住友大阪セメント:戦時の企業整備による7工場への拡大と戦後の原価競争
1932年〜統制が締めるほど進んだ合併と、シリカセメントによる制限の回避
業界の5割5分から5割7分にのぼる生産制限に、磐城セメントは協力を続けてきた。そのうえで同社は、ポルトランドセメント80%に珪酸質20%を加えるシリカセメントを開発し、1936年3月に四倉工業所、7月に湊工業所で製造に入った。1937年9月の臨時資金調整法の公布に伴い、事業資金調整標準が全産業を甲・乙・丙の三種に分けると、セメント産業は不急不要の丙種とされた。日中戦争が始まって軍事施設向けの需要は伸びていた。それでも丙種に回されたのは、1932年以降セメント連合会の生産制限率がいつも50%を上回り、各社の設備が大きく遊んでいたためである。1938年10月には石炭の消費割当が切符制に変わり、業界が受けた生産制限は実質で70%以上となった。石炭の割り当てが細るのに合わせて、磐城セメントは石炭の要らない製品の割合を高めていった。
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [1]磐城セメントは業界の5割5分から5割7分に及ぶ生産制限による市価安定に積極的に協力した
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [2]磐城セメントはポルトランドセメント80%・珪酸質20%の割合で混合したシリカセメントの開発に成功し1936年3月から四倉工業所で、同年7月から湊工業所で製造を開始した
- [3]1937年9月公布の臨時資金調整法にともなう事業資金調整標準で全産業が甲・乙・丙の三種に分類され、セメント産業は不急不要の丙種に指定された
- [4]丙種に入れられたのは1932年以降セメント連合会の生産制限率が常に50%を超え各社の設備の遊休度がきわめて高かったためである
- [5]1938年9月に石炭配給統制規則が公布され10月から切符制の消費割当が実施されると業界は実質70%以上の生産制限を実施せざるをえなくなった
1936年9月にセメント工場の新増設が商工省の許可制になると、建設途上の工場は窯を据えたまま動かせなくなった。磐城セメントの傘下にあった富国セメントの葛生工場は、キルン4基のうち2基を撫順セメントと南満鉱業へ売却し、2基・月産3万トンで操業する計画に変えていた。ところが許可されたのはキルン1基・月産1万5000トンで、不許可の1基を抱えた変則的な操業となった。富山セメントの二見工場もキルン2基のうち1基が不許可だった。富国セメントの社長を兼ねていた岩崎清七社長は、富国が富山を吸収合併して2基の運転を確保し、解散する富山の2基は売却処分にする計画を立てた。実質的な生産能力の拡大ではないため手続き上の問題もなく、1939年12月に両社は合併した。磐城セメントは翌1940年12月に富国セメントを合併し、資本金2800万円となった。
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [6]1936年9月からセメント工場の新増設が商工省の許可制となった
- [7]富国セメント葛生工場はキルン4基を建設したのち2基を撫順セメントと南満鉱業へ売却しキルン2基・年産能力36万トン(月産3万トン)で操業する計画に変更した
- [8]建設中の葛生工場はキルン1基・月産能力1万5000トンしか許可にならず不許可のキルン1基をかかえたままの変則的なスタートとなった
- [9]富山セメント二見工場もキルン2基・月産能力2万8500トンのうち1基が不許可で運転できなかった
- [10]富国セメントの社長でもあった岩崎清七社長は富国セメントが富山セメントを吸収合併して2基運転を確保し解散する富山セメントの2基は売却処分にするという計画を立てた
- [11]実質的な生産能力の拡大ではないから手続き上の問題もなく1939年12月に富国セメントと富山セメントが合併した
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [12]1940年12月に栃木県葛生町に新設工場を有する系列の富国セメントを合併し資本金2800万円となった
創立30周年を迎えた1938年5月、岩崎清七社長は従業員向けの訓示をレコードに録音した。訓示では、六大セメント会社が磐城セメントの統制下にあって月産能力は30万トンになったと伝え、先輩格の浅野・小野田と比べても見劣りしない水準に届いたと語っている『これを先輩会社の浅野・小野田の両大会社に比して、すべての点においてあまり遜色をみない程度に達したことは、諸君、ご存じのとおりであります』。合併で傘下に集めた各社を、岩崎社長はひとつの統制単位として動かす体制に組み上げていた。1941年4月には葛生石灰工業と山陰石膏、6月には立山製錬を合併し、石灰部を新たに置いて石灰石と石膏の事業を直営とした。同年11月、七尾・豊国・敦賀の3セメント会社を合併し、七尾・苅田の2工場が加わって、資本金は4150万円となった。本社の機構は1937年2月の3課から1941年12月の5部へ広がり、セメントの生産数量は1932年度の24万2000トンから1941年度の55万4860トンへ増え、国内生産の10.6%を占めた。
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [13]岩崎清七社長は1938年5月の創立30周年にあたり訓示をレコードに吹き込み、当社の統制のもとに六大セメント会社を有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた
- [14]1941年4月に葛生石灰工業と山陰石膏を、6月に立山製錬を合併し、石灰部を新設して石灰石・石灰類・ドロマイト・石膏の事業を直営化した
- [16]1937年2月に本社3課だった機構は1941年12月には本社5部・工場7か所・営業所4か所の規模になった
- [17]磐城セメントのセメント生産数量は1932年度の24万2000トンから1941年度には55万4860トンとなり国内生産数量の10.6%にあたる実績を残した
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [15]1941年11月に福岡県苅田・石川県敦賀に工場を有する豊国セメントおよび石川県七尾に工場を持つ七尾セメントを合併し資本金は4150万円となった
参考文献[1]-[17]
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [1]磐城セメントは業界の5割5分から5割7分に及ぶ生産制限による市価安定に積極的に協力した
- [12]1940年12月に栃木県葛生町に新設工場を有する系列の富国セメントを合併し資本金2800万円となった
- [15]1941年11月に福岡県苅田・石川県敦賀に工場を有する豊国セメントおよび石川県七尾に工場を持つ七尾セメントを合併し資本金は4150万円となった
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [2]磐城セメントはポルトランドセメント80%・珪酸質20%の割合で混合したシリカセメントの開発に成功し1936年3月から四倉工業所で、同年7月から湊工業所で製造を開始した
- [3]1937年9月公布の臨時資金調整法にともなう事業資金調整標準で全産業が甲・乙・丙の三種に分類され、セメント産業は不急不要の丙種に指定された
- [4]丙種に入れられたのは1932年以降セメント連合会の生産制限率が常に50%を超え各社の設備の遊休度がきわめて高かったためである
- [5]1938年9月に石炭配給統制規則が公布され10月から切符制の消費割当が実施されると業界は実質70%以上の生産制限を実施せざるをえなくなった
- [6]1936年9月からセメント工場の新増設が商工省の許可制となった
- [7]富国セメント葛生工場はキルン4基を建設したのち2基を撫順セメントと南満鉱業へ売却しキルン2基・年産能力36万トン(月産3万トン)で操業する計画に変更した
- [8]建設中の葛生工場はキルン1基・月産能力1万5000トンしか許可にならず不許可のキルン1基をかかえたままの変則的なスタートとなった
- [9]富山セメント二見工場もキルン2基・月産能力2万8500トンのうち1基が不許可で運転できなかった
- [10]富国セメントの社長でもあった岩崎清七社長は富国セメントが富山セメントを吸収合併して2基運転を確保し解散する富山セメントの2基は売却処分にするという計画を立てた
- [11]実質的な生産能力の拡大ではないから手続き上の問題もなく1939年12月に富国セメントと富山セメントが合併した
- [13]岩崎清七社長は1938年5月の創立30周年にあたり訓示をレコードに吹き込み、当社の統制のもとに六大セメント会社を有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた
- [14]1941年4月に葛生石灰工業と山陰石膏を、6月に立山製錬を合併し、石灰部を新設して石灰石・石灰類・ドロマイト・石膏の事業を直営化した
- [16]1937年2月に本社3課だった機構は1941年12月には本社5部・工場7か所・営業所4か所の規模になった
- [17]磐城セメントのセメント生産数量は1932年度の24万2000トンから1941年度には55万4860トンとなり国内生産数量の10.6%にあたる実績を残した
1941年〜セメント窯を止めて始めた含ニッケル鉄と、軍需会社指定下の能力半減
磐城セメントは、ドイツから製錬法を買わずに自分で組むことを選んだ。含ニッケル鉄は飛行機・魚雷・戦車の主要部品や砲弾に欠かせない金属で、軍が増産を強く求めていた。原料の含ニッケル鉱土は日本電気工業の森矗昶社長が1936年に発見した京都府北部の大江山鉱山から供給され、岩崎清七社長は森社長の要請を受けてこの分野へ進出した。1939年、当時まだ傍系だった七尾セメントが休止中のキルン1基で試験製錬に着手した。製錬法としてはドイツのクルップ社のレン法が知られていたが、特許と設備の買収に多額の資金を要するうえ、機械類の到着に1年半かかった。そこで工務部長の眞田義彰氏の技術研究により独創的な方法を開発し、試験製錬にこぎつけた。1941年8月には製鉄事業法第3条の許可を得て本格的な生産に入り、月産1500トンを生産した。
- 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
- [18]含ニッケル鉄は飛行機・魚雷・戦車などの主要部品や砲弾に欠かせぬ金属で重要な軍需物資としてその増産が軍から強く要望されていた
- [19]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料にし、同鉱山は日本電気工業の森矗昶社長が1936年に発見したものである
- [20]岩崎清七社長は森矗昶社長からの要請もあって含ニッケル鉄の分野に事業進出した
- [21]七尾工場が休止中のキルン1基を利用し含ニッケル鉄の試験製錬に着手したのは1939年のことである
- [22]ドイツのクルップ社のレン法は特許と設備の買収に多額の資金を必要とするばかりか機械類の到着に1年半もかかった
- [23]工務部長の眞田義彰の技術研究により独創的な方法を開発し試験製錬にこぎつけた
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [24]1941年8月に製鉄事業法第3条の許可を得て本格的な生産を始め月産1500トンを生産した
太平洋戦争の開戦時、磐城セメントは八戸・四倉・栃木・七尾・敦賀・苅田の6工場で月産13万1900トンのセメント生産能力を持っていた。しかし軍はセメント以外の軍需物資を求め、七尾工場は1942年4月から含ニッケル鉄の製造に全面転換してセメントの生産を休止し、栃木工場も1944年5月から製鋼用耐火炉材のドロマイトクリンカーへ全面転換した。政府当局の要請による設備の移設も重なり、1942年6月に八戸工場から敦賀工場へキルン1基、1943年4月に四倉工場から蒙疆洋灰へ1基、6月に苅田工場からクアラルンプール工場へ2基が運び出された。1944年の国内5工場の合計は月産7万4800トン程度まで落ちた。同年4月には第2次指定でセメント11社がそろって軍需会社となり、岩崎清一郎社長が生産責任者に、各工場長が生産担当者に指名された。
- 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
- [25]太平洋戦争が始まった1941年12月、磐城セメントは八戸・四倉・栃木・七尾・敦賀・苅田の6工場・月産13万1900トンのセメント生産能力をもっていた
- [26]七尾工場は1942年4月から含ニッケル鉄の製造に全面転換しセメント生産を中止した
- [27]栃木工場は1944年5月からセメント用キルン2基を製鋼用耐火炉材のドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
- [28]1942年6月に八戸工場から敦賀工場へキルン1基、1943年4月に四倉工場から蒙疆洋灰へキルン1基、同年6月に苅田工場からマレーセメント社のクアラルンプール工場へキルン2基が移設された
- [29]1944年には八戸・四倉・日立・敦賀・苅田の5工場の合計で月産7万4800トン程度まで国内のセメント生産能力が低下していた
- [30]企業整備によって11社に整理統合されていたセメントメーカーは全社が1944年4月の第2次指定を受けて軍需会社となり、岩崎清一郎社長は生産責任者に、各工場長は生産担当者に指名された
1943年5月、岩崎清七氏が初代会長に退き、専務の岩崎清一郎氏が第三代社長に就いた。清七氏は1923年の社長就任以来20年で、資本金300万円・1工場の会社を資本金4150万円・6工場のわが国第三位のセメントメーカーに育てていた。戦時の業績はセメント以外の製品が支え、含ニッケル鉄は1943年度に総売上の22%にあたる744万円へ達し、1942年度から1944年度まで純益金の40%から50%を占めた。セメント製造を軍需資材の生産に転換するところまで進んだのである。しかし1945年度に入ると石炭の配給が皆無となってセメントの生産は激減し、7月から8月にかけて各工場が空襲を受けた。1945年上期から無配となり、海外の会社への投資などの損失は1647万3700円余に達した。
- 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
- [31]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に、岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
- [32]岩崎清七は1923年に第二代社長に就任して以来20年で資本金300万円・1工場の会社を資本金4150万円・6工場というわが国第三位のセメントメーカーに育て上げた
- [33]含ニッケル鉄は1943年度に総売上の22%を占める744万円に達し、その利益は1942年度から1944年度までセメントを上回り純益金の40〜50%を占めた
- [35]1945年度に入ると石炭配給が皆無の状況となってセメント生産は激減し、同年7月から8月にかけて各セメント工場と下田加里肥料工場が空襲を受けた
- [36]1945年下期にセメントの公定価格が2倍に値上げされたにもかかわらず売上げ・利益とも大幅に減り1945年上期から無配となった
- [37]海外の会社に対する有価証券投資などの損失総額は1647万3700円余りに達し、1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [34]磐城セメントは下田工場でのカリ肥料製造や石灰の製造等に励み、栃木工場でセメント製造を中止してドロマイトクリンカーの焼成を開始するなど、本来のセメント製造の業務を軍需資材の生産に転換するまでに至った
参考文献[18]-[37]
- 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
- [18]含ニッケル鉄は飛行機・魚雷・戦車などの主要部品や砲弾に欠かせぬ金属で重要な軍需物資としてその増産が軍から強く要望されていた
- [19]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料にし、同鉱山は日本電気工業の森矗昶社長が1936年に発見したものである
- [20]岩崎清七社長は森矗昶社長からの要請もあって含ニッケル鉄の分野に事業進出した
- [21]七尾工場が休止中のキルン1基を利用し含ニッケル鉄の試験製錬に着手したのは1939年のことである
- [22]ドイツのクルップ社のレン法は特許と設備の買収に多額の資金を必要とするばかりか機械類の到着に1年半もかかった
- [23]工務部長の眞田義彰の技術研究により独創的な方法を開発し試験製錬にこぎつけた
- [25]太平洋戦争が始まった1941年12月、磐城セメントは八戸・四倉・栃木・七尾・敦賀・苅田の6工場・月産13万1900トンのセメント生産能力をもっていた
- [26]七尾工場は1942年4月から含ニッケル鉄の製造に全面転換しセメント生産を中止した
- [27]栃木工場は1944年5月からセメント用キルン2基を製鋼用耐火炉材のドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
- [28]1942年6月に八戸工場から敦賀工場へキルン1基、1943年4月に四倉工場から蒙疆洋灰へキルン1基、同年6月に苅田工場からマレーセメント社のクアラルンプール工場へキルン2基が移設された
- [29]1944年には八戸・四倉・日立・敦賀・苅田の5工場の合計で月産7万4800トン程度まで国内のセメント生産能力が低下していた
- [30]企業整備によって11社に整理統合されていたセメントメーカーは全社が1944年4月の第2次指定を受けて軍需会社となり、岩崎清一郎社長は生産責任者に、各工場長は生産担当者に指名された
- [31]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に、岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
- [32]岩崎清七は1923年に第二代社長に就任して以来20年で資本金300万円・1工場の会社を資本金4150万円・6工場というわが国第三位のセメントメーカーに育て上げた
- [33]含ニッケル鉄は1943年度に総売上の22%を占める744万円に達し、その利益は1942年度から1944年度までセメントを上回り純益金の40〜50%を占めた
- [35]1945年度に入ると石炭配給が皆無の状況となってセメント生産は激減し、同年7月から8月にかけて各セメント工場と下田加里肥料工場が空襲を受けた
- [36]1945年下期にセメントの公定価格が2倍に値上げされたにもかかわらず売上げ・利益とも大幅に減り1945年上期から無配となった
- [37]海外の会社に対する有価証券投資などの損失総額は1647万3700円余りに達し、1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- [24]1941年8月に製鉄事業法第3条の許可を得て本格的な生産を始め月産1500トンを生産した
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [34]磐城セメントは下田工場でのカリ肥料製造や石灰の製造等に励み、栃木工場でセメント製造を中止してドロマイトクリンカーの焼成を開始するなど、本来のセメント製造の業務を軍需資材の生産に転換するまでに至った
1945年〜三工場の返還による集中排除法の指定解除と、レポール方式による燃料費の削減
磐城セメントは特別経理会社の指定を受け、1946年8月10日現在で打切り決算を行い、新勘定での経営に移った。この指定は、1946年8月に政府が戦時補償の打切りを受け入れた際、あわせて公布した会社経理応急措置法による。同法は損失が大きい会社を対象に、再建に要る部分を新勘定、残りを旧勘定に分けて棚上げすることを認めていた。同じころ、戦時の企業整備で取得した工場を元の持ち主に戻す作業も進んだ。常陸セメントを1943年に合併して得た日立工場は、同社の株主が1947年10月に設立した新会社に返すことになり、同年11月に切り離された。敦賀工場は1948年1月に設立された新しい敦賀セメントへ2月に、苅田工場は3月に新しい豊国セメントへ返すことが決まった。いずれも商工省とGHQに相談したうえでの措置だった。
- 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
- [38]磐城セメントは特別経理会社に指定され1946年8月10日現在で打切り決算を実施し勘定を新旧に分離して新勘定による経営を開始した
- [39]政府は戦時補償打切りの実施と同時に会社経理応急措置法を公布し、損失の大きい会社を特別経理会社に指定して勘定を新旧に分け事業の再建に必要な部分を新勘定、その他を旧勘定として分離・棚上げする措置を認めた
- [40]日立工場は常陸セメントの株主が1947年10月に設立した新しい常陸セメントへの返還を決め同年11月をもって分離した
- [41]敦賀工場は1948年1月に設立された新しい敦賀セメントへ同年2月に分離手続を完了し、苅田工場は同年3月をもって新しい豊国セメントへの返還を決定した
- [42]三工場の返還措置はすべて商工省・GHQとも相談のうえ決定したものであった
セメント業界で指定されたのは日本・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社で、磐城セメントが過度経済力集中排除法の審査対象となったのは1948年2月である。もっとも、指定時の同社は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場で月産能力3万8400トン、全国シェアは10%にすぎず、経済力の過度な集中と呼べる規模には遠かった。同社は三工場を切り離した事情と経緯を書面にまとめて同年5月に財閥解体の執行機関である持株会社整理委員会へ出し、7月に指定の取消しを得た。8月に出した再建整備計画は9月30日付で認められ、その日に新旧の勘定を併合した。10月には特別経理会社の指定も解除された。1940年3月以来のセメントの国家統制は1950年1月に全廃され、10年ぶりの自由競争が戻った。
- 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
- [43]1948年2月の過度経済力集中排除法の審査対象指定ではセメント業界から日本・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
- [44]磐城セメントは1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
- [45]過度経済力集中排除法適用の指定を受けた時点の磐城セメントの業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン、全国シェア10%だった
- [46]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会に提出して同法による指定の解除を申し入れ、7月にその取消しを受けた
- [47]1948年8月に再建整備計画を当局に提出し9月30日付で認可されたので同日をもって新旧両勘定を併合し特別損失を新勘定の利益で補塡した
- [49]1940年3月以来のセメントの国家統制は1950年1月をもって廃止され10年ぶりの自由競争時代を迎えた
- 株式会社年鑑 1951年版 磐城セメント
- [48]1948年10月に特別経理会社の指定が解除された
採用したレポール方式では、乾式キルンなら1トン当り160万から180万キロカロリーかかる焼成熱量を、90万から100万キロカロリーに抑えられた。斎藤次郎社長の下で磐城セメントが設備の規模ではなく燃料費で競う道を選んだのは、経済復興が本格化するなか、これからの競争を決めるのは生産能力を増やすことより製造原価を下げることだとみていたからである。電源開発の佐久間ダムへ専属で納める話がまとまり、静岡県引佐郡井伊谷村に総工費約30億円の浜松工場を建設して、1954年7月に完成させた。1955年2月の生産能力は全国6工場・回転窯19基で月間16万3800トン、全国の15.1%に達した。1960年度の売上高268億2047万9000円のうち、セメントは71.9%を占めた。原価で競う形を先に作った会社が、復興期の需要の伸びをそのまま取れた。
- 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
- [50]レポール方式は乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万キロカロリーを要する熱量を90万〜100万キロカロリーに低減できた
- [51]磐城セメントは本格的な経済復興期を迎えて今後の企業間競争は生産能力の増強のみでなく製造原価の低減に左右されるという見通しのうえに立ち燃料費の削減に注目して他社を凌駕しうる新しい製造方式を探索していた
- [52]佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜の新工場計画を変更し静岡県引佐郡井伊谷村にわが国初の大型レポール式工場を建設することが決まった
- [53]浜松工場は総工費約30億円をもって1954年7月にレポールキルン2基・月産能力2万5200トンの工場として完成した
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [54]1955年2月現在、磐城セメントは全国に6工場・回転窯19基を有し生産能力は月間16万3800トンと全国のセメント生産能力の15.1%を占めた
- 株式会社年鑑 1962年版 磐城セメント
- [55]1960年度の売上高26,820,479千円のうちセメントが19,292,277千円・71.9%を占め、残りをドロマイトクリンカー外が占めた
参考文献[38]-[55]
- 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
- [38]磐城セメントは特別経理会社に指定され1946年8月10日現在で打切り決算を実施し勘定を新旧に分離して新勘定による経営を開始した
- [39]政府は戦時補償打切りの実施と同時に会社経理応急措置法を公布し、損失の大きい会社を特別経理会社に指定して勘定を新旧に分け事業の再建に必要な部分を新勘定、その他を旧勘定として分離・棚上げする措置を認めた
- [40]日立工場は常陸セメントの株主が1947年10月に設立した新しい常陸セメントへの返還を決め同年11月をもって分離した
- [41]敦賀工場は1948年1月に設立された新しい敦賀セメントへ同年2月に分離手続を完了し、苅田工場は同年3月をもって新しい豊国セメントへの返還を決定した
- [42]三工場の返還措置はすべて商工省・GHQとも相談のうえ決定したものであった
- [43]1948年2月の過度経済力集中排除法の審査対象指定ではセメント業界から日本・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
- [44]磐城セメントは1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
- [45]過度経済力集中排除法適用の指定を受けた時点の磐城セメントの業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン、全国シェア10%だった
- [46]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会に提出して同法による指定の解除を申し入れ、7月にその取消しを受けた
- [47]1948年8月に再建整備計画を当局に提出し9月30日付で認可されたので同日をもって新旧両勘定を併合し特別損失を新勘定の利益で補塡した
- [49]1940年3月以来のセメントの国家統制は1950年1月をもって廃止され10年ぶりの自由競争時代を迎えた
- [50]レポール方式は乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万キロカロリーを要する熱量を90万〜100万キロカロリーに低減できた
- [51]磐城セメントは本格的な経済復興期を迎えて今後の企業間競争は生産能力の増強のみでなく製造原価の低減に左右されるという見通しのうえに立ち燃料費の削減に注目して他社を凌駕しうる新しい製造方式を探索していた
- [52]佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜の新工場計画を変更し静岡県引佐郡井伊谷村にわが国初の大型レポール式工場を建設することが決まった
- [53]浜松工場は総工費約30億円をもって1954年7月にレポールキルン2基・月産能力2万5200トンの工場として完成した
- 株式会社年鑑 1951年版 磐城セメント
- [48]1948年10月に特別経理会社の指定が解除された
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- [54]1955年2月現在、磐城セメントは全国に6工場・回転窯19基を有し生産能力は月間16万3800トンと全国のセメント生産能力の15.1%を占めた
- 株式会社年鑑 1962年版 磐城セメント
- [55]1960年度の売上高26,820,479千円のうちセメントが19,292,277千円・71.9%を占め、残りをドロマイトクリンカー外が占めた
出典・参考
6件
- 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
- 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
- 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
- 株式会社年鑑 1951年版 磐城セメント
- 会社銀行八十年史(1955年)磐城セメント
- 株式会社年鑑 1962年版 磐城セメント