東京三菱銀行:三菱為換店の開設と株式会社三菱銀行の独立
1880年〜海運の荷為替から分かれた三菱為換店と、第百十九国立銀行を継いだ合資会社銀行部
三菱の銀行業は、1880年4月に東京・京橋霊岸島で開業した三菱為換店から始まった。前身は、郵便汽船三菱会社が1876年に大阪へ設けた為替局である。為替局は政府資金を元手に、回漕貨物を担保として荷主へ為替金を貸し、その見返りに積み荷を誘った。1880年に海運業から切り離された為換店は、荷為替に加えて預金と貸付を扱い、東京・深川で倉庫業も営んだ。岩崎家が銀行の名を持つ組織を得るのは1885年で、それまでは為替局と為換店が資金の供給役を担った。創業者で社長の岩崎彌太郎氏にとって、荷主への融通は船の荷を集める手立てであり、それを別組織にしたことで預金も受けられるようになったとみられる。
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [1]1880年4月 三菱為換店を東京京橋霊岸島浜町で開業。三菱における銀行業務の始まり
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
- [2]1876年6月 郵便汽船三菱会社が大阪に為替局を設置し荷為替の貸付を行う
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]為替局は郵便汽船三菱会社の内部に置かれ、政府資金を運営資金に回漕貨物を担保として荷主に為替金を融通し、積み荷の勧誘に努めた
- [5]岩崎は1885年に第百十九国立銀行の経営に乗り出すまで銀行を持たず、為替局・三菱為換店が資金供給機関だった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [4]1880年 三菱為換店を開設し普通銀行業務と倉庫業を兼営(倉庫業は東京深川・明治百年)
郵便汽船三菱会社は1885年5月、第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的な銀行業務に入った。同じ年の2月に創業者の岩崎彌太郎氏が死去し、副社長の岩崎彌之助氏が社長を継いでいた。彌之助氏はその後も第百十九国立銀行の経営にあたった。三菱為換店は、この引受けより前に廃止されていた。1886年3月に三菱社が設立され、1880年代後半には第百十九国立銀行の頭取に豊川良平氏が就任した。国立銀行は1876年の制度改正で設立が相次ぎ、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた。新たに国立銀行を起こせない以上、既存の1行を引き継ぐことが、銀行業へ戻る最も手近な道だったのだろう。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [6]1885年5月 郵便汽船三菱会社が第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的銀行業務に乗り出す
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [7]1885年2月 岩崎弥太郎社長が死去し岩崎弥之助副社長が社長に就任、同年5月に第百十九国立銀行の経営を継承
- [8]二代社長岩崎弥之助の略歴に第百十九国立銀行を経営とある
- [10]1886年3月 三菱社設立
- [11]1886年3月の三菱社設立から1889年の憲法発布までの間に、豊川良平が第百十九国立銀行の頭取に就任(年表)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
- [9]三菱為替店はその後廃止され、1885年5月に第百十九国立銀行の経営を引き受けた
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [12]1876年の制度改正で国立銀行設立ブームとなり、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に以後の設立を禁じた
三菱合資会社は1895年、資本金500万円のうち100万円を割いて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を引き継いだ。合資会社は1893年に社長の岩崎久彌氏のもとで設立され、第百十九国立銀行の役職員は全員が合資会社の在籍となっていた。銀行部は東京・八重洲町の三菱第一号館で開業し、初代部長には豊川良平氏が就任した。国立銀行は1883年の条例改正で営業年限を開業から20年と定められ、1896年から1899年に122行が普通銀行へ転じた。銀行部は鉱山や造船など三菱の各事業の出納を受け持ち、資金も供給した。満期を前に業務を合資会社の内へ移したのは、国立銀行の看板を失った後の受け皿を先に整えるためと推察される。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [13]1895年 三菱合資会社が資本金500万円のうち100万円をさいて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を継承
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [14]1893年 三菱合資会社設立(資本金500万円・社長岩崎久弥)、第百十九国立銀行の役職員全員が三菱合資の在籍となる
- [15]三菱合資会社銀行部が三菱第一号館(麹町区八重洲町)で開業、豊川良平が初代銀行部長となる
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [16]1883年の国立銀行条例改正で営業年限を開業免状下付から20年とし、1896〜1899年に122行が普通銀行に転換
- [17]三菱合資の銀行部は合資会社の内部組織として鉱山・造船など各事業の出納方と資金の供給者を兼ねた(『三菱銀行史』の記述)
参考文献[1]-[17]
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [1]1880年4月 三菱為換店を東京京橋霊岸島浜町で開業。三菱における銀行業務の始まり
- [7]1885年2月 岩崎弥太郎社長が死去し岩崎弥之助副社長が社長に就任、同年5月に第百十九国立銀行の経営を継承
- [8]二代社長岩崎弥之助の略歴に第百十九国立銀行を経営とある
- [10]1886年3月 三菱社設立
- [11]1886年3月の三菱社設立から1889年の憲法発布までの間に、豊川良平が第百十九国立銀行の頭取に就任(年表)
- [14]1893年 三菱合資会社設立(資本金500万円・社長岩崎久弥)、第百十九国立銀行の役職員全員が三菱合資の在籍となる
- [15]三菱合資会社銀行部が三菱第一号館(麹町区八重洲町)で開業、豊川良平が初代銀行部長となる
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
- [2]1876年6月 郵便汽船三菱会社が大阪に為替局を設置し荷為替の貸付を行う
- [9]三菱為替店はその後廃止され、1885年5月に第百十九国立銀行の経営を引き受けた
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]為替局は郵便汽船三菱会社の内部に置かれ、政府資金を運営資金に回漕貨物を担保として荷主に為替金を融通し、積み荷の勧誘に努めた
- [5]岩崎は1885年に第百十九国立銀行の経営に乗り出すまで銀行を持たず、為替局・三菱為換店が資金供給機関だった
- [12]1876年の制度改正で国立銀行設立ブームとなり、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に以後の設立を禁じた
- [16]1883年の国立銀行条例改正で営業年限を開業免状下付から20年とし、1896〜1899年に122行が普通銀行に転換
- [17]三菱合資の銀行部は合資会社の内部組織として鉱山・造船など各事業の出納方と資金の供給者を兼ねた(『三菱銀行史』の記述)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [4]1880年 三菱為換店を開設し普通銀行業務と倉庫業を兼営(倉庫業は東京深川・明治百年)
- [6]1885年5月 郵便汽船三菱会社が第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的銀行業務に乗り出す
- [13]1895年 三菱合資会社が資本金500万円のうち100万円をさいて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を継承
1919年〜銀行部から独立した株式会社三菱銀行と、ロンドン・ニューヨークの2支店
三菱合資会社は1919年8月、銀行部を切り離して株式会社三菱銀行を設立し、同年10月1日に営業を始めた。合資会社は1917年10月に造船と製鉄、1918年4月に鉱業と商事を独立させ、自らは持株会社へ転じ始めていた。銀行部の資本金は1895年の発足時の100万円のままで、店舗も本店のほか9店にとどまっていた。一方で銀行部の預金は、1913年末の43,544千円から1918年末には224,754千円へ増えていた。合資会社の首脳部は、資本を大きく積み増して広く一般の信用を得なければ、大戦で膨らんだ資金需要に応えられないと判断した。新銀行の資本金5,000万円は合資会社と岩崎家が全額を引き受け、初代会長には合資会社社長の岩崎小彌太氏が就任した。
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
- [18]1919年8月 株式会社三菱銀行を設立し三菱合資会社から分離、同年9月銀行部の営業全部を譲渡、10月1日営業開始
- [21]銀行部の預金は1913年末43,544千円、1918年末224,754千円
- [23]新銀行の資本金5,000万円は三菱合資会社と岩崎家が全部を引き受け3,000万円を払い込み、取締役会長に岩崎小彌太を選任
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
- [19]合資会社は1917年10月に造船・製鉄、1918年4月に鉱業・商事を独立させ、1918年5月に資本金を3,000万円とし持株会社への転向を開始
- [20]銀行部の資本金は発足当時の100万円のまま変わらず、店舗は本店のほか9店に過ぎなかった
- [22]合資会社首脳部は銀行事業の積極的拡充を意図し、大戦で膨張した三菱関係・一般事業に対応するため資本金を大幅に増やし広く一般の信用を得る必要があった。銀行界でも増資・合同と株式組織化が進んでいた
三菱銀行は1920年4月、ロンドンとニューヨークに支店を開設した。それまで銀行部は、三菱合資会社のロンドン支店と1917年開設のニューヨーク拠点を使い、関係会社の輸出入や送金の為替を扱っていた。株式会社としての発足を機に外国為替業務を大きく伸ばすため、自前の支店を置くことにした。支店には、海外情勢の把握や行員の養成、分系会社の便宜といった役割も持たせた。ニューヨーク支店は州法に基づく銀行ではなく預金を扱えなかったため、為替の事務に専念した。当初は三菱商事と同じビルの同じ階に入り、綿花や鉄、石油の輸出や生糸の輸入の為替を大量に扱ったという。外国為替の取扱高は国内の不況期にも伸び、主な取引先だった三菱商事の急拡大がその一因だった。
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [24]1920年4月 ロンドン・ニューヨーク両支店を開設
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
- [25]銀行部時代から三菱合資会社のロンドン支店(1916年開業)とニューヨーク支店(1917年出張所として開業、1918年支店に昇格)を利用し、関係諸会社の輸出入為替・送金為替を取り扱った
- [26]1919年10月の株式会社三菱銀行としての発足を機に、外国為替業務の飛躍的発展を図るため1920年4月1日にロンドン・ニューヨーク支店を設置
- [27]両支店の設置は海外情勢の把握、行員の養成、内地業務の推進、分系会社の便宜等にも資するものとされた
- [28]ニューヨーク支店(正式にはNew York Agency)は州法に基づく銀行でなく預金業務を扱えず、為替事務に専従した(山口堅吉談)
- [29]ニューヨーク支店は当初Equitable Building11階で三菱商事と同居し、棉花・鉄・パルプ・石油等の輸出や生糸・雑貨等の輸入の為替を大量に扱った(山口堅吉談)
- [30]外国為替取扱高は内地経済界不振の時期にも着実に増加し、主要取引先三菱商事の急膨張による取引量の増大がその一因
三菱銀行は1922年3月31日、東京・八重洲町に本店営業所を完成させ、同年5月に営業を始めた。建物は1916年5月の着工から5年10か月と380万円をかけ、信用の保持を銀行の基礎とみて堅牢さを第一の条件に設計された。1920年の反動で財界は大不況に陥り、その整理が済まないうちに1923年9月の関東大震災が起きた。震災では、東京に本店を置く銀行の多くが本店を焼失した。三菱銀行の本館は焼け残り、他行より早く預金の支払いに応じ、本店の金庫も被災した銀行に開放した。預金は1922年末の266,412千円から1923年末に307,326千円へ増えた。不況のさなかに預金が伸びたのは、焼け残った本館と支払いの早さが、預金者に見える形の信用になったからではないか。
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
- [31]1922年3月31日 東京市麹町区八重洲町二丁目に本店営業所の建物が完成
- [33]本店営業所は1916年5月12日の基礎掘削着手から5年10か月、380万円を費やし、銀行発展の基礎は信用の保持・向上にあるとして堅牢・壮麗を第一条件とした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [32]1922年 本店営業所を新築し同年5月営業開始
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
- [34]新銀行設立時を好況の絶頂とし、1920年の大波瀾で財界は大不況に陥り、整理が済まないうちに関東大震火災が突発した
- [38]三菱銀行の預金は1922年末266,412千円、1923年末307,326千円
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [35]1923年9月の関東大震災で東京所在の多くの銀行が本店を焼失
- [36]1922年完成の本館は震災で無事に残り、他行に先駆けて預金の支払いを開始
- [37]震災時に本店金庫を開放し罹災した諸銀行の使用に供した
参考文献[18]-[38]
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
- [18]1919年8月 株式会社三菱銀行を設立し三菱合資会社から分離、同年9月銀行部の営業全部を譲渡、10月1日営業開始
- [21]銀行部の預金は1913年末43,544千円、1918年末224,754千円
- [23]新銀行の資本金5,000万円は三菱合資会社と岩崎家が全部を引き受け3,000万円を払い込み、取締役会長に岩崎小彌太を選任
- [34]新銀行設立時を好況の絶頂とし、1920年の大波瀾で財界は大不況に陥り、整理が済まないうちに関東大震火災が突発した
- [38]三菱銀行の預金は1922年末266,412千円、1923年末307,326千円
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
- [19]合資会社は1917年10月に造船・製鉄、1918年4月に鉱業・商事を独立させ、1918年5月に資本金を3,000万円とし持株会社への転向を開始
- [20]銀行部の資本金は発足当時の100万円のまま変わらず、店舗は本店のほか9店に過ぎなかった
- [22]合資会社首脳部は銀行事業の積極的拡充を意図し、大戦で膨張した三菱関係・一般事業に対応するため資本金を大幅に増やし広く一般の信用を得る必要があった。銀行界でも増資・合同と株式組織化が進んでいた
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
- [24]1920年4月 ロンドン・ニューヨーク両支店を開設
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
- [25]銀行部時代から三菱合資会社のロンドン支店(1916年開業)とニューヨーク支店(1917年出張所として開業、1918年支店に昇格)を利用し、関係諸会社の輸出入為替・送金為替を取り扱った
- [26]1919年10月の株式会社三菱銀行としての発足を機に、外国為替業務の飛躍的発展を図るため1920年4月1日にロンドン・ニューヨーク支店を設置
- [27]両支店の設置は海外情勢の把握、行員の養成、内地業務の推進、分系会社の便宜等にも資するものとされた
- [28]ニューヨーク支店(正式にはNew York Agency)は州法に基づく銀行でなく預金業務を扱えず、為替事務に専従した(山口堅吉談)
- [29]ニューヨーク支店は当初Equitable Building11階で三菱商事と同居し、棉花・鉄・パルプ・石油等の輸出や生糸・雑貨等の輸入の為替を大量に扱った(山口堅吉談)
- [30]外国為替取扱高は内地経済界不振の時期にも着実に増加し、主要取引先三菱商事の急膨張による取引量の増大がその一因
- [31]1922年3月31日 東京市麹町区八重洲町二丁目に本店営業所の建物が完成
- [33]本店営業所は1916年5月12日の基礎掘削着手から5年10か月、380万円を費やし、銀行発展の基礎は信用の保持・向上にあるとして堅牢・壮麗を第一条件とした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- [32]1922年 本店営業所を新築し同年5月営業開始
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [35]1923年9月の関東大震災で東京所在の多くの銀行が本店を焼失
- [36]1922年完成の本館は震災で無事に残り、他行に先駆けて預金の支払いを開始
- [37]震災時に本店金庫を開放し罹災した諸銀行の使用に供した
出典・参考
8件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
- 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
- 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」