第1章 年〜年

近鉄グループホールディングス:大阪電気軌道の開業と近畿日本鉄道の成立

1910年〜生駒山を隧道で抜いた大阪電気軌道と、開業直後に膨らんだ建設費

大阪電気軌道の前身の奈良軌道は、1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会を開催した。特許は1907年4月に得ていたが、同年春からの反動不況で創立を3年見合わせていた。資本金は300万円で、社長には廣岡惠三氏が就任し、およそ1か月後に社名を大阪電気軌道へ改めた。発起人の比較では、大阪・奈良間の官設関西線は25哩5分を1時間30分かけて走り、三等運賃は40銭であった。新線はこの間を20哩・50分以内で結び、電車ゆえに発車の回数も多くできると発起人は見込んだ。線路は一度生駒山の北麓を回る案に傾いたが、約3哩延びるのを嫌い、山を隧道で抜く案に改めた。関西線の半分近くまで所要時間を縮めることが、後発の電鉄が乗客を得る根拠だったとみられる。

  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [1]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [2]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [4]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [5]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [3]1910年9月に資本金300万円で奈良軌道を設立、社長は広岡惠三。1か月後に大阪電気軌道と改称
  • 日本鉄道請負業史 明治篇 下(1944年)「大阪電気軌道と生駒山隧道」
    • [6]生駒山北麓を迂回する案では線路が約3哩延びるため、最短時間で結ぶべく生駒山に隧道を穿つ案に再変更

生駒山を隧道で抜く案は社内でも危ぶまれたが、のちに社長となる岩下清周氏が反対論を退けて着工を決めた。岩下清周氏は創立時にも、払込の滞った株式の引受先を集める役を担っていた。工事は大林組が1911年7月に東西両口から始めたが、湧水と軟弱な地層に阻まれ、坑内の崩落で多数の工夫が死亡した。岩下清周氏は1913年1月に社長に就任し、隧道は翌1914年1月に東西が貫通した。上本町・奈良間の電車は、同年4月30日に開通した。建設費は隧道の工費270万円を含めて総額770万円余りに膨らんだ。そこへ財界の不況が重なり、大軌は開業直後から極度の経営難に直面した。

  • 日本鉄道請負業史 明治篇 下(1944年)「大阪電気軌道と生駒山隧道」
    • [7]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [9]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [10]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [12]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [8]1910年、株式6万株のうち約2万株の払込が滞り、岩下・志方・大林らの有力者に諮って満株とした
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
    • [11]1914年4月30日、大阪・奈良間に電車が開通
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [13]生駒トンネルの難工事で建設費が著しく増大し、財界の不況も重なって極度の経営難
参考文献[1]-[13]
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [1]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [2]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [4]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [5]1910年9月16日に大阪商業会議所で創立総会。発起人の比較で関西鉄道線は大阪・奈良間25哩5分・1時間30分・三等40銭、新線は20哩・50分以内。電車は発著度数が多い。1907年4月に特許を得たが、同年春からの反動不況で創立を静観
    • [8]1910年、株式6万株のうち約2万株の払込が滞り、岩下・志方・大林らの有力者に諮って満株とした
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [3]1910年9月に資本金300万円で奈良軌道を設立、社長は広岡惠三。1か月後に大阪電気軌道と改称
    • [13]生駒トンネルの難工事で建設費が著しく増大し、財界の不況も重なって極度の経営難
  • 日本鉄道請負業史 明治篇 下(1944年)「大阪電気軌道と生駒山隧道」
    • [6]生駒山北麓を迂回する案では線路が約3哩延びるため、最短時間で結ぶべく生駒山に隧道を穿つ案に再変更
    • [7]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [9]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [10]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
    • [12]岩下清周が社内の反対を排して隧道工事を開始。大林組が1911年7月に東西両口から着工、湧水・軟弱地層と崩落事故で多数の死者。1913年1月岩下清周が社長。1914年1月貫通。隧道工費270万円、建設費総額770万円余
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
    • [11]1914年4月30日、大阪・奈良間に電車が開通

1915年〜電灯電力と支線網で持ち直した大軌と、伊勢へ延びた参宮急行電鉄

大軌の業績を持ち直させたのは、第一次世界大戦の勃発に伴う景気の好転であった。運輸量が自然に増え、1913年8月に始めた電灯電力の供給も伸びて、業績は年を追って上向いた。1940年の30年史も、関係各方面の支援に大戦下の好況が重なって難局を越えたと総括した。持ち直した大軌は1920年ごろから、大和・河内の名所旧跡を結ぶ支線の建設に移った。西大寺・橿原神宮前間、布施・桜井間、山本・信貴山口間の鉄道と、生駒山上への索道がその中身であった。1921年以降は、天理軽便鉄道・長谷鉄道・吉野鉄道などを相次いで買収または合併した。1923年3月に全通した畝傍線は、橿原神宮の参拝者を数十倍に増やしたと大軌の傘下会社は説明した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [14]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [15]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [17]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [18]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [19]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [16]緒言:財界不況と生駒隧道で経営難に陥ったが、関係各方面の同情と当事者の努力、世界大戦の好況で難境を克服
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)附載 参宮急行電鉄編 第一章 創業
    • [20]1923年3月下旬に大軌畝傍線が全通。大和鉄道の陳情書は、畝傍支線開通で橿原神宮・畝傍御陵の参拝者が数十倍に増えたと記す

大軌が八木から宇治山田への延長線を申請したのは、1920年4月であった。ところが1922年に大和鉄道が桜井・名張間の免許を得て、大阪鉄道なども伊勢への新線を競って申請した。大軌は1925年に大和鉄道の株式の大部分を握り、金森又一郎専務を同社の常務に送り込んだ。当時の関西線経由は大阪・宇治山田間が107哩余りあり、新線はこれを24哩縮めて日帰り参拝を可能にするとされた。建設に3000万円を要するため、1927年5月には金森又一郎氏を発起人総代に立てて新会社を興す手はずを整えた。同年9月に資本金3000万円で参宮急行電鉄が発足し、1930年12月に桜井・山田間を開業した。翌1931年には山田・宇治山田間の高架線も完成し、大阪と宇治山田が一本の線で結ばれた。

  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)附載 参宮急行電鉄編 第一章 創業
    • [21]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [22]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [23]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [24]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [25]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [26]1927年9月に資本金3000万円で姉妹会社参宮急行電鉄を創立。青山トンネルなど16か所の隧道を掘り、1930年12月に桜井・山田間を開業、1931年に山田・宇治山田間の高架線を完成し大阪・宇治山田間が開通
    • [27]1927年9月に資本金3000万円で姉妹会社参宮急行電鉄を創立。青山トンネルなど16か所の隧道を掘り、1930年12月に桜井・山田間を開業、1931年に山田・宇治山田間の高架線を完成し大阪・宇治山田間が開通

大軌は1936年9月、上本町のターミナルに大軌百貨店を開業した。上本町は創立時から大軌の起点と定められ、大阪市内の電車2路線が交わる地点であった。それまでに電灯電力の供給、春日奥山の遊覧バス、菖蒲池と生駒山の遊園、花園ラグビー場を順に手がけ、沿線では土地住宅も経営していた。1940年の30年史は、これに温泉場・映画館・観光ホテルを加えた兼営全体を多角経営と呼んだ。後年の1988年、近畿日本鉄道の金森茂一郎社長は、鉄道と沿線のサービス事業、なかでも土地住宅経営が私鉄の中核だと説いた。百貨店は、線路が運んだ乗客を起点の駅で消費に結びつける仕掛けだったと推察される。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [28]兼営事業として電灯電力供給、春日奥山遊覧バスなど自動車事業、菖蒲池・生駒山遊園、花園ラグビー場、沿線の土地住宅経営を行い、1936年9月にターミナルデパート大軌百貨店を建設
    • [30]兼営事業として電灯電力供給、春日奥山遊覧バスなど自動車事業、菖蒲池・生駒山遊園、花園ラグビー場、沿線の土地住宅経営を行い、1936年9月にターミナルデパート大軌百貨店を建設
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [29]緒言:兼営事業として電灯電力、自動車、土地住宅、遊園地、運動競技場、温泉場、百貨店、映画館、観光ホテル等の多角経営。本線は大阪市上本町を起点とし、市内の上本町線と宗右衛門町線の会合点で電車の連絡に適する
    • [31]緒言:兼営事業として電灯電力、自動車、土地住宅、遊園地、運動競技場、温泉場、百貨店、映画館、観光ホテル等の多角経営。本線は大阪市上本町を起点とし、市内の上本町線と宗右衛門町線の会合点で電車の連絡に適する
  • 運輸と経済 48(12) 1988年12月号「〔鼎談〕近畿日本鉄道―その経営観,事業戦略」
    • [32]1988年、社長金森茂一郎は私鉄企業は鉄道と沿線の各種サービス事業、とくに土地住宅経営がコアだと発言
参考文献[14]-[32]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [14]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [15]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [17]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [18]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [19]欧州大戦で景気が好転し、運輸数量の自然増と電灯電力供給(1913年8月開始)の増進で業績向上。1920年ごろから西大寺・橿原神宮前などの支線を建設し、1921年以降天理軽便・長谷・吉野鉄道などを買収・合併
    • [26]1927年9月に資本金3000万円で姉妹会社参宮急行電鉄を創立。青山トンネルなど16か所の隧道を掘り、1930年12月に桜井・山田間を開業、1931年に山田・宇治山田間の高架線を完成し大阪・宇治山田間が開通
    • [27]1927年9月に資本金3000万円で姉妹会社参宮急行電鉄を創立。青山トンネルなど16か所の隧道を掘り、1930年12月に桜井・山田間を開業、1931年に山田・宇治山田間の高架線を完成し大阪・宇治山田間が開通
    • [28]兼営事業として電灯電力供給、春日奥山遊覧バスなど自動車事業、菖蒲池・生駒山遊園、花園ラグビー場、沿線の土地住宅経営を行い、1936年9月にターミナルデパート大軌百貨店を建設
    • [30]兼営事業として電灯電力供給、春日奥山遊覧バスなど自動車事業、菖蒲池・生駒山遊園、花園ラグビー場、沿線の土地住宅経営を行い、1936年9月にターミナルデパート大軌百貨店を建設
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
    • [16]緒言:財界不況と生駒隧道で経営難に陥ったが、関係各方面の同情と当事者の努力、世界大戦の好況で難境を克服
    • [29]緒言:兼営事業として電灯電力、自動車、土地住宅、遊園地、運動競技場、温泉場、百貨店、映画館、観光ホテル等の多角経営。本線は大阪市上本町を起点とし、市内の上本町線と宗右衛門町線の会合点で電車の連絡に適する
    • [31]緒言:兼営事業として電灯電力、自動車、土地住宅、遊園地、運動競技場、温泉場、百貨店、映画館、観光ホテル等の多角経営。本線は大阪市上本町を起点とし、市内の上本町線と宗右衛門町線の会合点で電車の連絡に適する
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)附載 参宮急行電鉄編 第一章 創業
    • [20]1923年3月下旬に大軌畝傍線が全通。大和鉄道の陳情書は、畝傍支線開通で橿原神宮・畝傍御陵の参拝者が数十倍に増えたと記す
    • [21]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [22]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [23]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [24]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
    • [25]大軌は1920年4月10日に八木・宇治山田間を申請。1922年6月に大和鉄道が桜井・名張間を免許。大阪鉄道などと競願。1925年に大軌が大和鉄道株式の大部分を取得し、大軌専務金森又一郎が同社常務に。関西線経由は107哩余、新線は24哩短縮し日帰り参拝可能。建設費3000万円を要し新会社へ敷設権を譲渡、1927年5月14日に金森を発起人総代に選任
  • 運輸と経済 48(12) 1988年12月号「〔鼎談〕近畿日本鉄道―その経営観,事業戦略」
    • [32]1988年、社長金森茂一郎は私鉄企業は鉄道と沿線の各種サービス事業、とくに土地住宅経営がコアだと発言

1936年〜名古屋へ届いた関西急行鉄道と、戦時統合で生まれた近畿日本鉄道

参急は1936年9月、経営難に陥っていた伊勢電気鉄道の桑名・大神宮前間を合併した。伊勢電の整理の中で桑名・名古屋間の免許も譲り受け、別会社の関西急行電鉄を興して建設に当たらせた。これに先立ち参急は中勢鉄道の免許線のうち中川・久居間を譲り受け、延ばして中川・津間を建設していた。指揮したのは、1927年に鉄道省を退いて大軌専務となり、1937年に大軌と参急の社長を兼ねた種田虎雄氏である。種田虎雄氏は伊勢電を名古屋進出の足場とみて、『参宮急行が名古屋に出られるのは伊勢電鐵があるためだ』と語っていた。大軌も参急も経理に余裕のない中で三川の橋梁工事と資材難を越え、1938年6月に桑名・名古屋間が開通した。大軌・参急・関急の3社の線が連なり、大阪と名古屋が一続きの線で結ばれた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [33]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [34]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [35]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [38]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [39]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
  • 汎交通 85(8) 1985年8月号「鉄道先人(8)種田虎雄」志賀岩夫
    • [36]種田虎雄は1927年に鉄道省を退官し大軌専務、1937年に大軌・参急社長、1941年関西急行鉄道社長、1944年近鉄社長
  • 経済人 4(3) 1950年3月号「斯の人を――種田虎雄氏を偲ぶ」佐伯勇
    • [37]名古屋進出は伊勢電の買収が基礎。種田は伊勢電を名古屋へ出られる理由と語った。当時は財界不振で大軌・参急とも経理状態が豊かでなかった

1941年3月、大軌は懸案だった参急の合併を果たし、社名を関西急行鉄道に改めた。参急はすでに関西急行電鉄と養老電鉄を吸収しており、名古屋までの線が一つの会社に収まった。資本金は1億1897万円となり、営業路線は大阪・奈良・三重・愛知・岐阜の1府4県に及んだ。関西急行鉄道の社長には、大軌と参急の社長を兼ねていた種田虎雄氏が就任した。一方で1942年3月、配電統制の国策に沿って電灯電力の供給設備を関西配電へ出資し、自動車事業の一部も他社へ譲渡した。1943年2月には交通調整の見地から大阪鉄道を合併し、翌年4月には信貴山急行電鉄なども加えた。戦時の統制は兼営を縮小させる一方で、鉄道の集約を後押しする方向に働いたのだろう。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [40]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [42]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [44]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [45]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
    • [41]1941年3月、大阪電気軌道は関西急行電鉄と養老電鉄を合併済みの参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称
  • 汎交通 85(8) 1985年8月号「鉄道先人(8)種田虎雄」志賀岩夫
    • [43]種田虎雄は1941年に関西急行鉄道社長

1944年6月、関西急行鉄道は地方交通の統合整備の国策により南海鉄道と合併し、近畿日本鉄道を創立した。資本金2億3147万円で輸送力の増強に努めたが、相次ぐ空襲で大きな被害を受けた。戦後の1946年11月には、軌道や車両の復旧のために資本金を4億円に増やした。種田虎雄社長は1947年の公職追放令によって一切の役職を退いた。同年6月には会社再編成として旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道へ譲渡し、旧関急と旧南海の範囲に戻した。残った路線網では名古屋線が狭軌のままで、大阪側の線と軌間がそろっていなかった。名阪間の直通運転が可能になるのは、1959年に名古屋線の軌間を拡げてからであった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [46]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [47]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [48]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [50]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
  • 汎交通 85(8) 1985年8月号「鉄道先人(8)種田虎雄」志賀岩夫
    • [49]種田虎雄は1944年近鉄社長、1947年公職追放令により一切の役職から退く
  • 運輸と経済 48(12) 1988年12月号「〔鼎談〕近畿日本鉄道―その経営観,事業戦略」
    • [51]伊勢湾台風を機に名古屋線の狭軌を標準軌に変え、名阪間の直通電車を可能にした
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
    • [52]1959年11月、名古屋線の軌間拡幅でゲージを統一し名阪間直通運転が可能に
参考文献[33]-[52]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
    • [33]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [34]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [35]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [38]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [39]参急は1936年9月に経営難の伊勢電気鉄道(桑名・大神宮前間)を合併。伊勢電整理の一端で桑名・名古屋間免許を譲り受け別会社関西急行電鉄が建設。揖斐・長良・木曽の三川橋梁と日華事変下の資材難を経て1938年6月開通、大軌・参急・関急を通じ大阪・名古屋間が結ばれた。中勢鉄道免許線のうち中川・久居間を譲り受け中川・津間を建設
    • [40]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [42]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [44]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [45]1941年3月に懸案の参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称、資本金1億1897万円、1府4県。1942年3月配電統制で電灯電力設備を関西配電へ出資。交通調整の見地から1943年2月大阪鉄道、1944年4月信貴山急行電鉄・南和電鉄・大鉄百貨店を合併
    • [46]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [47]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [48]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
    • [50]1944年6月「地方交通の統合整備」の国策で南海鉄道と合併し近畿日本鉄道(資本金2億3147万円)を創立、空襲で著しい被害。1947年6月会社再編成のため旧南海鉄道の事業を高野山電気鉄道に譲渡し、旧関急・旧南海の姿に還元。1946年11月、復旧のため資本金を4億円に増額
  • 汎交通 85(8) 1985年8月号「鉄道先人(8)種田虎雄」志賀岩夫
    • [36]種田虎雄は1927年に鉄道省を退官し大軌専務、1937年に大軌・参急社長、1941年関西急行鉄道社長、1944年近鉄社長
    • [43]種田虎雄は1941年に関西急行鉄道社長
    • [49]種田虎雄は1944年近鉄社長、1947年公職追放令により一切の役職から退く
  • 経済人 4(3) 1950年3月号「斯の人を――種田虎雄氏を偲ぶ」佐伯勇
    • [37]名古屋進出は伊勢電の買収が基礎。種田は伊勢電を名古屋へ出られる理由と語った。当時は財界不振で大軌・参急とも経理状態が豊かでなかった
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
    • [41]1941年3月、大阪電気軌道は関西急行電鉄と養老電鉄を合併済みの参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道と改称
    • [52]1959年11月、名古屋線の軌間拡幅でゲージを統一し名阪間直通運転が可能に
  • 運輸と経済 48(12) 1988年12月号「〔鼎談〕近畿日本鉄道―その経営観,事業戦略」
    • [51]伊勢湾台風を機に名古屋線の狭軌を標準軌に変え、名阪間の直通電車を可能にした

出典・参考

8件
出典・参考
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)第一篇 沿革
  • 大阪電気軌道株式会社三十年史(1940年)附載 参宮急行電鉄編 第一章 創業
  • 会社銀行八十年史(1955年)「近畿日本鉄道」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「近畿日本鉄道」
  • 経済人 4(3) 1950年3月号「斯の人を――種田虎雄氏を偲ぶ」佐伯勇
  • 汎交通 85(8) 1985年8月号「鉄道先人(8)種田虎雄」志賀岩夫
  • 運輸と経済 48(12) 1988年12月号「〔鼎談〕近畿日本鉄道―その経営観,事業戦略」
  • 日本鉄道請負業史 明治篇 下(1944年)「大阪電気軌道と生駒山隧道」

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