大和証券グループ本社:藤本ビルブローカーの創業から証券会社への改称まで
1902年〜米商の藤本清兵衛氏が大阪で開いたビルブローカーと、発起人7人での株式会社化
藤本清兵衛氏は1902年5月1日、合資会社藤本銀行の店内の一室を営業所とし、無限責任を負う個人の事業としてビル・ブローカーの営業を始めた。藤本銀行は藤本清兵衛氏が1895年に創設した銀行で、その母体は1887年ごろ米の取引高で全国1位を占めた大阪の米穀仲買商、藤本商店である。当時の銀行は大銀行ごとの系統に分かれ、系統の異なる銀行の間で余剰資金を融通する手段を持たない状態にある。資金の足りない小銀行は日本銀行から高利で借り越し、余った銀行は日本銀行に無利子で預けておくほかなかった。藤本清兵衛氏は1901年に予定した開業を恐慌で延期し、その経験から小銀行の困難を痛感して決意を固めた。銀行を1行増やすより、銀行の間の過不足をつなぐ業に小銀行の生きる余地を見いだしたとみられる。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [1]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [3]藤本ビルブローカーの設立基礎は合資会社藤本銀行、その母体は藤本商店。藤本商店は大阪の米穀仲買商で明治20年ごろ米の取引高全国1位
- [4]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [5]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [6]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [2]藤本銀行は藤本清兵衛が明治28年に創設
藤本ビルブローカーの1903年の出店は、2月に神戸、4月に京都と名古屋の出張所、7月に東京支店。大阪の本店と各出張所は堺・紀州から四国・北陸、播州まで地方の銀行に店員を派遣し、地域ごとに開いていた金利の差を縮めた。1904年に日露戦争が始まると、国内では国庫債券の発行が続き、整理公債の価格は1905年4月に83円台まで下がった。藤本清兵衛氏は神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し、国内で買い入れた国庫債券をロンドンへ輸出した。第4回と第5回の国庫債券の輸出額は約7,000万円に達し、コールの取組高も1904〜1906年ごろ年3,000万円台に上った。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [7]神戸出張所1903年2月、京都・名古屋出張所同年4月、東京支店同年7月に開設
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [8]大阪本店は堺・紀州・岡山・福山・四国・北陸、京都・名古屋・神戸の各営業所は大津・八幡・伊勢・遠江・美濃・播州まで地方回り店員を派遣し地域間の金利差を調和。コール取組高は明治37〜39年ごろ年3,000万円台
- [9]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
- [10]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
- [11]大阪本店は堺・紀州・岡山・福山・四国・北陸、京都・名古屋・神戸の各営業所は大津・八幡・伊勢・遠江・美濃・播州まで地方回り店員を派遣し地域間の金利差を調和。コール取組高は明治37〜39年ごろ年3,000万円台
- [12]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
藤本清兵衛氏は1906年10月16日、藤本ビルブローカーを資本金20万円の株式会社として再発足させた。それは、開業から4年余り藤本清兵衛氏が無限責任を負ってきた個人の事業の法人化である。運用資金の残高は1,600万円に達し、個人の財産と事業の財産が混ざって資産状態を公表できなくなる懸念が生じた。創立趣意書は株式組織の利点として、『株式会社は個人組織に比し業務の進捗と時勢の変遷とに応じ資金を増加することを得可く』と記した。発起人7人は藤本清兵衛氏のほか植村由松氏や谷村一太郎氏ら店員で、株式の分譲は全従業員に及んだ。事業の信用を藤本清兵衛氏個人から会社へ移す再編だったと思われる。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [13]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [15]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [16]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [17]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [14]1902年の開業時は藤本清兵衛の無限責任による個人事業
参考文献[1]-[17]
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [1]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [3]藤本ビルブローカーの設立基礎は合資会社藤本銀行、その母体は藤本商店。藤本商店は大阪の米穀仲買商で明治20年ごろ米の取引高全国1位
- [4]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [5]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [6]1902年5月1日、藤本清兵衛が合資会社藤本銀行の一室に営業所を置き、個人事業として藤本ビルブローカーを開業。系統の異なる銀行間で遊金を融通できず、小銀行は日銀で高利借越、他系統の遊金は日銀に無利子預金。1901年の開業予定は恐慌で延期、恐慌で小銀行の困難を痛感
- [7]神戸出張所1903年2月、京都・名古屋出張所同年4月、東京支店同年7月に開設
- [14]1902年の開業時は藤本清兵衛の無限責任による個人事業
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [2]藤本銀行は藤本清兵衛が明治28年に創設
- [8]大阪本店は堺・紀州・岡山・福山・四国・北陸、京都・名古屋・神戸の各営業所は大津・八幡・伊勢・遠江・美濃・播州まで地方回り店員を派遣し地域間の金利差を調和。コール取組高は明治37〜39年ごろ年3,000万円台
- [9]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
- [10]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
- [11]大阪本店は堺・紀州・岡山・福山・四国・北陸、京都・名古屋・神戸の各営業所は大津・八幡・伊勢・遠江・美濃・播州まで地方回り店員を派遣し地域間の金利差を調和。コール取組高は明治37〜39年ごろ年3,000万円台
- [12]日露戦争中の国庫債券発行で整理公債価格は明治38年4月に83円台へ下落。藤本ビルブローカーは神戸のサミュエル・サミュエル商会と提携し国庫債券をロンドンへ輸出、第4・5回国庫債券の輸出は約7,000万円
- [13]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [15]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [16]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
- [17]1906年10月16日に株式会社藤本ビルブローカーとして再発足、資本金20万円。個人財産と事業財産の混同で資産状態の発表が不可能になる懸念。創立趣意書に運用資金残高1,600万円、株式会社は資金を増加できると記載。発起人7人は店員、全従業員に株式を分譲
1907年〜銀行へ改めた藤本ビルブローカーと、日糖事件の支払停止を整理した平賀敏氏
株式会社藤本ビルブローカーは1906年11月1日に営業を始め、1907年3月25日までにコール・マネーの受入高が5,100万円を超えた。大蔵省はコール・マネーの受入れを預金、手形の買入れを貸出しとみなし、藤本ビルブローカーを銀行条例のもとで監督すると決めた。大蔵省の方針で資本金は所在都市の人口に見合う額とされ、1907年1月25日の臨時株主総会で資本金100万円への増資を決議。同じ総会は商号を藤本ビルブローカー銀行に改め、3月26日から銀行として営業を始めた。1907年1月の株価暴落から恐慌が広がり、1908年7月までに取付けを受けた銀行は全国で139行に達した。藤本ビルブローカー銀行は優良手形の選別で被害を抑え、1908年末には割引手形917万円を運用していた。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [18]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [19]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [20]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [21]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [22]1907年1月20日の株価暴落から恐慌、1908年7月までに取付け139行・閉店47行。藤本ビルブローカー銀行は優良手形の選別で被害が少なかった
- [23]1907年1月20日の株価暴落から恐慌、1908年7月までに取付け139行・閉店47行。藤本ビルブローカー銀行は優良手形の選別で被害が少なかった
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第3章「平賀敏の登場と藤本ビルブローカー銀行の再建」
- [24]1908年末の貸借対照表:資本金100万円(払込40万円)、コール・マネー402万7,000円、預金約260万円、借入金約412万円、割引手形917万円
反動恐慌を小さな被害で越えた藤本ビルブローカー銀行は、1909年3月18日付で全債権者に債務の回収猶予を求め、支払を停止した。引き金は1909年1月13日の大日本製糖の支払停止で、藤本ビルブローカー銀行は164万2,000円を持つ最大の債権者にあたる。担保は大日本製糖自身の社債で、実質は無担保に等しい。藤本ビルブローカー銀行への悪評が広まると、地方銀行は貸金の回収を迫り、満期前に定期預金を引き出す銀行も出た。藤本清兵衛氏は首相や日本銀行総裁、大阪の有力銀行に救済を求め、いずれも断られた。一流とされた1社の手形への与信の集中が、仲介業の信用そのものを揺るがしたと推察される。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第3章「平賀敏の登場と藤本ビルブローカー銀行の再建」
- [25]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- [27]1909年1月13日に大日本製糖が支払停止。藤本ビルブローカー銀行は164万2,000円の最大債権者、担保は同社社債で実質無担保同様
- [28]1909年1月13日に大日本製糖が支払停止。藤本ビルブローカー銀行は164万2,000円の最大債権者、担保は同社社債で実質無担保同様
- [29]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- [30]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [26]反動恐慌では優良手形の選別で被害が少なかった
支払停止の後、八木与三郎氏と渾大坊芳造氏が整理委員となり、三井銀行で金融の経験を積んだ平賀敏氏が顧問に就任した。整理の始まりは、平賀敏氏の参加を債権者が歓迎した1909年4月11日の第1回債権者会。藤本清兵衛氏は1909年9月27日の臨時株主総会で会長を引責辞任し、持株の大部分を平賀敏氏と武藤山治氏に譲渡した。藤本ビルブローカー銀行の整理は大日本製糖の整理に左右され、大日本製糖の整理案は1909年10月23日に固まった。1910年8月1日、会長の平賀敏氏と取締役の谷村一太郎氏、横田義夫氏の体制で営業を再開した。平賀敏氏は友人や先輩の反対を押して商号を残し、理由として藤本ビルブローカー銀行が『日本でビルブローカーの鼻祖として,既に全国に其名が行き渡って居る』点を挙げた。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第3章「平賀敏の登場と藤本ビルブローカー銀行の再建」
- [31]支払停止後、八木与三郎・渾大坊芳造が整理委員、三井銀行出身の平賀敏が顧問に就任し債権者に好感をもって迎えられた。1909年4月11日に債権者会
- [32]支払停止後、八木与三郎・渾大坊芳造が整理委員、三井銀行出身の平賀敏が顧問に就任し債権者に好感をもって迎えられた。1909年4月11日に債権者会
- [33]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [34]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [35]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [37]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [36]1910年8月の再開時、平賀敏を会長、横田義夫・谷村一太郎を取締役、柳広蔵を監査役とする組織
参考文献[18]-[37]
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- [18]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [19]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [20]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [21]1906年11月1日営業開始、1907年3月25日までのコール・マネー受入高5,100万円超。大蔵省はコール受入を預金、手形買入を貸出とみなし銀行条例の監督下に置く。1907年1月25日臨時株主総会で資本金100万円・商号を藤本ビルブローカー銀行へ
- [22]1907年1月20日の株価暴落から恐慌、1908年7月までに取付け139行・閉店47行。藤本ビルブローカー銀行は優良手形の選別で被害が少なかった
- [23]1907年1月20日の株価暴落から恐慌、1908年7月までに取付け139行・閉店47行。藤本ビルブローカー銀行は優良手形の選別で被害が少なかった
- [26]反動恐慌では優良手形の選別で被害が少なかった
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第3章「平賀敏の登場と藤本ビルブローカー銀行の再建」
- [24]1908年末の貸借対照表:資本金100万円(払込40万円)、コール・マネー402万7,000円、預金約260万円、借入金約412万円、割引手形917万円
- [25]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- [27]1909年1月13日に大日本製糖が支払停止。藤本ビルブローカー銀行は164万2,000円の最大債権者、担保は同社社債で実質無担保同様
- [28]1909年1月13日に大日本製糖が支払停止。藤本ビルブローカー銀行は164万2,000円の最大債権者、担保は同社社債で実質無担保同様
- [29]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- [30]日糖問題の余波で悪評が広まり地方銀行が貸金回収・定期預金の期日前引出し。首相・日銀総裁・大阪の有力銀行に救済を求め拒絶。1909年3月18日付で全債権者に一時回収の猶予を求める書面を発送
- [31]支払停止後、八木与三郎・渾大坊芳造が整理委員、三井銀行出身の平賀敏が顧問に就任し債権者に好感をもって迎えられた。1909年4月11日に債権者会
- [32]支払停止後、八木与三郎・渾大坊芳造が整理委員、三井銀行出身の平賀敏が顧問に就任し債権者に好感をもって迎えられた。1909年4月11日に債権者会
- [33]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [34]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [35]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- [37]1909年9月27日の臨時株主総会で藤本清兵衛が会長を引責辞任。持株の大部分を平賀敏・武藤山治に譲渡。1910年8月1日営業開始。平賀敏が反対を押して商号を存続。取締役に谷村一太郎・横田義夫
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- [36]1910年8月の再開時、平賀敏を会長、横田義夫・谷村一太郎を取締役、柳広蔵を監査役とする組織
1912年〜第一次大戦で伸びたコール市場と公社債の業務、改正銀行法で選んだ証券会社への転身
第一次世界大戦で輸出が膨らむと、為替銀行は輸出手形の買入資金をコールで調達するようになった。コールの用途は手形交換尻の決済から為替資金へ広がり、東京では早川ビルブローカー銀行や武田割引銀行が相次いで生まれた。預金は大銀行に集中し、吸収した預金の運用に苦しむ銀行が多かった。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自らの勘定でコールを借り入れて手形割引に運用し、自己勘定の方式は東京でも1915年以後に広まった。1915年5月に大日本製糖関係の債務を完済して再開後初の配当を出し、配当率は1918年上期に5割まで上がった。1918年6月の臨時株主総会は資本金を300万円に増やし、銀行部と有価証券を扱う兼業部の資本と組織を分けると決めた。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第4章「ビルブローカー業の発達」
- [38]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [39]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [41]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [42]1915年5月に日糖関係の問題を解決し同年上半期に再開後初の配当。配当率は1918年上期に5割。1918年6月臨時株主総会で資本金300万円、銀行部(200万円)と兼業部(100万円)の資本・組織を分離
- [43]1915年5月に日糖関係の問題を解決し同年上半期に再開後初の配当。配当率は1918年上期に5割。1918年6月臨時株主総会で資本金300万円、銀行部(200万円)と兼業部(100万円)の資本・組織を分離
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第6章「大正後期を中心としたコール市場の変遷と藤本ビルブローカー銀行」
- [40]大正期は預金が大銀行へ集中し、吸収した預金の運用に苦しむ事情があった
藤本ビルブローカー銀行は1911年2月、75万円の大阪農工銀行債券を単独で引き受けた。1919年には谷村一太郎氏らがニューヨークに渡り、ボンブライト商会と内外の有価証券を相互に売買する協定を結んで9月に公表した。帰国後もニューヨークに残った三木純吉氏の仕事は、フランスやオランダの投資家が持つ仏貨四分利公債の買付けと日本への輸入である。米国の現地法人The Fujimoto Securities Co.は外貨邦債の輸入に加え、西海岸の在留邦人への日本株の売買も担った。1932年7月の資本逃避防止法で外貨邦債の輸入は封じられ、1933年7月にニューヨーク支店を閉鎖した。コールの利鞘に依存しない収益源を、公社債と国際取引に求めたのだろう。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第5章「証券業務の拡充」
- [44]1911年2月14日発表の大阪農工銀行債券75万円を独力で引受
- [45]谷村一太郎らがニューヨークに渡りボンブライト商会と有価証券の相互売買協定、1919年9月発表。三木純吉がニューヨークに残り仏貨四分利公債をフランス・オランダから買付け日本へ輸入
- [46]谷村一太郎らがニューヨークに渡りボンブライト商会と有価証券の相互売買協定、1919年9月発表。三木純吉がニューヨークに残り仏貨四分利公債をフランス・オランダから買付け日本へ輸入
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第7章「証券会社への転身」
- [47]The Fujimoto Securities Co.は外貨邦債輸入と西海岸の在留邦人向け日本株取引。1932年7月資本逃避防止法で外貨邦債の買付が不可能に、1933年7月ニューヨーク支店閉鎖
- [48]The Fujimoto Securities Co.は外貨邦債輸入と西海岸の在留邦人向け日本株取引。1932年7月資本逃避防止法で外貨邦債の買付が不可能に、1933年7月ニューヨーク支店閉鎖
1927年3月に公布された改正銀行法は、銀行業を預金の受入れと貸付・割引を併せ営むものと定め、公社債売買の兼業を禁じた。藤本ビルブローカー銀行は法案の修正を当局に説き、兼業の廃止までの猶予を3年から5年へ延長させた。同じ1927年の金融恐慌でコール市場は性格を変え、組合銀行のコール・ローン残高は3分の1に減った。猶予の期限を控えた1932年12月22日、臨時株主総会は預金と為替の業務を廃止する定款変更を可決した。手形交換所の組合銀行としての資格は失うものの、主な資金源はもともとコール・マネーや借入金で、業務の実態にほとんど変化はない。1933年1月1日、藤本ビルブローカー銀行は資本金300万円の藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発した。
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第7章「証券会社への転身」
- [49]改正銀行法は1927年3月公布・1928年1月1日施行。銀行業を預金受入と貸付・割引の併営とし、公社債売買業などの兼営を禁止。藤本ビルブローカー銀行は法案改訂を主張し、兼業廃止の猶予を3年から5年に延長させた
- [50]改正銀行法は1927年3月公布・1928年1月1日施行。銀行業を預金受入と貸付・割引の併営とし、公社債売買業などの兼営を禁止。藤本ビルブローカー銀行は法案改訂を主張し、兼業廃止の猶予を3年から5年に延長させた
- [52]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
- [53]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
- [54]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第6章「大正後期を中心としたコール市場の変遷と藤本ビルブローカー銀行」
- [51]1927年の金融恐慌でコール市場は性格を一変、組合銀行のコール・ローン残高は3分の1に減少
参考文献[38]-[54]
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第4章「ビルブローカー業の発達」
- [38]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [39]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [41]大戦中、為替銀行が輸出手形買入のためコールで資金を吸収し、コールは為替資金の用途へ。東京で早川ビルブローカー銀行などが出現。藤本ビルブローカー銀行は大戦前から自己計算でコールを取り入れ手形割引に運用、東京でも大正4年以後に採用
- [42]1915年5月に日糖関係の問題を解決し同年上半期に再開後初の配当。配当率は1918年上期に5割。1918年6月臨時株主総会で資本金300万円、銀行部(200万円)と兼業部(100万円)の資本・組織を分離
- [43]1915年5月に日糖関係の問題を解決し同年上半期に再開後初の配当。配当率は1918年上期に5割。1918年6月臨時株主総会で資本金300万円、銀行部(200万円)と兼業部(100万円)の資本・組織を分離
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第6章「大正後期を中心としたコール市場の変遷と藤本ビルブローカー銀行」
- [40]大正期は預金が大銀行へ集中し、吸収した預金の運用に苦しむ事情があった
- [51]1927年の金融恐慌でコール市場は性格を一変、組合銀行のコール・ローン残高は3分の1に減少
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第5章「証券業務の拡充」
- [44]1911年2月14日発表の大阪農工銀行債券75万円を独力で引受
- [45]谷村一太郎らがニューヨークに渡りボンブライト商会と有価証券の相互売買協定、1919年9月発表。三木純吉がニューヨークに残り仏貨四分利公債をフランス・オランダから買付け日本へ輸入
- [46]谷村一太郎らがニューヨークに渡りボンブライト商会と有価証券の相互売買協定、1919年9月発表。三木純吉がニューヨークに残り仏貨四分利公債をフランス・オランダから買付け日本へ輸入
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第7章「証券会社への転身」
- [47]The Fujimoto Securities Co.は外貨邦債輸入と西海岸の在留邦人向け日本株取引。1932年7月資本逃避防止法で外貨邦債の買付が不可能に、1933年7月ニューヨーク支店閉鎖
- [48]The Fujimoto Securities Co.は外貨邦債輸入と西海岸の在留邦人向け日本株取引。1932年7月資本逃避防止法で外貨邦債の買付が不可能に、1933年7月ニューヨーク支店閉鎖
- [49]改正銀行法は1927年3月公布・1928年1月1日施行。銀行業を預金受入と貸付・割引の併営とし、公社債売買業などの兼営を禁止。藤本ビルブローカー銀行は法案改訂を主張し、兼業廃止の猶予を3年から5年に延長させた
- [50]改正銀行法は1927年3月公布・1928年1月1日施行。銀行業を預金受入と貸付・割引の併営とし、公社債売買業などの兼営を禁止。藤本ビルブローカー銀行は法案改訂を主張し、兼業廃止の猶予を3年から5年に延長させた
- [52]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
- [53]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
- [54]1932年12月22日臨時株主総会で銀行業廃止の定款変更を可決。手形交換所組合銀行の資格を失う不利はあるが実際の業務は変わらず、1933年1月1日に藤本ビルブローカー証券株式会社として再出発、資本金300万円
出典・参考
7件
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第1章「藤本ビルブローカーの成立とコール市場の形成」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第2章「株式会社藤本ビルブローカー銀行への発展」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第3章「平賀敏の登場と藤本ビルブローカー銀行の再建」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第4章「ビルブローカー業の発達」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第6章「大正後期を中心としたコール市場の変遷と藤本ビルブローカー銀行」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第5章「証券業務の拡充」
- 刊行社史 大和証券60年史(1963) 第7章「証券会社への転身」