ゼロ:日産陸送の設立とプリンス輸送の吸収合併
1961年〜ロット輸送の元請に資本金3000万円で生まれた日産陸送と、トレーラー100台の近距離輸送
日産陸送は1961年10月、日産自動車が全額を出資して資本金30百万円で設立された。新車を日産自動車から全国の販売会社へ届ける専門会社とされ、本社は横浜市鶴見区生麦町。同年12月には、1960年3月に日産車の輸送会社として発足していた弘和陸送へ資本参加した。専務取締役の犬飼文吉氏は1968年の寄稿で、新車は当初、販売会社と特約を結んだ陸送会社が1台ずつ自走で運んだと振り返った。メーカーの量産が定着し、船や貨車でまとめて運ぶ経済性が生まれると、その全体を引き受ける元請会社が設けられた。日産陸送の設立は、元請の中では遅い部類だったという。1台ずつの陸送では量産車の出荷量をさばききれず、ロットで運ぶ主体を系列に持つ必要が生じたとみられる。
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1961年10月、日産自動車の全額出資で資本金30百万円の日産陸送を横浜市鶴見区生麦町に設立。日産車を全国販売会社へ輸送する専門会社
- [2]1961年10月、日産自動車の全額出資で資本金30百万円の日産陸送を横浜市鶴見区生麦町に設立。日産車を全国販売会社へ輸送する専門会社
- [3]1961年12月、1960年3月設立の日産車輸送会社・弘和陸送に資本参加
- 運輸と経済 28(6) 1968年6月号 犬飼文吉「日産陸送株式会社--自動車商品輸送と企業」
- [4]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
- [5]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
- [6]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
1968年6月時点の日産陸送は、関東各地の工場を出た新車を販売会社の店頭まで運ぶ、国内向け出荷の元請を担った。遠距離は船舶と国鉄の貨車にまとめて載せ、積込地までと着地から店頭までは操縦士が自走で運んだ。近距離の販売会社には、1両に4台程度を積むトレーラーを100台程度使って往復させた。ロットにならない車と大型車は全国へ自走で直送し、その比率はなお全体の40%に上った。従業員は着地を含めて1,200人で、自動車損害保険料は年間10億円近く。これに先立つ1968年4月、日産陸送はプリンス輸送を合併した。プリンス輸送は、1964年時点でプリンス自動車工業が30.0%を出資する関係会社だった。日産自動車とプリンス自動車工業の合併を受け、両系統の新車輸送を1社にまとめたものと推察される。
- 運輸と経済 28(6) 1968年6月号 犬飼文吉「日産陸送株式会社--自動車商品輸送と企業」
- [7]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [8]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [9]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [10]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [11]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- [12]1968年4月、プリンス輸送を合併
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
- [13]1964年版の主要関係会社欄に、プリンス自動車工業の持株比率30.0%のプリンス輸送が載る
参考文献[1]-[13]
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1961年10月、日産自動車の全額出資で資本金30百万円の日産陸送を横浜市鶴見区生麦町に設立。日産車を全国販売会社へ輸送する専門会社
- [2]1961年10月、日産自動車の全額出資で資本金30百万円の日産陸送を横浜市鶴見区生麦町に設立。日産車を全国販売会社へ輸送する専門会社
- [3]1961年12月、1960年3月設立の日産車輸送会社・弘和陸送に資本参加
- [12]1968年4月、プリンス輸送を合併
- 運輸と経済 28(6) 1968年6月号 犬飼文吉「日産陸送株式会社--自動車商品輸送と企業」
- [4]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
- [5]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
- [6]当初は販売会社ごとの特約陸送会社が1台ずつ陸送。大量生産で船・貨車のロット輸送の経済性が使えるようになり元請会社が設立され、当社の創立は昭和36年と比較的遅い
- [7]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [8]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [9]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [10]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- [11]1968年6月時点、関東の工場から販売会社店頭までの国内出荷の元請。船舶・貨車のロット輸送、積込地まで・着地からは個別陸送、近距離はトレーラー(1両4台程度)100台程度、直送が全体の40%、従業員1,200人、自動車損害保険料年間約10億円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
- [13]1964年版の主要関係会社欄に、プリンス自動車工業の持株比率30.0%のプリンス輸送が載る
1969年〜九州弘和陸送で広げた輸送網と、日産リバイバルプランが告げた売却方針
日産陸送は1976年7月に九州弘和陸送を、1977年11月にホンモクトランスポートを子会社として設立した。ホンモクトランスポートは1981年8月に湘南弘和サービスを合併相手とし、トランスポート弘和へ社名を変えた。この間の1980年12月には、横浜市鶴見区鶴見中央四丁目へ本社を移転。九州弘和陸送は現在のゼロ・プラス九州、トランスポート弘和は現在のゼロ・プラス関東の前身にあたる。日産陸送は設立時から、日産車を全国の販売会社へ運ぶ専門会社と位置づけられていた。九州と関東に地域の輸送子会社を置き、遠隔地の販売会社への配送を近くで受け持たせたのだろう。
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- [14]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [15]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [16]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [17]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- ゼロ 2014年5月15日「タン・チョン・インターナショナル・リミテッドとの資本業務提携のお知らせ」
- [18]日産陸送は日産自動車の新車を全国販売会社へ輸送する専門会社として設立
日産自動車は1999年10月、再建計画「日産リバイバルプラン」を発表した。計画には、保有株式を費用対効果に照らして売却する方針が入った。この方針のもとで、約1,400社あったグループ会社のうち4社以外が売却対象とされた。日産陸送は自動車製造という中核事業の外にあり、売却対象に含まれた。当時の日産陸送は、毎年の経常利益が十数億円に上る、業界有数の完成車輸送会社だった。利益を上げていても、自動車製造から外れる事業は親会社にとって保有の理由を失ったと思われる。
- ゼロ 2014年5月15日「タン・チョン・インターナショナル・リミテッドとの資本業務提携のお知らせ」
- [19]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [20]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [21]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [22]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- 日経ビジネス 2003年4月7日号
- [23]日産陸送は毎年経常利益十数億円の業界有数の完成車輸送会社
2000年春、日産自動車の常務として海外販売を担当していた岩下世志氏は、日産陸送の顧問へ移る辞令を受けた。将来は日産陸送の社長に就任する含みを持たせた人事である。辞令を伝えた関係会社担当常務の佐々木邦昭氏は、『日産陸送はいずれ売却する方針』と岩下世志氏に告げた。岩下世志氏は売却をはっきり告げられたこの時に、MBO(経営陣による買収)での独立を思い立った。岩下世志氏は後に代表取締役社長として、経営陣の独立性と従業員の雇用の継続、日産自動車以外への取引拡大を考えてMBOを進めた。親会社による売却をただ待たず、経営陣みずからが引受先となる選択肢を探ったと考えられる。
- 日経ビジネス 2003年4月7日号
- [24]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [25]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [26]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [27]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- ゼロ 2014年5月15日「タン・チョン・インターナショナル・リミテッドとの資本業務提携のお知らせ」
- [28]代表取締役社長の岩下世志は経営陣の独立性、従業員の雇用継続、日産自動車以外の取引先拡大を考慮してMBOを推進
参考文献[14]-[28]
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- [14]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [15]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [16]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- [17]1976年7月九州弘和陸送(現ゼロ・プラス九州)設立、1977年11月ホンモクトランスポート設立、1980年12月本社を鶴見中央四丁目へ移転、1981年8月湘南弘和サービスと合併しトランスポート弘和(現ゼロ・プラス関東)に
- ゼロ 2014年5月15日「タン・チョン・インターナショナル・リミテッドとの資本業務提携のお知らせ」
- [18]日産陸送は日産自動車の新車を全国販売会社へ輸送する専門会社として設立
- [19]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [20]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [21]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [22]1999年10月日産リバイバルプラン発表。保有株式を費用対効果の観点で売却する方針、約1,400社のグループ会社は4社を除き売却対象、自動車製造業に属さない当社も対象
- [28]代表取締役社長の岩下世志は経営陣の独立性、従業員の雇用継続、日産自動車以外の取引先拡大を考慮してMBOを推進
- 日経ビジネス 2003年4月7日号
- [23]日産陸送は毎年経常利益十数億円の業界有数の完成車輸送会社
- [24]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [25]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [26]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
- [27]2000年春、日産海外販売担当常務の岩下世志が社長含みで日産陸送顧問に。関係会社担当常務の佐々木邦昭が売却方針を伝え、岩下はMBOによる独立を考え始めた
出典・参考
5件
- ゼロ 有価証券報告書【沿革】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
- 運輸と経済 28(6) 1968年6月号 犬飼文吉「日産陸送株式会社--自動車商品輸送と企業」
- 日経ビジネス 2003年4月7日号
- ゼロ 2014年5月15日「タン・チョン・インターナショナル・リミテッドとの資本業務提携のお知らせ」