第1章 年〜年

ダイフク:坂口機械製作所の創業と兼松資本による搬送機械への転換

1937年〜資本金30万円の坂口機械製作所と、兼松商店の出資で得た兼松機工の名

社長の坂口嘉兵衛氏が率いる坂口機械製作所は、1937年5月20日に大阪市西淀川区大和田町で資本金30万円をもって設立された。敷地は約1000坪、従業員はおよそ150名。主な製品はエアハンマー・シャーリングマシン・圧延機・水圧プレスで、いずれも製鉄所向けの鍛圧機械にあたる。設立から2カ月後の7月に日華事変が起き、翌8月の製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカーを優先して助成する方針が定まった。軍需の拡大は大阪の製鋼所にも及び、設立したばかりの坂口機械に設備の拡張を迫った。鉄を打ち延ばす鍛圧の技術は、20年後に鍛造チェンを国産化する判断の下地になったとみられる。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [1]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [2]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [4]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [5]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [3]設立時の製品はエアーハンマー・シャリングマシン・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレスなど製鉄補助の鍛圧機械

坂口機械は1938年6月に資本金を60万円へ倍増し、1939年5月には130万円へ再び増資した。増資で得た資金で大和田工場の周辺に用地を取得し、新工場を建設した御幣島は、現在の本社所在地にあたる。新工場は木造工場3棟と鍛造工場1棟から成り、従業員は400名まで増えた。1943年には陸軍省と海軍省から監督工場の指定を受け、戦時標準船に載せるレシプロエンジンを生産した。同じ時期には、初めての運搬機械となる機関車(ロコモチーブ)も製作。1943年6月には4年ぶりの増資で資本金を200万円とした。御幣島の新工場を回す資金は、創業者の出資だけでは賄えない規模に膨らんでいたのだろう。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [6]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [7]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [8]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [11]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [9]1943年陸海軍両省の監督工場に指定、戦時標準船のレシプロエンジンを生産。最初の運搬機械としてロコモチーブを製作
    • [10]1943年陸海軍両省の監督工場に指定、戦時標準船のレシプロエンジンを生産。最初の運搬機械としてロコモチーブを製作

兼松商店は1941年5月に坂口機械へ出資し、経営に参加した。御幣島工場の運営に後援者を求めた専務の矢部繁氏が、岩井商店に続いて兼松商店にも協力を働きかけた結果である。岩井商店は1939年以降、日本橋梁を通じて坂口機械に関わっており、両社は別々に後援する不合理を協議した末に兼松商店の単独支援を決めた。1941年末、兼松商店は岩井商店が保有する坂口機械の株式を全て引き受けた。原材料不足で取引品目が減少した繊維商社の兼松商店は、機械取引への参入先として坂口機械を選んだ。1944年3月、坂口機械製作所は社名を兼松機工に改めた。改称に合わせて兼松から小津定次郎氏と林荘太郎氏が取締役に、益田乾次郎氏が監査役に入り、矢部繁氏は退任した。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [12]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [13]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [14]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [15]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [16]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [18]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [17]1941年5月兼松商店が経営に参加、1944年3月兼松機工に社名変更
参考文献[1]-[18]
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [1]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [2]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [4]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [5]1937年5月20日 坂口機械製作所設立(資本金30万円・大阪市西淀川区大和田町・敷地約1000坪・従業員約150名・社長坂口嘉兵衛)。同年7月日華事変、8月製鉄事業法で鉄鋼一貫メーカー優先助成、軍需景気が大阪の製鋼所に波及
    • [6]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [7]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [8]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [11]1938年6月資本金60万円、1939年5月130万円に増資。御幣島に新工場(木造3棟・鍛造1棟)、従業員400名。1943年6月資本金200万円
    • [12]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [13]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [14]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [15]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [16]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
    • [18]1941年5月兼松商店が出資し経営参加。専務矢部繁が岩井商店・兼松商店に後援を依頼。1941年末に岩井商店保有株を兼松商店が全部引き受け。繊維商社の兼松は重工業部門への進出を狙い坂口機械を有望視。1944年の役員に兼松から取締役小津定次郎・林荘太郎、監査役益田乾次郎。矢部専務は退任
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [3]設立時の製品はエアーハンマー・シャリングマシン・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレスなど製鉄補助の鍛圧機械
    • [9]1943年陸海軍両省の監督工場に指定、戦時標準船のレシプロエンジンを生産。最初の運搬機械としてロコモチーブを製作
    • [10]1943年陸海軍両省の監督工場に指定、戦時標準船のレシプロエンジンを生産。最初の運搬機械としてロコモチーブを製作
    • [17]1941年5月兼松商店が経営に参加、1944年3月兼松機工に社名変更

1945年〜6000万~7000万円の累積赤字と、ビューラー社との提携で選んだ運搬機械

兼松機工は1947年8月、社名を大福機工に改めた。兼松が株式を持つ関係上、兼松機工の社名のままでは独占禁止法に抵触するおそれがあった。新社名の候補には東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工が挙がったものの、どれも似た名の会社があって紛らわしかった。選考が難航するなか、専務の妹尾一日氏が大阪の「大」と福知山工場の「福」を合わせた大福機工を提案した。この名は、取引の深い中国でも縁起のよい語として通じる。終戦後の混乱で生産再開の見通しは立たず、社名を改めた後も事業の方向は定まらなかった。工場には建造途中で止まった戦時標準船のエンジンが残り、取引先に預り証を出したエアハンマーも現物が欠けていた。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [19]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [20]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [21]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [22]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [23]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [25]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [24]終戦後は生産開始のめどが立たず暗中模索、1947年に大福機工へ改称

大福機工は1947年にスタッカー、1948年にパイラーの製造に着手し、荷役運搬機械の総合メーカーを掲げた。それでも1950年に始まった朝鮮戦争の特需を取り込めず、6000万~7000万円の累積赤字を抱えた。資本金は1948年12月に650万円、1951年10月に1000万円へ増資。親会社の兼松も苦境にあり、大福機工を存続させるかどうかで意見が対立した。存続が決まると、大福機工は兼松が拠出した資金で従業員の4割を整理し、御幣島の空き地4000坪を1200万円で売り払った。大和田工場と泉尾工場を処分し、1953年10月には福知山工場を全額出資の子会社として分離した。1953年5月に社長に就任した益田乾次郎氏は後年、兼松から資金を断たれた当時を『親会社から今後はビタ一文出さないと宣言されたときは悲壮でした』と振り返った。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [26]1947年第1号機スタッカー製造に着手、1948年パイラー。荷役運搬機械の総合メーカーを目指す
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [27]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [28]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [29]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [30]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [31]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [32]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出

大福機工は1952年、スイスのビューラー社と技術提携し、バルクベヤと呼ぶチェンコンベヤを手がけた。交渉では兼松専務の益田乾次郎氏が先方の代表と東京から大阪まで同行し、兼松の信用を説いて同意を得た。ビューラー社は国産化の相手として三菱のような大企業を避け、自社の裁量を保てる中規模のメーカーを探していた。兼松社内の一部に反対はあったものの、益田乾次郎氏は大福機工の進路を運搬機械に定めて譲らなかった。1952年11月、人員整理を終えた直後に社長の妹尾一日氏がスイスへ渡り、提携の署名を得た。頭金の代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤを購入する条件が付き、通産省と相談して円払いの契約で合意した。第1号機の納入先は四日市倉庫で、受注額は1200万円である。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [33]1952年スイス・ビューラー社との技術提携によるバルクベヤ(チェンコンベヤ)を手がける
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [34]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [35]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [36]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [37]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [38]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [39]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
参考文献[19]-[39]
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [19]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [20]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [21]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [22]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [23]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [25]1947年8月兼松機工を大福機工に改称。兼松の持株関係で独占禁止法に触れるおそれ。候補(東洋機工・日本機工・近畿機工・大阪機工)はいずれも紛らわしく、専務妹尾一日が大阪の大と福知山の福から提案。改称後も工場に戦標船エンジンの仕掛品、預り証に対応するエアハンマーの現物なし
    • [27]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [28]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [29]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [30]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [31]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [32]朝鮮動乱景気が素通りし6000万~7000万円の累積赤字。兼松内で存続の是非が対立。4割の人員整理、御幣島の更地4000坪を1200万円で処分、大和田・泉尾工場処分、1953年10月福知山大福機工(資本金1000万円・全額出資)分離。1953年5月益田が社長。資本金1948年12月650万円・1951年10月1000万円。整理資金は兼松が拠出
    • [34]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [35]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [36]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [37]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [38]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
    • [39]益田(兼松専務)がビューラー社代表を東京から大阪まで同行し説得。ビューラー社は三菱のような大企業を敬遠し手ごろな規模のメーカーを探索。兼松社内の反対にも益田は運搬機械の進路を譲らず。1952年11月妹尾社長がスイスへ、提携成立。第1号機四日市倉庫バルクベヤ1200万円。頭金代わりに2000万円のポータブル・ニューマチック・コンベヤ購入の条件、通産省と相談し円払いの契約
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [24]終戦後は生産開始のめどが立たず暗中模索、1947年に大福機工へ改称
    • [26]1947年第1号機スタッカー製造に着手、1948年パイラー。荷役運搬機械の総合メーカーを目指す
    • [33]1952年スイス・ビューラー社との技術提携によるバルクベヤ(チェンコンベヤ)を手がける

1954年〜トヨタ車体の小島吉郎氏が採ったウェブ・コンベヤと、ジャービス・ビー・ウェブ社との技術提携

ビューラー社との提携以来、大福機工が手がけてきたのは、ばら物を運ぶチェンコンベヤである。1954年7月初め、兼松機械部の田口重雄氏が米デトロイトのジャービス・ビー・ウェブ社を日本人として初めて訪ねた。田口重雄氏は前年に米国の専門誌で床下のチェンで台車を引くトウベヤを知り、日本通運が運営するトラック・ターミナルに需要があると見込んでいた。副社長のウィリアム・シー・モリソン氏と協議し、兼松が販売代理権を得て、チェンと駆動装置を輸入して架台と製缶を大福機工が担う方式で合意した。続いて訪れたフォード本社工場で、田口重雄氏はチェン・コンベヤが自動車を流れ作業で組み立てる光景を見た。帰国後の報告を受け、益田乾次郎氏はチェン・コンベヤの展開に賛成した。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [40]1952年ビューラー社との提携でバルクベヤ(チェンコンベヤ)を手がける
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [41]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [42]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [43]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [44]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [45]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成

田口重雄氏は自動車会社を回ってチェン・コンベヤを売り込んだものの、3年ほどは成果が上がらなかった。当時、月産1000台を超える自動車メーカーはトヨタと日産程度で、コンベヤで量産する規模の手前にあった。1956年春、トヨタ車体取締役の小島吉郎氏が、納期の遅れた鋼板矯正機レベラーの督促に大福機工の本社を訪れた。小島吉郎氏は社長室の机にあったウェブ社のカタログに目をとめ、『これを探していたんだ』と声を上げた。小島吉郎氏がトヨタ自動車工業で役員会に諮り、トヨタ車体新工場へのウェブ・コンベヤ採用が決まった。ウェブ社が大福機工の評価をビューラー社に照会した際も、それまでの取引実績が新規契約の後押しになった。鋼板矯正機は、1937年の設立時から手がけてきた鍛圧機械の1つにあたる。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [46]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [47]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [48]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [49]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [50]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [51]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [52]設立時から鋼板矯正機など鍛圧機械の製造販売を開始

大福機工は1957年5月、トヨタ車体の新工場にトロリーコンベヤ1系列とフロワーコンベヤ2系列を納めた。ウェブ社との技術提携は同年1月に政府へ申請し、12月17日に正式な許可を得た。通産省の担当官は当初反対したものの、田口重雄氏がチェンの見本を示して自動車工業に不可欠と説き、事前の了解を得ていた。国内のローラーチェン大手が鍛造チェンは手がけないと答えるなか、益田乾次郎氏は鍛圧機械の経験と育てた技術者を根拠に国産化を決めた。1957年は、大福機工がウェブ式のチェンコンベヤの製造へ進んだ年にあたる。自動車工場の搬送設備という需要先の獲得が、次の上場と小牧工場の建設を支える足場になったと推察される。

  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [53]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [54]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [55]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [56]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [57]1957年米国ウェブ社と提携しウェブ式チェンコンベヤを製造
参考文献[40]-[57]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)
    • [40]1952年ビューラー社との提携でバルクベヤ(チェンコンベヤ)を手がける
    • [52]設立時から鋼板矯正機など鍛圧機械の製造販売を開始
    • [57]1957年米国ウェブ社と提携しウェブ式チェンコンベヤを製造
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
    • [41]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [42]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [43]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [44]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [45]1954年7月初め兼松の田口重雄がウェブ社を訪問(日本人初)。前年に専門誌でトウベヤに注目し日本通運向けに有望視。副社長モリソンと販売代理権を兼松へ、チェンと駆動装置を輸入しフレーム・製缶を大福が担う方式で合意。その後フォード本社工場でチェン・コンベヤの需要を見込み、益田が賛成
    • [46]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [47]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [48]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [49]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [50]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [51]チェン・コンベヤの売り込みは約3年成果なし。月産1000台以上はトヨタ・日産程度。1956年春トヨタ車体取締役小島吉郎がレベラーの納期督促で来社し、ウェブ社カタログに着目。トヨタ自動車工業の役員会で採用決定。ウェブ社がビューラー社に大福を照会、実績が契約に寄与
    • [53]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [54]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [55]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断
    • [56]1957年5月トヨタ車体新工場にトロリーコンベヤ1系列・フロワーコンベヤ2系列納入。1957年1月技術提携の許可申請、12月17日正式許可。通産省担当官の当初反対を田口が説得し事前了解。ローラーチェン大手は鍛造チェンを断り、益田が鍛圧経験・技術者育成を根拠に国産化を決断

出典・参考

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出典・参考
  • 『大福機工 : 運搬機械の前衛(ポケット社史)』(ダイヤモンド社, 1967年)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大福機工」(1968年)

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