南海電気鉄道:阪堺鉄道の開業と難波〜和歌山市間の開通
1884年〜資本金25万円で難波と堺を結んだ阪堺鉄道と、紀州へ向けた南海鉄道の創立
1884年6月、大阪の財界人が発起した大阪堺間鉄道が資本金25万円で発足し、のちに阪堺鉄道へ改称した。路線は難波新地から天下茶屋と住吉を経て堺へ至る区間で、19名の発起人のうち12名を堺の人々が占めた。大阪と堺の間は維新以来、外国人の出願も含めて5件を超える鉄道計画が現れては消えてきた区間である。今回は藤田傳三郎氏と松本重太郎氏が中心となり、日本銀行初代大阪支店長の外山脩造氏が後ろ盾に回った。許可には会社の存続を50年とし、30年後に政府が買い上げる権利を残す条件が付いた。京阪神を走る官鉄の便利さを知った大阪の商人が、同じ事業を官営でなく自らの民間資本で試そうとしたとみられる。
- 南海電気鉄道百年史(1985)一章 創業期
- [1]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [3]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [5]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [6]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- 企業の歴史 明治百年(1968)「南海電気鉄道」
- [2]1884年6月設立の大阪堺間鉄道が改称して阪堺鉄道となった
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [4]大阪〜堺間の鉄道出願は阪堺鉄道の実現まで内外合わせて5件超
阪堺鉄道は1885年12月27日に開業式を挙げ、難波〜大和川北岸間で運輸営業を始めた。創立時の2500株のうち1342株を公募に回し、募集はたちまち満株となった。大和川から堺までの延長は増資で工費を賄い、1886年11月に5万円、1887年12月に3万円を加えて資本金を33万円とした。大和川の鉄橋は洪水と英国に発注した鋼材の延着で遅れ、難波〜堺間の全通は1888年5月にずれ込んだ。官営でない大阪の民営線が開業から右肩上がりの業績を上げて評判を呼び、各地の鉄道の出願は1886年の6社から1889年の15社まで増えた。開業直後から客がついた実績が、株主から延長資金を引き出す裏付けになった可能性が高い。
- 南海電気鉄道百年史(1985)一章 創業期
- [7]1885年12月27日開業式、難波〜大和川北岸間で営業開始
- [8]1886年11月5万円・1887年12月3万円の増資で資本金33万円、手取金は大和川〜堺間延長の工費
- [9]1886年11月5万円・1887年12月3万円の増資で資本金33万円、手取金は大和川〜堺間延長の工費
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [10]1888年5月難波〜堺間まで延長(大和川鉄橋は洪水と鋼材延着で1888年3月まで延引)
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [11]阪堺鉄道の好業績が評判となり鉄道出願が続出、1886年6社・1887年11社・1888年5社・1889年15社
1889年5月、阪堺鉄道の堺駅を起点に紀ノ川まで36マイルの線を敷く紀泉鉄道が設立された。発起人には阪堺鉄道の役員が多く、計画は阪堺線を南へ延ばす延長線の位置づけである。ところが1890年の金融の逼迫と和歌山の大洪水で仮免許が失効し、阪堺鉄道との合併案も白紙に戻った。同じ方面には紀阪鉄道の計画も現れ、両派の対立を仲裁で収めた末に1893年に紀泉と紀阪が合併した。合同した会社は紀摂鉄道から南陽鉄道を経て南海鉄道と名を改め、1895年8月25日の創業総会で松本重太郎氏を社長に選んだ。創業総会の出席者は981人、引受株式は5万488株に達し、1896年3月には大阪〜和歌山市間の鉄道敷設の免許を得た。
- 南海電気鉄道百年史(1985)一章 創業期
- [12]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- [16]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- [17]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [13]紀泉鉄道の発起人は阪堺鉄道役員中心、1890年の不況と和歌山大洪水で同年3月仮免許失効・合併白紙
- [14]紀泉鉄道の発起人は阪堺鉄道役員中心、1890年の不況と和歌山大洪水で同年3月仮免許失効・合併白紙
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [15]紀泉鉄道と紀阪鉄道が1893年に合併し紀摂鉄道、1895年南海鉄道と改称、1896年3月大阪〜和歌山市間の敷設免許
- [18]紀泉鉄道と紀阪鉄道が1893年に合併し紀摂鉄道、1895年南海鉄道と改称、1896年3月大阪〜和歌山市間の敷設免許
参考文献[1]-[18]
- 南海電気鉄道百年史(1985)一章 創業期
- [1]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [3]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [5]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [6]大阪堺間鉄道は1884年6月発足・資本金25万円、難波新地〜天下茶屋〜住吉〜堺、発起人19名中12名が堺の人、藤田傳三郎・松本重太郎に外山脩造が支援
- [7]1885年12月27日開業式、難波〜大和川北岸間で営業開始
- [8]1886年11月5万円・1887年12月3万円の増資で資本金33万円、手取金は大和川〜堺間延長の工費
- [9]1886年11月5万円・1887年12月3万円の増資で資本金33万円、手取金は大和川〜堺間延長の工費
- [12]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- [16]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- [17]紀泉鉄道は1889年5月設立、阪堺の堺停車場から紀ノ川まで36マイル。紀摂→南陽→南海鉄道と改称、1895年8月25日創業総会で松本重太郎を社長に選任
- 企業の歴史 明治百年(1968)「南海電気鉄道」
- [2]1884年6月設立の大阪堺間鉄道が改称して阪堺鉄道となった
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [4]大阪〜堺間の鉄道出願は阪堺鉄道の実現まで内外合わせて5件超
- [11]阪堺鉄道の好業績が評判となり鉄道出願が続出、1886年6社・1887年11社・1888年5社・1889年15社
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [10]1888年5月難波〜堺間まで延長(大和川鉄橋は洪水と鋼材延着で1888年3月まで延引)
- [15]紀泉鉄道と紀阪鉄道が1893年に合併し紀摂鉄道、1895年南海鉄道と改称、1896年3月大阪〜和歌山市間の敷設免許
- [18]紀泉鉄道と紀阪鉄道が1893年に合併し紀摂鉄道、1895年南海鉄道と改称、1896年3月大阪〜和歌山市間の敷設免許
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [13]紀泉鉄道の発起人は阪堺鉄道役員中心、1890年の不況と和歌山大洪水で同年3月仮免許失効・合併白紙
- [14]紀泉鉄道の発起人は阪堺鉄道役員中心、1890年の不況と和歌山大洪水で同年3月仮免許失効・合併白紙
1898年〜阪堺鉄道の事業を譲り受けた南海鉄道と、難波〜和歌山市間の全通
1898年10月、南海鉄道は阪堺鉄道の事業を譲り受け、難波〜堺間の既設線を自社の路線に加えた。紀泉鉄道の発起人に阪堺鉄道の関係者が多く、譲受の条件は南海鉄道に有利に整った。両社は1895年5月に合併の契約を結んでいたが、商法の会社規定に抵触するため、阪堺鉄道が財産のすべてを譲渡する方式に改めた。南海鉄道はこの譲受に合わせて120万円を増資し、資本金は400万円となった。阪堺鉄道は資本金40万円ながら1898年に年3割2分7厘の配当を出しており、100万円の対価を受けて同年9月30日に解散した。5年後の和歌山市までの全通を控え、大阪側の起点と堺までの運輸の独占を確保する判断だったと思われる。
- 企業の歴史 明治百年(1968)「南海電気鉄道」
- [19]南海鉄道は1898年10月に阪堺鉄道の事業を譲り受けた
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [20]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [21]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [22]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [23]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
1903年3月21日、紀ノ川の鉄橋が完成し、難波〜和歌山市間が全通した。堺〜和歌山市間の工事は1897年3月の着手から6年がかりの完成。紀ノ川の鉄橋の工事は途中で何度も出水に見舞われ、竣工の監査を受けたのは開通3日前の3月18日である。全通と同時に和歌山市駅と紀和鉄道を結ぶ連絡線が開通し、大阪方面から高野山へ向かう参詣の便が開けた。紀和鉄道を使って大阪へ向かう旅客にも和歌山市駅での乗り換えが残るため、南海鉄道と紀和鉄道は相互に直通運転を実施する契約を交わした。高野山へ向かう客の流れは、のちに高野山方面の鉄道会社を取り込む動きの素地になったとみることもできる。
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [24]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [26]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [27]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [28]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [25]1897年3月堺〜和歌山市間着工、1903年3月難波〜和歌山市間全通
1904年6月17日、阪堺鉄道の創業から20年近く社長を務めた松本重太郎氏が退任した。同じ月、松本重太郎氏が率いる百三十銀行が破綻し、臨時休業に入った。融資で担保より人物の信用を重んじた結果の過大な信用膨張で、松本重太郎氏は責任をとって実業界から引退した。後を継いだ2代社長は、堺の酒造家の出で大阪麦酒の設立を主導し、阪堺鉄道でも創業時から取締役を務めた鳥井駒吉氏である。鳥井駒吉氏の在任は1906年4月までの2年足らずで、後任の3代社長には大阪財界の田中市兵衛氏が就任した。社長の交代は鉄道の業績によるものでなく、銀行の破綻に伴う松本重太郎氏の引退から生じたと考えられる。
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [29]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- [32]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- [33]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [30]1904年6月に松本重太郎の百三十銀行が破綻し臨時休業、過度の信用膨張の責任をとり引退
- [31]1904年6月に松本重太郎の百三十銀行が破綻し臨時休業、過度の信用膨張の責任をとり引退
参考文献[19]-[33]
- 企業の歴史 明治百年(1968)「南海電気鉄道」
- [19]南海鉄道は1898年10月に阪堺鉄道の事業を譲り受けた
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [20]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [21]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [22]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [23]1895年5月10日契約、会社法抵触のため財産譲渡方式に改定。南海は120万円増資で資本金400万円、阪堺は資本金40万円・1898年3割2分7厘配当、100万円で買収、同年9月30日解散
- [24]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [26]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [27]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [28]1903年3月18日鉄橋竣工、21日運輸開始で難波〜和歌山市間全通。紀和鉄道との連絡線で大阪方面からの高野山参詣が便利に、直通運転の契約
- [29]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- [32]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- [33]松本重太郎は1904年6月17日退任、2代社長鳥井駒吉(創業時から取締役、堺の酒造家、大阪麦酒創立)、在任1906年4月まで、3代田中市兵衛
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [25]1897年3月堺〜和歌山市間着工、1903年3月難波〜和歌山市間全通
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [30]1904年6月に松本重太郎の百三十銀行が破綻し臨時休業、過度の信用膨張の責任をとり引退
- [31]1904年6月に松本重太郎の百三十銀行が破綻し臨時休業、過度の信用膨張の責任をとり引退
1905年〜70万円の増資で決めた電化と、浪速電車軌道・阪堺電気軌道の合併
1905年6月24日、南海鉄道は臨時株主総会で、難波〜浜寺間と天下茶屋〜天王寺間に電気と蒸気を併用する方針を決めた。同時に70万円の増資を決議し、新株1万4000株を募集した。前年8月には甲武鉄道が飯田町〜中野間を電化し、蒸気鉄道を電車に替えた国内最初の例となっていた。南海鉄道は臨時建設部を置いて支配人の佐々木勇太郎氏に部長を兼務させ、甲武鉄道の電化を指揮した市来崎佐一郎氏を主任に迎えた。1907年8月には難波〜浜寺公園間で電車の運転が始まり、全線の電化は1911年11月に完成した。同じ1905年に阪神電気鉄道が官鉄の客を奪った実例も、電化の決断を後押ししたのだろう。
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [34]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- [35]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- [37]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [36]甲武鉄道が1904年8月飯田町〜中野間を電化(国内初)、阪神電気鉄道1905年4月開業で官鉄に影響
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [38]1907年8月難波〜浜寺公園間電車運転、1911年11月全線電化完成
1909年12月24日、南海鉄道は浪速電車軌道を合併し、上町線を引き継いだ。浪速電車軌道の前身は大阪馬車鉄道で、1907年2月に電気鉄道への変更の特許を受けて社名を改めた会社である。合併の交渉は、全株式の23%余りを持つ浅野総一郎氏と大阪側の重役との行き違いで難航した。この対立は藤田傳三郎氏の仲介で収まり、1909年9月6日の株主総会で本契約の締結に至った。合併後の工事を経て1910年10月に天王寺西門前〜住吉神社前間で営業を始め、1913年7月には住吉公園まで延長して南海本線と連絡した。市内を南北に走る軌道線を本線へ結び、市内から沿線へ向かう客を集める狙いがあったと推察される。
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [39]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [40]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [41]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [42]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [43]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [44]上町線は1910年10月天王寺西門〜住吉神社間の運転営業開始
1915年6月、南海鉄道は並行線を走らせていた阪堺電気軌道を合併した。阪堺電気軌道は紀州街道に沿って恵美須町から浜寺まで敷いた電気軌道で、1909年12月に特許を受けた。南海鉄道は電車を併用する難波〜浜寺間の9マイル余りで配当を支えており、収益の半分を失うとして株主2500名とともに認可に反対した。開業後は浜寺で運転手が相手方の客を勧誘するほど競争が激しくなり、両社長の対話を北浜銀行頭取の岩下清周氏が取り持った。仲介に入った谷口房蔵氏の説得を経て1915年3月23日に契約を結び、条件は対等とした。南海鉄道は解散費用10万円を払い、阪堺電気軌道社長の片岡直輝氏を社長に迎えた。
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [45]阪堺電鉄は1912年に恵美須町〜浜寺駅前間を開通、1915年6月に南海鉄道と合併
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [46]阪堺電気軌道は1909年12月特許、恵美須町〜浜寺、南海は電車併用区間9マイル余の収益で配当維持、並行線で収益の一半を失うと重役株主2500名が反対陳情
- [47]阪堺電気軌道は1909年12月特許、恵美須町〜浜寺、南海は電車併用区間9マイル余の収益で配当維持、並行線で収益の一半を失うと重役株主2500名が反対陳情
- 南海電気鉄道百年史(1985)三章 苦難期
- [48]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
- [49]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
- [50]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
参考文献[34]-[50]
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- [34]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- [35]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- [37]1905年6月24日臨時株主総会で難波〜浜寺間・天下茶屋〜天王寺間の電気蒸気併用と70万円増資(1万4000株)を決議、臨時建設部長は支配人佐々木勇太郎、主任に市来崎佐一郎
- [39]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [40]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [41]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [42]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [43]1909年12月24日付で浪速電車軌道と合併、前身大阪馬車鉄道は1907年2月電気鉄道に変更特許、最大株主浅野総一郎(23%余)と大阪側重役の行き違いを藤田傳三郎が仲介、1913年7月住吉公園まで延長し南海本線に連絡
- [46]阪堺電気軌道は1909年12月特許、恵美須町〜浜寺、南海は電車併用区間9マイル余の収益で配当維持、並行線で収益の一半を失うと重役株主2500名が反対陳情
- [47]阪堺電気軌道は1909年12月特許、恵美須町〜浜寺、南海は電車併用区間9マイル余の収益で配当維持、並行線で収益の一半を失うと重役株主2500名が反対陳情
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- [36]甲武鉄道が1904年8月飯田町〜中野間を電化(国内初)、阪神電気鉄道1905年4月開業で官鉄に影響
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- [38]1907年8月難波〜浜寺公園間電車運転、1911年11月全線電化完成
- [44]上町線は1910年10月天王寺西門〜住吉神社間の運転営業開始
- [45]阪堺電鉄は1912年に恵美須町〜浜寺駅前間を開通、1915年6月に南海鉄道と合併
- 南海電気鉄道百年史(1985)三章 苦難期
- [48]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
- [49]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
- [50]激しい競争の末、岩下清周が大塚・片岡両社長を引き合わせ、谷口房蔵が仲介。1915年3月23日契約、対等条件・解散費用10万円、片岡直輝が社長に
出典・参考
6件
- 南海電気鉄道百年史(1985)一章 創業期
- 南海電気鉄道百年史(1985)序章 創業前史
- 南海電気鉄道百年史(1985)二章 拡充期
- 南海電気鉄道百年史(1985)三章 苦難期
- 会社銀行八十年史(1955)「南海電気鉄道」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「南海電気鉄道」