ニチアス:王寺・鶴見工場の新設と東証一部上場
1936年〜東西の工場移転と軍需から民需への切り替え
日本アスベストは1936年4月に大阪工場を奈良県の王寺へ移し、1939年12月には東京工場を横浜の鶴見へ移した。この間に増資を重ね、資本金は180万円に達していた。1938年の化学機械の展覧会には、品川の東京工場と北葛城郡の王寺工場を掲げて出品した。並べた製品は、南アフリカ産の青石綿を主材とし、硫酸や塩酸の容器の接手に使う耐酸性のシートパッキングなどである。東西の拠点を都市の中心から郊外へ移したのは、軍需の伸びに合わせて敷地を広げるためだったとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [1]1936年4月に大阪工場を移転し、奈良県に王寺工場を設置した
- [2]1939年12月に東京工場を移転し、横浜市に鶴見工場を設置した
- [3]1939年までに増資を繰り返し、資本金は180万円になっていた
- 化学機械及製品展覧講演会講演要録並展示品概説 第5回 1938年「日本アスベスト株式會社」
- [4]1938年の出品で東京工場(東京市品川区北品川)と王寺工場(奈良県北葛城郡王寺町)を掲げた
- [5]No.5000アシッドレジストジョインティングは南アフリカ産の青石綿を主材にゴムと耐酸配合材を加えたシートパッキングで、硫酸・塩酸・硝酸などの容器接手に使う
第二次大戦中、日本アスベストは軍の指定工場として軍需品を生産した。敗戦で軍需が消えると工場設備の復旧を急ぎ、重要産業向けの各種石綿製品へ切り替えた。1955年には鶴見工場と王寺工場がJIS表示工場の指定を受けた。1958年時点で、石綿製品と保温材では全国の約半分を生産する業界の最大手。納入先は造船・造機・化学・鉄道・鉄鋼・電力・繊維・食品にまで広がり、取引の単位は小さかった。軍という単一の買い手を失った後、多数の産業へ顧客を散らしたことが、戦後の再建の形を決めたと思われる。
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- [6]前大戦時は軍指定工場だった
- [8]敗戦で軍需が消え、民需への切り替えという創業以来の転換期を迎えた
- [11]石綿製品と保温材では日本全国の約半分を生産していた(1958年)
- [12]得意先は造船・造機・化学・鉄道・鉱業・鉄・金属・ガス・電力・繊維・食品などに及び、取引単位は小さい
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [7]第二次大戦中は軍需品の生産に従事した
- [9]終戦後は直ちに工場設備の復旧につとめ、重要産業部門向けの各種石綿製品の製造を始めた
- [10]1955年、鶴見工場(石綿板・ジョイントシート)と王寺工場(ジョイントシート・石綿糸・布)がJIS表示工場の指定を受けた
参考文献[1]-[12]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [1]1936年4月に大阪工場を移転し、奈良県に王寺工場を設置した
- [2]1939年12月に東京工場を移転し、横浜市に鶴見工場を設置した
- [3]1939年までに増資を繰り返し、資本金は180万円になっていた
- [7]第二次大戦中は軍需品の生産に従事した
- [9]終戦後は直ちに工場設備の復旧につとめ、重要産業部門向けの各種石綿製品の製造を始めた
- [10]1955年、鶴見工場(石綿板・ジョイントシート)と王寺工場(ジョイントシート・石綿糸・布)がJIS表示工場の指定を受けた
- 化学機械及製品展覧講演会講演要録並展示品概説 第5回 1938年「日本アスベスト株式會社」
- [4]1938年の出品で東京工場(東京市品川区北品川)と王寺工場(奈良県北葛城郡王寺町)を掲げた
- [5]No.5000アシッドレジストジョインティングは南アフリカ産の青石綿を主材にゴムと耐酸配合材を加えたシートパッキングで、硫酸・塩酸・硝酸などの容器接手に使う
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- [6]前大戦時は軍指定工場だった
- [8]敗戦で軍需が消え、民需への切り替えという創業以来の転換期を迎えた
- [11]石綿製品と保温材では日本全国の約半分を生産していた(1958年)
- [12]得意先は造船・造機・化学・鉄道・鉱業・鉄・金属・ガス・電力・繊維・食品などに及び、取引単位は小さい
1952年〜多品種の構成と研究所が支えた不況への耐性
1961年9月期の売上は、製品部門が63%、据え付けを担う工事部門が37%を占めた。製品の内訳はパッキング33.4%、保温材29.2%、テフロン10.2%、石綿紡織品7.3%と分かれていた。需要先はほぼ全業種に及び、1つの業種に3割以上を依存する製品はなかった。1952年6月の株式公開以来、1953〜54年と1957〜58年の不況期にも売上は減っていない。同業の朝日石綿は工場の屋根材となる石綿スレートが中心で、設備投資の増減が売上に直に響く構造だった。日本アスベストでは石綿スレートは売上の1割弱にとどまった。品目と顧客を散らした構成が、景気の波を吸収したと考えられる。
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [13]売上は製品部門63%、工事部門37%で、工事部門は石綿製品の販売に付帯する据付工事(1961年9月期)
- [14]製品部門の内訳はパッキング33.4%、保温材29.2%、テフロン10.2%、石綿紡織品7.3%、石綿スレート関係6.8%ほか
- [15]需要先は機械・電機・造船・自動車・車両・鉄鋼・窯業・化学などほぼ全業種で、1業種に3割以上依存する製品はない
- [17]1952年6月の公開以来、1953〜54年・1957〜58年の不況時にも売上高が減ったことはない
- [18]朝日石綿は石綿スレート中心の経営で、石綿スレートは工場の屋根材に使われ設備投資の増減の影響を受ける
- [19]日本アスベストの石綿スレートは売上の1割弱
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [16]1952年6月に東京証券市場の店頭売買承認銘柄として公開した
1956年、日本アスベストは創立60周年を記念して鶴見工場の敷地に中央研究所を設けた。所長を兼ねた常務の渡辺常正氏は保温材の研究で学位を得た技術者で、1958年には2階に残響室を増築していた。X線分析装置や電子顕微鏡をはじめ、主な試験設備だけで40〜50種類を備えた。同年にはセラミックファイバーを試作したものの、費用が高く製品化には届いていない。ふっ素樹脂のテフロンは1961年までの4〜5年で製品に加わり、製品売上の3位へ上がった。石綿という単一の原料から用途を広げる局面で、研究所が新素材を受け止める場になったのだろう。
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- [20]研究所は1956年に創立60周年を記念して鶴見工場に建設され、中央研究所と呼ばれた
- [22]常務・研究所長の渡辺常正は保温材の研究で学位を得ており、1958年に研究所2階へ140立方メートル以上の残響室を増築中だった
- [23]X線分析装置・電子顕微鏡・万能材料試験機など主な試験設備は40〜50種類
- [24]研究所がセラミックファイバーを完成させたが、現段階ではコストが高いとされた(1958年)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [21]1956年に研究所を設置し、各種アスベスト製品の研究体制を強化した
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [25]テフロンは4〜5年前から加わったふっ素樹脂の新製品で、製品売上で3位(1961年)
設備の合理化と拡充は自己資金で賄い、1957年1月の倍額増資の後も資本金は1億8,000万円にとどまった。1958年3月期の売上高は10億2,600万円、利益は8,000万円で、配当は2割である。1955年9月期に5億9,100万円だった売上高は、1961年9月期に26億円弱と4.4倍になった。この間、利益の内部留保率は常に50%以上を保ち、銀行借入金は長短合わせて2億7,000万円にとどめた。資本に対する利益の比率は100%を超え、店頭株の時代から過少資本の優良銘柄として一部の投資家に知られた。増資を急がず利益を設備に充てる運び方が、この評価の源にあったと推察される。
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- [26]製品需要の増大に対応した設備の合理化・拡充をすべて自己資金で賄ってきた
- [27]1957年1月25日払込の有無償抱き合わせ倍額増資で資本金1億8,000万円となった
- [28]前3月期(1958年3月期)は売上高10億2,600万円・利益8,000万円で2割配当
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [29]売上高は1955年9月期5億9,100万円から1961年9月期26億円弱へ4.4倍
- [30]内部留保率は常に50%以上、銀行借入金は長短合わせて2億7,000万円
- [31]対資本利益率は100%以上を維持してきた
- [32]店頭株のころから過小資本の優良銘柄として一部の投資家に注目されてきた
参考文献[13]-[32]
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [13]売上は製品部門63%、工事部門37%で、工事部門は石綿製品の販売に付帯する据付工事(1961年9月期)
- [14]製品部門の内訳はパッキング33.4%、保温材29.2%、テフロン10.2%、石綿紡織品7.3%、石綿スレート関係6.8%ほか
- [15]需要先は機械・電機・造船・自動車・車両・鉄鋼・窯業・化学などほぼ全業種で、1業種に3割以上依存する製品はない
- [17]1952年6月の公開以来、1953〜54年・1957〜58年の不況時にも売上高が減ったことはない
- [18]朝日石綿は石綿スレート中心の経営で、石綿スレートは工場の屋根材に使われ設備投資の増減の影響を受ける
- [19]日本アスベストの石綿スレートは売上の1割弱
- [25]テフロンは4〜5年前から加わったふっ素樹脂の新製品で、製品売上で3位(1961年)
- [29]売上高は1955年9月期5億9,100万円から1961年9月期26億円弱へ4.4倍
- [30]内部留保率は常に50%以上、銀行借入金は長短合わせて2億7,000万円
- [31]対資本利益率は100%以上を維持してきた
- [32]店頭株のころから過小資本の優良銘柄として一部の投資家に注目されてきた
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [16]1952年6月に東京証券市場の店頭売買承認銘柄として公開した
- [21]1956年に研究所を設置し、各種アスベスト製品の研究体制を強化した
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- [20]研究所は1956年に創立60周年を記念して鶴見工場に建設され、中央研究所と呼ばれた
- [22]常務・研究所長の渡辺常正は保温材の研究で学位を得ており、1958年に研究所2階へ140立方メートル以上の残響室を増築中だった
- [23]X線分析装置・電子顕微鏡・万能材料試験機など主な試験設備は40〜50種類
- [24]研究所がセラミックファイバーを完成させたが、現段階ではコストが高いとされた(1958年)
- [26]製品需要の増大に対応した設備の合理化・拡充をすべて自己資金で賄ってきた
- [27]1957年1月25日払込の有無償抱き合わせ倍額増資で資本金1億8,000万円となった
- [28]前3月期(1958年3月期)は売上高10億2,600万円・利益8,000万円で2割配当
1959年〜上場と不燃建材への展開
1959年10月、日本アスベストは祖岳製作所を合併し、竹鼻工場(現羽島工場)を新たな工場に加えた。株式は1961年の第二市場の発足とともに東証第二部へ上場し、同年の増資では130万株の公募を付けた。公募には、第一部へ上場するために株主の分布を整える狙いがあった。増資で資本金は6億5,000万円となり、第一部への昇格は翌1962年。上場の後は投資家の関心がにわかに高まり、株価は1961年11月に300円台へ戻した。自己資金で育った会社が、建材への投資を前に資本市場からの調達路を整えた手順とみてよい。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [33]1959年10月に祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場)を新たに工場として受け入れた
- [34]1961年に東証第二部に上場した
- [38]1962年に東証一部へ昇格した
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [35]前回の増資では130万株の公募を付けた
- [36]公募は第一市場へ上場するための株主分布構成の是正の意味もあった
- [37]増資で資本金は6億5,000万円にふえた
- [39]第二市場に上場して以来にわかに脚光を浴び、株価は第二市場の発足とともに持ち直して11月に300円台に乗せた
新製品では建築材に力を入れ、英国のケープアスベスト社と提携して不燃の建材を企業化した。木材と同じ重さで石綿セメント板の約3分の1、鋸引きや釘打ちもでき、1960年4月から竹鼻工場で年産38万枚の設備で作り始めた。建築基準法の改正で不燃建材の使用が広がり始めた時期にあたる。続いて静岡県の袋井に10万平方メートルの敷地を買い、工費6億円で1964年までに年産140万枚とする新工場の建設に着手した。1968年には、相次ぐビル火災で難燃とされた断熱材が有毒ガスと黒煙を出すと分かり、完全不燃のアスベストラックスの需要が伸びた。
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [40]英国のケープアスベスト社と提携して新建築材ファイヤーボードを企業化した
- [42]ファイヤーボードは木材と同じ目方で石綿セメント板の約3分の1、鋸引き・釘打ち・カンナかけができる
- [43]1960年4月から岐阜竹鼻工場で生産を始め、年産38万枚の設備能力を持つ
- [44]建築基準法の改正で一般に不燃建築材の使用が普及しつつあった
- [45]静岡県袋井に10万平方メートルの敷地を買収し、工費6億円で1964年までに年産140万枚の量産体制を整える新工場の建設に着手した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本アスベスト」
- [41]英国ケープアスベスト社・ケープ建材社とアスベストラックス(アモサイト石綿を主体とする不燃断熱板)の製造に関し技術提携を結んだ
- 週刊日本経済 21(23) 1968年6月6日
- [46]相次ぐビル火災で難燃性とされた断熱材・化粧板が悪性ガスと多量の黒煙を出すと分かり、完全不燃のアスベストラックスが見直された
1965年の業績低下の局面で徹底した合理化を行い、1967年3月期以降は毎期、創業以来の最高売上を更新した。1968年3月期の売上高は63億3,700万円で、工事部門が21億6,900万円まで伸びた。製品の生産は能力いっぱいに達しており、5か所の工場を原価率の面から将来は袋井へ集約する方針を示した。利益が2億円を超えた1967年9月期から3年間、利益の伸びは年平均40%強。中期計画は1975年に売上360〜370億円・利益22億円を掲げ、建材の比率を売上の50%近くへ高めるとした。それでも1970年時点で、保温・保冷工事はなお総売上の4分の1を占めていた。設備投資の波に左右される産業資材の会社が、住宅と建築の需要を第2の柱に据えようとした転機にあたるだろう。
- 週刊日本経済 21(23) 1968年6月6日
- [47]1965年の業績低下時に徹底した合理化を行い、1967年3月期以降は創業以来の売上を毎期記録した
- [48]1968年3月期の売上高は63億3,700万円、工事部門は21億6,900万円
- [49]製品部門は生産が限度一杯の能力で、5か所の工場を原価率の面から将来は袋井に集約する方針
- 投資信託事情 13(9) 1970年「ストック・セレクション・ガイド――日本アスベスト」
- [50]利益が2億円を超えた1967年9月期以来、最近3年間の利益成長率は年平均40%強
- [51]中期計画は1975年に売上360〜370億円・利益22億円を目標とし、建材部門のウェイトを総売上の50%近くまで高める予定
- [52]石油化学などへの保温・保冷工事は今でも総売上の4分の1を占める(1970年)
参考文献[33]-[52]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [33]1959年10月に祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場)を新たに工場として受け入れた
- [34]1961年に東証第二部に上場した
- [38]1962年に東証一部へ昇格した
- 野田経済 797 1961年12月18日
- [35]前回の増資では130万株の公募を付けた
- [36]公募は第一市場へ上場するための株主分布構成の是正の意味もあった
- [37]増資で資本金は6億5,000万円にふえた
- [39]第二市場に上場して以来にわかに脚光を浴び、株価は第二市場の発足とともに持ち直して11月に300円台に乗せた
- [40]英国のケープアスベスト社と提携して新建築材ファイヤーボードを企業化した
- [42]ファイヤーボードは木材と同じ目方で石綿セメント板の約3分の1、鋸引き・釘打ち・カンナかけができる
- [43]1960年4月から岐阜竹鼻工場で生産を始め、年産38万枚の設備能力を持つ
- [44]建築基準法の改正で一般に不燃建築材の使用が普及しつつあった
- [45]静岡県袋井に10万平方メートルの敷地を買収し、工費6億円で1964年までに年産140万枚の量産体制を整える新工場の建設に着手した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本アスベスト」
- [41]英国ケープアスベスト社・ケープ建材社とアスベストラックス(アモサイト石綿を主体とする不燃断熱板)の製造に関し技術提携を結んだ
- 週刊日本経済 21(23) 1968年6月6日
- [46]相次ぐビル火災で難燃性とされた断熱材・化粧板が悪性ガスと多量の黒煙を出すと分かり、完全不燃のアスベストラックスが見直された
- [47]1965年の業績低下時に徹底した合理化を行い、1967年3月期以降は創業以来の売上を毎期記録した
- [48]1968年3月期の売上高は63億3,700万円、工事部門は21億6,900万円
- [49]製品部門は生産が限度一杯の能力で、5か所の工場を原価率の面から将来は袋井に集約する方針
- 投資信託事情 13(9) 1970年「ストック・セレクション・ガイド――日本アスベスト」
- [50]利益が2億円を超えた1967年9月期以来、最近3年間の利益成長率は年平均40%強
- [51]中期計画は1975年に売上360〜370億円・利益22億円を目標とし、建材部門のウェイトを総売上の50%近くまで高める予定
- [52]石油化学などへの保温・保冷工事は今でも総売上の4分の1を占める(1970年)
出典・参考
7件
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本アスベスト」
- 週刊日本経済 21(23) 1968年6月6日
- 化学機械及製品展覧講演会講演要録並展示品概説 第5回 1938年「日本アスベスト株式會社」
- 日本経済新報 11(25) 1958年
- 野田経済 797 1961年12月18日
- 投資信託事情 13(9) 1970年「ストック・セレクション・ガイド――日本アスベスト」