第1章 年〜年

雪印メグミルク:北海道製酪販売組合の設立と「雪印」商標の誕生

1925年〜練乳会社の受け入れ制限に抗した酪農家629人の組合と、東京へ出た雪印バター

1923年9月の関東大震災の後、米国から救援の練乳が7万数千箱届き、政府は物価対策として乳製品の輸入関税を撤廃した。輸入品に市場を奪われた北海道の練乳会社は、酪農家からの牛乳の受け入れを制限。乳牛は毎日搾らなければ乳房炎を起こすため、酪農家は余った牛乳を下水に捨てていた。札幌酪農組合の専務理事だった黒沢酉蔵氏は、受け入れ制限のない処理機関を酪農家が共同で持つ案を組合員に諮った。デンマークの協同組合を手本とする案に石狩・空知・後志の組合が応じ、1925年5月17日に有限責任北海道製酪販売組合が発足した。加わった酪農家は629人で、組合長は1891年から札幌でバターを製造してきた宇都宮仙太郎氏である。練乳会社に原料を委ねる限り乳価を決められないという判断が、組合を生んだと考えられる。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [1]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [2]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [3]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [4]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [5]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [6]1925年、宇都宮仙太郎・黒沢酉蔵らが札幌ほか十数市町村の酪農家629名を糾合して北海道製酪販売組合を設立
  • 酪農事情 1973年「越えて来た道(51) 酪農界の偉大なる指導者宇都宮仙太郎氏逝く」(小松純之助)
    • [7]宇都宮仙太郎は1891年9月に札幌で搾乳業を始め、傍らバターを製造販売(北海道の民間バター製造販売の最初)

組合の払込出資金は5,450円にとどまり、米国製の最新機械で工場を建てる計画は立たなかった。組合は宇都宮仙太郎氏の女婿である出納陽一氏が札幌郊外白石村に持つ製酪所を借り、1925年7月下旬にバターの製造を開始。技師の佐藤貢氏は1922年に米国オハイオ州立大学で修士号を得た技術者で、機械の据え付けから製造・販売までを1人で担った。佐藤貢氏は年60万〜65万ポンドの輸入バターに対抗するため、村ごとの製造をやめて設備を近代化し、品質を統一する方針を掲げた。1926年5月に黒沢酉蔵氏が産業組合中央金庫に融資を求めると、中金は原料乳が不安定な中での新事業は無謀だとして当初は断った。黒沢酉蔵氏は半日に及ぶ議論の末に融資の了承を得て、組合は同年10月に札幌苗穂の本工場を操業させた。

  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [8]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [9]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [12]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [13]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [10]出資金5,450円で札幌郊外白石村字野津幌においてバター製造を開始
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [11]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始
    • [14]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始
    • [15]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始

組合は道庁の求めに応じて1926年3月に各地の製酪組合を統合し、北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改組した。黒沢酉蔵氏は同年7〜8月に主要都市を回り、道産バターは全国生産の60%以上を占めながら品質が低く安値だと確かめた。酪連は同年12月に商標を「雪印」と定め、翌1927年6月から冷蔵貨車での輸送を開始。瀬尾俊三氏は東京で小売店に直接売り込んだものの、三越に置いた無料の見本にも客は手を出さなかった。瀬尾俊三氏は理化学研究所の鈴木梅太郎博士からバターとチーズの知識を得てパンフレットを編み、朝日・時事・報知の3紙に無料進呈の広告を出した。品質と銘柄を揃えた後、需要そのものを掘り起こす順序で東京市場に臨んだとみられる。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [16]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
    • [18]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
    • [19]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [17]1926年3月、各地の製酪組合を統合して北海道製酪販売組合連合会を組織し、マークを雪印として製造販売を統一
    • [20]1926年3月、各地の製酪組合を統合して北海道製酪販売組合連合会を組織し、マークを雪印として製造販売を統一
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
    • [21]瀬尾俊三は1926年5月に酪連へ入る。東京で小売店に直販したが三越の無料見本も手に取られず、理研の鈴木梅太郎博士の協力でパンフレットを編集し、朝日・時事・報知に無料進呈の広告を出した
    • [22]瀬尾俊三は1926年5月に酪連へ入る。東京で小売店に直販したが三越の無料見本も手に取られず、理研の鈴木梅太郎博士の協力でパンフレットを編集し、朝日・時事・報知に無料進呈の広告を出した
参考文献[1]-[22]
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [1]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [2]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [3]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [4]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [5]1923年の関東大震災後、米国から練乳7万数千箱が届き政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社が牛乳の受け入れを制限。酪農家は乳を下水に流し、1925年5月17日に組合員629人で有限責任北海道製酪販売組合を設立、組合長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵
    • [11]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始
    • [14]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始
    • [15]佐藤貢は1922年オハイオ州立大学で修士号。1926年5月に黒沢が産業組合中央金庫に融資を懇請し「無謀」と拒まれたが半日の議論で了承を得る。苗穂の本工場は1926年10月1日操業開始
    • [16]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
    • [18]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
    • [19]1926年3月、道庁の指導で連合会組織(酪連)に改組。同年7〜8月に黒沢が主要都市を調査し、道産バターは全国生産の60%以上だが品質が悪く安値、問屋で別名に改装されていると把握。同年12月に「雪印」の商標、1927年6月から冷蔵貨車を使用
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [6]1925年、宇都宮仙太郎・黒沢酉蔵らが札幌ほか十数市町村の酪農家629名を糾合して北海道製酪販売組合を設立
    • [10]出資金5,450円で札幌郊外白石村字野津幌においてバター製造を開始
  • 酪農事情 1973年「越えて来た道(51) 酪農界の偉大なる指導者宇都宮仙太郎氏逝く」(小松純之助)
    • [7]宇都宮仙太郎は1891年9月に札幌で搾乳業を始め、傍らバターを製造販売(北海道の民間バター製造販売の最初)
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [8]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [9]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [12]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
    • [13]払込出資総額5,450円で近代工場の計画は断念。宇都宮の女婿出納陽一の上野幌の製酪所を借り、1925年7月24・25日ごろバター製造開始。佐藤貢は技師として一人で製造・技術・販売を担当。年60万〜65万ポンドの輸入バターに品質・価格で対抗するため製造を一本化する狙い
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [17]1926年3月、各地の製酪組合を統合して北海道製酪販売組合連合会を組織し、マークを雪印として製造販売を統一
    • [20]1926年3月、各地の製酪組合を統合して北海道製酪販売組合連合会を組織し、マークを雪印として製造販売を統一
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
    • [21]瀬尾俊三は1926年5月に酪連へ入る。東京で小売店に直販したが三越の無料見本も手に取られず、理研の鈴木梅太郎博士の協力でパンフレットを編集し、朝日・時事・報知に無料進呈の広告を出した
    • [22]瀬尾俊三は1926年5月に酪連へ入る。東京で小売店に直販したが三越の無料見本も手に取られず、理研の鈴木梅太郎博士の協力でパンフレットを編集し、朝日・時事・報知に無料進呈の広告を出した

1930年〜滞貨80万ポンドを上海・香港へ流した酪連と、明治屋神戸支店で追い出した舶来バター

1931年に入ると世界不況で工場を閉じる練乳会社が現れ、それまで酪連と取引しなかった農家まで牛乳の引き取りを求めた。酪連は全量を引き受けたものの、バターは生産過剰となって市価は95銭から40銭まで低下し、滞貨は80万ポンドに達した。北海道庁は1931年に上海・香港で北海道バターの試売会を催し、5万900ポンド余りを売った。以後、両地へ毎月2万〜3万ポンドが輸出され、上海事変のあった1932年の輸出は40万ポンドに及ぶ。佐藤貢氏と瀬尾俊三氏は上海で米国海軍の入札を落札し、2ポンドの購入に1ポンドを付ける特売で7万ポンドの大半を処分した。酪連は上海・南京・天津に事務所を置いて中国と満洲への輸出を拡大し、国内の需給が整うと乳価も元の水準まで戻っている。国外の販路が、乳を全量引き受ける創業の約束を支えたと推察される。

  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [23]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [24]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [28]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [30]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [25]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
    • [26]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
    • [27]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [29]ロンドン輸出や満洲・中国への輸出増進に伴い上海・南京・天津に事務所を設置

1931年から1932年ごろの国内には年80万ポンドの輸入バターが入り、問屋は舶来品の扱いをやめなかった。黒沢酉蔵氏はそれ以前に明治屋神戸支店長から雪印バターの臭みを指摘され、原因が海水塩に残るにがりだと突き止めていた。1928年ごろ黒沢酉蔵氏は専売局に塩の改良を求め、専売局は北海道に技術者を送って精製塩を作るようになった。佐藤貢氏は明治屋神戸支店長に、機械も技術も米国のものだから品質で劣らないと説いた。先入観を除くため米国のカートンに詰めて外国人客に試食させると評価は高く、雪印バターは神戸と大阪で売り出された。東京の明治屋も全面的に扱い始め、他の問屋も追随して舶来バターは短期間で国内の市場から姿を消した。

  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [31]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [34]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [35]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [36]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [32]明治屋神戸支店長からバターの臭みを指摘され、原因は海水塩のにがりと判明。1928年ごろ専売局に塩の品質改善を陳情し、専売局が技術者を北海道に派遣して精製塩を製造
    • [33]明治屋神戸支店長からバターの臭みを指摘され、原因は海水塩のにがりと判明。1928年ごろ専売局に塩の品質改善を陳情し、専売局が技術者を北海道に派遣して精製塩を製造

1933年に酪連の組合員は3万人に達した。脱脂乳を原料とするカゼインは製紙・紡績・ベニヤ・塗料の接着剤に使われるものの、国内需要の95%は輸入品である。酪連は佐藤貢氏を中心に1929年からレンネットカゼインと酸カゼインの製造に着手した。酸カゼインは航空機の製作に欠かせない接着剤で、1932年ごろから国産の増強が求められた。酪連は「カゼイン増産十カ年計画」を立てて設備を拡充し、1933年3月には札幌で市乳の供給も始めた。1935年ごろ政府が外貨獲得を唱えると、佐藤貢氏と瀬尾俊三氏はロンドンへ見本2トンを送り、バター100万ポンドの輸出契約を結んだ。戦争で輸送が滞るまでに、酪連は豪州産の一級品と同じ値で50万〜60万ポンドを送った。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [37]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [38]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [39]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [40]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [41]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [42]1935年ごろ政府の外貨獲得の呼びかけを受け、ロンドンへ見本2トンを送り佐藤貢・瀬尾俊三が渡英、豪州・NZの一級品と同値で100万ポンドの契約、戦争までに50万〜60万ポンドを輸出
    • [43]1935年ごろ政府の外貨獲得の呼びかけを受け、ロンドンへ見本2トンを送り佐藤貢・瀬尾俊三が渡英、豪州・NZの一級品と同値で100万ポンドの契約、戦争までに50万〜60万ポンドを輸出
参考文献[23]-[43]
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [23]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [24]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [28]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [30]1931年に練乳会社の工場閉鎖で農家の牛乳を酪連が全量引き受け、バター市価は95銭から40銭に下落。佐藤貢と瀬尾俊三が上海で米海軍の入札を落札し特売で7万ポンドの大半を処分、需給が整い価格・乳価が回復
    • [31]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [34]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [35]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [36]1931〜32年ごろ輸入バターは80万ポンド、問屋が応じず。明治屋神戸支店長に米国のカートンに詰めて外国人客に試食させ好評、神戸・大阪で販売開始、東京の明治屋も全面的に扱い、舶来バターが市場から消えた
    • [42]1935年ごろ政府の外貨獲得の呼びかけを受け、ロンドンへ見本2トンを送り佐藤貢・瀬尾俊三が渡英、豪州・NZの一級品と同値で100万ポンドの契約、戦争までに50万〜60万ポンドを輸出
    • [43]1935年ごろ政府の外貨獲得の呼びかけを受け、ロンドンへ見本2トンを送り佐藤貢・瀬尾俊三が渡英、豪州・NZの一級品と同値で100万ポンドの契約、戦争までに50万〜60万ポンドを輸出
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [25]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
    • [26]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
    • [27]1931年に道庁が上海・香港で試売会を開き5万900ポンド余を販売、以後毎月2万〜3万ポンドを輸出。不況で滞貨80万ポンド、1932年は40万ポンドを輸出
    • [32]明治屋神戸支店長からバターの臭みを指摘され、原因は海水塩のにがりと判明。1928年ごろ専売局に塩の品質改善を陳情し、専売局が技術者を北海道に派遣して精製塩を製造
    • [33]明治屋神戸支店長からバターの臭みを指摘され、原因は海水塩のにがりと判明。1928年ごろ専売局に塩の品質改善を陳情し、専売局が技術者を北海道に派遣して精製塩を製造
    • [37]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [38]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [39]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [40]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
    • [41]1933年に酪連組合員3万人。カゼインは脱脂乳が原料で需要の95%が輸入。佐藤貢中心に1929年からレンネット・酸カゼインを製造、1932年ごろ国産増大が求められカゼイン増産十カ年計画。1933年3月1日から札幌で市乳供給
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [29]ロンドン輸出や満洲・中国への輸出増進に伴い上海・南京・天津に事務所を設置

1940年〜嵯峨野会談で森永・明治の道内工場を統合した興農公社と、集排法指定に抗った2年

1940年1月2日、北海道酪農の功労者である町村敬貴氏が酪連会長の黒沢酉蔵氏を訪ね、酪連と練乳会社の統合を説いた。道内では同じ集乳圏に酪連と練乳会社の工場が並び、牛乳の増産を上回る工場の建設が続いていた。黒沢酉蔵氏は自ら動けば底意を疑われるとして町村敬貴氏に仲介を頼み、2人で北海道庁長官の戸塚九一郎氏を訪ねた。町村敬貴氏は森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を回り、同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で会談が開かれた。戸塚九一郎氏は製乳と土地改良を一体で進める公社案を示し、明治製菓会長の相馬半治氏や森永煉乳社長の松崎半三郎氏らが合意した。1941年3月に明治・森永が道内の工場を現物出資して北海道興農公社が発足し、社長は黒沢酉蔵氏である。戦時の企業統合の流れを、黒沢酉蔵氏は競合の工場を取り込む機会と見たのだろう。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [44]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [46]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [47]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [49]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [52]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
    • [45]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
    • [48]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
    • [51]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [50]1941年3月に有限会社北海道興農公社に改組、同年4月に道内の明治・森永両社の工場を合併し資本金1,200万円

興農公社には酪農家のほか道庁・金融機関・練乳会社が出資しており、敗戦で官民混成の資本構成を改める必要が生じた。黒沢酉蔵氏は株式会社の形に協同組合の理念を持たせる「協同会社」を構想し、1945年11月に三木武夫氏らと協同会社法案を国会に出した。酪農家の間では、土地改良は全農民に共通の事業なので製乳から分けるべきだという意見が出た。公社は土地改良部門を資本金950万円の北海道農材工業として分離し、1947年1月に資本金3,000万円の北海道酪農協同へ改称した。道庁や明治・森永の持ち株は酪農家に譲渡され、株主は酪農家と従業員が占める。国策会社から酪農家が株主の会社へ、所有を創業時の形に戻す狙いだったと思われる。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [53]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
    • [54]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
    • [56]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [55]土地改良は全農民に共通の問題なので分離すべきとの意見が出て、1946年に北海道農材工業を独立。道庁・明治・森永などの持ち株を酪農民に譲渡
    • [59]土地改良は全農民に共通の問題なので分離すべきとの意見が出て、1946年に北海道農材工業を独立。道庁・明治・森永などの持ち株を酪農民に譲渡
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [57]1946年12月の株主総会で株式の民主化・農地部門の分離・酪農家と会社の直結の世論に応え、1947年1月に北海道酪農協同に改称
  • 株式会社年鑑 1950年版「北海道酪農協同」
    • [58]北海道酪農協同の1947年3月時点の資本金30,000千円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [60]1947年、株式を酪農家と従業員に分散民主化し北海道酪農協同に改称、土地改良事業を分離独立

1948年2月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法の指定を受けた。指定の理由は、北海道の原料乳を一手に集め、バターとチーズの生産量が国内首位という点にある。佐藤貢氏は2年間東京に駐在し、興農公社は強制でなく話し合いで生まれ、明治・森永には対価も払ったと主張した。明治と森永は官治統制で統合を強いられたと主張し、元の工場の返還を求めた。道内の酪農家は1万8,000人の署名を集め、代表26人が上京して持株会社整理委員会やGHQに陳情した。1949年5月末には法務総裁から公職追放者の退任を求める通知が届き、会長の黒沢酉蔵氏ら重役7人が退いた。当初は5分割と5工場の返還、1949年6月27日の指令では3分割を求められた。酪農協同は絶対不承認を決議して争い、2分割と明治・森永への各1工場の譲渡まで押し戻した。

  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [61]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [63]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [66]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [68]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [70]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [71]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
    • [62]1948年2月に集排法の指定。1949年5月末に法務総裁名で公職追放者の重役の退職を求める通知
    • [67]1948年2月に集排法の指定。1949年5月末に法務総裁名で公職追放者の重役の退職を求める通知
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [64]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [65]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [69]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [72]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
参考文献[44]-[72]
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
    • [44]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [46]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [47]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [49]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [52]1940年1月2日に町村敬貴が黒沢を訪ね統合を提案、戸塚九一郎長官も賛成。同年8月17日に東京・芝の料亭嵯峨野で相馬半治(明治)・松崎半三郎(森永)らと会談し戸塚長官の公社案に合意。1941年3月17日に北海道興農公社発足、黒沢が社長
    • [53]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
    • [54]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
    • [56]終戦後、公社は農民・道庁・金融機関・練乳会社の出資による複雑な構成。1945年11月に協同会社法案を国会に提出。製乳と土地改良を北海道酪農協同(資本金3,000万円)と北海道農材工業(同950万円)に分離
    • [61]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [63]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [66]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [68]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [70]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
    • [71]1948年2月に集排法の指定。原料乳を一手に集荷しバター・チーズの生産量が国内第一。酪農民1万8,000人の署名、代表26人が五七会を結成しGHQ等に陳情。1949年6月27日に3分割の指令、発令3日前に黒沢ほか6人の役員に退任勧告。全員一致で絶対不承認を決議
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
    • [45]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
    • [48]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
    • [51]同じ集乳圏に酪連と会社の工場が並立する工場乱立が問題。町村が森永煉乳・極東煉乳・明治製菓の首脳を歴訪。森永・明治・極東は北海道の工場を現物出資
    • [62]1948年2月に集排法の指定。1949年5月末に法務総裁名で公職追放者の重役の退職を求める通知
    • [67]1948年2月に集排法の指定。1949年5月末に法務総裁名で公職追放者の重役の退職を求める通知
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
    • [50]1941年3月に有限会社北海道興農公社に改組、同年4月に道内の明治・森永両社の工場を合併し資本金1,200万円
    • [60]1947年、株式を酪農家と従業員に分散民主化し北海道酪農協同に改称、土地改良事業を分離独立
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
    • [55]土地改良は全農民に共通の問題なので分離すべきとの意見が出て、1946年に北海道農材工業を独立。道庁・明治・森永などの持ち株を酪農民に譲渡
    • [59]土地改良は全農民に共通の問題なので分離すべきとの意見が出て、1946年に北海道農材工業を独立。道庁・明治・森永などの持ち株を酪農民に譲渡
    • [64]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [65]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [69]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
    • [72]1948年春に集排法の指定、佐藤貢は2年間東京に駐在。公社は話し合いで生まれ明治・森永に代償も払ったと主張、明治・森永は官治統制と主張し工場返還を要求。当初は5分割・5工場返還、最終は2分割と明治・森永へ各1工場譲渡を1950年春に受諾。黒沢会長ほか7人の重役が追放
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
    • [57]1946年12月の株主総会で株式の民主化・農地部門の分離・酪農家と会社の直結の世論に応え、1947年1月に北海道酪農協同に改称
  • 株式会社年鑑 1950年版「北海道酪農協同」
    • [58]北海道酪農協同の1947年3月時点の資本金30,000千円

出典・参考

7件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1950年版「北海道酪農協同」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「雪印乳業」の項
  • 歴史をつくる人々(1965年)「風雪四十年」(雪印乳業 瀬尾俊三)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「雪印乳業」の項
  • 私の履歴書 経済人5(佐藤貢、1980年)
  • 私の履歴書 経済人17(黒沢酉蔵、1981年)
  • 酪農事情 1973年「越えて来た道(51) 酪農界の偉大なる指導者宇都宮仙太郎氏逝く」(小松純之助)

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