第3章 年〜年

東京三菱銀行:第一銀行合併構想の白紙化と加州三菱銀行の設立

1954年〜三菱グループの機関銀行と、日銀総裁に転じた宇佐美洵

財閥本社が消えたあと、三菱銀行はグループで興す新事業の世話役を務め、各社を結ぶ位置に立った。元頭取の加藤武男氏は1955年の時点で、銀行を中心とする三菱の再結集を否定していなかったという。同じころ三菱商事は資本金を6億5千万円から25億円へ増やし、8億7,500万円分を縁故割当とした。1955年3月末の預金総額は2,338億円、貸出総額は1,801億円、店舗は157ヵ店であった。後年、中村俊男氏は、重化学工業の多い系列企業への貸付が預金として戻り、資金が効率よく回ったと振り返った。持株会社に代わって系列の資金と株式をつなぐ結節点になったことが、この時期の銀行の拠り所だったとみられる。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [1]1954年の三菱セメント、1956年の三菱油化、1958年の三菱原子力工業などグループの新事業で、全社と取引のある銀行が世話役を務めた(持株会社が無くなったため)
    • [5]三菱系企業に時流の重化学工業が多く、銀行の貸付金が預金として戻り効率的に回転した(中村俊男談)
  • 産業と経済 新年特別 1955年
    • [2]元頭取の加藤武男は三菱銀行を中心とする近代的な財閥復活を否定しておらず、銀行が持株会社的役割を負うと報じられた(1955年)
    • [3]三菱商事が資本金6億5,000万円を25億円に増資し、1,750万株・8億7,500万円分を縁故割当とし、株は三菱銀行を中心とする三菱系各社が持つとみられた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
    • [4]1955年3月末の預金総額2,338億円、貸出総額1,801億円、店舗157ヵ店、従業員8,700余名

頭取の宇佐美洵氏は1964年12月、在任3年1カ月で日本銀行総裁に転じた。同月17日、蔵相の田中角栄氏から電話で総裁就任を求められ、その日に後任の頭取を田実渉氏に託した。民間からの起用は戦後初めてで、財界には大蔵省と日銀の出身者が続く総裁人事への反発から、民間人を求める声が強かったという。宇佐美氏は全国銀行協会連合会の会長として、通産省主導の特振法案に官僚統制の恐れがあるとして反対し、骨抜きにしていた。行員には、日銀に移る以上は三菱とはっきり縁を切ると告げて銀行を去った。頭取を中央銀行の長に送り出したことで、三菱銀行は金融界の中心とみなされる度合いを強めたと推察される。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [6]宇佐美洵は1961年11月に頭取となり、3年1カ月後の1964年12月に日銀総裁へ転じ、後任は田実渉
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [7]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
    • [11]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
    • [8]宇佐美の日銀総裁就任は戦後初の民間からの起用で、日銀80年で7人目の民間出身総裁
    • [9]財界では戦後の日銀総裁が大蔵省・日銀出身者で占められたことへの反発があり、民間人起用を求める声が高かったと伝えられた
    • [10]全銀協会長として通産省の特振法構想に官僚統制の恐れがあるとして反対し続け、骨抜きにした
参考文献[1]-[11]
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [1]1954年の三菱セメント、1956年の三菱油化、1958年の三菱原子力工業などグループの新事業で、全社と取引のある銀行が世話役を務めた(持株会社が無くなったため)
    • [5]三菱系企業に時流の重化学工業が多く、銀行の貸付金が預金として戻り効率的に回転した(中村俊男談)
    • [6]宇佐美洵は1961年11月に頭取となり、3年1カ月後の1964年12月に日銀総裁へ転じ、後任は田実渉
  • 産業と経済 新年特別 1955年
    • [2]元頭取の加藤武男は三菱銀行を中心とする近代的な財閥復活を否定しておらず、銀行が持株会社的役割を負うと報じられた(1955年)
    • [3]三菱商事が資本金6億5,000万円を25億円に増資し、1,750万株・8億7,500万円分を縁故割当とし、株は三菱銀行を中心とする三菱系各社が持つとみられた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
    • [4]1955年3月末の預金総額2,338億円、貸出総額1,801億円、店舗157ヵ店、従業員8,700余名
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [7]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
    • [11]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
    • [8]宇佐美の日銀総裁就任は戦後初の民間からの起用で、日銀80年で7人目の民間出身総裁
    • [9]財界では戦後の日銀総裁が大蔵省・日銀出身者で占められたことへの反発があり、民間人起用を求める声が高かったと伝えられた
    • [10]全銀協会長として通産省の特振法構想に官僚統制の恐れがあるとして反対し続け、骨抜きにした

1964年〜田実渉が仕掛けた第一銀行との合併構想と、白紙に戻った三菱第一銀行

1969年1月、頭取の田実渉氏と第一銀行頭取の長谷川重三郎氏の間で、両行の合併の方向が固まったことが表面化した。都市銀行の再編は、業務提携から合併の段階へ進むとの見通しが示された。両頭取の会見では、自由化に備えて企業が国際化するには規模の利益の追求が要り、銀行も同じだという考えが示された。相手には異種の金融機関の方が利点は大きいとされる中で、気心の知れた第一銀行を選んだという説明もあった。ただ、取締役に話したのは会見の前日が初めてで、行内の意思統一はまだできていなかった。規模を一度に取ることを急いだ分、相手行の内部の合意づくりが後回しになったのだろう。

  • 日経新聞 1969年1月3日
    • [12]三菱銀行と第一銀行が両行頭取間で原則的に合併の方向を打ち出した(1969年1月3日報道)
    • [14]この合併方針を起爆剤に、都市銀行の再編が業務提携段階から合併段階へ進む見通しが出た
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [13]第一銀行頭取は長谷川重三郎、三菱銀行頭取は田実渉。1969年元日の読売新聞が三菱・第一の合併を報じた
  • 読売新聞 1969年1月4日
    • [15]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [16]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [17]取締役に合併の話をしたのは会見前日が初めてで、銀行全体の意思統一まではまだ来ていないと述べられた

第一銀行との合併構想は、同行の元頭取井上薫氏らの反対で1969年のうちに流れた。井上氏は構想を実質的な吸収合併とみて反対し、戦時中の三井銀行との合併で第一系の支店長が4年で84名から62名へ減った経験を挙げた。取引先も、三菱グループと競合する企業が多く、合併後に三菱色に塗りつぶされると懸念した。報道のあと長谷川氏ら数人の役員が辞任し、第一銀行は1971年3月に日本勧業銀行との対等合併を発表した。後年、田実氏は『私が合併をいちばんはじめに試みて、結局失敗したけれども、しかしあれは第一勧銀となって実を結んだ』と語った。相手を選ぶ際に、相手行の人事と取引先の利害を読み切れなかったことが構想の限界だったと考えられる。

  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [18]第一銀行の井上薫は三菱銀行との合併に反対し、1968年暮れに田実頭取を訪ねて話を進めないよう求めた。合併は流産した
    • [19]1968年10月ごろ長谷川頭取から三菱との合併話を打ち明けられ、実質上は吸収合併であるとして即座に反対した
    • [20]戦時中の三井銀行との合併(帝国銀行)では、第一系の支店長が合併時84名から4年後62名に減り、三井系は45名から68名に増えた
    • [21]三菱グループはワンセット主義で第一系企業と競合するものが多く、取引先(大株主)が三菱色に塗りつぶされることを懸念してほとんど全て反対した
    • [22]長谷川頭取以下数人の役員が辞任し、1971年3月11日の日経朝刊が第一・勧銀の対等合併(10月1日発足メド)を報じた
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
    • [23]田実渉は1973年時点でも合併論者だとし、第一銀行との合併の試みは失敗したが第一勧銀として実を結んだと語った

三菱銀行は1968年9月にオンライン・システムを動かし始めた。同じ年の預金量は1兆8,000億円台、店舗は182店で富士銀行に次ぐ2位だったが、大衆化路線には乗り遅れた感があるとされた。銀行は1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニーと提携した預金で個人客の取り込みを図っていた。オンライン化の3年後の1971年には、オンラインで結んだ現金引出機を業界で初めて置いた。1972年には家計預金を一つにまとめる総合口座を出し、1973年10月に東京事務センターを新設した。系列企業との取引で伸びた銀行が、機械化を足場に個人客の窓口を広げ、大衆化の遅れを縮めようとしたと思われる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [24]1968年9月にオンライン・システムを開始した
    • [27]1971年に業界初のオンラインによるCD(現金引出機)を設置した
    • [28]1972年に総合口座を取り扱い、1973年10月に東京事務センターを新設した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [25]1968年時点で預金量1兆8,000億円台、店舗182ヵ店、富士銀行に次ぐ2位。大衆化路線に乗りおくれた感もあるが、ここ数年急速に他行に迫っていると評された
    • [26]1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニー・プロと提携してディズニー預金などに活用した
参考文献[12]-[28]
  • 日経新聞 1969年1月3日
    • [12]三菱銀行と第一銀行が両行頭取間で原則的に合併の方向を打ち出した(1969年1月3日報道)
    • [14]この合併方針を起爆剤に、都市銀行の再編が業務提携段階から合併段階へ進む見通しが出た
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [13]第一銀行頭取は長谷川重三郎、三菱銀行頭取は田実渉。1969年元日の読売新聞が三菱・第一の合併を報じた
    • [18]第一銀行の井上薫は三菱銀行との合併に反対し、1968年暮れに田実頭取を訪ねて話を進めないよう求めた。合併は流産した
    • [19]1968年10月ごろ長谷川頭取から三菱との合併話を打ち明けられ、実質上は吸収合併であるとして即座に反対した
    • [20]戦時中の三井銀行との合併(帝国銀行)では、第一系の支店長が合併時84名から4年後62名に減り、三井系は45名から68名に増えた
    • [21]三菱グループはワンセット主義で第一系企業と競合するものが多く、取引先(大株主)が三菱色に塗りつぶされることを懸念してほとんど全て反対した
    • [22]長谷川頭取以下数人の役員が辞任し、1971年3月11日の日経朝刊が第一・勧銀の対等合併(10月1日発足メド)を報じた
  • 読売新聞 1969年1月4日
    • [15]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [16]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [17]取締役に合併の話をしたのは会見前日が初めてで、銀行全体の意思統一まではまだ来ていないと述べられた
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
    • [23]田実渉は1973年時点でも合併論者だとし、第一銀行との合併の試みは失敗したが第一勧銀として実を結んだと語った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [24]1968年9月にオンライン・システムを開始した
    • [27]1971年に業界初のオンラインによるCD(現金引出機)を設置した
    • [28]1972年に総合口座を取り扱い、1973年10月に東京事務センターを新設した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [25]1968年時点で預金量1兆8,000億円台、店舗182ヵ店、富士銀行に次ぐ2位。大衆化路線に乗りおくれた感もあるが、ここ数年急速に他行に迫っていると評された
    • [26]1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニー・プロと提携してディズニー預金などに活用した

1971年〜中村俊男の国際化路線と加州三菱銀行、手堅さが招いた業績の低迷

中村俊男氏は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに国際化を掲げた。1971年4月の支店長会議では、『国際業務は都市銀行の主要業務として、今後真剣に取り組んでいかねばならない』と訴えた。これは外国為替にとどまらず、海外での貸出や証券取引など国際金融業務へ参入する意味を持っていた。1952年のニューヨーク支店再開から20年を経た1972年1月、初の海外現地法人として加州三菱銀行をロサンゼルスに設けた。同年5月には、欧米の代表的な銀行で構成するオライオン・グループに加わった。国内の合併で規模を取れなかった分、海外に拠点を持つことで成長の余地を探ったと読める。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [29]中村俊男は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに「国際化」を掲げた
    • [30]1971年4月の支店長会議で、わが国経済の急速かつ本格的な国際化に対処して当行の国際化路線を強化する必要があると述べた
    • [31]国際化は外国為替業務にとどまらず、海外での貸出業務・証券取引業務など国際金融業務への進出を意味した
    • [32]1952年10月にニューヨーク支店を再開し、1972年1月に初めての海外現地法人「加州三菱銀行」をロサンゼルスに設立した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [33]1972年5月に欧米先進諸国の代表的銀行で構成するオライオン・グループに参加した

三菱銀行は1980年に創業100年を迎え、記念事業の一環として7月に地上24階の新本館を落成させた。頭取の山田春氏は100年で培った特色に信用を挙げ、金融恐慌で預け入れ客が引出し客を上回った経緯をその裏づけとした。二世紀目の経営の基本には、健全性と効率化を据えた。戦前は財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化を続けた結果、中小企業向け貸出の比率がおよそ50%に達したとも説いた。ところが翌年には、その信用の伝統がかえって一般の預金者を遠ざける要素になったとされた。信用を拠り所とする姿勢は、法人取引では強みでも、個人取引を広げる場面では働きにくかったようだ。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [34]1980年7月に創業100周年を迎え、新本館が完成した
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [35]山田春頭取は100年の歴史で培われた特色を信用と答えた。新本店は地上24階(1980年7月14日落成)
    • [36]関東大震災で本店の建物が無事で他行の重要物件を預かり、金融恐慌では預け入れ客が引出し客を上回ったと山田頭取が述べた
    • [37]二世紀目の経営の基本は健全性と効率化で、新しい金融ニーズに応えるとした
    • [38]戦前は三菱グループ中心の財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化への努力で中小企業向け貸出比率はだいたい50%になったと山田頭取が述べた
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [39]三菱銀行の信用力の伝統はかえって一般預金者に敬遠される要素となり、堅実な経営方針は国際化という環境変化にややそぐわないと指摘された

1981年3月期の三菱銀行の経常利益(有価証券関係の損益を除く)は231億円で、1年前に11億円だった住友銀行との差が170億円に開いた。格差の半分は国際部門から生じ、個人預金でも住友に抜かれて上位4行の最下位に下がった。国内の産業金融を主流とし、貸出と審査に人材を注いできた結果、国際部門が手薄になったという。中村氏も後年、海外へ出る企業への融資では都市銀行は受け身にならざるをえないと振り返った。銀行は1981年7月13日、機能別の組織を三菱系大企業・中堅中小企業・国際の3本部へ切り替えた。系列の信用に支えられた取引の型が、自由化の局面では収益の伸びを抑える側に回ったと推測される。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [40]1981年3月期の経常利益(有価証券関係損益控除後)は住友銀行401億円に対し三菱銀行231億円で、170億円の差
    • [41]1980年3月期は住友392億円、三菱381億円で差は11億円だった
    • [42]1981年3月期の住友との収益格差の半分は国際部門から生じ、個人預金で住友に抜かれ上位4行中最下位となった
    • [43]三菱財閥への資金供給者として国内産業金融中心の伝統が強く、貸出・審査部門が主流で国際部門に人材を十分投入できなかった
    • [45]1981年7月13日、機能別組織から三菱系大企業担当の営業本部・中堅中小企業の業務本部・国際本部の市場別組織に全面改正した
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [44]都市銀行は海外に進出する日本企業への融資では受け身にならざるをえず、自ら海外プロジェクトを計画することはしないと中村俊男が述べた
参考文献[29]-[45]
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [29]中村俊男は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに「国際化」を掲げた
    • [30]1971年4月の支店長会議で、わが国経済の急速かつ本格的な国際化に対処して当行の国際化路線を強化する必要があると述べた
    • [31]国際化は外国為替業務にとどまらず、海外での貸出業務・証券取引業務など国際金融業務への進出を意味した
    • [32]1952年10月にニューヨーク支店を再開し、1972年1月に初めての海外現地法人「加州三菱銀行」をロサンゼルスに設立した
    • [44]都市銀行は海外に進出する日本企業への融資では受け身にならざるをえず、自ら海外プロジェクトを計画することはしないと中村俊男が述べた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [33]1972年5月に欧米先進諸国の代表的銀行で構成するオライオン・グループに参加した
    • [34]1980年7月に創業100周年を迎え、新本館が完成した
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [35]山田春頭取は100年の歴史で培われた特色を信用と答えた。新本店は地上24階(1980年7月14日落成)
    • [36]関東大震災で本店の建物が無事で他行の重要物件を預かり、金融恐慌では預け入れ客が引出し客を上回ったと山田頭取が述べた
    • [37]二世紀目の経営の基本は健全性と効率化で、新しい金融ニーズに応えるとした
    • [38]戦前は三菱グループ中心の財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化への努力で中小企業向け貸出比率はだいたい50%になったと山田頭取が述べた
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [39]三菱銀行の信用力の伝統はかえって一般預金者に敬遠される要素となり、堅実な経営方針は国際化という環境変化にややそぐわないと指摘された
    • [40]1981年3月期の経常利益(有価証券関係損益控除後)は住友銀行401億円に対し三菱銀行231億円で、170億円の差
    • [41]1980年3月期は住友392億円、三菱381億円で差は11億円だった
    • [42]1981年3月期の住友との収益格差の半分は国際部門から生じ、個人預金で住友に抜かれ上位4行中最下位となった
    • [43]三菱財閥への資金供給者として国内産業金融中心の伝統が強く、貸出・審査部門が主流で国際部門に人材を十分投入できなかった
    • [45]1981年7月13日、機能別組織から三菱系大企業担当の営業本部・中堅中小企業の業務本部・国際本部の市場別組織に全面改正した

出典・参考

14件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
  • 日経新聞 1969年1月3日
  • 読売新聞 1969年1月4日
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
  • 産業と経済 新年特別 1955年
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」

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