第2章 年〜年

モスフードサービス:台湾・シンガポールへの出店と東証一部指定

1991年〜1000号店と台湾・シンガポールへの出店

1990年6月、櫻田慧氏は会長に退き、創業メンバーの渡邉和男氏が社長に就いた。翌1991年3月初めには、日本の外食チェーンとして初めて1000号店を開いた。人手不足とハンバーガー市場の伸び悩みが重なるなかでも、渡邉氏は国内だけで3000店を展開する構えを崩さなかった。それまでのチェーンは櫻田氏の求心力で広がってきたため、渡邉氏は自らの役目を次の経営者を育てることに置いた。一方の櫻田氏は1993年時点で、フランチャイズ産業が21世紀初頭に50兆円規模へ伸びるとみていた。そのうえでファストフードに的を絞り、パン・ご飯・麺の3系統で新業態を開く方針を掲げた。社長交代は、創業者が本部の日々の運営から離れ、次の事業の種まきへ手を移すための分担だったとみられる。

  • 日経ビジネス 1991年3月18日号増刊号
    • [1]渡邉和男は1990年6月に社長に就任し、櫻田慧は会長となった
    • [2]1991年3月初め、日本の外食チェーンで初めて1000号店を出した
    • [3]渡邉社長は人手不足と業界の伸び悩みのなかで、国内だけで3000店を展開する考えを示した
    • [4]渡邉社長は会長のカリスマ性で伸びてきたチェーンを引き継ぎ、次世代の経営者の養成に取り組んだ
  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
    • [5]櫻田慧はFC産業が21世紀初頭に50兆円産業になるとみていた
    • [6]ファストフードに特化し、和洋中の3分野で新業態・新商品を開発する方針を示した

海外への出店は、1989年のハワイ店が先行した。1991年2月には台湾で1号店「新生南路店」を開き、1993年5月にはシンガポールの1号店「イセタンスコッツ店」が続いた。台湾は現地企業との合弁で、1994年春までに5店舗へ増えた。櫻田氏はモスバーガーの海外展開を東南アジア中心と定め、米国本土ではハンバーガーではなくラーメン店「Mikoshi」をロサンゼルスで5店試していた。和風に仕立て直したハンバーガーを日本に根付かせた手順を、逆向きに米国で試す構想だった。櫻田氏が課題に挙げたのは味よりも加盟店の選び方で、『また、海外でも国内と同様、同じ価値観を共有するFC店を探せるか。』と記した。国内で理念の共有を加盟の条件にしてきたやり方が、海外でも通るかが問われた。

  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
    • [7]1989年にハワイにモスバーガーを開店した
    • [11]モスバーガーは東南アジア中心に展開し、米国本土ではラーメン専門店「Mikoshi」をロサンゼルスで5店パイロット出店していた
    • [12]ハンバーガーを和風に仕立てて日本に定着させた方法を、逆の立場で米国で試す構想だった
    • [13]櫻田慧は海外でも同じ価値観を共有するFC店を探せるかを課題に挙げた
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1991年2月、台湾におけるモスバーガー1号店「新生南路店」をオープンした
    • [9]1993年5月、シンガポールにおけるモスバーガー1号店「イセタンスコッツ店」をオープンした
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [10]台湾の1号店は台北市に現地企業と合弁で設けたもので、1994年5月時点で台湾には5店舗あった
参考文献[1]-[13]
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号増刊号
    • [1]渡邉和男は1990年6月に社長に就任し、櫻田慧は会長となった
    • [2]1991年3月初め、日本の外食チェーンで初めて1000号店を出した
    • [3]渡邉社長は人手不足と業界の伸び悩みのなかで、国内だけで3000店を展開する考えを示した
    • [4]渡邉社長は会長のカリスマ性で伸びてきたチェーンを引き継ぎ、次世代の経営者の養成に取り組んだ
  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
    • [5]櫻田慧はFC産業が21世紀初頭に50兆円産業になるとみていた
    • [6]ファストフードに特化し、和洋中の3分野で新業態・新商品を開発する方針を示した
    • [7]1989年にハワイにモスバーガーを開店した
    • [11]モスバーガーは東南アジア中心に展開し、米国本土ではラーメン専門店「Mikoshi」をロサンゼルスで5店パイロット出店していた
    • [12]ハンバーガーを和風に仕立てて日本に定着させた方法を、逆の立場で米国で試す構想だった
    • [13]櫻田慧は海外でも同じ価値観を共有するFC店を探せるかを課題に挙げた
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1991年2月、台湾におけるモスバーガー1号店「新生南路店」をオープンした
    • [9]1993年5月、シンガポールにおけるモスバーガー1号店「イセタンスコッツ店」をオープンした
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [10]台湾の1号店は台北市に現地企業と合弁で設けたもので、1994年5月時点で台湾には5店舗あった

1994年〜値下げしない550億円のチェーンと東証一部指定

1994年6月、社長には清水孝夫氏が就いた。清水氏は日興証券を経て1976年に巣鴨店を開いた加盟店オーナーで、加盟店の組織であるモスバーガー共栄会の初代理事長を務め、1984年に本部へ入った。就任前年の1993年度(1994年3月期)は、売上高が550億3100万円、経常利益が65億200万円だった。チェーン全店の末端売上高は1107億200万円に達した。同年度の既存店売上高は前年度比2%増で、6%減の日本マクドナルドとは向きが分かれた。マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンが低価格のセットで客数を守ろうとした。モスは価格を据え置き、客単価はマクドナルドを70〜80円上回った。不況期の競争の焦点を価格から味へ移したことが、客数を保つ条件になった。

  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [14]清水孝夫は1994年6月にモスフードサービス社長に就任した
    • [15]清水孝夫は日興証券入社後、1976年にモスバーガー巣鴨店を開店し、モスバーガー共栄会の初代理事長を務め、1984年に本部に入社した
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [16]1993年度(94年3月期)の売上高は550億3100万円、経常利益は65億200万円だった
    • [17]1993年度のチェーン全店の末端売上高は1107億200万円だった
    • [18]93年度の既存店売上高は前年度比2%増で、日本マクドナルドは6%減だった
    • [19]マクドナルドやケンタッキーは客数減少を食い止めるため低価格のセットメニューを導入した
    • [20]モスは価格を一切下げず、客単価はマクドナルドより70〜80円高かった

価格を下げない判断の裏には、食材に厚く配分した原価構造があった。櫻田氏は1995年の講演録で、売上に占めるフードコストを45〜46%とし、他社の30%前後より重くかけていると明かした。その分テレビ広告は打たず、宣伝は口コミに任せていた。価格破壊の風潮には加わらず、低価格の流れが強まるほど品質を上げるとし、その理由を『マーケットは独占できないんです。寡占できないんです。大事なことは、品質にこだわり続けていくことです。』と説いた。一方で、昼食時に客を30分待たせる状態は放置できないとして、曜日と天候ごとの販売分析から売れ筋を予測し、客が来る前に作り始める手法を取り入れた。品質を軸にした路線で業績を伸ばしたまま、1996年9月に株式は東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった。

  • ショッピングセンター 1995年3月号 櫻田慧「流通展望――躍進するモスフードサービスの経営戦略」
    • [21]モスはフードコストをかける代わりに宣伝費をかけない方針を取った
    • [22]フードコストは45〜46%で、他社は大体30%位だと述べた
    • [23]フードコストをかける代わりにテレビ宣伝をせず、宣伝は口コミに頼った
    • [24]価格破壊には加わらず、価格破壊が進むほどクォリティーを上げるとした
    • [25]店・月・曜日・天候ごとのABC分析で売れ筋を予測し、昼の来店前に作り始める方法を取った
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1996年9月、東京証券取引所市場第一部に指定替えとなった

1994年3月期の時点で、全1277店の約95%が加盟店で、その多くはオーナー自らが調理にあたる家族経営だった。25坪の店で約4000万円かかる開店資金は加盟店が負い、本部収入の約9割は加盟店への食材供給から得ていた。櫻田氏が理念への共鳴を条件に加盟店を選んできた結果、1993年時点で1220店を超える加盟店のうち、前年に転廃業したのは9店にとどまった。創業から22年がたってオーナーの高齢化と店の引き継ぎが課題に上り、清水社長自身も『苦労の割には利益が出にくいシステムかもしれない』と認めた。銀座6丁目店で試した、注文前にほぼ仕上げておく昼の調理や朝食メニューは、1店あたりの回転と売上を上げて加盟店の収益を厚くするための実験だった。個人オーナーの献身に頼った成長の型は、世代交代の局面で採算の見直しを迫られたといえる。

  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [27]94年3月期で全1277店の約95%がFC加盟店で、加盟店のほとんどはオーナー自ら調理する家族的経営だった
    • [28]開店資金(25坪で約4000万円)は加盟店の負担で、本部収入の約9割は加盟店への食材供給などによるものだった
    • [30]創業22年を迎え、加盟店オーナーの高齢化と店の引き継ぎが課題になっていた
    • [31]銀座6丁目店で昼の調理時間の短縮と朝食メニューの実験を行い、FC店舗運営の効率化と収益力強化を狙った
  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
    • [29]経営理念に共鳴するオーナーを厳選した結果、加盟店は1220店を超え、前年中に転廃業したのは9店だった
参考文献[14]-[31]
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [14]清水孝夫は1994年6月にモスフードサービス社長に就任した
    • [15]清水孝夫は日興証券入社後、1976年にモスバーガー巣鴨店を開店し、モスバーガー共栄会の初代理事長を務め、1984年に本部に入社した
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [16]1993年度(94年3月期)の売上高は550億3100万円、経常利益は65億200万円だった
    • [17]1993年度のチェーン全店の末端売上高は1107億200万円だった
    • [18]93年度の既存店売上高は前年度比2%増で、日本マクドナルドは6%減だった
    • [19]マクドナルドやケンタッキーは客数減少を食い止めるため低価格のセットメニューを導入した
    • [20]モスは価格を一切下げず、客単価はマクドナルドより70〜80円高かった
    • [27]94年3月期で全1277店の約95%がFC加盟店で、加盟店のほとんどはオーナー自ら調理する家族的経営だった
    • [28]開店資金(25坪で約4000万円)は加盟店の負担で、本部収入の約9割は加盟店への食材供給などによるものだった
    • [30]創業22年を迎え、加盟店オーナーの高齢化と店の引き継ぎが課題になっていた
    • [31]銀座6丁目店で昼の調理時間の短縮と朝食メニューの実験を行い、FC店舗運営の効率化と収益力強化を狙った
  • ショッピングセンター 1995年3月号 櫻田慧「流通展望――躍進するモスフードサービスの経営戦略」
    • [21]モスはフードコストをかける代わりに宣伝費をかけない方針を取った
    • [22]フードコストは45〜46%で、他社は大体30%位だと述べた
    • [23]フードコストをかける代わりにテレビ宣伝をせず、宣伝は口コミに頼った
    • [24]価格破壊には加わらず、価格破壊が進むほどクォリティーを上げるとした
    • [25]店・月・曜日・天候ごとのABC分析で売れ筋を予測し、昼の来店前に作り始める方法を取った
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1996年9月、東京証券取引所市場第一部に指定替えとなった
  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
    • [29]経営理念に共鳴するオーナーを厳選した結果、加盟店は1220店を超え、前年中に転廃業したのは9店だった

1997年〜櫻田慧氏の死去と緑モス354店への業態転換

1997年5月、櫻田慧氏が急逝した。創業家が推した後任の社長は在任50日で交代し、加盟店オーナーの士気は下がったという。1998年に社長へ就いたのは、櫻田氏の甥にあたる櫻田厚氏だった。1999年3月期の売上高は610億23百万円と前期から3.9%減り、経常利益も45億93百万円と5.5%減った。会社側はその主因を、個人消費の冷え込みで外食市場が縮むなか、既存店の売上が伸び悩んだことに求めた。それでも出店の手は緩めず、同期は94店を出して期末の国内店舗数を1,525店とした。業績の後退は1997年3月期から続いており、創業者を失った本部が加盟店をまとめきれなかったことが数字に表れたとみられる。

  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
    • [32]1997年5月に櫻田慧会長が急逝した
    • [33]創業家が推した社長が在任50日で交代し、加盟店オーナーの士気が低下した
    • [34]1998年に櫻田慧の甥の櫻田厚が社長に就任した
  • モスフードサービス 平成11年3月期 決算短信(1999年)
    • [35]平成11年3月期の売上高は610億23百万円(前期比3.9%減)、経常利益は45億93百万円(同5.5%減)だった
    • [36]減収減益の主因は、個人消費の低迷で外食市場が縮小するなか既存店売上が伸び悩んだことだとした
    • [37]当期中の出店は94店で、当期末の国内店舗数は1,525店となった

櫻田厚社長はまず加盟店の売上回復を急ぎ、1999年の1年間に14品目の新商品を出した。190円のグリルソーセージバーガーで若年層を狙ったが、既存店売上の前年割れは止まらなかった。並行して、新業態のMOS's-C(モスズシー)や紅茶専門店マザーリーフを直営で開いた。櫻田社長は最大の問題点について『立地、店舗面積、市場特性、従業員のレベルなどで、店ごとの格差が大きいことだ』と語った。そこから、立地や面積ごとに店の型を分け直す方針へ移った。2003年5月、平成15年度に始まる中期経営計画はモスバーガー事業の再生と進化を最初の柱に据えた。会社側は『既存店の業績の低迷を新規の出店で補うという経営手法は、ともすると問題の先送り的な弊害をもたらします。』とし、既存店1店ごとの質を高める方針を示した。量の拡大から1店ごとの質へ、本部が店を測る尺度は切り替わった。

  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
    • [38]1999年の1年間に14種類の新商品を発売した
    • [39]190円のグリルソーセージバーガーで若年層を狙ったが、既存店売上高のマイナスは続いた
    • [41]櫻田厚社長は最大の問題点を店ごとの格差の大きさだとした
    • [42]櫻田厚社長は立地・店舗面積・市場特性に合わせて店のタイプを分ける結論を出した
  • モスフードサービス 平成12年3月期 中間決算短信(1999年11月9日)
    • [40]新業態店舗MOS's-C(モスズシー)と紅茶専門店マザーリーフを直営店として出店した
  • モスフードサービス 平成15年3月期 決算短信(連結)(2003年5月12日)
    • [43]平成15年度スタートの中期経営計画で既存のモスバーガー事業の再生・進化を重点施策の第一に掲げた
    • [44]既存店の低迷を新規出店で補う手法を改め、既存店1店1店の質を高めるとした

2003年の計画は、売上高経常利益率を2005年度に5%、2010年度に10%とする目標を置いた。その中心になったのが、従来の店を「赤モス」、ファストカジュアル業態へ改めた店を「緑モス」と呼び分ける転換だった。2005年3月末の緑モスは計画を上回る354店に達した。2004年12月には香川県の屋島西町店で創業以来初めての食中毒事故を起こした。2005年3月期は単体の経常利益が2,944百万円と17.7%伸びた。一方で減損会計を早期に適用し、本社ビルなどに11,220百万円の減損損失を計上したため、7,446百万円の当期純損失となった。2005年4月には、緑モスへの転換を主柱とする3カ年の新・中期経営計画「V.I.P.21」が始まった。含み損を一度に落とし、業態転換へ資源を振り向ける区切りをつけたとみられる。

  • モスフードサービス 平成15年3月期 決算短信(連結)(2003年5月12日)
    • [45]売上高経常利益率を2005年度に5%、2010年度に10%とする目標を掲げた
  • モスフードサービス 第33期 事業報告書(2004年4月1日〜2005年3月31日)
    • [46]従来のモスバーガー店舗「赤モス」をファストカジュアル業態「緑モス」へ進化させることを中心に据えた
    • [47]2005年3月末の緑モスは計画以上の354店舗となった
    • [48]2004年12月、屋島西町店(香川県高松市)でノロウイルスによる食中毒事故を創業以来初めて発生させた
    • [49]当期の単体経常利益は2,944百万円(前期比17.7%増)だった
    • [50]減損会計の早期適用で本社ビルなど11,220百万円の減損損失を計上し、当期純損失は7,446百万円だった
    • [51]2005年4月、緑モスへの業態進化を中心とする新・中期経営計画「V.I.P.21」(3カ年)をスタートさせた
参考文献[32]-[51]
  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
    • [32]1997年5月に櫻田慧会長が急逝した
    • [33]創業家が推した社長が在任50日で交代し、加盟店オーナーの士気が低下した
    • [34]1998年に櫻田慧の甥の櫻田厚が社長に就任した
    • [38]1999年の1年間に14種類の新商品を発売した
    • [39]190円のグリルソーセージバーガーで若年層を狙ったが、既存店売上高のマイナスは続いた
    • [41]櫻田厚社長は最大の問題点を店ごとの格差の大きさだとした
    • [42]櫻田厚社長は立地・店舗面積・市場特性に合わせて店のタイプを分ける結論を出した
  • モスフードサービス 平成11年3月期 決算短信(1999年)
    • [35]平成11年3月期の売上高は610億23百万円(前期比3.9%減)、経常利益は45億93百万円(同5.5%減)だった
    • [36]減収減益の主因は、個人消費の低迷で外食市場が縮小するなか既存店売上が伸び悩んだことだとした
    • [37]当期中の出店は94店で、当期末の国内店舗数は1,525店となった
  • モスフードサービス 平成12年3月期 中間決算短信(1999年11月9日)
    • [40]新業態店舗MOS's-C(モスズシー)と紅茶専門店マザーリーフを直営店として出店した
  • モスフードサービス 平成15年3月期 決算短信(連結)(2003年5月12日)
    • [43]平成15年度スタートの中期経営計画で既存のモスバーガー事業の再生・進化を重点施策の第一に掲げた
    • [44]既存店の低迷を新規出店で補う手法を改め、既存店1店1店の質を高めるとした
    • [45]売上高経常利益率を2005年度に5%、2010年度に10%とする目標を掲げた
  • モスフードサービス 第33期 事業報告書(2004年4月1日〜2005年3月31日)
    • [46]従来のモスバーガー店舗「赤モス」をファストカジュアル業態「緑モス」へ進化させることを中心に据えた
    • [47]2005年3月末の緑モスは計画以上の354店舗となった
    • [48]2004年12月、屋島西町店(香川県高松市)でノロウイルスによる食中毒事故を創業以来初めて発生させた
    • [49]当期の単体経常利益は2,944百万円(前期比17.7%増)だった
    • [50]減損会計の早期適用で本社ビルなど11,220百万円の減損損失を計上し、当期純損失は7,446百万円だった
    • [51]2005年4月、緑モスへの業態進化を中心とする新・中期経営計画「V.I.P.21」(3カ年)をスタートさせた

1991年〜2005年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1996年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1997年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1998年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1999年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2000年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2001年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2002年03月期 連結 721 n/a 20 2.8% 7 n/a
2003年03月期 連結 657 ▲8.9% 26 4.0% 11 n/a
2004年03月期 連結 587 ▲10.7% 25 4.3% 11 n/a
2005年03月期 連結 593 +1.0% 26 4.4% ▲73 n/a

出典・参考

11件
出典・参考
  • モスフードサービス 平成11年3月期 決算短信(1999年)
  • モスフードサービス 平成12年3月期 中間決算短信(1999年11月9日)
  • モスフードサービス 平成15年3月期 決算短信(連結)(2003年5月12日)
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号増刊号
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
  • ショッピングセンター 1995年3月号 櫻田慧「流通展望――躍進するモスフードサービスの経営戦略」
  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
  • 日経ベンチャー編「創業者精神」(1993年)桜田慧「ハンバーガーの“日本化”に挑む」
  • モスフードサービス 第33期 事業報告書(2004年4月1日〜2005年3月31日)

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