第1章 年〜年

SGホールディングス:飛脚事業の創業から東京佐川急便事件まで

1957年〜佐川組の解散から始めた京都・大阪間の夫婦飛脚と、1965年設立の佐川急便

創業者の佐川清氏は九州で鳶の組「佐川組」を率い、組員に他の組より高い給料を払っていた。高い給料に引かれて他の組から移りたがる者が出て組同士の騒ぎとなり、佐川清氏は組を解散した。組の金は組員に均等に分けられて家だけが残ったといい、佐川清氏は妻の佐川幸恵氏に促されて尾道で覚えた飛脚業を選んだ。修業先の尾道の丸源には従兄の伊藤芳治氏がいたが、佐川清氏はその信用を借りず、独力で商売を起こした。1957年3月、35歳の佐川清氏は京都駅前を拠点に、京都と大阪の問屋やメーカーを相手に飛脚業を始めた。元手の無い再出発で選べたのは、設備を持たず体一つで始められ、しかも覚えのある商売だったとみられる。

  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「インタビュー 人間・佐川清 本音の部分」
    • [1]佐川清は九州で鳶の組を率い、組員に他の組より高い給料を払っていた
    • [2]他の組から移りたがる者が出て騒ぎとなり、佐川は鳶の組を解散した
  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
    • [3]佐川組の解散時、金庫の金は組員に均等割され、佐川の手元には家だけが残った
    • [4]妻の幸恵の「裸一貫、一から出直しましょう」の一言で、尾道で経験のある飛脚業を思い立った
    • [5]尾道丸源には従兄の伊藤芳治がいたが、その信用を借りず独立独歩で商売を始めた
    • [6]1957年に京都駅前で大阪—京都間を主商圏として飛脚業を始めた
    • [7]1957年3月(35歳)、京都—大阪間で問屋・メーカー相手の商業輸送の飛脚業を始めた

佐川清氏は後ろ楯を頼らずに毎日問屋へ通い、訪ねた店をすべて顧客名簿に書き留めた。支えにしたのは、デパートに勤める知人から聞いた『今日のひやかし客は、あすのお得意さま』という心得だった。荷主に呼ばれれば、夜でも朝でも駆けつけた。開業45日目に大阪の千田商会からカメラ10台の配送を任され、これが初めての注文となった。光洋ベアリングの重量物も引き受けて専属の飛脚となり、捌ききれない荷は妻の佐川幸恵氏も担いだ。出張所は1958年からの2年で大阪・敦賀・福井・金沢・富山に置かれ、1960年4月に有限会社佐川急便を設けた。1961年にはトラックを入れて京阪神と北陸へ営業範囲を広げ、1965年11月に佐川急便株式会社を設立した。

  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
    • [8]後ろ楯を頼らず問屋へ通い続け、ご用聞きに回った店を全て顧客リストに書き留めた
    • [9]デパート勤めの知人に教わった「今日のひやかし客は、あすのお得意さま」を自らの教訓にした
    • [10]荷主が今すぐ荷物を取りに来いと言えば、夜でも朝でも駆けつけた
    • [11]開業45日目、大阪・鰻谷の千田商会からカメラ10台を京都のカメラ店へ届ける初受注を得た
    • [12]光洋ベアリングのベアリング運搬を引き受け、同社専属の飛脚に取り立てられた
    • [13]捌ききれない注文に妻の幸恵も荷をかついで運び「浪花の夫婦飛脚」と呼ばれた
    • [14]1958〜1959年に出張所が大阪・敦賀・福井・金沢・富山と増えた
    • [15]1960年4月に有限会社佐川急便を設立した
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [16]1961年にトラックを導入し、営業テリトリーを京阪神・北陸へ拡大した
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [17]1965年11月に佐川急便株式会社を設立した
参考文献[1]-[17]
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「インタビュー 人間・佐川清 本音の部分」
    • [1]佐川清は九州で鳶の組を率い、組員に他の組より高い給料を払っていた
    • [2]他の組から移りたがる者が出て騒ぎとなり、佐川は鳶の組を解散した
  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
    • [3]佐川組の解散時、金庫の金は組員に均等割され、佐川の手元には家だけが残った
    • [4]妻の幸恵の「裸一貫、一から出直しましょう」の一言で、尾道で経験のある飛脚業を思い立った
    • [5]尾道丸源には従兄の伊藤芳治がいたが、その信用を借りず独立独歩で商売を始めた
    • [6]1957年に京都駅前で大阪—京都間を主商圏として飛脚業を始めた
    • [7]1957年3月(35歳)、京都—大阪間で問屋・メーカー相手の商業輸送の飛脚業を始めた
    • [8]後ろ楯を頼らず問屋へ通い続け、ご用聞きに回った店を全て顧客リストに書き留めた
    • [9]デパート勤めの知人に教わった「今日のひやかし客は、あすのお得意さま」を自らの教訓にした
    • [10]荷主が今すぐ荷物を取りに来いと言えば、夜でも朝でも駆けつけた
    • [11]開業45日目、大阪・鰻谷の千田商会からカメラ10台を京都のカメラ店へ届ける初受注を得た
    • [12]光洋ベアリングのベアリング運搬を引き受け、同社専属の飛脚に取り立てられた
    • [13]捌ききれない注文に妻の幸恵も荷をかついで運び「浪花の夫婦飛脚」と呼ばれた
    • [14]1958〜1959年に出張所が大阪・敦賀・福井・金沢・富山と増えた
    • [15]1960年4月に有限会社佐川急便を設立した
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [16]1961年にトラックを導入し、営業テリトリーを京阪神・北陸へ拡大した
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [17]1965年11月に佐川急便株式会社を設立した

1966年〜高給のセールスドライバー制と、年商1,000億円に届いた地域別の急便会社

大手の運送業者は量がまとまらず急ぎを要する荷を敬遠し、呉服や衣料、精密機器、高級生鮮食品の荷主は不満を抱えていた。佐川清氏はこうした少量で急ぎの高付加価値品の輸送に的を絞り、1973年の石油ショック後も扱いを伸ばした。荷を集めたのは集荷と配達に加えて営業も担う「セールス・ドライバー」で、配達先で他社に出ている荷を見つけると出荷を頼んだ。夫婦で捌けない量になって人を雇う際、佐川清氏は鳶の組と同じく給料を世間相場より高くする考えで臨み、月給の遅配もしなかったという。佐川清氏は第一線のドライバーを大事にする方針を掲げ、1982年初めには初任給を48万円に上げるよう指示した。高い給料が、運転に加えて荷主を開拓する働きを現場から引き出したのだろう。

  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
    • [18]大手業者は量がまとまらず急を要し特別扱いが要る荷を敬遠し、呉服・ファッション衣料・精密機器などの荷主は不満を持っていた
    • [19]佐川はそれら時間価値・付加価値が高く少量多頻度の商品の専門業者になった
    • [20]1973年の第一次石油ショック後、トラック業界が量の減退に悩むなかで佐川急便は数字を伸ばした
    • [23]夫婦二人で捌ききれない量になって人を雇う際、佐川組で労賃を世間相場の二倍とした考えを引き継いだ
    • [24]金庫が乏しいときも幸恵が家財を質に入れ、社員の月給は滞らせず支払った
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「対談 佐川正明社長・堺屋太一氏」
    • [21]佐川急便はセールス・ドライバーの名称を使い、ドライバーが集荷・配達とともに営業も担う
    • [22]配達先で他社に出ている荷があれば、ドライバーが佐川急便への出荷を頼む営業行為をする
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「インタビュー 人間・佐川清 本音の部分」
    • [25]佐川清は第一線のドライバーを大事にする会社だとし、1982年初めに全店の責任者を集めて初任給48万円と週休2日制の実行を指令した

急便会社は1960年の京都に始まり、北陸・四国・九州・中国・大阪を経て1974年の東京まで地域別の別法人で置かれた。東京の母体は、のちの東京佐川急便社長の渡辺広康氏が1963年に設けた渡辺運輸で、1974年の業務提携で加わった。グループの売上高は1973年に100億円を超え、1979年には1,000億円に達した。伸びに弾みを付けたのは、大都市の東京で東京佐川急便が扱う荷を大きく増やしたことだった。各ブロックは独立採算の別法人で、東京佐川急便常務の早乙女潤氏は『ブロック制のメリットは、損益がはっきり出ることだ。』と利点を挙げた。重要事項は統括本部が合議して伝える仕組みで、早乙女潤常務はこれをフランチャイズに近い形と説明した。

  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
    • [26]各ブロック会社の設立は京都1960年、北陸1965年、四国1967年、九州1971年、中国1972年、大阪1973年、東京1974年、中京1975年
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [27]東京佐川急便の前身は渡辺広康が1963年に設立した渡辺運輸で、1974年の業務提携で佐川グループ入りした
    • [30]東京佐川急便設立まではグループ年商は100億円程度で、東京佐川急便が扱い高を伸ばしてから急成長に弾みがついた
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [28]1973年に売上高100億円を突破した
    • [29]1979年に売上高1,000億円に達した
    • [31]全国九ブロックはそれぞれ独立法人の形をとり、早乙女潤常務はブロック制の利点を損益がはっきり出ることと語った
    • [32]重要事項は統括本部が合議し伝達する仕組みで、早乙女常務はフランチャイズシステムに近いと語った

1975年、佐川急便グループは統括本部の機能を持つ清和商事を設立した。同じ1975年7月に京都自動車興業を、1980年5月には佐川自動車工業を設けた。1983年2月には佐川コンピューター・システムを設け、全店をオンラインで結んで1日150万個の荷の所在を追えるようにした。1984年には清和商事を核に全国九ブロックの主管店を置き、その下に198の店舗と関連会社が並んだ。各ブロックは独立採算のまま清和商事の役員が長を兼ね、清和商事は各社の収益を吸い上げて上納金の引き上げを求めることもあったという。運ぶ仕事は地域会社に任せ、車両・航空・情報と資金を本部側に寄せた形と推察される。

  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
    • [33]1975年に佐川急便グループの統括本部機能をもつ清和商事が設立された
    • [36]佐川コンピューターシステムにより全店舗を全国オンライン化し、1日150万個の荷物の所在を把握できるようにした
    • [38]各ブロックは独立採算で、清和商事の役員が各ブロックの長を担当した
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [34]1975年7月京都自動車興業、1980年5月佐川自動車工業、1980年9月佐川航空を設立
    • [35]1983年2月に佐川コンピューター・システムを設立
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [37]統括本部清和商事を核とし全国九ブロックに主管店を設置、その下に198の店舗および関連会社を置いた(1984年)
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [39]清和商事は独立採算の全国グループ会社の収益を吸い上げる会社で、上納金の額のアップを言い渡すことがあった(グループ会社幹部の証言)
参考文献[18]-[39]
  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
    • [18]大手業者は量がまとまらず急を要し特別扱いが要る荷を敬遠し、呉服・ファッション衣料・精密機器などの荷主は不満を持っていた
    • [19]佐川はそれら時間価値・付加価値が高く少量多頻度の商品の専門業者になった
    • [20]1973年の第一次石油ショック後、トラック業界が量の減退に悩むなかで佐川急便は数字を伸ばした
    • [23]夫婦二人で捌ききれない量になって人を雇う際、佐川組で労賃を世間相場の二倍とした考えを引き継いだ
    • [24]金庫が乏しいときも幸恵が家財を質に入れ、社員の月給は滞らせず支払った
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「対談 佐川正明社長・堺屋太一氏」
    • [21]佐川急便はセールス・ドライバーの名称を使い、ドライバーが集荷・配達とともに営業も担う
    • [22]配達先で他社に出ている荷があれば、ドライバーが佐川急便への出荷を頼む営業行為をする
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「インタビュー 人間・佐川清 本音の部分」
    • [25]佐川清は第一線のドライバーを大事にする会社だとし、1982年初めに全店の責任者を集めて初任給48万円と週休2日制の実行を指令した
  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
    • [26]各ブロック会社の設立は京都1960年、北陸1965年、四国1967年、九州1971年、中国1972年、大阪1973年、東京1974年、中京1975年
    • [33]1975年に佐川急便グループの統括本部機能をもつ清和商事が設立された
    • [36]佐川コンピューターシステムにより全店舗を全国オンライン化し、1日150万個の荷物の所在を把握できるようにした
    • [38]各ブロックは独立採算で、清和商事の役員が各ブロックの長を担当した
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [27]東京佐川急便の前身は渡辺広康が1963年に設立した渡辺運輸で、1974年の業務提携で佐川グループ入りした
    • [30]東京佐川急便設立まではグループ年商は100億円程度で、東京佐川急便が扱い高を伸ばしてから急成長に弾みがついた
    • [39]清和商事は独立採算の全国グループ会社の収益を吸い上げる会社で、上納金の額のアップを言い渡すことがあった(グループ会社幹部の証言)
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [28]1973年に売上高100億円を突破した
    • [29]1979年に売上高1,000億円に達した
    • [31]全国九ブロックはそれぞれ独立法人の形をとり、早乙女潤常務はブロック制の利点を損益がはっきり出ることと語った
    • [32]重要事項は統括本部が合議し伝達する仕組みで、早乙女常務はフランチャイズシステムに近いと語った
    • [37]統括本部清和商事を核とし全国九ブロックに主管店を設置、その下に198の店舗および関連会社を置いた(1984年)
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [34]1975年7月京都自動車興業、1980年5月佐川自動車工業、1980年9月佐川航空を設立
    • [35]1983年2月に佐川コンピューター・システムを設立

1981年〜フェデラル・エクスプレスとの提携と小牧の物流センター、60社で連結6,434億円の急便グループ

1980年9月、佐川急便グループは航空貨物の代理店を担う佐川航空を設立した。国内航空貨物への参入に業界がこぞって抵抗したため、佐川急便とは別会社とし、日航・全日空・東亜国内航空の代理店になったという。佐川航空は通常なら長い年月を要する混載免許を、代理店となってから2〜3年で取った。1982年に佐川急便は売上高約2,000億円の規模となり、日本通運に次ぐ位置にあった。1985年、佐川正明氏が代表を務める佐川急便は、米国の小口貨物最大手で航空会社も営むフェデラル・エクスプレスと業務提携した。トラック便の伸びが落ち着くなか、航空と国際を総合物流への足場に据えたと思われる。

  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [40]1980年9月に佐川航空株式会社を設立
  • Space 1985年6月号「国内航空貨物と佐川急便グループの動向」
    • [41]佐川航空は業界の反発を避けるため佐川急便から分離した組織とし、日航・全日空・東亜国内の3社の代理店になった
    • [42]佐川航空は代理店になってから2、3年で国内航空貨物の混載免許を取得した
    • [44]フェデラルは米国最大の小口貨物輸送会社で米国有数の航空会社にもなっている。米国の航空宅配便最大手フェデラル・エクスプレスが佐川急便(佐川正明代表)と業務提携した
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「対談 佐川正明社長・堺屋太一氏」
    • [43]1982年9月の対談時点で佐川急便は約2,000億円企業に成長し日本通運に次ぐ企業となっていた

1982年の東京佐川急便は1日に数十万個の荷を扱い、膨らむ事務処理の合理化を急いでいた。電話の集荷依頼を即時に入力する仕組みで受付の効率を2倍以上にし、1時間1万3,000個を仕分ける装置で処理能力を約3倍にした。送り状を画像で読み取る装置も入れ、荷の問い合わせにその場で答えられるようにした。1986年1月、中京佐川急便は約60億円を投じ、1時間に3万個を捌く小牧物流センターを開設した。センターは保管から梱包、納品代行までを24時間で請け負う設計だった。一方、1984年の東京佐川急便は配送センターに70億円の投資予算を持ちながら、適当な用地を見つけられずにいた。

  • コンセンサス 1982年5月号「C&C前線 急成長を続ける佐川急便グループ“イメージ情報処理システム”」
    • [45]東京佐川急便は一日に数十万個の荷物を扱い、膨大な事務処理の合理化にシステムを開発した
    • [46]電話受注を即入力する電話応答システムで全体として2倍以上の作業効率を上げた
    • [47]1時間に13,000個を仕分ける大型高速自動仕分装置の導入で約3倍の能力アップとなった
    • [48]NECイメージ情報処理システムで送り状を読み取り、荷物の問い合わせに正確に即答できるようにした
  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
    • [49]1986年1月6日、総投資額60億円・1時間3万個の処理能力を持つ小牧物流センターが完成した
    • [50]小牧物流センターは入庫・保管・ピッキング・梱包から納品代行まで一貫して提供し、入出庫は24時間営業
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [51]東京佐川急便は配送センターの設備投資予算70億円を持つが適当な用地が見つからない(早乙女常務、1984年)

1990年3月期の佐川急便グループは急便60社と各種機能を担う17社から成り、連結売上高は6,434億円だった。売上高は日本通運の半分弱だったが、利益は743億円と日通の1.6倍で、利益率は11.5%だった。急便60社の過半は、区域運送を中心とする各地の中小運送会社を買収して加えた会社だった。佐川清氏は業績を上げる地域会社の経営に細かく口を出さず、各社の自由度は高かったという。東京佐川急便社長の渡辺広康氏はグループの二番手に上り、佐川清氏の経営に不満を持つ各社幹部の支持を集めた。1990年に京都佐川急便と清和商事が合併して佐川急便が発足し、翌1991年には東京佐川急便事件が発覚した。

  • Yano news 1991年5月5日号「佐川急便グループにみるエリア戦略 物流分野における大きな成長性」
    • [52]佐川急便グループは運輸60社とその他17社によるグループ経営体だった
    • [53]佐川急便グループの連結売上高は6,434億円(1990年3月期)
    • [54]利益高は743億円(利益率11.5%)で、売上高は日通の1/2弱ながら利益高は日通の1.6倍
    • [55]運輸60社の過半はM&Aによるもので、区域通運を中心とした全国の中小通運を統合した
  • 日経ビジネス 2004年11月22日号 特集
    • [56]グループを統括する佐川清は、業績を上げる地域会社の経営に細かい口出しをせず、地域会社の自由度は高かった
    • [58]1990年に京都佐川急便と清和商事が合併し佐川急便が発足した
    • [59]1991年に東京佐川急便事件が発覚した
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [57]渡辺広康はグループのナンバーツーにのし上がり、佐川式経営に反対するグループ店幹部らの頼みの綱だったという
参考文献[40]-[59]
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
    • [40]1980年9月に佐川航空株式会社を設立
  • Space 1985年6月号「国内航空貨物と佐川急便グループの動向」
    • [41]佐川航空は業界の反発を避けるため佐川急便から分離した組織とし、日航・全日空・東亜国内の3社の代理店になった
    • [42]佐川航空は代理店になってから2、3年で国内航空貨物の混載免許を取得した
    • [44]フェデラルは米国最大の小口貨物輸送会社で米国有数の航空会社にもなっている。米国の航空宅配便最大手フェデラル・エクスプレスが佐川急便(佐川正明代表)と業務提携した
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「対談 佐川正明社長・堺屋太一氏」
    • [43]1982年9月の対談時点で佐川急便は約2,000億円企業に成長し日本通運に次ぐ企業となっていた
  • コンセンサス 1982年5月号「C&C前線 急成長を続ける佐川急便グループ“イメージ情報処理システム”」
    • [45]東京佐川急便は一日に数十万個の荷物を扱い、膨大な事務処理の合理化にシステムを開発した
    • [46]電話受注を即入力する電話応答システムで全体として2倍以上の作業効率を上げた
    • [47]1時間に13,000個を仕分ける大型高速自動仕分装置の導入で約3倍の能力アップとなった
    • [48]NECイメージ情報処理システムで送り状を読み取り、荷物の問い合わせに正確に即答できるようにした
  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
    • [49]1986年1月6日、総投資額60億円・1時間3万個の処理能力を持つ小牧物流センターが完成した
    • [50]小牧物流センターは入庫・保管・ピッキング・梱包から納品代行まで一貫して提供し、入出庫は24時間営業
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
    • [51]東京佐川急便は配送センターの設備投資予算70億円を持つが適当な用地が見つからない(早乙女常務、1984年)
  • Yano news 1991年5月5日号「佐川急便グループにみるエリア戦略 物流分野における大きな成長性」
    • [52]佐川急便グループは運輸60社とその他17社によるグループ経営体だった
    • [53]佐川急便グループの連結売上高は6,434億円(1990年3月期)
    • [54]利益高は743億円(利益率11.5%)で、売上高は日通の1/2弱ながら利益高は日通の1.6倍
    • [55]運輸60社の過半はM&Aによるもので、区域通運を中心とした全国の中小通運を統合した
  • 日経ビジネス 2004年11月22日号 特集
    • [56]グループを統括する佐川清は、業績を上げる地域会社の経営に細かい口出しをせず、地域会社の自由度は高かった
    • [58]1990年に京都佐川急便と清和商事が合併し佐川急便が発足した
    • [59]1991年に東京佐川急便事件が発覚した
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [57]渡辺広康はグループのナンバーツーにのし上がり、佐川式経営に反対するグループ店幹部らの頼みの綱だったという

出典・参考

11件
出典・参考
  • SGホールディングス 有価証券報告書【沿革】(2018年3月期)
  • コンセンサス 1982年5月号「C&C前線 急成長を続ける佐川急便グループ“イメージ情報処理システム”」
  • 銀行時評 1984年9月号「佐川急便グループ 21世紀の総合物流担う」
  • Space 1985年6月号「国内航空貨物と佐川急便グループの動向」
  • 中部財界 1986年2月号「東洋一の物流センターをオープンした中京佐川急便」
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
  • 日経ビジネス 2004年11月22日号 特集
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「インタビュー 人間・佐川清 本音の部分」
  • 日本流通新聞社編『挑戦する佐川急便 物流革命の旗手』1983年「対談 佐川正明社長・堺屋太一氏」
  • 佐川清『ふりむけば年商三千億 佐川急便成長の核心』読売新聞社 1986年
  • Yano news 1991年5月5日号「佐川急便グループにみるエリア戦略 物流分野における大きな成長性」

免責事項およびポリシー