住友重機械工業:住友機械製作所の設立と1954年の経営危機
1928年〜新居浜製作所のデマグ社提携と、資本金500万円で独立した住友機械製作
新居浜製作所は1929年から1930年にかけ、欧米の企業や技術者と3件の技術提携を結んだ。1929年4月にスイスのブラウンボベリー社と電気炉、1930年1月には米国のグリナワルト氏と焼結設備で契約した。同じ1930年の6月には、ドイツのデマグ社から水平引込起重機の技術を得ている。いずれも1928年に機械課が製作所へ名を改めた直後の動きだった。西村恒三郎氏は、この会社がやがて鉱山機械に加えてクレーンの有力な作り手になったと振り返る。電気炉や起重機は製鉄所や港でも使う機械で、銅山の外の買い手を見据えた選び方だったと推察される。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [1]昭和4年4月〜5年6月にブラウンボベリー・グリナワルト・デマグと相次いで技術提携
- [2]昭和4年4月ブラウンボベリー社(スイス)と電気炉、5年1月グリナワルト氏(米)と焼結設備で提携
- [3]昭和5年6月デマグ社(ドイツ)と水平引込起重機に関し提携
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [4]昭和3年に住友別子鉱山新居浜製作所と改称
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [5]別子鉱山の設備納入工場から、鉱山機械のほかクレーンの有力メーカーとなった
1934年11月、新居浜製作所は住友別子鉱山から切り離され、資本金500万円の住友機械製作株式会社となった。住友財閥の直系会社としての発足で、新会社は製作所の事業をそのまま引き継いだ。『会社銀行八十年史』は、相次ぐ技術導入で産業機械の作り手として立つ足場ができたことを独立の背景に置く。もっとも西村恒三郎氏は、発足当初は別子鉱山へ設備を納める工場の色合いが濃かったとみている。独立するとすぐに新工場の建設に取りかかり、1937年に仕上・製缶・電機・大型鋳造の各工場を完成させた。鉱山会社の一部門のままでは、社外向けの設備投資を自らの判断で進めにくかったのだろう。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [6]昭和9年11月、資本金500万円の住友機械製作㈱として独立
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [7]昭和9年11月、住友別子鉱山新居浜製作所を継承し住友財閥の直系会社として創立
- [8]外国技術の導入で産業機械メーカーとしての事業の基礎ができ、昭和9年に独立
- [10]独立後ただちに新工場建設に着手し、昭和12年に仕上・製缶・電機・大型鋳造工場を完成
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [9]当初は別子鉱山の機械設備納入工場としての色彩が強かった
住友機械製作は1938年5月、ドイツのサイクロ社と減速機の技術提携を結んだ。その半年前の1937年11月には、カナダのノース・アメリカン・サイアナミッド社と浮選機でも提携していた。このころの新製品として、製鋼用の起重機やサイクロ減速機、鍛圧機械が挙がる。製品の売り先は国内にとどまらず、朝鮮や満州、台湾、中国まで届いた。戦後の1952年2月には、西ドイツのサイクロ社とあらためて技術契約を結んだ。サイクロ減速機は1953年版の年鑑でも、耐酸ポンプと並んで主要品目に載っている。一件ずつ受注する大型機械とは別に、同じ型を繰り返し作れる製品を初めて手にしたことになる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [11]昭和13年5月、サイクロ社(ドイツ)と減速機に関し提携
- [12]昭和12年11月、ノース・アメリカン・サイアナミッド社(カナダ)とフェジャグレン浮選機に関し提携
- [13]当時の新製品は製鋼用起重機・サイクロ減速機・鍛圧機械等
- [14]製品の販路は朝鮮・満州・台湾・中国等に及んだ
- 株式会社年鑑 1953年版「住友機械工業」
- [15]昭和27年2月、西独サイクロ社と技術契約を締結(沿革)
- [16]主なる事業内容に耐酸ポンプ・サイクロ減速機を掲げる
参考文献[1]-[16]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [1]昭和4年4月〜5年6月にブラウンボベリー・グリナワルト・デマグと相次いで技術提携
- [2]昭和4年4月ブラウンボベリー社(スイス)と電気炉、5年1月グリナワルト氏(米)と焼結設備で提携
- [3]昭和5年6月デマグ社(ドイツ)と水平引込起重機に関し提携
- [7]昭和9年11月、住友別子鉱山新居浜製作所を継承し住友財閥の直系会社として創立
- [8]外国技術の導入で産業機械メーカーとしての事業の基礎ができ、昭和9年に独立
- [10]独立後ただちに新工場建設に着手し、昭和12年に仕上・製缶・電機・大型鋳造工場を完成
- [11]昭和13年5月、サイクロ社(ドイツ)と減速機に関し提携
- [12]昭和12年11月、ノース・アメリカン・サイアナミッド社(カナダ)とフェジャグレン浮選機に関し提携
- [13]当時の新製品は製鋼用起重機・サイクロ減速機・鍛圧機械等
- [14]製品の販路は朝鮮・満州・台湾・中国等に及んだ
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [4]昭和3年に住友別子鉱山新居浜製作所と改称
- [6]昭和9年11月、資本金500万円の住友機械製作㈱として独立
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [5]別子鉱山の設備納入工場から、鉱山機械のほかクレーンの有力メーカーとなった
- [9]当初は別子鉱山の機械設備納入工場としての色彩が強かった
- 株式会社年鑑 1953年版「住友機械工業」
- [15]昭和27年2月、西独サイクロ社と技術契約を締結(沿革)
- [16]主なる事業内容に耐酸ポンプ・サイクロ減速機を掲げる
1936年〜戦時増資の住友機械工業と、四国機械工業への改称
軍備拡張で産業機械の注文が膨らむなか、住友機械製作は1939年から1944年にかけて工場を相次いで増やした。資本金は1938年2月に1,000万円、1940年10月に2,000万円となり、1944年9月には4,000万円に達した。この間の1940年9月に、社名を住友機械工業へ改めている。1944年に軍需会社の指定が進むと、住友機械工業を含む住友の生産会社はそろって指定を受けた。ただし戦中の主力は鉱工業や輸送の設備で、兵器部品の製造はごく一部だったという。西村恒三郎氏は、戦時は作れば売れる状態で高い収益を上げ、工場も戦災を免れたと回想する。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [17]軍拡時代で需要旺盛、昭和14年新精機工場・17年新機械工場・19年鍛造工場と新鋳造工場を建設
- [21]太平洋戦争中は鉱工業設備・輸送関係設備の生産が主力で、兵器部品はごく一部
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [18]昭和13年2月資本金1,000万円、15年10月2,000万円、19年9月4,000万円
- [19]昭和15年9月、社名を住友機械工業に改称
- 私の住友昭和史(1988年)3章「本社の改組と戦時体制」
- [20]軍需会社法による指定で、住友の生産会社9社(住友機械工業を含む)の全部が指定を受けた
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [22]戦時中は軍需で急拡大し高収益、戦災にも遭わなかった
敗戦の年の1945年12月、住友機械工業は社名を四国機械工業に改めた。財閥解体によって、住友本社や旧子会社との資本その他の関係はすべて切れた。資金の手当てがつかず、特殊な大型鋳物をつくる工場はしばらく閉めざるを得なかった。1947年には石炭の増産のため鉱山機械の工場が商工省の指定を受け、資金と資材で優先された。当時の炭鉱用機械の生産では、日立製作所などと並んで住友機械工業も兼業の大手に数えられる。戦後は品目を増やす方針を掲げ、戦前に結んでいた海外との技術提携も復活させた。社名から「住友」を外したのは、財閥の名を掲げ続けにくい情勢を映したものとみられる。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [23]昭和20年12月、四国機械工業と改称
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [24]財閥解体により住友本社並びに子会社との資本的その他一切の関係を断たれた
- [25]運営難のため特殊大型鋳物工場を一時閉鎖
- [28]終戦後は製品の多角化を図り、戦前の技術提携を復活
- 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
- [26]昭和22年、石炭の緊急増産のため鉱山機械工場が商工省の指定工場となり、資金・資材で優先的に扱われた
- [27]昭和22年当時の炭鉱用機械の兼業大企業として日立製作所・住友機械工業などが挙がる
1949年、四国機械工業は資本金を減らしてから大きく積み増す手順を短期間で踏んだ。1月にいったん3,500万円へ減資したうえで、同じ月に1億500万円へ増資した。同年5月には東京と大阪の証券取引所に株式を上場している。7月には資本金を2億7,000万円とし、上場した年のうちに半年前の約2.6倍へ広げた。1953年版の年鑑では、上場先が東京・大阪・京都・広島の4市場に広がっている。1954年9月末の大株主には、住友海上火災・住友生命・住友金属工業・住友商事など旧住友系の企業が並ぶ。解体で切れた資本のつながりを、上場株の持ち合いによって住友系各社と結び直したといえる。
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [29]昭和23年12月整備計画認可、24年1月減資・増資、24年に資本金2億7千万円への増資
- [30]昭和24年1月資本金3,500万円に減資、同月1億500万円に増資
- [34]昭和29年9月30日現在の大株主に住友海上火災・住友生命・住友金属工業・住友商事・住友電工など
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [31]1949年5月 東京及び大阪の両証券取引所へ株式上場
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [32]昭和24年1月1億500万円、同年7月2億7,000万円に資本金を増加
- 株式会社年鑑 1953年版「住友機械工業」
- [33]上場市場は東京・大阪・京都・広島
参考文献[17]-[34]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [17]軍拡時代で需要旺盛、昭和14年新精機工場・17年新機械工場・19年鍛造工場と新鋳造工場を建設
- [21]太平洋戦争中は鉱工業設備・輸送関係設備の生産が主力で、兵器部品はごく一部
- [24]財閥解体により住友本社並びに子会社との資本的その他一切の関係を断たれた
- [25]運営難のため特殊大型鋳物工場を一時閉鎖
- [28]終戦後は製品の多角化を図り、戦前の技術提携を復活
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [18]昭和13年2月資本金1,000万円、15年10月2,000万円、19年9月4,000万円
- [19]昭和15年9月、社名を住友機械工業に改称
- [23]昭和20年12月、四国機械工業と改称
- [32]昭和24年1月1億500万円、同年7月2億7,000万円に資本金を増加
- 私の住友昭和史(1988年)3章「本社の改組と戦時体制」
- [20]軍需会社法による指定で、住友の生産会社9社(住友機械工業を含む)の全部が指定を受けた
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [22]戦時中は軍需で急拡大し高収益、戦災にも遭わなかった
- 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
- [26]昭和22年、石炭の緊急増産のため鉱山機械工場が商工省の指定工場となり、資金・資材で優先的に扱われた
- [27]昭和22年当時の炭鉱用機械の兼業大企業として日立製作所・住友機械工業などが挙がる
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [29]昭和23年12月整備計画認可、24年1月減資・増資、24年に資本金2億7千万円への増資
- [30]昭和24年1月資本金3,500万円に減資、同月1億500万円に増資
- [34]昭和29年9月30日現在の大株主に住友海上火災・住友生命・住友金属工業・住友商事・住友電工など
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [31]1949年5月 東京及び大阪の両証券取引所へ株式上場
- 株式会社年鑑 1953年版「住友機械工業」
- [33]上場市場は東京・大阪・京都・広島
1952年〜バイエル変速機の技術導入と、鮫島龍雄氏の引責で始まった木村音吉氏の再建
1952年5月、四国機械工業は社名を住友機械工業に戻した。同じ年の9月には、本社事務所を大阪市へ移している。社名を戻す前月の1952年4月、リヒテンシュタインのヒバーグ社と固定式バイエル無段変速機の提携を結んだ。1953年5月には、バイエル変速機を生産するため富田機械製作所と手を組んだ。1954年10月には、自動車用のバイエル無段変速機でもヒバーグ社と提携を広げた。1955年版の年鑑は、主要製品にサイクロ減速機と並べてバイエル変速機を載せている。回転を落とす減速機に速度を変える変速機が加わり、量産品の収益源が2つになった。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [35]昭和27年5月、住友機械工業と旧社名に復元
- [38]昭和28年5月、バイエル変速機生産のため富田機械製作所と提携
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [36]昭和27年9月、本社事務所を大阪市に移転
- [37]昭和27年4月、ヒバーグ社(リヒテンシュタイン)と固定式バイエル無段変速機に関し提携
- [39]昭和29年10月、ヒバーグ社と自動車用バイエル無段変速機に関し提携
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [40]主なる事業内容にサイクロ減速機・バイエル変速機を掲げる
住友機械工業は1954年度、年間で約7億円の赤字を出した。1954年9月期の純損失は131,376千円だった。続く1955年3月期には、566,512千円の純損失を計上している。西村恒三郎氏は、当時の売上高を26億円、資本金を2億7,000万円と挙げてこの赤字の重さを示している。西村恒三郎氏は原因として、戦後の需要の変化にインフレとドッジ・ラインのデフレが重なり、朝鮮戦争の特需にも乗り切れなかった点を挙げる。1954年3月には人員整理の方針が組合との協議前に新聞で報じられ、希望退職の募集にとどまった。社長の鮫島龍雄氏は退き、技術系の1人を除いて役員が総入れ替えとなった。
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [41]昭和29年度全体で7億円の赤字
- [44]売上高26億円・資本金2億7,000万円の規模に対する赤字
- [45]需要構造の変化、インフレのコスト上昇、ドッジのデフレで仕事量が激減し、朝鮮戦争の特需にも十分乗れなかった
- [46]昭和29年3月、人員整理の方針が新聞にスクープされ、希望退職の募集にとどまった
- [47]鮫島龍雄社長は勇退し、技術系1人を除き全役員が更迭された
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [42]昭和29年9月期の当期純利益△131,376千円
- 株式会社年鑑 1956年版「住友機械工業」
- [43]昭和30年3月期の当期純利益△566,512千円
住友系の社長会である白水会は再建小委員会を設け、住友金属工業専務の木村音吉氏を委員長に据えた。再建案は一部工場の閉鎖と部門ごとの定員の絞り込みを骨組みとし、1955年3月に定員1,617名の体制ができた。新しい経営陣は木村音吉氏を首班に、銀行から市川恒雄氏、化学から川島清嗣氏を迎えた。1957年2月時点の年鑑では、木村音吉氏が社長、川島清嗣氏が副社長、市川恒雄氏が専務に就任している。1955年3月には、サイクロ減速機やバイエル変速機など量産品の販売を担う範多商事を設けた。1956年9月期に年1割で復配し、1960年版の年鑑では配当が年15%まで上がった。資本金は1956年12月に5億4,000万円、1960年9月には20億円へ増え、次の設備拡張の元手が整った。
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [48]白水会の下に住友機械再建小委員会を設け、住友金属工業の木村音吉専務が委員長
- [49]再建策は一部工場閉鎖と部門別の定員策定が骨子で、昭和30年3月に定員1,617名を実現
- [50]木村氏をトップとする新経営陣に、銀行から市川恒雄氏、化学から川島清嗣氏等が入った
- 株式会社年鑑 1957年版「住友機械工業」
- [51]昭和32年2月1日現在の役員は社長木村音吉・副社長川島清嗣・専務市川恒雄
- [53]昭和31年9月期の配当金13,500千円、年率10%
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [52]昭和30年3月、サイクロ減速機・バイエル変速機等の量産品の販売促進のため範多商事を設立
- [55]昭和31年12月資本金5億4,000万円、35年9月資本金20億円
- 株式会社年鑑 1960年版「住友機械工業」
- [54]配当の年率15.0%
参考文献[35]-[55]
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [35]昭和27年5月、住友機械工業と旧社名に復元
- [38]昭和28年5月、バイエル変速機生産のため富田機械製作所と提携
- [52]昭和30年3月、サイクロ減速機・バイエル変速機等の量産品の販売促進のため範多商事を設立
- [55]昭和31年12月資本金5億4,000万円、35年9月資本金20億円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [36]昭和27年9月、本社事務所を大阪市に移転
- [37]昭和27年4月、ヒバーグ社(リヒテンシュタイン)と固定式バイエル無段変速機に関し提携
- [39]昭和29年10月、ヒバーグ社と自動車用バイエル無段変速機に関し提携
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [40]主なる事業内容にサイクロ減速機・バイエル変速機を掲げる
- [42]昭和29年9月期の当期純利益△131,376千円
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [41]昭和29年度全体で7億円の赤字
- [44]売上高26億円・資本金2億7,000万円の規模に対する赤字
- [45]需要構造の変化、インフレのコスト上昇、ドッジのデフレで仕事量が激減し、朝鮮戦争の特需にも十分乗れなかった
- [46]昭和29年3月、人員整理の方針が新聞にスクープされ、希望退職の募集にとどまった
- [47]鮫島龍雄社長は勇退し、技術系1人を除き全役員が更迭された
- [48]白水会の下に住友機械再建小委員会を設け、住友金属工業の木村音吉専務が委員長
- [49]再建策は一部工場閉鎖と部門別の定員策定が骨子で、昭和30年3月に定員1,617名を実現
- [50]木村氏をトップとする新経営陣に、銀行から市川恒雄氏、化学から川島清嗣氏等が入った
- 株式会社年鑑 1956年版「住友機械工業」
- [43]昭和30年3月期の当期純利益△566,512千円
- 株式会社年鑑 1957年版「住友機械工業」
- [51]昭和32年2月1日現在の役員は社長木村音吉・副社長川島清嗣・専務市川恒雄
- [53]昭和31年9月期の配当金13,500千円、年率10%
- 株式会社年鑑 1960年版「住友機械工業」
- [54]配当の年率15.0%
1928年〜1960年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 28 | n/a | 1 | 6.2% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 27 | ▲1.4% | 0 | ▲2.4% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 25 | ▲7.6% | ▲6 | ▲27.1% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 26 | +1.6% | 0 | 0.7% | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 43 | +67.8% | 2 | 5.2% | ニューヨーク事務所を開設(1957) |
| 1958年03月期 | 単体 | 65 | +49.3% | 2 | 4.4% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 72 | +10.4% | 3 | 4.8% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 88 | +22.0% | 4 | 5.1% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
11件
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- 株式会社年鑑 1953年版「住友機械工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- 株式会社年鑑 1956年版「住友機械工業」
- 株式会社年鑑 1957年版「住友機械工業」
- 株式会社年鑑 1960年版「住友機械工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- 私の住友昭和史(1988年)3章「本社の改組と戦時体制」