住友重機械工業:住友別子鉱業所工作方の設立と鉱山向け機械の修理製作
1888年〜別子銅山の工作方と、ペテルゼン式硫酸製造設備の技術提携
住友重機械工業は、住友が1888年に別子鉱業所の中へ置いた工作方を自らの起点としている。相談役を務めた西村恒三郎氏も1988年の回想で、発足を明治21年の工作方と数えている。一方で『企業の歴史』は、1889年に機械課として始まったと年を1年遅く記す。『会社銀行八十年史』はさらに古く、1882年9月に新居浜製錬所の建設に合わせて開かれた鍛冶場を源に挙げる。このころ別子では広瀬宰平氏ら経営陣が西洋技術を採り、鑿岩機や鉱山鉄道、索道を次々に据えていた。山奥の銅山で輸入機械を止めずに使うには、手元で直せる職場を抱えるほかなかったとみられる。
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [1]1888年 住友別子鉱業所工作方として発足
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [2]当社は明治21年に別子鉱業所の工作方として発足(西村恒三郎の回想)
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [3]明治22年に住友別子鉱業所の機械課として発足
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [4]淵源は明治15年9月、新居浜製錬所建設のため道具類の製作修理を行う鍛冶場の設立
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友金属鉱山」
- [5]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋技術を採用し、火薬・鑿岩機・鉱山専用鉄道・架空索道などを導入
鍛冶場は1896年11月に住友別子鉱業所の機械課となり、鉱山開発で要る機械の製作と修理を受け持った。1921年以降は住友の銅山や工場へ納めるだけでなく、外部からの注文も受けるようになった。住友の側でも同じ1921年に事業が住友合資会社へ移り、1927年6月には資本金1,500万円の住友別子鉱山が設立された。機械課は1928年、この鉱山会社の新居浜製作所へと名を改めた。改称と同時に、製作所は独立した会計で損益を締める仕組みに移っている。鉱山の一課だった修理場が、損益を別に問われる工場へ格上げされたことになる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [6]明治29年11月に住友別子鉱業所機械課となり、鉱山開発に伴う機械の製作・修理を担当
- [7]大正10年以降、住友の銅山・工場への設備供給から外部へ進出
- [10]昭和3年7月、機械課から住友別子鉱山新居浜製作所となり独立会計制度を採用
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友金属鉱山」
- [8]大正10年に住友合資の経営へ移り、昭和2年6月に資本金1,500万円の住友別子鉱山が独立の鉱山会社として設立
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [9]昭和3年に住友別子鉱山新居浜製作所と改称
新居浜製作所となる前年の1927年1月、住友はドイツのペテルゼン氏と硫酸製造設備の技術提携を結んだ。別子の製錬は亜硫酸ガスによる煙害を抱え、製錬所を四阪島へ移しても片付かなかった。中和工場が完成して煙害に決着がついたのは、ずっと後の1939年である。1955年時点の住友金属鉱山は、製錬から出る副産品として硫酸を産出していた。ペテルゼン式の契約は戦後の1951年7月、西ドイツのゲルト・ペテルゼン社との間で更新されている。煙の硫黄分を硫酸に変える設備を自作できれば、煙害対策と副産物の販売を同時に進められると見たのだろう。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [11]昭和2年1月、ペテルゼン(ドイツ)と硫酸製造設備に関し技術提携
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友金属鉱山」
- [12]別子の最大の困難は煙害問題で、製錬所の四阪島移転でも解決しなかった
- [13]煙害の抜本的解決は中和工場が完成した昭和14年
- [14]製錬の過程から副産品として硫酸・硫安などを産出
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [15]昭和26年7月、西独ゲルト・ペテルゼン社とペテルゼン式硫酸製造設備の契約を更新
参考文献[1]-[15]
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [1]1888年 住友別子鉱業所工作方として発足
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談
- [2]当社は明治21年に別子鉱業所の工作方として発足(西村恒三郎の回想)
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- [3]明治22年に住友別子鉱業所の機械課として発足
- [9]昭和3年に住友別子鉱山新居浜製作所と改称
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- [4]淵源は明治15年9月、新居浜製錬所建設のため道具類の製作修理を行う鍛冶場の設立
- [6]明治29年11月に住友別子鉱業所機械課となり、鉱山開発に伴う機械の製作・修理を担当
- [7]大正10年以降、住友の銅山・工場への設備供給から外部へ進出
- [10]昭和3年7月、機械課から住友別子鉱山新居浜製作所となり独立会計制度を採用
- [11]昭和2年1月、ペテルゼン(ドイツ)と硫酸製造設備に関し技術提携
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友金属鉱山」
- [5]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋技術を採用し、火薬・鑿岩機・鉱山専用鉄道・架空索道などを導入
- [8]大正10年に住友合資の経営へ移り、昭和2年6月に資本金1,500万円の住友別子鉱山が独立の鉱山会社として設立
- [12]別子の最大の困難は煙害問題で、製錬所の四阪島移転でも解決しなかった
- [13]煙害の抜本的解決は中和工場が完成した昭和14年
- [14]製錬の過程から副産品として硫酸・硫安などを産出
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- [15]昭和26年7月、西独ゲルト・ペテルゼン社とペテルゼン式硫酸製造設備の契約を更新
出典・参考
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- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友機械工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友金属鉱山」
- 株式会社年鑑 1955年版「住友機械工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「住友機械工業」
- 私の住友昭和史(1988年)10章「企業再建と二つの合併」住友重機械相談役 西村恒三郎談