第1章 年〜年

ニプロ:日本硝子商事の設立と硝子加工の機械化

1947年〜大手の半値でも売れない町工場の電球と、日本電気硝子の西日本総代理店

1947年3月、東海科学専門学校電気科を卒業した佐野實氏は、滋賀県の天然ガス会社に身を寄せて電球の製造を始めた。その会社は琵琶湖畔で採れるメタンガスの使い道に困っており、ガスを熱源に電球を作る案を温めていた。戦後間もない当時の電球は品薄で、粗末な白熱球にも買い手がついた。電球1個の値打ちが米1升に並ぶとまでいわれた時代である。事業の形は、天然ガス会社が出資する個人企業。佐野實氏は学生時代に真空管を作った経験を試作に活かし、1949年に製品の出荷にこぎ着けた。ニッショーは創業の地を滋賀県山田村(現草津市)とし、天然ガスを使った電球の製造を会社の起点に置いている。佐野實氏は後年、電球の製造を通じて硝子の加工技術を身につけたと振り返った。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [1]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [2]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [3]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [4]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [5]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [6]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [7]創業は1947年滋賀県草津市(当時山田村)で天然ガスを使った電球製造。電球製造でガラス加工技術を身につけた
    • [8]創業は1947年滋賀県草津市(当時山田村)で天然ガスを使った電球製造。電球製造でガラス加工技術を身につけた

1950年8月、佐野實氏は24歳でびわこ電球製作所を設立し、電球の製造を自らの事業として再開した。発端は親会社の天然ガス会社の混乱で、財閥解体に伴う株式の払い下げをめぐって経営陣の争いが起きた。約30人の社員の生計を支えてきた佐野實氏は新経営陣に雇われる立場を受け入れず、設備と資材を引き取って独立した。ところが世情が落ち着くと中小の電球工場の倒産が相次ぎ、大手の製品が市場を占めた。1951年頃、大手が1個60円で販売した電球に対し、同等の自社品は30円でも買い手が少なかった。佐野實氏は、ブランド力を持たない製造業者の弱さを痛感した。手元に残った資産は電球の製造で得た硝子加工の技術で、次の事業はこの技術を起点に組み立てられた。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [9]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [10]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [11]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [12]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [13]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [14]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [15]電球製造の技術を応用してガラス加工を行うこととした

1954年7月、佐野實氏は京都市に日本硝子商事を設立し、薬品のアンプル用硝子管の販売を始めた。動機は電球だけではいずれ行き詰まるという危機感で、材料の仕入れで付き合いのあった日本電気硝子の係長、長崎準一氏が設立を後押しした。日本硝子商事は日本電気硝子と西日本地区の総販売代理店契約を結び、アンプル用や管瓶用の硝子管を扱った。当時の関西には手作業のアンプル加工業者が300軒あまりあり、1軒あたりの材料の使用量は少なかった。佐野實氏はアンプル加工の自動機械を開発し、技術指導と合わせて硝子管を販売した。1年少々で、加工業者のほとんどが安定した取引先に変わった。自ら加工を内製化せずに加工業者を取引先とする判断が、技術を売る商社の型の始まりとなった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [16]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [17]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [19]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [20]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [21]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
  • 証券 1997年
    • [18]昭和29年設立、日本電気硝子との西日本地区各種硝子管の総販売代理店契約に基づく販売が中心
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [22]1954年にアンプル管製造を機械化し、商品より技術を売ることを経営の根幹とした
参考文献[1]-[22]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [1]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [2]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [3]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [4]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [5]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [6]1947年3月東海科学専門学校電気科卒の佐野實氏が滋賀県の天然ガス会社で電球づくりを始め、1949年に出荷に至った(同社はメタンガスの用途を探していた)
    • [9]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [10]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [11]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [12]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [13]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [14]1950年夏(8月)にびわこ電球製作所を設立。親会社の混乱、1951年頃大手60円の電球に対し30円でも売れずブランド力のない弱さを痛感
    • [16]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [17]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [19]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [20]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
    • [21]1954年7月京都市に日本硝子商事を設立しアンプル用ガラス管販売を開始。日本電気硝子の長崎準一係長の後押しで西日本総代理店。関西300軒余の加工業者に自動機械と技術指導をセットで販売
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [7]創業は1947年滋賀県草津市(当時山田村)で天然ガスを使った電球製造。電球製造でガラス加工技術を身につけた
    • [8]創業は1947年滋賀県草津市(当時山田村)で天然ガスを使った電球製造。電球製造でガラス加工技術を身につけた
    • [15]電球製造の技術を応用してガラス加工を行うこととした
    • [22]1954年にアンプル管製造を機械化し、商品より技術を売ることを経営の根幹とした
  • 証券 1997年
    • [18]昭和29年設立、日本電気硝子との西日本地区各種硝子管の総販売代理店契約に基づく販売が中心

1960年〜大津工場で始めた管瓶・電球用バルブと、魔法瓶中瓶加工の自動機

1960年、日本硝子商事は滋賀県大津市に大津工場を新設し、管瓶と小型電球用バルブの生産を始めた。大津は、佐野實氏が電球づくりを始めた土地でもある。管瓶は硝子管を加工して作る瓶で、総代理店として扱う硝子管に自社で加工の付加価値を足した製品にあたる。小型電球用バルブは、佐野實氏が電球の製造で培った硝子加工の技術を活かせる品目である。本社は前年の1959年に京都から大阪へ移っており、販売の拠点と製造の拠点を分ける体制になった。佐野實氏の後年の説明によれば、電球の製造技術を応用して硝子加工を進め、試験管や管瓶の製造の自動化にも取り組んだ。加工品の販売では日本電気硝子の総代理店という立場も活き、日本硝子商事は販売量を拡大した。顧客の需要を販売で掴み、その需要を自社の加工で満たす循環が、大津工場から動き始めたと推察される。

  • 証券 1997年
    • [23]昭和35年に滋賀県大津市に大津工場を新設し、管瓶・小型電球用バルブ等の生産を開始。自動化と日本電気硝子総代理店の位置付けを生かし販売量を拡大
    • [29]昭和35年に滋賀県大津市に大津工場を新設し、管瓶・小型電球用バルブ等の生産を開始。自動化と日本電気硝子総代理店の位置付けを生かし販売量を拡大
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [24]日本硝子商事は1959年に大阪へ移転。佐野實氏は滋賀県大津市で電球づくりを始めた
    • [27]日本硝子商事は1959年に大阪へ移転。佐野實氏は滋賀県大津市で電球づくりを始めた
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [25]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた
    • [26]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた
    • [28]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた

1963年、日本硝子商事は魔法瓶用中瓶の加工を自動化する機械を開発し、魔法瓶向けの硝子を販売し始めた。硝子の加工は手で行う工程が大半を占めた時代で、自動機に替えたことで安く大量に作れるようになった。佐野實氏は、業界に必要な生産機械を自ら開発し、その材料を顧客に買ってもらう考え方を経営の根幹に据えた。ニッショーの最新の中瓶製造機は1987年時点で大阪地区に2台しかなく、その2台で全需要を賄った。機械1台の配置人員は、原則として原料を入れる人と製品を取り出す人の2人。世界の主要企業から機械の引き合いを受けたものの、佐野實氏は大阪の地場産業を守るために輸出を拒んだ。1997年時点の市場占有率は、アンプル管・錠剤管の国内市場で約65%、魔法瓶用硝子でほぼ100%に及んだ。

  • 証券 1997年
    • [30]昭和38年に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始。現在アンプル管・錠剤管約65%、魔法瓶用硝子ほぼ100%のシェア
    • [36]昭和38年に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始。現在アンプル管・錠剤管約65%、魔法瓶用硝子ほぼ100%のシェア
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [31]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [32]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [33]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [34]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [35]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
参考文献[23]-[36]
  • 証券 1997年
    • [23]昭和35年に滋賀県大津市に大津工場を新設し、管瓶・小型電球用バルブ等の生産を開始。自動化と日本電気硝子総代理店の位置付けを生かし販売量を拡大
    • [29]昭和35年に滋賀県大津市に大津工場を新設し、管瓶・小型電球用バルブ等の生産を開始。自動化と日本電気硝子総代理店の位置付けを生かし販売量を拡大
    • [30]昭和38年に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始。現在アンプル管・錠剤管約65%、魔法瓶用硝子ほぼ100%のシェア
    • [36]昭和38年に魔法瓶用中瓶加工の自動機械を開発し魔法瓶用硝子の販売を開始。現在アンプル管・錠剤管約65%、魔法瓶用硝子ほぼ100%のシェア
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [24]日本硝子商事は1959年に大阪へ移転。佐野實氏は滋賀県大津市で電球づくりを始めた
    • [27]日本硝子商事は1959年に大阪へ移転。佐野實氏は滋賀県大津市で電球づくりを始めた
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [25]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた
    • [26]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた
    • [28]電球製造技術を応用してガラス加工を行い、試験管・管ビン(ガラス管から造るビン)の製造自動化も進めた
    • [31]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [32]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [33]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [34]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否
    • [35]手加工から機械加工へ自動化し安価な大量生産を実現。昭和38年マホービン中瓶の自動化に着手、最新機は大阪地区に2台で全需要を賄い要員2人、輸出は地場産業保護のため拒否

1965年〜製薬会社へ販売した輸液セットと、富沢製作所の子会社化と日本プラスチックスペシャリティースの買収で得た医療の生産と販路

昭和40年代に入ると、日本硝子商事は製薬会社にアンプル管や錠剤管を販売していた関係を足がかりに、輸液セットの販売へ事業を多角化した。佐野實氏は医療への参入理由として、アンプル管の製造と販売で築いた製薬業界とのつながりを挙げた。参入にあたっては、得意先の製薬会社と競合する医薬品の製造を避け、医療用具を選んだ。基本の製品は使い捨ての注射針、注射筒、輸液セットで、そこから高度な医療用具へ品目を拡大する方針を定めた。硝子の加工生産で蓄えた技術力を医療の分野で活かすことも、参入の狙いの一つである。顧客を共有しながら競合を避ける線引きは、加工業者を取引先にした硝子管の販売と同じ発想だったのだろう。

  • 証券 1997年
    • [37]昭和40年代、製薬会社向けにアンプル管・錠剤管を販売していた関係から医療用器具(輸液セット)の販売へ拡大
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [38]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [39]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [40]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [41]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針

1969年8月、日本硝子商事は輸液セット用の注射針を製造していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社にし、医療用器具の生産を始めた。佐野實氏は1969年を医療事業部門への進出の年に位置づけている。その後の生産品目は人工腎臓透析器や注射筒へ広がり、使い捨ての医療用器具を各種そろえた。昭和50年代には、生産の拠点として秋田県大館市に大館工場を開設。佐野實氏は使い捨ての医療用具の役割として、院内感染の防止と看護婦の手間の代替の2つを挙げた。薬と異なり効き目で値段が決まらない品目で、量産の技術が採算を左右する。販売してきた輸液セットの部品の製造元を傘下に置き、商社が自ら作る力を得たと考えられる。

  • 証券 1997年
    • [42]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
    • [44]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
    • [45]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [43]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ
    • [46]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ
    • [47]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ

1972年、日本硝子商事は西日本で医療用器具の販売基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収した。製造の富沢製作所に続いて販売の会社を傘下に収め、医療用器具の生産と販売がグループ内でつながった。この買収は、後に全国へ広がる医療用器具の販売網の礎になった。医療用器具は「ニプロ」の銘柄で販売され、硝子管の総代理店にはなかった自社ブランドを持つ事業である。佐野實氏は、注射針や注射筒などの基本製品を足場に高度な医療用具へ進む方針を掲げていた。1977年、日本硝子商事は商号をニッショーに改め、硝子製品・医療用器具・ストアの3事業を持つ会社として次の段階へ進んだ。

  • 証券 1997年
    • [48]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [49]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [50]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [51]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [52]注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [53]日本硝子商事は1977年にニッショーに商号変更。ガラス製品・医療用器具・スーパーの3本柱
参考文献[37]-[53]
  • 証券 1997年
    • [37]昭和40年代、製薬会社向けにアンプル管・錠剤管を販売していた関係から医療用器具(輸液セット)の販売へ拡大
    • [42]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
    • [44]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
    • [45]昭和44年に輸液セットの注射針を生産していた富沢製作所(現ニプロ医工)を子会社化し医療用器具の生産を開始。人工腎臓透析器・注射筒等ディスポーザブル医療用器具へ品目拡大。昭和50年代に秋田県大館市に大館工場を設置
    • [48]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [49]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [50]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
    • [51]昭和47年に西日本中心に医療用器具販売の営業基盤を持つ日本プラスチックスペシャリティース(現ニプロ)を買収し全国販売網の礎。医療用器具は「ニプロ」ブランドで販売
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
    • [38]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [39]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [40]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [41]製薬業界とのつながりから医療事業へ。得意先と競合する製薬でなく医療用具を選び、注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
    • [43]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ
    • [46]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ
    • [47]昭和44年医療事業部門に進出。使い捨て医療用具は効く効かないの問題でなく、院内感染防止と看護の手間代替の性格を持つ
    • [52]注射針・注射筒・輸液セットを底辺に高度医療用具へ進む方針
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
    • [53]日本硝子商事は1977年にニッショーに商号変更。ガラス製品・医療用器具・スーパーの3本柱

出典・参考

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出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 25(3) 1987年
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「中小工場の限界悟…」佐野實
  • 証券 1997年

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