第1章 年〜年

古河電工:横浜電線製造の設立とシーメンス提携による富士電機製造の設立

1896年〜山田与七氏の電線工場と、横浜の有力商人らが出資した横浜電線製造

横浜電線製造は1896年6月6日、山田電線製造所を営んでいた山田与七氏の事業を土台に、横浜の有力商人の出資で創立総会を開催した。同年5月公布の電気事業取締規則が電線の構造と試験法を定め、逓信省は高圧の架空線をゴム線へ替えさせる方針を強く進めた。ゴム被覆線の改良が思うように進まず、山田与七氏は拡張の好機を前に資金の不足を痛感して、株式会社の組織を選んだ。監査役となる高木三郎氏が木村利右衛門氏や平沼専蔵氏らに出資を求め、横浜市高島町に資本金5万円の会社が誕生。社長に就任した木村利右衛門氏ら取締役の4人は、横浜共同電灯の役員も兼ねる貿易商である。電灯事業の広がりが電線の需要を生むと見込み、横浜の財界が山田与七氏の技術に資金を付けたとみられる。

  • 創業100年史(1991) 第1章 電線工業の黎明期
    • [1]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [2]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [3]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [5]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [4]横浜電線製造は1896年6月、資本金5万円で横浜市高島町に設立され、社長は木村利右衛門

古河鉱業が栃木県日光で日光電気精銅所を発足させたのは1906年7月で、銅の電気分解と銅線の製造を担う拠点にあたる。東京の本所鎔銅所は電気精銅で立ち遅れ、三菱や大阪電気分銅の拡張に後れをとっていた。古河の創業者の古河市兵衛氏は1895年から大谷川の水力を生かす日光の精銅・製線工場を構想し、足尾鉱毒の予防工事で計画は中断した。1903年に米国留学から戻り本所鎔銅所長に就任した山口喜三郎氏が分銅所を提案し、1904年9月3日に総長の古河潤吉氏の許可を得た。山口喜三郎氏の比較では、東京は動力費が高く、足尾は他の鉱山の銅を運ぶ費用が重く、日光が最も有利という結論である。この精銅所の土地建物と設備一切は、14年後の1920年に500万円と評価され、古河電気工業へ現物出資された。

  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [6]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
    • [9]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
    • [10]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
  • 創業100年史(1991) 第1章 電線工業の黎明期
    • [7]本所鎔銅所は電気精銅で三菱・大阪電気分銅に立ち遅れ、古河市兵衛は1895〜1896年に大谷川の水力を使う日光の精銅・銅線工場を構想した
    • [8]本所鎔銅所は電気精銅で三菱・大阪電気分銅に立ち遅れ、古河市兵衛は1895〜1896年に大谷川の水力を使う日光の精銅・銅線工場を構想した
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [11]1920年4月、古河鉱業は日光電気精銅所の土地建物と機械設備一切(価格500万円)を現物出資した

銅山経営の拡大を進めていた古河鉱業が横浜電線製造へ投資し、経営に参加したのは1908年である。日光の銅線を背景に古河が被覆線への参入を企て、銅線の供給を受けてきた横浜電線と藤倉電線は脅威を覚えた。横浜電線の重役陣は政財界に影響力を持つ元老の井上馨氏に斡旋を依頼し、古河家へ株式の譲渡を申し入れた。同年7月の覚書で古河系の出資比率は54%に達し、古河鉱業は被覆線への進出を断念して技術の指導を引き受けた。同年10月24日の工場火災で損害は23万2352円余に上り、横浜電線は借入金への依存を強めた。古河鉱業は1909年4月、毎月5万斤以上の銅線に4%の割引を付ける供給契約を結び、提携を深めた。

  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [12]1908年、銅を主とする鉱山事業の拡張を図っていた古河鉱業が横浜電線に投資し経営に参加した
  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [13]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [14]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [15]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [16]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [17]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
参考文献[1]-[17]
  • 創業100年史(1991) 第1章 電線工業の黎明期
    • [1]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [2]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [3]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [5]1896年5月の電気事業取締規則でゴム線への転換が進み、資金不足の山田与七が高木三郎の仲介で横浜の有力商人の出資を得て、6月6日に横浜電線製造の創立総会(出資株主12名、社長木村利右衛門)を開いた
    • [7]本所鎔銅所は電気精銅で三菱・大阪電気分銅に立ち遅れ、古河市兵衛は1895〜1896年に大谷川の水力を使う日光の精銅・銅線工場を構想した
    • [8]本所鎔銅所は電気精銅で三菱・大阪電気分銅に立ち遅れ、古河市兵衛は1895〜1896年に大谷川の水力を使う日光の精銅・銅線工場を構想した
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [4]横浜電線製造は1896年6月、資本金5万円で横浜市高島町に設立され、社長は木村利右衛門
    • [11]1920年4月、古河鉱業は日光電気精銅所の土地建物と機械設備一切(価格500万円)を現物出資した
    • [12]1908年、銅を主とする鉱山事業の拡張を図っていた古河鉱業が横浜電線に投資し経営に参加した
  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [6]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
    • [9]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
    • [10]山口喜三郎が1903年に本所鎔銅所長となり日光分銅所を提案、1904年9月3日に古河潤吉の許可を得て、1906年5月操業開始・7月に日光電気精銅所と改称した。立地は動力費・輸送費の比較で日光を選んだ
    • [13]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [14]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [15]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [16]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ
    • [17]古河の被覆線参入計画を受け横浜電線が井上馨の仲介で株式譲渡を提案、1908年7月の覚書で古河系出資54%・古河は被覆線直営を断念。10月24日の火災(損害23万2352円余)で借入依存が強まり、1909年4月に銅線4%割引の供給契約を結んだ

1909年〜古河家が掌握した横浜電線の経営と、日光電気精銅所を合わせた古河電気工業

古河家は1911年1月、横浜電線の取締役を横浜系と古河系の3人ずつとし、社長を木村利右衛門氏から中島久萬吉氏へ替えた。火災の後、横浜側の役員は拡張に消極的となり、ケーブル事業を推す古河派遣の常務の桜井貢吉氏との溝を深めた。1910年3月、中島久萬吉氏は木村利右衛門氏へ書簡を送り、常務の全般を古河家に委ねるよう求めた。1911年5月には横浜系大株主の持株の大半を古河虎之助氏が取得し、古河系の持株は66%に上昇。同じ1911年にはケーブル工場を新設して電纜の製造に着手し、資本金は250万円となった。前年に大阪出張所を設けていた横浜電線は、1910年に大阪の矢部電線を買収して関西の生産拠点を得た。

  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [18]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [19]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [20]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [21]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [23]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [22]1911年にケーブル工場を新設して電纜製造を始め資本金250万円、同年中島久万吉が第2代社長に就任

古河電気工業は1920年4月15日、横浜電線製造の商号変更と増資を経て、公称資本金2000万円で発足した。古河鉱業の工業部は1919年12月、銅線のシェア5割を保つための新工場案をまとめ、鉱業部門から工業部を切り離す組織改革も求めていた。古河商事の大連事件で古河鉱業の金融は逼迫し、工業部を横浜電線と合わせて新会社の株式を担保に資金を調達する案が3月末までに固まった。古河鉱業は日光電気精銅所と本所工場を現物出資し、帳簿価額が約50万円ずつだった両工場の固定資産を400万円と評価した。新会社では中島久萬吉氏が社長に再任され、工業部を率いた山口喜三郎氏が専務取締役に就任。粗銅の電気分解から裸線・被覆線・電纜までを一社で製造する態勢が整った。

  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
    • [24]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [25]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [26]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [27]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [28]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [29]1920年4月の現物出資で資本金2000万円となり社名を古河電気工業に変更、粗銅の電気分解から電纜まで一貫生産できる態勢となった
参考文献[18]-[29]
  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [18]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [19]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [20]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [21]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
    • [23]1908年の火災後に横浜側役員と古河側の対立が深まり、1910年3月に中島久萬吉が木村利右衛門に経営委託を要求、1911年1月に中島が社長に就任し木村は退任、5月に古河系持株66%。1910年に矢部電線を買収
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [22]1911年にケーブル工場を新設して電纜製造を始め資本金250万円、同年中島久万吉が第2代社長に就任
    • [29]1920年4月の現物出資で資本金2000万円となり社名を古河電気工業に変更、粗銅の電気分解から電纜まで一貫生産できる態勢となった
  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
    • [24]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [25]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [26]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [27]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎
    • [28]工業部の拡張・独立構想に大連事件による古河鉱業の金融逼迫が重なり、1920年4月15日に横浜電線の商号変更・増資で古河電気工業(公称資本金2000万円)が発足、日光・本所の固定資産を400万円と評価、社長中島久萬吉・専務山口喜三郎

1921年〜中川末吉氏に替えた経営陣と、シーメンス社と提携した富士電機製造

古河電気工業は1921年3月、中川末吉氏を専務取締役に登用し、山口喜三郎氏を取締役に降格した。大連事件と1920年恐慌を受け、古河合名の重役陣から山口喜三郎専務の拡張方針を批判し合理化を求める声が強まった。幹部の内紛を憂えた古河合名社長の古河虎之助氏が、合名幹部の更迭とあわせてこの人事を決めた。中川末吉氏は1911年に古河の初代電線係長として横浜電線製品の販売で実績を挙げ、1914年から1917年まで横浜電線の常務取締役を務めた人物である。新体制のもと、1921年12月には門司の九州電線製造を買収し、九州電線製造所とした。中川末吉氏は1925年12月に社長となり、1946年6月に会長へ移るまで経営を率いた。

  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
    • [30]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [31]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [32]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [33]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [35]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [34]1921年12月、門司市大里町の九州電線製造を買収し九州電線製造所とした

古河電気工業は1923年8月22日、ドイツのシーメンス社と共同で富士電機製造を設立した。計画が具体化したのは1919年末で、古河商事欧州出張員の稲垣平太郎氏とシーメンス社外国部長のケスラー氏の会談がきっかけである。大連事件で古河合名は資金調達の見通しを失い、1921年1月には提携の断念に傾いた。古河商事副社長の吉村萬次郎氏と専務の中川末吉氏が合名の幹部を説得し、古河電気工業が交渉と資本調達を担った。1921年6月の契約でシーメンス社は技術と特許の一切を供与し、資本金1000万円の20万株のうち6万株を引き受けた。古河電気工業が掲げた狙いは、国内の電機器具の製造が外国に劣る状況を改め、電気通信の発展にも備えることである。

  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
    • [36]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [37]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [38]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [39]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
  • 会社銀行八十年史(1955)富士電機製造
    • [40]1921年6月の古河電気工業とシーメンス社の契約に基づき技術・特許一切の供与を受け、1923年8月に資本金1000万円(20万株のうち古河7万株、シーメンス6万株)で設立
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [41]国内電機器具の製造の向上と電気通信事業の発展を見込み、1923年8月にシーメンス社と提携して富士電機製造を設立した

古河電気工業は1933年12月、大阪の日本伸銅と尼崎の尼崎伸銅を合併し、資本金は2265万円となった。日本伸銅専務取締役の茂野吉之助氏は両社の再建にあたり、古河系の伸銅と日光の圧延が重なる不合理を説いて統合を促していた。尼崎伸銅は1932年下期に管類の採算を確保し、棒と管の双方で利益を見込める部門となった。1933年9月、茂野吉之助氏を昭和石炭へ招く案が浮上し、帰京を望む本人の意向を古河側が容れて、日本伸銅との関係の見直しが始まった。同年10月上旬、古河側の幹部は日本伸銅の経営を3年間古河電気工業に委ね、改善しなければ関係を断つとの方針を決めた。電線に伸銅を加えて本体の事業とし、非鉄金属の加工を広く担う態勢で戦時と戦後の拡張を迎えたとみられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [42]1933年12月に大阪の日本伸銅と尼崎の尼崎伸銅を合併し資本金2265万円となった
  • 創業100年史(1991) 第4章 電線事業の躍進と伸銅事業の統合
    • [43]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [44]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [45]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [46]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
参考文献[30]-[46]
  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
    • [30]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [31]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [32]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [33]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [35]大連事件と1920年恐慌で古河合名重役陣が山口喜三郎専務の方針を批判、古河虎之助が1921年3月に中川末吉を専務に登用し山口を取締役に降格。中川は1925年12月社長、1946年6月会長
    • [36]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [37]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [38]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
    • [39]1919年末の稲垣平太郎とシーメンス社ケスラーの会談で計画が具体化、大連事件で古河合名が断念に傾いたが吉村萬次郎と中川末吉が説得し古河電気工業が交渉・資金を引き受け、1923年8月22日に富士電機製造の創立総会
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
    • [34]1921年12月、門司市大里町の九州電線製造を買収し九州電線製造所とした
    • [41]国内電機器具の製造の向上と電気通信事業の発展を見込み、1923年8月にシーメンス社と提携して富士電機製造を設立した
    • [42]1933年12月に大阪の日本伸銅と尼崎の尼崎伸銅を合併し資本金2265万円となった
  • 会社銀行八十年史(1955)富士電機製造
    • [40]1921年6月の古河電気工業とシーメンス社の契約に基づき技術・特許一切の供与を受け、1923年8月に資本金1000万円(20万株のうち古河7万株、シーメンス6万株)で設立
  • 創業100年史(1991) 第4章 電線事業の躍進と伸銅事業の統合
    • [43]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [44]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [45]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定
    • [46]茂野吉之助は日本伸銅・尼崎伸銅の再建にあたり伸銅と日光圧延の重複の不合理を主張、尼崎伸銅は1932年下期に管類も採算化、1933年9月の茂野の転出案を機に古河は日伸との関係を再検討し10月上旬に3年間の経営委任の方針を決定

出典・参考

6件
出典・参考
  • 創業100年史(1991) 第1章 電線工業の黎明期
  • 創業100年史(1991) 第2章 古河鉱業と横浜電線の提携
  • 創業100年史(1991) 第3章 古河電気工業株式会社の設立
  • 創業100年史(1991) 第4章 電線事業の躍進と伸銅事業の統合
  • 会社銀行八十年史(1955)古河電気工業
  • 会社銀行八十年史(1955)富士電機製造

免責事項およびポリシー