日本光電工業:日本光電工業の設立とトランジスタによる小型ME機器への転換
1951年〜発起人7名で発足した日本光電工業と、福祉法で伸びた補聴器
日本光電工業は1951年8月7日、医学と工学を結び付ける目的を掲げ、12名の陣容で発足した。発起人は荻野義夫氏や松崎陽氏ら7名で、荻野義夫氏の持ち株は発行株式1,600株中の590株。荻野義夫氏は陸軍の研究所時代と慶大医学部在学中に電池式の脳波計を試作した経験を持ち、医療向けの電子機器を創業の理想に据えた。社長には陸軍軍医少将を務めた医学博士の松崎陽氏を招き、専務の荻野義夫氏が社長の実務を代行する取り決めとした。本社は東京都文京区駒込坂下町に置き、資本金80万円で事業を始めた。社長の名義と経営の実務を分けた体制は、技術者の起業に医療界の信用を添える工夫だったとみられる。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [1]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [2]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [3]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [4]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」
- [5]1951年8月、文京区駒込坂下町で資本金80万円にて発足
創業時の収入源はトリオ補聴器の製造販売だけで、この事業はトリオ電気研究所から継いだものである。1949年制定の身体障害者福祉法の下では、各県の試聴で効果を認定された障害者が国庫補助で補聴器を購入でき、需要の拡大が見込めた。荻野義夫氏は補聴器の製造販売に経営の重点を置き、その収入で医用電子機器を開発する順序を選んだ。ただし補聴器メーカーは4社あり、契約できた県は当初3県に限られ、10人の試聴で3台売れれば良いほうだった。1952年8月にトリオ補聴器MH-4が厚生大臣賞を全国身体障害者補装具展において受けると、販路は東京や大阪、福岡へ広がった。医用機器の市場がまだ小さい段階では、制度に支えられた補聴器が開発資金の源泉になったと推察される。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [6]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [7]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [8]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [10]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [12]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」
- [9]最初は補聴器の生産から始めたが目的は医療用電子機器だった
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [11]1952年8月15日、トリオ補聴器MH-4が全国身体障害者補装具展で厚生大臣賞
参考文献[1]-[12]
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [1]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [2]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [3]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [4]1951年8月7日発足、従業員12名、発起人7名、発行株式1,600株のうち590株を荻野義夫、社長松崎陽・専務荻野義夫(実務代行)、荻野は7研時代と慶大在学中に電池式脳波計を製作
- [6]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [7]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [8]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [10]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- [12]創業当初の唯一の収入源はトリオ補聴器の製造販売、身体障害者福祉法(1949年)で国庫補助、補聴器メーカー4社、契約は長野・茨城・青森の3県、補装具展の受賞後に販路拡大
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」
- [5]1951年8月、文京区駒込坂下町で資本金80万円にて発足
- [9]最初は補聴器の生産から始めたが目的は医療用電子機器だった
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [11]1952年8月15日、トリオ補聴器MH-4が全国身体障害者補装具展で厚生大臣賞
1951年〜世界初の全交流直記式脳波装置ME-1Dと、第5期の初黒字390万円
補聴器で収入を得ながら、荻野義夫氏が最初の医用電子機器に選んだのは脳波装置である。当時の脳波装置は大半が輸入品で、交流雑音を避けるため電池を電源とし、記録の途中で電池が切れて大切な波形を取り逃がすことがあった。荻野義夫氏は電源をすべて商用交流とし、雑音を抑え、記録を読みやすくする方針を立てて開発を進めた。創立4カ月後の1951年12月末、全交流直記式の脳波装置を世界で初めて完成させた。ペン書き式の記録装置を備えた8チャネルの1号機ME-1Dは、12月26日に国立下総療養所へ納入した。電池の保守という使い手の不便を開発の起点に置いたことが、最初の製品で世界初を実現できた理由と考えられる。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [13]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [14]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [15]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [16]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [17]1951年12月26日ME-1Dを国立下総療養所に納入
品目を増やした日本光電工業は、第5期の1956年7月期に390万円の純利益を出し、売上高は1億1,214万円。創業年の売上高1,221万円から5年で約10倍となり、工場取得や設備増強の先行投資で1954年まで出なかった利益が初めて残った。この期の売上首位は2,478万円の携帯型心電計で、2位は1,984万円の電気眼底血圧計、3位は1,717万円の脳波計である。上位3品目はいずれも医用電子機器で、創業の目的とした事業が収益源に育った。前期の120万円に続く95万円の増資を実施し、配当率6%の初配当を出した。黒字化は、補聴器で開発費を賄いながら品目を積み上げた5年間の帰結と思われる。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [18]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [20]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [21]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [22]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [19]第5期(1956年7月期)売上高1億1,214万円・純利益390万円、95万円増資、初の6%配当
- [23]第5期(1956年7月期)売上高1億1,214万円・純利益390万円、95万円増資、初の6%配当
1956年6月30日の役員改選で、代表取締役専務の荻野義夫氏が社長(代表取締役)に就任し、松崎陽氏は取締役会長に移った。創業以来、社長の実務は荻野義夫氏が代行する取り決め。新体制の取締役には営業部長の桜井牧夫氏、技術部長の舘野慶次氏、設計部長の高島史路氏と、創業の発起人が並んだ。同年2月には製造部を解消して技術部や研究室を含む6部門に改組し、9月の創立5周年時点の従業員は83名だった。荻野義夫氏は同年9月に「私はこう考える」と題する文書を全社員に示し、資本を持たない会社として『人の1.1倍の努力をしよう』と呼びかけた。社長就任は、医療界の信用を借りる段階から技術者自身が経営を率いる段階への移行を示したのだろう。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [24]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [27]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [29]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [30]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [25]1956年6月30日、荻野義夫が代表取締役社長に就任(松崎陽は取締役会長へ)
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [26]創業時は荻野が社長の実務を代行する取り決め、発起人に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路
- [28]創業時は荻野が社長の実務を代行する取り決め、発起人に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路
参考文献[13]-[30]
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- [13]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [14]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [15]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [16]当時の脳波装置は輸入品中心で電池電源、記録途切れ・保守難。商用交流化など4方針で開発し1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置ME-1D(8ch)を完成
- [18]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [20]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [21]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [22]1951年売上1,221万円→1956年1億1,214万円、1954年まで無利益、1956年純利益390万円、売上上位は携帯型心電計2,478万円・電気眼底血圧計1,984万円・脳波計1,717万円
- [26]創業時は荻野が社長の実務を代行する取り決め、発起人に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路
- [28]創業時は荻野が社長の実務を代行する取り決め、発起人に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [17]1951年12月26日ME-1Dを国立下総療養所に納入
- [25]1956年6月30日、荻野義夫が代表取締役社長に就任(松崎陽は取締役会長へ)
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [19]第5期(1956年7月期)売上高1億1,214万円・純利益390万円、95万円増資、初の6%配当
- [23]第5期(1956年7月期)売上高1億1,214万円・純利益390万円、95万円増資、初の6%配当
- [24]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [27]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [29]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
- [30]1956年6月役員改選で荻野義夫が社長、松崎陽が会長。取締役に桜井牧夫・舘野慶次・高島史路ら。同年2月6部門体制、従業員83名、9月「私はこう考える」発表
1956年〜ソニーブランドの補聴器TE-3と、トランジスタ化の先の東証2部上場
東京通信工業(現ソニー)はトランジスタの用途を広げるため補聴器を製造販売し、日本光電工業のトリオ補聴器と同じ市場に立った。社長の荻野義夫氏はソニー社長の井深大氏に、難聴は医学の問題で機械と人間の接点は自社が得意だとして、開発・生産と販売の分担を提案した。1958年5月に提携が成立し、トリオのMH-55型に改良を加えたソニーブランド第1号TE-3型の生産を始めた。補聴器の生産台数は1958年7月期の1,413台から1959年7月期の4,867台へ3.4倍となり、補聴器の売上高も2.3倍に増えた。トリオブランドは1960年に販売を別会社へ任せ、1965年に製造権と商標権を相模電機へ譲渡した。狭い市場での正面の競争を避け、販売網を持つ相手と役割を分けた判断が、補聴器の収益を安定させた一因であろう。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [31]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [32]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [33]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [35]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [36]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [34]1958年5月ソニーと補聴器の製造販売で提携、TE-3の生産開始
東京通信工業が1955年に携帯型トランジスタラジオを世に出して以降、真空管からトランジスタへの置き換えと量産が進んだ。日本光電工業はまず、ラジオと同じ低周波増幅で動く補聴器のMH-500にトランジスタを初めて使った。1958年には、感度の高い前置増幅器を除いて、医用機器の真空管の大部分をトランジスタに替えた。1960年1月発売の1ch心電計MC-1TRはトランジスタを使って重量7.7kgへ小型化したものの、性能はまだ不安定だった。1957年6月施行の電子工業振興臨時措置法がME機器を重点開発の対象に指定し、医用電子工学の研究開発が本格化した。補聴器で先に新しい素子の扱いを習得したことが、主力の医用機器のトランジスタ化を早めたとも推察できる。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [37]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [38]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [39]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [40]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [42]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [41]1957年6月11日、電子工業振興臨時措置法によりME機器が重要開発項目に指定
売上高の伸びに応じて利益は出るようになったものの利益率は低く、人員増に伴う費用が運転資金を逼迫させた。必要な資金の大半を借入金でまかなう状態に成長の限界をみた荻野義夫氏は、1960年末に株式上場を構想した。1961年3月、1959年から取引のあった主力取引銀行の埼玉銀行から浜野清吉氏を取締役経理部長に迎え、上場準備委員長に据えた。副委員長には株式公開を主張してきた企画室長の久満光樹氏を置き、同年9月に資本金を5,500万円へ引き上げた。1961年11月2日、銘柄名「光電工」で東京証券取引所の第2部に上場し、医用電子機器を専業とするメーカーで初めての上場例となった。売出価格1,500円の株価は1962年4月に7,350円の高値をつけ、上場後の資金調達は円滑に進んだ。
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [43]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [44]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [45]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [47]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [49]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [51]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [46]1959年から埼玉銀行と取引開始、1961年11月2日東証2部上場(銘柄名「光電工」)
- [50]1959年から埼玉銀行と取引開始、1961年11月2日東証2部上場(銘柄名「光電工」)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」
- [48]1961年9月資本金5,500万円に増資、11月東証第2部上場
参考文献[31]-[51]
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- [31]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [32]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [33]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [35]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [36]荻野が井深氏に開発・生産は光電、販売はソニーの分担を提案、1958年提携しTE-3(MH-55改良)、生産台数1,413台→4,867台(3.4倍)、売上2.3倍、トリオは1965年相模電機へ譲渡
- [37]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [38]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [39]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [40]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [42]1955年トランジスタラジオ完成後に量産化、補聴器MH-500に先行採用、1958年に真空管を大部分トランジスタ化、1960年1月MC-1TR(7.7kg)発売、性能は不安定
- [43]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [44]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [45]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [47]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [49]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- [51]利益率低く運転資金圧迫・借入金依存、1960年末に上場構想、1961年3月埼玉銀行から浜野清吉を取締役経理部長・上場準備委員長、副委員長久満光樹、11月2日東証2部上場(ME専門初)、売出1,500円、1962年4月高値7,350円
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- [34]1958年5月ソニーと補聴器の製造販売で提携、TE-3の生産開始
- [41]1957年6月11日、電子工業振興臨時措置法によりME機器が重要開発項目に指定
- [46]1959年から埼玉銀行と取引開始、1961年11月2日東証2部上場(銘柄名「光電工」)
- [50]1959年から埼玉銀行と取引開始、1961年11月2日東証2部上場(銘柄名「光電工」)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」
- [48]1961年9月資本金5,500万円に増資、11月東証第2部上場
出典・参考
4件
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)1章 日本光電工業の誕生
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)資料・年表
- 電子技術で病魔に挑戦 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)2章 発展への軌道にのる
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本光電工業」