を主体に姫路と豊橋の小売店を巡回し、東京支店営業部は営業車11台を連ねて静岡県伊東市までパレードしている。同月22日には日本PTA全国協議会から推奨品の指定を受けた。1969年4月1日から翌年6月30日までの15か月間には、全めん製品の空袋5枚を1口として万国博覧会の入場券ペア1万組を進呈する販促を実施し、447日のロングランに332万1108通の応募が集まった。"出前一丁"は発売から1年を待たずに全即席ラーメン中の売り上げ第1位となり、1968年に3億1104万食を売った。売上高は1968年3月期の111億円から1970年3月期には213億円へ伸びている。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [16]1968年7月の姫路・豊橋での小売店巡回と営業車11台による伊東市までのパレード
- [17]1968年7月22日「出前一丁」の日本PTA全国協議会推奨品指定
- [18]1969年4月1日〜1970年6月30日の日清万国博プレゼントセール 447日間・応募332万1108通
- [19]発売1年を待たずに全即席ラーメン中売り上げ第1位となった「出前一丁」
- [20]1968年の「出前一丁」販売数 3億1104万食
- 会社年鑑(1976年版)
- [21]売上高 1968年3月期111億円・1970年3月期213億円
参考文献[1]-[21]
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [1]品質保障と採算の下限としての小売価格15円
- [2]昭和40年代の即席ラーメン業界の乱売合戦での幕開け
- [3]1963年ごろからの平均小売価格30円を下回る20円ラーメンの出現
- [4]1966年5月 15円ラーメンの登場
- [5]大手各社のトップブランドの値崩れと試食セール・記念セールによる割引き
- [6]1965年12月14日 日本ラーメン工業協会臨時総会での公正競争規約案の可決
- [7]1966年4月1日 即席めん類製造業における景品類の提供の制限に関する公正競争規約の実施
- [8]1967年6月16日 公正取引委員会による差別価格禁止の勧告
- [9]生めんタイプを中心とする高品質即席ラーメンへの嗜好の移動
- [10]1966年9月7日 明星食品「明星チャルメラ」の発売とめん質の優位
- [11]1967年10月16日 エースコック「駅前ラーメン」の発売と大判100g時代
- [12]1964年8月の焼そば事件と1967年10月発売「日清ランチ」の伸び悩み
- [13]1967年秋の日清食品社内の危機感
- [14]「出前一丁」の最大の特徴かつ他社商品との差別点としてのごまラー油の添付
- [16]1968年7月の姫路・豊橋での小売店巡回と営業車11台による伊東市までのパレード
- [17]1968年7月22日「出前一丁」の日本PTA全国協議会推奨品指定
- [18]1969年4月1日〜1970年6月30日の日清万国博プレゼントセール 447日間・応募332万1108通
- [19]発売1年を待たずに全即席ラーメン中売り上げ第1位となった「出前一丁」
- [20]1968年の「出前一丁」販売数 3億1104万食
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [15]スープ別添の代表としての「出前一丁」
- 会社年鑑(1976年版)
- [21]売上高 1968年3月期111億円・1970年3月期213億円
1971年〜容器内調理という"カップヌードル"の設計
袋めん市場は1967年ごろから販売量の伸びが鈍りはじめた。業界の袋めん生産数量は1962年の年間10億食から1966年の30億食まで急伸したのち、1967年31億食、1968年33億食、1969年35億食、1970年36億食、1971年36億5000万食と、5年続けて1桁の成長にとどまった。即席めんを国際商品に育てる手がかりを求め、安藤百福氏は1966年6月にアメリカ、7月にヨーロッパで市場を調べた。伸び悩みは日清食品の製品にも表れており、"チキンラーメン"は1966年の1億1700万食から1971年には9078万食に減り、"出前一丁"も1968年の3億1104万食に対して1971年が3億3597万食と横ばいに近かった。旅の最大の収穫は、西洋の人々が食事にどんぶりと箸を使わないと知ったことで、箸で食べ鍋で煮る必要のある即席ラーメンは、その点で不便な食べ物だった。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [22]1958年のチキンラーメン発売から10年を経た袋めん市場の成熟化と1967年ごろからの販売量の伸びの鈍化
- [23]袋めん生産数量の推移 1962年10億食→1966年30億食→1971年36億5000万食・5年連続1桁成長
- [24]1966年6月のアメリカ視察・7月のヨーロッパ視察と国際商品化のための市場調査
- [25]「チキンラーメン」1966年1億1700万食→1971年9078万食・「出前一丁」1968年3億1104万食→1971年3億3597万食
- [26]視察で得た最大のヒント「西洋人はどんぶりと箸では食べない」
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [27]箸と鍋を要する即席ラーメンの不便さ
紙コップ型の容器に収めるには、口径の広いどんぶり向けだった従来の即席めんより直径を詰め、厚みはおよそ2倍にする必要があり、6cmの厚さのかたまりをむらなく揚げることが求められた。縦型容器に合うめんをどう作るかが、設計上の壁になったのである。突破口は"チキンラーメン"の油熱処理法にあった。味をつけためんをほぐしたまま穴あきの鉄型に詰め、ふたをして油に入れると、先に揚がった部分が上のめんを順に持ち上げ、上側は密に、下側は疎に仕上がった。容器の底から浮かせて中ほどでめんを留める方式は、運ぶ途中の崩れを防ぐこと、湯戻りをよくすること、上に具材を載せることを一度にかなえ、のちに実用新案権となった。4件の特許で完成した製品であり、生産設備に多額の資金を必要とするので、追随は簡単ではないと会社は見込んでいた。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [28]縦型容器に伴う厚さ6cmのめんの均一な油揚げという課題
- [29]穴のあいた鉄型とふたによる油揚げ法と、上が密で下が疎になるめんの状態
- [30]中間保持法(宙づり)の4つの効用と実用新案権の取得
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [31]4種の特許による完成と、生産設備の資金負担による後続参入の困難
1971年3月から10億円を投じた専用工場を茨城県藤代町に建設し、同年10月16日に日産20万食で操業を始めた。1食100円という価格について、東京の有力問屋の首脳は売れないと答え、安藤氏は担当者に食品問屋以外のルートで売るよう指示した。最初の取引は朝霞の自衛隊が演習中の食糧として購入したもので、同年9月18日の本格発売は新宿の伊勢丹をはじめとする都内の百貨店から始まった。販売先は喫茶店や銭湯から警察署・消防署にまで及び、11月21日には銀座の歩行者天国でも売り出した。自動販売機は東京都内に2,000台を置く計画で、その貸し出しのために1972年10月、資本金1,000万円の日清リースを設立している。
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [32]1971年3月からの10億円を投じた茨城県藤代町の専産工場建設と同年10月16日の操業開始・日産20万食
- [39]東京都内に自動販売機2,000台を設置する販売計画
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [33]1食100円に対する東京の有力問屋首脳の否定的な反応
- [34]食品問屋以外のルートで販売するようにという安藤百福の指示
- [35]最初の取引 朝霞の自衛隊による演習中の食糧としての購入
- [36]1971年9月18日 新宿伊勢丹など東京都内の百貨店での本格発売開始
- [37]喫茶店・銭湯・警察署・消防署などへの販売開拓
- [38]1971年11月21日 銀座歩行者天国での販売開始
- [40]1972年10月 カップヌードル専用自動販売機の貸し出しのための日清リース設立・資本金1,000万円
参考文献[22]-[40]
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [22]1958年のチキンラーメン発売から10年を経た袋めん市場の成熟化と1967年ごろからの販売量の伸びの鈍化
- [23]袋めん生産数量の推移 1962年10億食→1966年30億食→1971年36億5000万食・5年連続1桁成長
- [24]1966年6月のアメリカ視察・7月のヨーロッパ視察と国際商品化のための市場調査
- [25]「チキンラーメン」1966年1億1700万食→1971年9078万食・「出前一丁」1968年3億1104万食→1971年3億3597万食
- [26]視察で得た最大のヒント「西洋人はどんぶりと箸では食べない」
- [28]縦型容器に伴う厚さ6cmのめんの均一な油揚げという課題
- [29]穴のあいた鉄型とふたによる油揚げ法と、上が密で下が疎になるめんの状態
- [30]中間保持法(宙づり)の4つの効用と実用新案権の取得
- [33]1食100円に対する東京の有力問屋首脳の否定的な反応
- [34]食品問屋以外のルートで販売するようにという安藤百福の指示
- [35]最初の取引 朝霞の自衛隊による演習中の食糧としての購入
- [36]1971年9月18日 新宿伊勢丹など東京都内の百貨店での本格発売開始
- [37]喫茶店・銭湯・警察署・消防署などへの販売開拓
- [38]1971年11月21日 銀座歩行者天国での販売開始
- [40]1972年10月 カップヌードル専用自動販売機の貸し出しのための日清リース設立・資本金1,000万円
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [27]箸と鍋を要する即席ラーメンの不便さ
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- [31]4種の特許による完成と、生産設備の資金負担による後続参入の困難
- [32]1971年3月からの10億円を投じた茨城県藤代町の専産工場建設と同年10月16日の操業開始・日産20万食
- [39]東京都内に自動販売機2,000台を設置する販売計画
1974年〜原材料難と"カップライス"撤退を経た1,000億円
関東工場を建てる資金を賄うため、日清食品は1971年12月に資本金を5億5,000万円から10億円へ増やし、その増資分をすべて同工場に振り向けた。1972年8月1日には東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部への昇格上場を果たし、東京証券取引所ではこの日969円で取引を終えた。原材料価格は、1972年7月に国際小麦価格が上がり始めたのを発端に高騰し、1973年12月1日には政府による小麦の国内売り渡し価格の35%引き上げ、1974年1月からは製粉各社による小麦粉の販売価格37%値上げへと波及した。1973年7月に業界が袋めんを5円上げ、1食40円に改めていた措置では、このコスト増を吸収できなかった。1974年度の実質経済成長率が戦後初のマイナスとなる中でも、売上高は1974年3月期の458億円から1975年3月期に641億円まで増えた。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [41]1971年12月1日 資本金5億5,000万円から10億円へ増資・増資金は全額関東工場の建設資金
- [42]1972年8月1日 東京・大阪・名古屋各証券取引所第1部への昇格上場と当日終値969円
- [43]1973年12月1日の小麦の政府売渡価格35%引き上げと1974年1月からの小麦粉販売価格37%値上げ
- [44]1973年7月の袋めん5円値上げ(1食40円)と原材料高騰への対応の限界
- [45]1974年度の実質経済成長率の戦後初のマイナス
- 会社年鑑(1976年版)
- [46]売上高 1974年3月期458億円・1975年3月期641億円
アメリカでの現地生産は、国内の頭打ちと同じ時期に始まった。米国日清フードは1970年に設立され、日清食品が55%、味の素が25%、三菱商事が20%を出資している。ロサンゼルス近郊ガーデナ市の工場は1972年4月に操業を始め、食品関係の現地生産としてはキッコーマンの醤油に先行した。原材料の小麦粉と植物油は日本での生産コストの60〜65%を占め、その多くを米国からの輸入に頼っていたため、現地で作る原価上の理があった。当初年間2,000万食だった生産は、1974年初めには2シフト制で3,500万食まで増えた。1973年10月からロサンゼルスの一般番組でテレビスポットを流すと、自社銘柄"トップラーメン"の認知度は15%から60%へ、購入頻度は4%から16%へ上がった。同じ月には"カップヌードル"の現地生産も始めている。
- 日経ビジネス 1974年4月1日号
- [47]米国日清フードの設立1970年・出資比率 日清食品55%/味の素25%/三菱商事20%
- [48]1972年4月のガーデナ市工場の操業開始とキッコーマン醤油に先行した現地生産
- [49]小麦粉・植物油が日本での生産コストの60〜65%を占め主に米国からの輸入に依存
- [50]生産量 当初年間2,000万食→1974年初め2シフト制で3,500万食
- [51]1973年10月のロサンゼルスでのテレビスポットと「トップラーメン」認知度15%→60%・購入頻度4%→16%
- [52]1973年10月からのカップヌードルの現地生産開始
滋賀工場に設けた専用の生産設備への投資額は30億円で、当時の資本金の約2倍にあたり、年間の利益とほぼ同じ規模だった。この設備で作る"カップライス"は7種類をそろえた大型新製品として1975年10月22日に売り出され、全国に出荷できる体制が整った同年11月からは50億円を出荷の目標に掲げた。発売1か月を境に注文はにわかに止まり、件数は前月の10分の1を下回った。安藤氏がスーパーを訪ねて主婦に聞くと、ご飯なら家で炊けても、ラーメンは家庭では作れないという答えが返ってきたといい、店によっては"カップライス"1個と同じ値段で即席めんが6食手に入った。コメを使った製品では、1967年に出した"日清ランチ"で5億円の損失を抱えて撤退した前例があり、日清食品は今回も販売を打ち切った。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [53]滋賀工場の専用設備への30億円投資(当時の資本金の約2倍・ほぼ年間利益に匹敵)
- [54]1975年10月22日「カップライス」7種類の発売
- [55]1975年11月からの出荷目標50億円
- [56]発売1か月後の注文途絶と前月比10分の1未満への落ち込み
- [57]スーパーで聞き取った主婦の回答(ご飯は家で炊けるがラーメンはつくれない)
- [58]カップライス1個の値段で即席めんが6食買える小売店の存在
- [60]「カップライス」の販売中止
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [59]1967年発売の「日清ランチ」での5億円の損失と撤退
1976年4月1日、日清食品はマーケティング部を新設し、初代部長に取締役開発部長だった安藤宏基氏を充てた。部が置かれるまで、研究・生産・販売・宣伝の担当者はそれぞれ別の指揮系統のもとで動いていた。新しい部は新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライスの4つの開発部門と宣伝課から成り、製品ごとの専任チームが企画から宣伝までを一人の指揮で進めるプロダクトマネージャー制がとられ、1976年にはこの仕組みから、容器の形を切り口に市場を広げた「日清焼そばUFO」と「日清のどん兵衛」が生まれた。即席めんメーカーで売上高が1,000億円を超えたのは日清食品が最初で、1980年3月期の計上額は1,038億5,600万円だった。同年12月16日には欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場も果たしたが、この改組が後に残したのは容器の変化以上に、誰が何を決めるかという仕組みの変化だった。
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [61]1976年4月1日 マーケティング部の新設と初代部長 安藤宏基(前 取締役開発部長)
- [62]研究・生産・販売・宣伝の担当者をプロダクトマネージャーの指揮下に置く運用
- [63]マーケティング部の4開発部門(新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライス)と宣伝課・プロダクトマネージャー制
- [64]1976年の「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」と容器の形状を切り口とした展開
- [65]1980年3月期 売上高1,038億5,600万円・即席めんメーカー初の1,000億円企業
- [66]1980年12月16日 欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場
参考文献[41]-[66]
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- [41]1971年12月1日 資本金5億5,000万円から10億円へ増資・増資金は全額関東工場の建設資金
- [42]1972年8月1日 東京・大阪・名古屋各証券取引所第1部への昇格上場と当日終値969円
- [43]1973年12月1日の小麦の政府売渡価格35%引き上げと1974年1月からの小麦粉販売価格37%値上げ
- [44]1973年7月の袋めん5円値上げ(1食40円)と原材料高騰への対応の限界
- [45]1974年度の実質経済成長率の戦後初のマイナス
- [53]滋賀工場の専用設備への30億円投資(当時の資本金の約2倍・ほぼ年間利益に匹敵)
- [54]1975年10月22日「カップライス」7種類の発売
- [55]1975年11月からの出荷目標50億円
- [56]発売1か月後の注文途絶と前月比10分の1未満への落ち込み
- [57]スーパーで聞き取った主婦の回答(ご飯は家で炊けるがラーメンはつくれない)
- [58]カップライス1個の値段で即席めんが6食買える小売店の存在
- [60]「カップライス」の販売中止
- [61]1976年4月1日 マーケティング部の新設と初代部長 安藤宏基(前 取締役開発部長)
- [62]研究・生産・販売・宣伝の担当者をプロダクトマネージャーの指揮下に置く運用
- [63]マーケティング部の4開発部門(新規開発・スナックめん・袋めん・インスタントライス)と宣伝課・プロダクトマネージャー制
- [64]1976年の「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」と容器の形状を切り口とした展開
- [65]1980年3月期 売上高1,038億5,600万円・即席めんメーカー初の1,000億円企業
- [66]1980年12月16日 欧州預託証券850万株によるルクセンブルク証券取引所への上場
- 会社年鑑(1976年版)
- [46]売上高 1974年3月期458億円・1975年3月期641億円
- 日経ビジネス 1974年4月1日号
- [47]米国日清フードの設立1970年・出資比率 日清食品55%/味の素25%/三菱商事20%
- [48]1972年4月のガーデナ市工場の操業開始とキッコーマン醤油に先行した現地生産
- [49]小麦粉・植物油が日本での生産コストの60〜65%を占め主に米国からの輸入に依存
- [50]生産量 当初年間2,000万食→1974年初め2シフト制で3,500万食
- [51]1973年10月のロサンゼルスでのテレビスポットと「トップラーメン」認知度15%→60%・購入頻度4%→16%
- [52]1973年10月からのカップヌードルの現地生産開始
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
- [59]1967年発売の「日清ランチ」での5億円の損失と撤退
筆者考察
即席めんの値段は、作り手ではなく売り場が決めていた。1966年に15円ラーメンが出たとき、原料費と販売経費から引いた下限はちょうどその15円で、それ以上は下げようがない。安藤百福氏が理事長として公正競争規約をまとめ、公正取引委員会が差別価格を禁じたのは、価格の底が抜けるのを止めるためだった。しかし底を守っても天井は上がらない。袋めんの生産量が5年続けて1桁成長にとどまったのは、1食30円台の商品をどれだけ改良しても、家庭が買う量がそれ以上増えなかったからである。改良の余地と市場の余地は別のところにあった。
カップヌードルの1食100円は、その天井を外へ持ち出した価格だった。器と湯と箸を客の側に用意させる代わりに、日清食品は容器と具材と製法を製品の中へ入れ、袋めんの3倍の値を付けた。問屋が売れないと答えたのは棚を知る者として正しく、食品売り場では100円のめんは高すぎる。だから日清食品は売り場のほうを変えた。自衛隊の演習場、百貨店、銭湯、警察署、銀座の歩行者天国、そして自動販売機。そこで値段を比べられる相手は袋めんではなく、食堂の一杯か空腹そのものだった。カップライスが1か月で注文を失ったのは、比べる相手が家の台所にあったからである。
1964年〜1980年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 66 | n/a | n/a | 1 | 1 | 1.5% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 84 | +27.3% | n/a | 5 | 2 | 2.4% | 佐賀県鳥栖市に九州日清を設立(1966/04) |
| 1968年03月期 | 単体 | 111 | +32.1% | n/a | 1 | 1 | 0.9% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 156 | +40.5% | n/a | 8 | 3 | 1.9% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 213 | +36.5% | n/a | 10 | 7 | 3.3% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 247 | +16.0% | n/a | 18 | 8 | 3.2% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 233 | ▲5.7% | n/a | 15 | 10 | 4.3% | 岡山県瀬戸内市に日清エフ・ディ食品を設立(1972/03) |
| 1973年03月期 | 単体 | 249 | +6.9% | n/a | 21 | 13 | 5.2% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 458 | +83.9% | n/a | 50 | 27 | 5.9% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 641 | +40.0% | 73 | 80 | 36 | 5.6% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 693 | +8.1% | n/a | 81 | 44 | 6.3% | カップめんの生産工場として山口県下関市に下関工場完成(1975/08) |
| 1977年03月期 | 単体 | 695 | +0.3% | n/a | 57 | 30 | 4.3% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 777 | +11.8% | 56 | 63 | 36 | 4.6% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 878 | +13.0% | n/a | 81 | 43 | 4.9% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,026 | +16.9% | 82 | 93 | 50 | 4.9% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- 日清食品社史『食足世平』(日清食品、1992年)
- 会社年鑑(1976年版)
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
- 日経ビジネス 1974年4月1日号
- 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)