ツガミ:津上製作所の設立と長岡・信州工場による工作機械生産
1926年〜ブロックゲージで始めた津上退助氏の工場と、三井の投資で拡大した下丸子工場
津上退助氏は大正期に東京で個人の工場を興し、長さの基準となるブロックゲージと各種の原器を作り始めた。創業の年は、1955年の社史録が1922年、1968年の企業史が1923年、1959年の証券誌が1924年と記す。発端は第1次世界大戦の末期で、弾薬の欠乏に悩んだロシアが日本に補給を求めた時期にあたる。当時、渡辺鉄工所で技師長を務めていた津上退助氏は、寸法の基準となる工業原器の重要性に着目して国産化に着手した。工場は武蔵小山から雑色へ移り、津上退助氏はスタンダード・ゲージを国内で初めて作り上げた。兵器の部品を大量にそろえるには寸法の基準器が欠かせず、輸入に依存したままでは国内で量産の土台を築けないと考えたのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [1]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [3]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [6]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [7]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [8]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- [2]津上退助氏が個人経営で大正12年に創業し、ブロックゲージ・各種原器を生産
- [4]津上退助氏が個人経営で大正12年に創業し、ブロックゲージ・各種原器を生産
- 証券 1959年
- [5]津上退助氏が大正13年に東京で精密機械の製作を個人で始めた
津上退助氏は1928年に工場を株式組織に改め、蒲田区雑色で株式会社津上製作所を発足させた。1931年には三井の投資を受け入れ、下丸子に工場を新設して事業を拡張した。1968年の企業史は、下丸子町への移転を1934年と記す。製品はゲージと精密測定器に工作機械が加わり、津上の原器は国内の工業界で長さの標準として広く使われた。1959年の証券誌も、三井の資本の導入を事業の拡張と結び付けて記した。原器の需要が全国の工場に広がる一方、個人の資金では下丸子の新工場を賄えず、三井の資本を増産の元手に充てたと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [9]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- [11]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- [14]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- [10]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- [13]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- [15]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- 証券 1959年
- [12]昭和3年に株式組織に改め、三井の資本を導入して事業を拡張
- [16]昭和3年に株式組織に改め、三井の資本を導入して事業を拡張
参考文献[1]-[16]
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [1]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [3]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [6]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [7]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [8]欧州大戦末期、弾薬不足のロシアの補給要請の際、渡辺鉄工所技師長の津上退助氏が工業原器の重要性に着目し国産化に着手。大正11年武蔵小山で創設、雑色へ移りスタンダード・ゲージの研究製作に国内で初めて成功
- [9]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- [11]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- [14]昭和3年株式組織に変更、6年三井の投資で事業拡張し下丸子に工場新設。製品は国内工業界で精密な長さの標準原器として広く使用
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- [2]津上退助氏が個人経営で大正12年に創業し、ブロックゲージ・各種原器を生産
- [4]津上退助氏が個人経営で大正12年に創業し、ブロックゲージ・各種原器を生産
- [10]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- [13]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- [15]昭和3年蒲田区雑色に㈱津上製作所を設立しゲージ・精密測定器・工作機械を製造、昭和9年下丸子町に移転
- 証券 1959年
- [5]津上退助氏が大正13年に東京で精密機械の製作を個人で始めた
- [12]昭和3年に株式組織に改め、三井の資本を導入して事業を拡張
- [16]昭和3年に株式組織に改め、三井の資本を導入して事業を拡張
1937年〜長岡市の誘致で興した資本金200万円の新会社と、ネジ研磨盤の国産化
1937年3月15日、津上退助氏は三井資本と別れ、新潟県長岡市に資本金200万円で新たな株式会社津上製作所を設立した。長岡市が工場の誘致を申し入れ、津上退助氏がこれを受け入れた。新会社は三井の資本が入った旧会社から切り離して発足し、現在のツガミの前身となった。1959年の証券誌の資本金の表も、1937年4月の設立時の資本金を2,000千円と記す。長岡の工場はその後の生産の中心となり、1959年時点でも全製品を作る主力の拠点だった。三井と別れた経緯を記した資料は手元に無く、自治体の誘致で用地と人手を得られる長岡を、独立した経営を立て直す拠点に選んだとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [17]昭和12年3月、三井資本と別れ、長岡市の招致を受けて同市に資本金200万円で(株)津上製作所を創立
- [18]昭和12年3月、三井資本と別れ、長岡市の招致を受けて同市に資本金200万円で(株)津上製作所を創立
- 証券 1959年
- [19]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [20]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [21]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [22]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
1938年12月、津上退助氏は商社の安宅商会と提携し、商号を津上安宅製作所に改めた。提携の後の資本金は、1939年12月に500万円、1940年2月に1,500万円。設立時に200万円だった資本金は、提携から2年足らずで7.5倍に膨らんだ。安宅商会との提携は終戦の年まで続き、1945年1月に同商会と別れて旧名の津上製作所に戻った。長岡の新会社には販路と増資の引受先が乏しく、商社の資金力と販売網を得る見返りに商号へ安宅の名を加えたと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [23]昭和13年12月安宅商会と提携し商号を津上安宅製作所に改め、20年1月同商会と別れ旧名に復帰
- [26]昭和13年12月安宅商会と提携し商号を津上安宅製作所に改め、20年1月同商会と別れ旧名に復帰
- 証券 1959年
- [24]資本金表:昭和14年12月に3,000千円増資し5,000千円、15年2月に10,000千円増資し15,000千円
- [25]資本金表:昭和14年12月に3,000千円増資し5,000千円、15年2月に10,000千円増資し15,000千円
津上安宅製作所は政府の要望を受け、ネジ切フライス盤とネジ研磨盤の国産化に取り組んだ。ブロックゲージで培った測定の技術を土台に、事業は精密測定器から精密工作機械へ広がった。戦時中は軍需の注文に追われて業務を拡張し、1944年2月に資本金は3,500万円となった。設立から7年で資本金は17.5倍に増えた。ネジを加工する機械は戦後も主力製品に残り、1959年の製品にもネジ転造盤、ネジ切盤、ネジ研削盤が並んだ。ネジの精度は長さの基準器と同じ測定の技術に依存するため、原器の会社が工作機械へ進む距離は短かったと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [27]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- [28]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- [29]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- 証券 1959年
- [30]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
- [31]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
- [32]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
参考文献[17]-[32]
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [17]昭和12年3月、三井資本と別れ、長岡市の招致を受けて同市に資本金200万円で(株)津上製作所を創立
- [18]昭和12年3月、三井資本と別れ、長岡市の招致を受けて同市に資本金200万円で(株)津上製作所を創立
- [23]昭和13年12月安宅商会と提携し商号を津上安宅製作所に改め、20年1月同商会と別れ旧名に復帰
- [26]昭和13年12月安宅商会と提携し商号を津上安宅製作所に改め、20年1月同商会と別れ旧名に復帰
- [27]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- [28]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- [29]政府の要望によりネジ切フライス盤・ネジ研磨盤の国産化を図り、ブロックゲージを基盤に精密測定器・精密工作機械へ伸張。戦時中は軍需で業務拡張し19年2月資本金3,500万円
- 証券 1959年
- [19]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [20]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [21]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [22]12年3月長岡市の工場誘致を受け入れ、前会社から分離した新会社を設立し同社の前身となる。資本金表で昭和12.4設立2,000千円。1959年時点で長岡工場が主力で全製品を製作
- [24]資本金表:昭和14年12月に3,000千円増資し5,000千円、15年2月に10,000千円増資し15,000千円
- [25]資本金表:昭和14年12月に3,000千円増資し5,000千円、15年2月に10,000千円増資し15,000千円
- [30]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
- [31]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
- [32]資本金表:昭和19年2月に35,000千円。1959年の製品に万能自動旋盤・ネジ転造盤・ネジ切盤・ネジ研削盤
1945年〜工作機械の禁止で始めたミシンと、バークレー社の4億円の注文が招いた破綻
1945年1月、津上退助氏は安宅商会との提携を解き、商号を津上製作所に戻した。翌2月には津上精密工学工業株式会社を吸収合併し、その工場は長野県の信州工場となった。同じ2月には2,000万円を増資し、資本金は5,500万円。信州工場は戦後も長岡工場に次ぐ拠点として残り、1959年時点で精密工作機械と印刷機を作っていた。1968年の企業史も、津上精密工学工業の合併を信州工場の起点として記す。合併の目的を示す記述は資料に無く、本土への空襲が迫る中で生産を東京圏から長野県へ分散させる狙いがあったと推測される。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [33]昭和20年1月安宅商会と別れ再び旧名に復帰
- 証券 1959年
- [34]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- [36]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- [37]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- [35]昭和20年津上精密工学工業㈱を吸収合併し信州工場とした
- [38]昭和20年津上精密工学工業㈱を吸収合併し信州工場とした
終戦で工作機械の製造が禁じられ、津上製作所は1945年10月にミシンの製造を始めた。1950年3月期より前の生産高では、ミシンが70%から90%を占めた。ミシンは製品の8割超を輸出に充て、対米輸出の累計は1955年までに12万台を超えた。1949年に工作機械の製造が許可されると、津上製作所はこの機種の生産を再開した。同じ1949年には、東京証券取引所の再開と同時に株式を上場。1950年に朝鮮戦争が起きると米国で工作機械が不足し、津上製作所は自動盤などの大量の注文を受けて設備と人員を増やした。1952年5月末の受注残6億2,226万円のうち、輸出が5億307万円を占めた。
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [39]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [42]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [43]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [45]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- 証券 1959年
- [40]昭和24年東証再開と同時に上場銘柄。25年3月期以前の生産はミシンが約70〜90%
- [44]昭和24年東証再開と同時に上場銘柄。25年3月期以前の生産はミシンが約70〜90%
- 経済展望 1952年 p71
- [41]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
- [46]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
- [47]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
津上製作所は1951年に米国シアトルのバークレー社と契約を結び、同年12月から工作機械の輸出を始めた。1952年6月には同社から約4億円のネジ自動旋盤を受注し、増資と借入金、転換社債で調達した資金を増産に投じた。資本金は1952年4月に2億4,000万円、同年10月に5億円へ増えた。ところがバークレー社は注文を破棄し、1953年6月に津上製作所は不渡手形を出した。1953年の前衛誌は、不渡の額を5,000万円以上とし、原価1万円超のミシンを約7,000円で輸出していた赤字も原因に挙げた。津上製作所は会社更生法の適用を申し立て、同年11月に更生手続の開始が決まった。ミシンの赤字を工作機械の大口輸出で埋めようとした増産が、1件の注文の破棄で資金繰りの破綻に直結したとうかがえる。
- 経済展望 1952年 p71
- [48]昨年来シアトル市のバークレー社と契約し、昨年12月から工作機械を輸出、6月以降毎月60台程度を輸出
- 証券 1959年
- [49]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- [50]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- [51]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [52]米国側の契約不履行で昭和28年6月不渡手形発生、直ちに会社更生法の更生手続開始を申立て、同年11月開始決定
- [54]米国側の契約不履行で昭和28年6月不渡手形発生、直ちに会社更生法の更生手続開始を申立て、同年11月開始決定
- 前衛 1953年「津上製作再建のために」山本市郎 p43-49
- [53]1953年6月半ば過ぎに5,000万円以上の手形不渡。原価1万円超のミシンを19〜20ドル(約7,000円)で対米赤字輸出、ミシンの失敗を工作機械で取り戻そうとしたことと米商社の契約不履行を不渡の原因に挙げる
参考文献[33]-[54]
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- [33]昭和20年1月安宅商会と別れ再び旧名に復帰
- [39]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [42]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [43]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [45]終戦後の工作機械製造禁止で昭和20年10月ミシン製造を開始、対米輸出は12万台超。24年工作機械製造許可で生産再開、朝鮮事変で米国の工作機械不足から自動盤等の大量注文を受け設備・人員を拡充
- [52]米国側の契約不履行で昭和28年6月不渡手形発生、直ちに会社更生法の更生手続開始を申立て、同年11月開始決定
- [54]米国側の契約不履行で昭和28年6月不渡手形発生、直ちに会社更生法の更生手続開始を申立て、同年11月開始決定
- 証券 1959年
- [34]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- [36]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- [37]20年2月津上精密工学工業(株)を吸収合併して信州工場とする。資本金表:20年2月に20,000千円増資し55,000千円。1959年時点で信州工場は精密工作機械及び印刷機を製作
- [40]昭和24年東証再開と同時に上場銘柄。25年3月期以前の生産はミシンが約70〜90%
- [44]昭和24年東証再開と同時に上場銘柄。25年3月期以前の生産はミシンが約70〜90%
- [49]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- [50]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- [51]27年6月米国バークレー社から約4億円のネジ自動旋盤の注文を受け、増資資金・借入金・転換社債で資金調達し投入したが注文が破棄され経営破綻。資本金表:27年4月240,000千円、27年10月500,000千円
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- [35]昭和20年津上精密工学工業㈱を吸収合併し信州工場とした
- [38]昭和20年津上精密工学工業㈱を吸収合併し信州工場とした
- 経済展望 1952年 p71
- [41]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
- [46]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
- [47]ミシン製造は臨時措置として主業を転換したもので製品の80%以上を輸出。朝鮮事変を契機に工作機械等の需要が急増。5月末受注残6億2,226万円(輸出5億307万円)
- [48]昨年来シアトル市のバークレー社と契約し、昨年12月から工作機械を輸出、6月以降毎月60台程度を輸出
- 前衛 1953年「津上製作再建のために」山本市郎 p43-49
- [53]1953年6月半ば過ぎに5,000万円以上の手形不渡。原価1万円超のミシンを19〜20ドル(約7,000円)で対米赤字輸出、ミシンの失敗を工作機械で取り戻そうとしたことと米商社の契約不履行を不渡の原因に挙げる
1926年〜1953年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 5 | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史(1955)「津上製作所」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「津上製作所」
- 経済展望 1952年 p71
- 前衛 1953年「津上製作再建のために」山本市郎 p43-49
- 証券 1959年