東京三菱銀行:第百銀行の合併と千代田銀行への改称
1927年〜金融恐慌で集まった預金と、森村・金原・東京中野の3行の買収
1927年3月に金融恐慌が起きて各地で取り付けが続くなか、会長の串田萬藏氏が率いる三菱銀行は営業を続け、同業銀行の救済に回った。神戸支店では一部で取り付けがあったが、行全体では恐慌を機に預金が増えた。預金は1926年末の3億2883万円から1928年末には5億6225万円に増え、その伸び率は一流銀行で首位だった。恐慌を境に、預金が大銀行へ寄る動きは全国ではっきりした。同じ2年間に貸出は2億2067万円から2億5738万円へ増えただけで、有価証券は1億3109万円から3億2467万円に膨らんだ。貸出先が増えないまま預金だけが積み上がったことが、資本の積み増しと他行の買収へ向かう下地になったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [1]昭和初期の金融恐慌で多数の銀行が取付にあうなか、三菱銀行は同業銀行の救済に努め、信用を高めて預金が激増した
- 実業の世界 32(12) 1935年12月
- [2]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- [3]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- [5]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
- [4]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
- [7]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [6]1927年3月の金融恐慌で、三菱銀行は中小企業や経営難の銀行を救済した。恐慌以降、預金は大銀行に集中する傾向が顕著になった
1929年、三菱銀行は1924年から資本金の8割を出資して経営してきた森村銀行を買収した。同じ年に会長の串田萬藏氏のもとで資本金を倍の1億円に増やした。諸積立金が払込資本金を上回り、預金に比べて資本が小さくなりすぎていたためだった。この増資で三菱の一族が持っていた株式の一部を初めて公開し、公開した23万5000株には3倍を超す申し込みが集まった。1940年10月には、1936年から整理を担ってきた金原銀行を買収した。1942年4月には、1939年から経営に加わっていた東京中野銀行の業務を引き継いだ。2行の買収の狙いは、戦時の貯蓄増強のもとで一般の民間預金を取り込むことにあった。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [8]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
- [16]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
- [18]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
- [9]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [10]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [12]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [14]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [17]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [19]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- 実業の世界 32(12) 1935年12月
- [11]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- [13]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- [15]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [20]日華事変後の貯蓄増強のもとで、1940年金原銀行・1942年東京中野銀行を買収し一般民間預金の吸収に努めた
参考文献[1]-[20]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [1]昭和初期の金融恐慌で多数の銀行が取付にあうなか、三菱銀行は同業銀行の救済に努め、信用を高めて預金が激増した
- [20]日華事変後の貯蓄増強のもとで、1940年金原銀行・1942年東京中野銀行を買収し一般民間預金の吸収に努めた
- 実業の世界 32(12) 1935年12月
- [2]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- [3]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- [5]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
- [11]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- [13]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- [15]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
- [4]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
- [7]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
- [9]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [10]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [12]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [14]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [17]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- [19]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [6]1927年3月の金融恐慌で、三菱銀行は中小企業や経営難の銀行を救済した。恐慌以降、預金は大銀行に集中する傾向が顕著になった
- [8]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
- [16]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
- [18]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
1943年〜第百銀行の合併で預金48億円になった三菱銀行と、戦後の千代田銀行への改称
1943年4月、三菱銀行は第百銀行を合併し、資本金1億3500万円、店舗177店、預金48億円の銀行になった。合併の直前、三菱の店は51支店・14出張所で、97支店・14出張所を持つ第百銀行のほうが店の数では多かった。1942年上半期の預金高では、三菱は7大銀行の5位、第百は7位に位置していた。この合併は、戦時の資金を国が一元的に動かすために銀行の統合を求めた当局の方針に沿うものだった。交渉は頭取の加藤武男氏と第百銀行頭取の関根善作氏が担い、双方が譲り合ってまとめた。合併で加わった112店は、1949年時点で千代田銀行の店舗のおよそ3分の2にあたった。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [21]1943年4月第百銀行を合併し、資本金1億3500万円・店舗177店・預金48億円となった
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [22]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [23]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [24]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [26]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [25]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
- [27]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [28]1943年の合併当時三菱銀行の店舗は50〜60にすぎず、1949年の155店の3分の2は第百の吸収で得たものとされる
敗戦後に戦時補償が打ち切られると、軍需向けの貸出を抱えた金融機関は大きな損失を負った。1946年10月に施行された金融機関再建整備法のもとで、三菱銀行の確定損は約19億7400万円と算定された。この額は旧勘定資産の帳簿残高のほぼ3割にあたり、確定益で埋めても損失が残った。1948年3月の最終処理で、三菱銀行は資本金1億3500万円の93%を切り捨て、第二封鎖預金の一部も切り捨てて穴を埋めた。この間に公職追放で頭取の加藤武男氏や副頭取の関根善作氏が退き、高木健吉氏を経て1947年から千金良宗三郎氏が頭取に就任した。財閥解体の過程でも銀行は過度経済力集中排除法の適用を外れ、規模をほぼ保ったまま再建に入った。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [29]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- [30]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- [31]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [32]1948年3月、金融機関再建整備法に基づく最終処理を完了し、資本金1億3500万円を93%切り捨てた
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [33]再建整備では特損19億7400万円を資本金と第二封鎖預金の切り捨てで補塡した
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [34]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
- [35]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
1948年10月、頭取の千金良宗三郎氏のもとで、三菱銀行は行名を千代田銀行に改めた。財閥の名を商号に使うことを禁じた特定商号使用禁止令により、三菱の名もスリーダイヤの印も使えなくなったためだった。新しい行名は本店のある千代田区丸の内から取り、印には顧客・株主・従業員を表す3本の柱を据えた。同じころ安田銀行は富士銀行に、住友銀行は大阪銀行に名を改めた。行員は、かねての標語だった親切第一を添えて、三菱が千代田に変わったことを取引先に繰り返し伝えた。改称と同時に資本金を11億円へ増やし、このときの預金は332億円、店舗は161店だった。この増資で株式は預金者や従業員、地方の住民へ散らばり、資本の面でも大衆銀行としての性格が強まった。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [36]財閥解体で「三菱」の名称を使えなくなり、1948年10月千代田銀行と行名を変更した
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [37]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [38]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [39]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [41]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [42]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [40]千代田の新マークは三菱ビルの正面をかたどり、3本の柱を顧客・株主・従業員に見立てた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [43]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
- [45]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
- 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
- [44]沿革:1948年10月資本金11億円に増資、行名を千代田銀行と改称
参考文献[21]-[45]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [21]1943年4月第百銀行を合併し、資本金1億3500万円・店舗177店・預金48億円となった
- [29]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- [30]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- [31]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
- [36]財閥解体で「三菱」の名称を使えなくなり、1948年10月千代田銀行と行名を変更した
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [22]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [23]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [24]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [26]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
- [34]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
- [35]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
- [37]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [38]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [39]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [41]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- [42]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [25]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
- [27]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
- [32]1948年3月、金融機関再建整備法に基づく最終処理を完了し、資本金1億3500万円を93%切り捨てた
- [43]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
- [45]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [28]1943年の合併当時三菱銀行の店舗は50〜60にすぎず、1949年の155店の3分の2は第百の吸収で得たものとされる
- [33]再建整備では特損19億7400万円を資本金と第二封鎖預金の切り捨てで補塡した
- [40]千代田の新マークは三菱ビルの正面をかたどり、3本の柱を顧客・株主・従業員に見立てた
- 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
- [44]沿革:1948年10月資本金11億円に増資、行名を千代田銀行と改称
1949年〜東京・大阪での上場とニューヨーク支店の再開、三菱銀行への行名の復帰
1949年5月、千代田銀行は東京と大阪の証券取引所に株式を上場した。上場を控えた同年3月末の預金は444億円、貸出は321億円で、預金は富士銀行の502億円に次ぐ2位だった。前年10月からの半年間で預金は約108億円増えたが、貸出の増加は約51億円にとどまった。ただ株価は39〜40円にとどまり、前年の増資で株数が多くなりすぎたことが主な理由とされた。配当の再開も見通せず、その扱いはいったん棚上げになっていた。1953年までに、上場先は東京・大阪・京都・神戸・札幌の5市場に広がった。再建整備で資本の9割超を失った銀行にとって、上場は株主を広く募り、のちの増資に備える足場になったと考えられる。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [46]1949年5月東京・大阪両証取に株式を上場
- 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎
- [47]1949年3月末の預金は富士502億円、千代田444億円、貸出は千代田321億円
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [48]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- [49]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- [50]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
- [51]上場市場は東京・大阪・京都・神戸・札幌
千代田銀行は1950年4月、アメリカ銀行などとコルレス契約を結び、海外との為替取引を戦後に再び始めた。1952年10月にはニューヨーク支店を開設した。ニューヨークには1920年にも支店を置いており、戦後の海外店網はこの支店の再開から立て直しが始まった。1949年の外国部では、為替レートの決定を受けて外国為替の実務を立ち上げることが課題になっていた。同じ年の時点で、貿易手形の取扱高は東京銀行や帝国銀行に届かず、富士や三和と並ぶ水準だった。同じ記事は、三菱商事の解体で生まれた200余りの新会社からの貿易手形の持ち込みを見込んでいた。旧三菱系の商社が貿易を広げるのに備え、決済の拠点を海外に持っておく必要があったのだろう。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [52]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- [53]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- [55]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [54]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
- [56]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [57]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
- [58]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
- [59]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
1953年7月、千代田銀行は行名を三菱銀行に戻した。1952年の講和条約の発効で特定商号使用禁止令が効力を失い、三菱の名を再び名乗れるようになっていた。千代田の名は海外で知られておらず、ニューヨーク支店を開設したあとの取引で不便と不利が目立ち、国内でも同様の事情があった。1952年8月には三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も相次いで現れていた。行名の復帰に先立つ1953年4月、千代田銀行は資本金を27億5000万円へ増やした。同年3月末の預金は1597億円に達しており、増資後の資本金は国内の普通銀行で最大だった。グループの各社が三菱の名に戻るなかで、中核の銀行だけが別の名を名乗り続ける理由は薄れていたものと思われる。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [60]1953年7月三菱銀行の旧商号に復帰
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [61]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [63]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [65]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [66]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [62]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
- [64]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
参考文献[46]-[66]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [46]1949年5月東京・大阪両証取に株式を上場
- [54]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
- [56]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
- [60]1953年7月三菱銀行の旧商号に復帰
- 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎
- [47]1949年3月末の預金は富士502億円、千代田444億円、貸出は千代田321億円
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- [48]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- [49]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- [50]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
- [57]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
- [58]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
- [59]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
- 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
- [51]上場市場は東京・大阪・京都・神戸・札幌
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [52]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- [53]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- [55]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
- [61]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [63]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [65]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- [66]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- [62]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
- [64]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
出典・参考
8件
- 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
- 実業の世界 32(12) 1935年12月
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
- 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
- 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎