住友重機械工業:浦賀重工業との合併による造船・産業機械の総合化
1961年〜名古屋製造所の減速機量産と、射出成形機への参入
住友機械工業は1961年、愛知県の大府に製造所を開設し、現在の名古屋製造所の起点とした。新居浜製造所で製鉄プラントや運搬機械の増産を進める間に、減速機の量産は大府へ任せ、第2期の増設にも入っていた。1962年版の企業要覧は、この2年間で売上高が2.1倍、利益が実質2.7倍になったと記している。1965年に退いた社長の木村音吉氏は、名古屋工場の完成を在任中に整えた設備の一つに挙げた。社長の市川恒雄氏の1969年の説明では、減速機の月産は1955年頃の200数十台から7,000〜8,000台まで増えた。変速機と合わせた国内シェアは30%に達し、首位にあった。受注ごとに仕様が変わる大型機械から、同じ型を繰り返す減速機を別の工場に分けたことが、量産の効率を上げたと推察される。
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [1]1961年に大府製造所(現名古屋製造所)を開設
- 日本企業要覧 1962年版「住友機械工業」
- [2]新居浜製造所を増設して製鉄プラント・運搬機械の増産体制を整え、減速機量産の大府工場を建設し第2期増設を進めていた
- [3]積極経営に転じた2年間で売上高2.1倍、利益は実質2.7倍
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [4]1965年2月に辞任した木村音吉社長は挨拶で、新居浜の本工場に加え名古屋工場ができたことを挙げた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [5]減速機の月産は1955年頃の200数十台から7,000〜8,000台へ増えた
- [6]減変速機を合わせた国内シェアは30%でトップメーカー
住友機械工業は1967年3月期、景気回復で受注が増えたものの、外注に依存した分の原価がかさみ、営業利益が約2億円減った。これを受けて、原価を下げやすい精密機械や建設機械など量産機種の売上を拡大する方針を打ち出した。1966年6月には減速機の米国現地法人を設け、組立工場を本格生産に入れた。建設機械ではパワーショベルとトラッククレーンの機種を揃えるため、米国リンクベルト社と追加の契約を結んだ。スイスのネスタール社との技術提携で、プラスチック機械の部門も拡充した。1965年2月に社長となった市川恒雄氏は、人件費の上昇を理由に、受注生産品より繰返生産品の比率を上げると説明した。その目標は両者の比率を50対50にすることだった。
- 日本企業要覧 1967年版「住友機械工業」
- [7]前3月期は増収だったが、外注依存による原価高で営業利益が約2億円減の実質減益
- [8]コストを下げやすい精密機械・建設機械など量産機種の売上を伸ばし原価率を80%以下へ下げる見込み
- 週刊日本経済 1967年3月23日号
- [9]サイクロ減速機の海外進出の足掛かりとして1966年6月に米国現地法人を設立し、組立工場が本格生産に入った
- [10]建設機械のパワーショベル・トラッククレーン機種のシリーズ化を図り、米国リンクベルト社と追加契約を結んだ
- [11]スイスのネスタール社との技術提携によるプラスチック機械部門の充実を進めていた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [12]ここ2〜3年の人件費上昇を踏まえ、受注生産品より人件費吸収力の大きい繰返生産品に主力を置き換える方針
- [13]2〜3年前に受注生産品と繰返生産品の比率を少なくとも50対50にする目標を立てた
市川恒雄氏が社長に就任した頃、三菱系3社の合併で三菱重工業が生まれ、石川島播磨重工業や川崎重工業も合併で規模を広げていた。のちに社長となる西村恒三郎氏は1974年、合併前の自社を『いわば田舎のデパートのようなものだった』とたとえた。機械の品目は一通り揃えていたが、三菱重工業や石川島播磨重工業には規模で及ばなかったという。住友機械工業は1965年早々、親会社の破綻で連鎖倒産が懸念された日特金属工業に出資し、株式の32.6%を持った。同じ年の2月には専務の大塚振武氏らを浦賀重工業へ送り、経営の実態をつかみにかかった。1968年版の企業要覧は、日特金属工業の系列化と浦賀重工業の合併予定を並べて記している。
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [14]市川社長時代を迎えた頃、三菱三重工の合併で三菱重工業が発足し、石川島播磨・川崎重工業も合併で大きくなっていた
- [17]親会社日本特殊鋼の会社更生法申請を受け、1965年早々に日特金属工業へ資本参加(32.6%)
- [18]1965年2月、大塚振武専務を副社長、長井隆三氏を社長室長として浦賀重工業へ派遣し実態把握にあたった
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [15]西村恒三郎社長は合併前の自社を田舎のデパートにたとえた
- [16]どんな機械でもそろえていたが、三菱重工や石播に比べ規模が小さかった(西村恒三郎社長談)
- 日本企業要覧 1968年版「住友機械工業」
- [19]関係企業の育成として日特金属工業を系列化し、浦賀重工業を合併する予定
参考文献[1]-[19]
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [1]1961年に大府製造所(現名古屋製造所)を開設
- 日本企業要覧 1962年版「住友機械工業」
- [2]新居浜製造所を増設して製鉄プラント・運搬機械の増産体制を整え、減速機量産の大府工場を建設し第2期増設を進めていた
- [3]積極経営に転じた2年間で売上高2.1倍、利益は実質2.7倍
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [4]1965年2月に辞任した木村音吉社長は挨拶で、新居浜の本工場に加え名古屋工場ができたことを挙げた
- [14]市川社長時代を迎えた頃、三菱三重工の合併で三菱重工業が発足し、石川島播磨・川崎重工業も合併で大きくなっていた
- [17]親会社日本特殊鋼の会社更生法申請を受け、1965年早々に日特金属工業へ資本参加(32.6%)
- [18]1965年2月、大塚振武専務を副社長、長井隆三氏を社長室長として浦賀重工業へ派遣し実態把握にあたった
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [5]減速機の月産は1955年頃の200数十台から7,000〜8,000台へ増えた
- [6]減変速機を合わせた国内シェアは30%でトップメーカー
- [12]ここ2〜3年の人件費上昇を踏まえ、受注生産品より人件費吸収力の大きい繰返生産品に主力を置き換える方針
- [13]2〜3年前に受注生産品と繰返生産品の比率を少なくとも50対50にする目標を立てた
- 日本企業要覧 1967年版「住友機械工業」
- [7]前3月期は増収だったが、外注依存による原価高で営業利益が約2億円減の実質減益
- [8]コストを下げやすい精密機械・建設機械など量産機種の売上を伸ばし原価率を80%以下へ下げる見込み
- 週刊日本経済 1967年3月23日号
- [9]サイクロ減速機の海外進出の足掛かりとして1966年6月に米国現地法人を設立し、組立工場が本格生産に入った
- [10]建設機械のパワーショベル・トラッククレーン機種のシリーズ化を図り、米国リンクベルト社と追加契約を結んだ
- [11]スイスのネスタール社との技術提携によるプラスチック機械部門の充実を進めていた
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [15]西村恒三郎社長は合併前の自社を田舎のデパートにたとえた
- [16]どんな機械でもそろえていたが、三菱重工や石播に比べ規模が小さかった(西村恒三郎社長談)
- 日本企業要覧 1968年版「住友機械工業」
- [19]関係企業の育成として日特金属工業を系列化し、浦賀重工業を合併する予定
1969年〜浦賀重工業との合併と、追浜造船所・西条工場の新設
1969年6月30日、住友機械工業は浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円で、従業員は両社を合わせて1万人を少し上回った。市川恒雄社長は、1968年2月の半額減資で浦賀の累積損失が消えていたため、17億6,000万円の資本負担で造船設備を得られた点を利点に挙げた。人手の集めにくい時代には浦賀の6,000人も生産性を上げる元手になり、造船の鋼材需要が製鉄機械の受注に効くとも説明した。浦賀の側でも、運輸省が大型ドックを認める条件に中核企業並みの規模を求め、単独では満たせなかった。浦賀の収益性は住友機械を下回っていたが、市川恒雄社長は『後に減配を余儀なくされる合併はしない』として配当の維持に自信を示した。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [20]1969年6月30日、資本金54億円の住友機械工業が浦賀重工業を10対5.5で吸収合併し住友重機械工業が発足
- [21]合併後の資本金71億6,000万円。従業員は住友機械4,000人・浦賀6,000人で1万人をわずかに超える
- [22]浦賀は昨年2月の半額減資で過去の損失を処理しており、17億6,000万円の資本負担で設備を得られる点に合併のメリットを見た(質疑応答)
- [23]労働力確保が難しい時代に浦賀の従業員6,000人を生かせば生産性を上げられ、造船は鋼材使用量が多く製鉄関係機械の受注で有利になる
- [25]合併時点で浦賀の生産性・収益性は住友機械に劣っていたが、1割2分配当の維持に強い自信を示した
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [24]運輸省は大型造船所の認可条件として中核企業にふさわしい規模を求め、浦賀単独では満たせず住友機械との合併が必要となった
合併時点で浦賀と横須賀の造船所は、どちらも10万トン級までの船しか造れなかった。市川恒雄社長は追浜に13万坪を埋め立て、30万トンの新造船ドックを1971年末までに築く計画を示した。建設資金には160億〜170億円を見込んでいた。両社は1968年5月の合併覚書を添えて同年11月に建設を申請したが、運輸省の正式認可は1969年11月にずれ込んだ。受注活動がその分遅れた結果、1970年からの輸出船ブームで追浜向けの船はすべて円建てで契約できた。現在の横須賀製造所にあたる追浜造船所は、1972年5月に開設された。1974年3月期には年6隻の建造体制に乗り、27万重量トン型タンカー3隻を引き渡した。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [26]造船所は浦賀と横須賀にあるが、いずれも10万トンクラスまでしか建造できない
- [27]追浜に13万坪の埋立地を造成し30万トンの新造船ドックを建設、1971年末完成を目指す
- [28]新造船所の建設資金として160〜170億円を予定
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [29]両社は1968年5月に合併覚書に調印し、同年11月に追浜造船所の建設申請を出したが、正式認可は1969年11月
- [30]1970年初頭からの受注活動が輸出船ブームに当たり、追浜向け受注船はすべて円建て契約でドル建てはなかった
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [31]1972年5月に追浜造船所(現横須賀製造所)を開設
- 日本企業要覧 1974年版「住友重機械工業」
- [32]1974年3月期、追浜造船所の年間6隻建造体制が軌道に乗り、27万重量トン型タンカー3隻を引き渡した
住友重機械工業は1973年2月、愛媛県に東予工場を開設した。のちの愛媛製造所西条工場にあたり、長大な橋梁と鉄構を専ら造る工場として建設に着手していた。本州と四国を結ぶ橋の工事が先送りになると、東予工場は第2期・第3期の工事を見送った。1976年の講演で専務の浅田厚氏は、機械本部の中に東予事業部を置き、塔・槽・熱交換器を輸出していると説明した。同じ工場では、海洋向けの石油掘削装置の製作も請け負っていた。当時の機械本部には、橋梁鉄構と海洋の事業部も並んでいた。架橋の需要を当て込んだ設備を、化学機器や海洋構造物に振り向けて稼働を埋めたと考えられる。
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [33]1973年2月に東予工場(現愛媛製造所西条工場)を開設
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [34]東予工場は大型橋梁・鉄構専用工場として建設に着手された
- [35]本四架橋の延期を受け、東予工場は2期・3期工事を見合わせた
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- [36]機械本部に東予事業部があり、塔・槽・熱交換器が輸出の伸びる機種に挙がる
- [37]東予工場で石油掘削装置を製作中
- [38]機械本部は産業機械・運搬機械・エンジニアリング・玉島機械・鋳鍛・橋梁鉄構・海洋・東予・プラスチック機械の事業部制
参考文献[20]-[38]
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [20]1969年6月30日、資本金54億円の住友機械工業が浦賀重工業を10対5.5で吸収合併し住友重機械工業が発足
- [21]合併後の資本金71億6,000万円。従業員は住友機械4,000人・浦賀6,000人で1万人をわずかに超える
- [22]浦賀は昨年2月の半額減資で過去の損失を処理しており、17億6,000万円の資本負担で設備を得られる点に合併のメリットを見た(質疑応答)
- [23]労働力確保が難しい時代に浦賀の従業員6,000人を生かせば生産性を上げられ、造船は鋼材使用量が多く製鉄関係機械の受注で有利になる
- [25]合併時点で浦賀の生産性・収益性は住友機械に劣っていたが、1割2分配当の維持に強い自信を示した
- [26]造船所は浦賀と横須賀にあるが、いずれも10万トンクラスまでしか建造できない
- [27]追浜に13万坪の埋立地を造成し30万トンの新造船ドックを建設、1971年末完成を目指す
- [28]新造船所の建設資金として160〜170億円を予定
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [24]運輸省は大型造船所の認可条件として中核企業にふさわしい規模を求め、浦賀単独では満たせず住友機械との合併が必要となった
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [29]両社は1968年5月に合併覚書に調印し、同年11月に追浜造船所の建設申請を出したが、正式認可は1969年11月
- [30]1970年初頭からの受注活動が輸出船ブームに当たり、追浜向け受注船はすべて円建て契約でドル建てはなかった
- [34]東予工場は大型橋梁・鉄構専用工場として建設に着手された
- [35]本四架橋の延期を受け、東予工場は2期・3期工事を見合わせた
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [31]1972年5月に追浜造船所(現横須賀製造所)を開設
- [33]1973年2月に東予工場(現愛媛製造所西条工場)を開設
- 日本企業要覧 1974年版「住友重機械工業」
- [32]1974年3月期、追浜造船所の年間6隻建造体制が軌道に乗り、27万重量トン型タンカー3隻を引き渡した
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- [36]機械本部に東予事業部があり、塔・槽・熱交換器が輸出の伸びる機種に挙がる
- [37]東予工場で石油掘削装置を製作中
- [38]機械本部は産業機械・運搬機械・エンジニアリング・玉島機械・鋳鍛・橋梁鉄構・海洋・東予・プラスチック機械の事業部制
1973年〜石油危機後の造船不況と、イートン合弁・住友建機の設立
石油危機の直前、住友重機械工業は徳島県の橘湾に100万トン級のタンカーを続けて造る造船所の計画を県に示していた。社長の西村恒三郎氏は、中小の造船所も大型化する中で、浦賀造船所の置き換えが要ると理由を説明した。当初700億円と見込んだ建設費は、石油危機前後の物価上昇で5割増えていた。売上に占める船舶本部の比率は、1974年の45.7%から1975年には35.8%へ下がった。機械の受注に占める輸出は同じ間に15%から28%へ上がり、低迷した内需を補った。1978年版の企業要覧で在籍人員は12,182人だった。1979年3月期には特別退職金を払い、翌年版の在籍人員は8,637人まで減った。
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [39]石油危機の直前、徳島県に長さ1,200〜1,400メートルのドックで100万トンクラスのタンカーを連続建造する橘湾造船所計画を説明
- [40]西村恒三郎社長は、中小造船も大型化しており浦賀造船所の競争力はなくなるので、橘湾計画はその置き換えだと述べた
- [41]橘湾の予想建設費700億円が、石油危機前後の物価上昇で当初予定の50%増えた(土井正三副社長)
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- [42]船舶本部の売上比率は1974年45.7%、1975年35.8%
- [43]機械の受注に占める輸出比率は1974年15%、1975年28%で、内需の不振を輸出で補った
- 日本企業要覧 1978年版「住友重機械工業」
- [44]在籍人員12,182名
- 日本企業要覧 1979年版「住友重機械工業」
- [45]1979年3月期は特別退職金の支出があり、在籍人員8,637名
1983年4月、住友重機械工業は米国のイートン社と合弁で住友イートンノバを設立した。この会社は、半導体の製造工程で使うイオン注入装置を造って売った。1998年のアニュアルレポートによれば、住友イートンノバの資本金は16億円だった。住友重機械工業は1969年の時点で、機種を増やす手段が海外からの技術導入に偏ってきたと認めていた。1976年には専務の浅田厚氏が、提携先の販売地域の縛りで中近東の商談が進まない例を挙げ、自己開発へ移る必要を説いた。それでも造船の外に育てる新分野では、合弁で提携先の技術を取り込んだとみられる。
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [46]1983年4月、米国のEaton Corporation(現Axcelis Technologies)との合弁で住友イートンノバを設立
- 住友重機械工業 アニュアルレポート1998
- [47]Sumitomo Eaton Nova Corporation はイオン注入装置を製造・販売する
- [48]Sumitomo Eaton Nova Corporation の資本金は16億円(¥1,600 million)
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [49]従来は自己開発による機種拡大が少なく、技術提携による新機種の導入が主だった
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- [50]技術提携ではテリトリーの制限で中近東の商談が進まないことが多く、自己開発への脱皮が大切だと浅田厚専務が述べた
建設機械は、1963年6月に米国のリンクベルトスピーダー社とパワークレーンとパワーショベルの技術提携を結んで広げた分野だった。1970年代初め、系列の日特金属工業は赤字の元だったブルドーザーから段階的に撤退した。その販売店には、住友側が売り出していた油圧ショベルを扱わせて空白を埋めた。1981年版の企業要覧は、製鉄機械・港湾荷役・変減速機に続く収益源として建設機械とプラスチック機械を挙げている。住友重機械工業は1986年6月に住友建機を設立し、建設機械の事業を譲渡した。1998年時点で住友建機の資本金は40億円だった。受注生産の大型機械と別の会社に分け、量産品として機動的に動かす狙いがあったのだろう。
- 日本企業要覧 1967年版「住友機械工業」
- [51]1963年6月、米国リンクベルトスピーダーコーポレーションとパワークレーン・パワーショベルの技術提携
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [52]1970年に日特金属工業へ派遣された西村恒三郎氏のもとで、赤字の主因だったブルドーザーから採算の悪い機種順に撤退した
- [53]日特金属工業の代理店に、住機で販売を始めた油圧ショベルの取り扱いを勧めた
- 日本企業要覧 1981年版「住友重機械工業」
- [54]製鉄・港湾荷役・変減速機ではトップメーカーで、最近は建機・プラスチック機械でも地歩を固めている
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [55]1986年6月に住友建機株式会社を設立し、建設機械事業を譲渡
- 住友重機械工業 アニュアルレポート1998
- [56]Sumitomo (S.H.I.) Construction Machinery Co., Ltd. の資本金は40億円(¥4,000 million)
参考文献[39]-[56]
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- [39]石油危機の直前、徳島県に長さ1,200〜1,400メートルのドックで100万トンクラスのタンカーを連続建造する橘湾造船所計画を説明
- [40]西村恒三郎社長は、中小造船も大型化しており浦賀造船所の競争力はなくなるので、橘湾計画はその置き換えだと述べた
- [41]橘湾の予想建設費700億円が、石油危機前後の物価上昇で当初予定の50%増えた(土井正三副社長)
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- [42]船舶本部の売上比率は1974年45.7%、1975年35.8%
- [43]機械の受注に占める輸出比率は1974年15%、1975年28%で、内需の不振を輸出で補った
- [50]技術提携ではテリトリーの制限で中近東の商談が進まないことが多く、自己開発への脱皮が大切だと浅田厚専務が述べた
- 日本企業要覧 1978年版「住友重機械工業」
- [44]在籍人員12,182名
- 日本企業要覧 1979年版「住友重機械工業」
- [45]1979年3月期は特別退職金の支出があり、在籍人員8,637名
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- [46]1983年4月、米国のEaton Corporation(現Axcelis Technologies)との合弁で住友イートンノバを設立
- [55]1986年6月に住友建機株式会社を設立し、建設機械事業を譲渡
- 住友重機械工業 アニュアルレポート1998
- [47]Sumitomo Eaton Nova Corporation はイオン注入装置を製造・販売する
- [48]Sumitomo Eaton Nova Corporation の資本金は16億円(¥1,600 million)
- [56]Sumitomo (S.H.I.) Construction Machinery Co., Ltd. の資本金は40億円(¥4,000 million)
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- [49]従来は自己開発による機種拡大が少なく、技術提携による新機種の導入が主だった
- 日本企業要覧 1967年版「住友機械工業」
- [51]1963年6月、米国リンクベルトスピーダーコーポレーションとパワークレーン・パワーショベルの技術提携
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談
- [52]1970年に日特金属工業へ派遣された西村恒三郎氏のもとで、赤字の主因だったブルドーザーから採算の悪い機種順に撤退した
- [53]日特金属工業の代理店に、住機で販売を始めた油圧ショベルの取り扱いを勧めた
- 日本企業要覧 1981年版「住友重機械工業」
- [54]製鉄・港湾荷役・変減速機ではトップメーカーで、最近は建機・プラスチック機械でも地歩を固めている
1961年〜1986年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1961年03月期 | 単体 | 122 | n/a | n/a | 6 | 5.2% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 180 | +47.5% | n/a | 9 | 5.2% | 平塚研究所を開設(1962) |
| 1963年03月期 | 単体 | 181 | +0.6% | n/a | 10 | 5.7% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 175 | ▲3.3% | n/a | 10 | 5.8% | ロンドン事務所を開設(1964) |
| 1965年03月期 | 単体 | 200 | +14.3% | n/a | 10 | 5.3% | 千葉製造所を開設(1965) |
| 1966年03月期 | 単体 | 208 | +4.0% | n/a | 8 | 4.3% | スミトモ・マシナリー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立(1966) |
| 1967年03月期 | 単体 | 231 | +11.1% | n/a | 8 | 3.7% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 341 | +47.6% | n/a | 10 | 3.0% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 417 | +22.3% | n/a | 15 | 3.7% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 904 | +116.8% | n/a | 28 | 3.1% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,119 | +23.9% | 53 | 31 | 2.8% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,093 | ▲2.4% | 61 | 19 | 1.8% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,292 | +18.2% | 46 | 16 | 1.3% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,740 | +34.7% | 100 | 41 | 2.4% | 東予製造所を開設(1973/11) |
| 1975年03月期 | 単体 | 2,329 | +33.9% | 57 | 40 | 1.7% | ドイツサイクロ社に資本参加(1974/06) |
| 1976年03月期 | 単体 | 2,078 | ▲10.8% | 70 | 44 | 2.1% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 2,502 | +20.4% | 78 | 48 | 1.9% | Malaysia Shipyard & Engineeringを設立(1976/11) |
| 1978年03月期 | 単体 | 2,767 | +10.6% | 62 | 29 | 1.0% | Sumitomo Cyclo Redutores do Brasilを設立(1977/11) |
| 1979年03月期 | 単体 | 1,919 | ▲30.6% | 6 | 4 | 0.2% | 韓国に東国重機工業を設立(1978/05) |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,250 | +17.2% | 6 | 5 | 0.2% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,636 | +17.2% | 12 | 11 | 0.4% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,816 | +6.8% | 65 | 41 | 1.5% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 2,940 | +4.4% | 53 | 37 | 1.3% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 2,956 | +0.5% | 43 | 27 | 0.9% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,042 | +2.9% | 38 | 25 | 0.8% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 2,631 | ▲13.5% | n/a | ▲73 | ▲2.8% | 中国に深国際建設機械有限公司を設立(1985/06) |
出所:会社年鑑、会社年鑑 1976年版、証券調査
出典・参考
14件
- 住友重機械工業 アニュアルレポート1998
- 住友重機械工業 有価証券報告書(2025年12月期)【沿革】
- 週刊日本経済 1967年3月23日号
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻10号
- 日経ビジネス 1974年5月13日号
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻10号
- 日本企業要覧 1962年版「住友機械工業」
- 日本企業要覧 1967年版「住友機械工業」
- 日本企業要覧 1968年版「住友機械工業」
- 日本企業要覧 1974年版「住友重機械工業」
- 日本企業要覧 1978年版「住友重機械工業」
- 日本企業要覧 1979年版「住友重機械工業」
- 日本企業要覧 1981年版「住友重機械工業」
- 私の住友昭和史(1988年)「企業再建と二つの合併」西村恒三郎談