日本セメント:財閥解体による浅野一族の退任と業界首位への到達
1945年〜財閥解体で浅野家が退き、社名が日本セメントになるまで
1945年8月15日、浅野セメントの本社は海上ビル新館の会議室で玉音放送を聞いた。ただちに緊急常勤重役会が開かれ、新規事業と新規購入を差し控えること、給料と食糧の手当、幹部の東京待機などが当面の経営方針として決まった。9月7日にはGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出て、本社は日本鋼管の大手町分室など3カ所に分散した。敗戦により、朝鮮、台湾、満州、北支、南支、スマトラに点在した海外事業および投資事業の資産は一切失われた。海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名にのぼった。国内工場も戦災と補修不足で荒廃し、石炭統制と補修資材の入手難から生産の再開は進まなかった。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第1節 終戦直後の経営
- [1]1945年8月15日正午に終戦の詔勅が玉音放送で発表され、本社では海上ビル新館の会議室でこの放送を聞いた
- [2]緊急常勤重役会は新規事業及新規購入ハ差控ヘル事、給料ノ手当ニ関スル件、食糧ノ手当ニ関スル件、幹部ハ東京ニ待機スル事などを当面の経営方針として決定した
- [3]1945年9月7日にGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出た
- [4]本社は日本鋼管株式会社大手町分室内、浅野スレート3階、大川田中ビル4階の3カ所に分散移転した
- [5]海外事業および投資事業は朝鮮、台湾をはじめ満州、北支、南支、スマトラの諸地域に点在しており、敗戦とともにこれら一切の海外資産を喪失した
- [7]国内工場も戦災や補修不足で荒廃し、石炭統制と各種補修資材の入手難のため生産再開は容易ではなかった
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第2節 海外事業所と権益の喪失
- [6]海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名であった
財閥解体は浅野財閥にも及んだ。1945年11月24日に公布された制限会社令に続く指定で、浅野本社、浅野セメント、浅野重工業、浅野物産、関東電気工業、日本鋼管、東亜港湾工業の7社が制限会社となった。指定時、浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位にあった。1945年12月には浅野八郎氏が専務取締役を、浅野良三氏が取締役を退き、1946年4月には浅野総一郎氏が取締役社長を辞任して常務取締役の徳根吉郎氏に社長の席を譲った。1947年3月には財閥家族56名の指定が行われ、浅野財閥からは浅野総一郎氏ら4名が該当者となった。創業から63年続いた浅野家との関係は、ここで完全に絶たれた。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
- [8]1945年11月24日に制限会社令が公布され、資本金500万円以上の会社の譲渡・解散が制限された
- [9]制限会社一覧表には浅野財閥関係会社として株式会社浅野本社・浅野セメント・浅野重工業・浅野物産・関東電気工業・日本鋼管・東亜港湾の7社が指定されている
- [10]指定時において浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造社の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位にあった
- [11]1945年12月に浅野八郎が専務取締役を、浅野良三が取締役を退いた
- [12]1946年4月に浅野総一郎が取締役社長を辞任し、常務取締役の徳根吉郎に社長の席を譲った
- [13]1947年3月13日に内閣総理大臣名で三井・岩崎・住友・安田・浅野など10家の財閥家族56名が指定され、浅野財閥からは浅野総一郎・浅野良三・浅野八郎・浅野義夫の4名が指定された
- [14]初代浅野総一郎以来63年にわたる浅野家との関係が財閥解体によって完全に絶たれた
財閥にちなむ社名を捨てることになり、社内で募集した結果、新社名は日本セメント株式会社と決まった。1947年3月27日付で許可を得て、営業期初の5月1日から改称した。総司令部担当室が日本の国号を公文書でJAPANと表示していることを理由に英文表示をJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他の渉外関係先には当初やむなくこの表記を使った。1948年2月には過度経済力集中排除法の第1次指定企業257社に含まれ、小野田セメント製造、磐城セメント、大阪窯業セメント、宇部興産とともにセメント企業から指定された。しかしアメリカ政府の5人委員会が示した4原則により適用は緩和され、1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受けた。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
- [15]財閥にちなむ社名を捨てて新社名を選定することになり、社内で募集した結果、新社名を日本セメント株式会社に決定した
- [16]1947年3月27日付で社名変更の許可を得て、営業期初の5月1日を期して改称し、関係先に挨拶状、一般には新聞紙上で公告した
- [17]総司令部担当室は日本の国号が公文書にJAPANと表示されていることからJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他渉外関係先へはやむなくこの表記を使用した
- [18]1948年2月8日に持株会社整理委員会が過度経済力集中排除法の第1次指定企業として鉱工業257社を公示した
- [19]セメント企業からは同社のほか小野田セメント製造・磐城セメント・大阪窯業セメント・宇部興産の各社が指定された
- [20]1948年5月に来日したアメリカ政府の集中排除審査委員会(5人委員会)が4原則を発表し、集中排除法の適用は著しく緩和された
- [21]1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受け、同法に基づく指定とすべての指令が取り消された
参考文献[1]-[21]
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第1節 終戦直後の経営
- [1]1945年8月15日正午に終戦の詔勅が玉音放送で発表され、本社では海上ビル新館の会議室でこの放送を聞いた
- [2]緊急常勤重役会は新規事業及新規購入ハ差控ヘル事、給料ノ手当ニ関スル件、食糧ノ手当ニ関スル件、幹部ハ東京ニ待機スル事などを当面の経営方針として決定した
- [3]1945年9月7日にGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出た
- [4]本社は日本鋼管株式会社大手町分室内、浅野スレート3階、大川田中ビル4階の3カ所に分散移転した
- [5]海外事業および投資事業は朝鮮、台湾をはじめ満州、北支、南支、スマトラの諸地域に点在しており、敗戦とともにこれら一切の海外資産を喪失した
- [7]国内工場も戦災や補修不足で荒廃し、石炭統制と各種補修資材の入手難のため生産再開は容易ではなかった
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第2節 海外事業所と権益の喪失
- [6]海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名であった
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
- [8]1945年11月24日に制限会社令が公布され、資本金500万円以上の会社の譲渡・解散が制限された
- [9]制限会社一覧表には浅野財閥関係会社として株式会社浅野本社・浅野セメント・浅野重工業・浅野物産・関東電気工業・日本鋼管・東亜港湾の7社が指定されている
- [10]指定時において浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造社の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位にあった
- [11]1945年12月に浅野八郎が専務取締役を、浅野良三が取締役を退いた
- [12]1946年4月に浅野総一郎が取締役社長を辞任し、常務取締役の徳根吉郎に社長の席を譲った
- [13]1947年3月13日に内閣総理大臣名で三井・岩崎・住友・安田・浅野など10家の財閥家族56名が指定され、浅野財閥からは浅野総一郎・浅野良三・浅野八郎・浅野義夫の4名が指定された
- [14]初代浅野総一郎以来63年にわたる浅野家との関係が財閥解体によって完全に絶たれた
- [15]財閥にちなむ社名を捨てて新社名を選定することになり、社内で募集した結果、新社名を日本セメント株式会社に決定した
- [16]1947年3月27日付で社名変更の許可を得て、営業期初の5月1日を期して改称し、関係先に挨拶状、一般には新聞紙上で公告した
- [17]総司令部担当室は日本の国号が公文書にJAPANと表示されていることからJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他渉外関係先へはやむなくこの表記を使用した
- [18]1948年2月8日に持株会社整理委員会が過度経済力集中排除法の第1次指定企業として鉱工業257社を公示した
- [19]セメント企業からは同社のほか小野田セメント製造・磐城セメント・大阪窯業セメント・宇部興産の各社が指定された
- [20]1948年5月に来日したアメリカ政府の集中排除審査委員会(5人委員会)が4原則を発表し、集中排除法の適用は著しく緩和された
- [21]1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受け、同法に基づく指定とすべての指令が取り消された
1949年〜統制撤廃から埼玉工場の完成までの復興10年
労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就任した徳根吉郎氏は井上英煕専務に社長の職を譲った。井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃して会長・社長・常務制に改め、東京機械製作所の閉鎖、尼崎工場の閉鎖、秩父鉱業所の分離独立、ブロック事務所の強化、人員整理を実施した。スレート部は1949年11月に独立採算制となり、1951年5月にアサノスレートとして独立した。1949年8月にはセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除され、1950年1月にはセメントの配給と価格の統制が全面撤廃された。セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来、10年ぶりに自由販売価格へ復帰した。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
- [22]労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就任した徳根吉郎は社長の職を井上英煕専務に譲った
- [23]井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃し会長・社長・常務制に改めて新経営陣を編成した
- [24]新体制では東京機械製作所閉鎖、尼崎工場閉鎖、秩父鉱業所を独立させ秩父鉱業とすること、職制機構の改正、ブロック事務所の強化、人員整理の実施が行われた
- [25]スレート部は1949年11月にまず独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート株式会社として独立した
- [26]1949年8月にセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除された
- [27]政府は1949年12月29日に農林・通産省令第10号を発し、1950年1月以降セメントの統制を全面的に撤廃する旨を公示した
- [28]セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来10年ぶりに自由販売価格へ復帰した
1950年6月に勃発した朝鮮戦争は特需景気を招き、セメント需要を押し上げた。西多摩工場3号窯は1950年12月に着工して翌年11月に竣工し、月産1万トンの能力増となった。このときアメリカのフラー社から購入したエアクエンチングクーラをわが国で最初に設置し、クリンカの冷却温度を下げると同時に2次空気の温度を上げて石炭を節約した。上磯工場では1952年11月に3号窯が完成し、わが国最初の三点支持全溶接回転窯となって同工場の能力は月産3万3000トンに達した。輸送では1950年6月に門司工場へ積込設備を新設し、近海郵船の豊城丸をセメントタンカーに改造して門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させ、荷受設備として横浜に最初の包装所を設けた。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
- [29]1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、いわゆる特需景気を招来してセメントの需要は激増した
- [30]1950年12月に西多摩工場3号窯の増設に着工し、翌年11月に竣工して月産1万トンの能力増となった
- [31]西多摩工場3号窯の増設でわが国最初のエアクエンチングクーラをアメリカのフラー社から購入して新設し、クリンカの冷却温度を著しく引き下げると同時に2次空気の温度を引き上げて石炭を節約した
- [32]上磯工場は1952年4月に3号窯の増設に着工し同年11月に完成、わが国最初の三点支持全溶接回転窯であり、同工場の能力は月産3万3000トンとなって当社最大の工場となった
- [33]1950年6月に門司工場へ積込設備を新設すると同時に近海郵船所有の豊城丸をセメントタンカーに改造し、門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させて定期的に海上輸送した
- [34]荷受設備として2500トンサイロ2基などを備えた当社最初の包装所を横浜に新設した
需要が最も伸びた関東信越地区で、日本セメントが持つ工場は西多摩工場だけだった。しかも同工場は早強セメントと中庸熱セメントの生産を主体としており、普通セメントの需要には応じ切れなかった。1952年3月に具体的計画の作成へ着手し、糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点を候補としたうえで、武甲と日原の両原料山を背後に控える西武沿線に絞った。1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設すると決めたが、飯能町双柳地区の反対運動が市長不信任決議と議会解散にまで発展したため、1954年5月に協定の白紙還元を通知した。候補地を高麗川村へ移して1955年1月に工場誘致協定を締結し、埼玉工場は1955年4月に竣工した。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第2節 埼玉工場の建設
- [35]需要が特に増進した関東信越地区には西多摩工場をもつだけであった
- [36]西多摩工場は早強セメントならびに中庸熱セメントの生産を主体にしており、普通セメントの需要に対しては到底応じ切れない状態であった
- [37]1952年3月に具体的計画の作成に着手し、工場建設候補地として糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点が考えられた
- [38]西武沿線の埼玉県飯能町付近は豊富な埋蔵量をもつ武甲・日原の両原料山を背後に控え主要市場にも近いという好条件をもっていた
- [39]1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設する旨を決定した
- [40]双柳地区の一部に猛烈な反対運動が起き、翌1954年には飯能市長不信任決議、議会解散にまで発展し、1954年5月29日に飯能市へ協定の白紙還元を通知した
- [41]高麗川村に候補地を絞り、1954年6月に正式に話がまとまって1955年1月に工場誘致に関する協定書が締結された
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第7節 当期間の業績
- [42]1955年4月に埼玉工場を竣工させ、同年下期に同工場の特別償却を行った
参考文献[22]-[42]
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
- [22]労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就任した徳根吉郎は社長の職を井上英煕専務に譲った
- [23]井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃し会長・社長・常務制に改めて新経営陣を編成した
- [24]新体制では東京機械製作所閉鎖、尼崎工場閉鎖、秩父鉱業所を独立させ秩父鉱業とすること、職制機構の改正、ブロック事務所の強化、人員整理の実施が行われた
- [25]スレート部は1949年11月にまず独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート株式会社として独立した
- [26]1949年8月にセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除された
- [27]政府は1949年12月29日に農林・通産省令第10号を発し、1950年1月以降セメントの統制を全面的に撤廃する旨を公示した
- [28]セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来10年ぶりに自由販売価格へ復帰した
- [29]1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、いわゆる特需景気を招来してセメントの需要は激増した
- [30]1950年12月に西多摩工場3号窯の増設に着工し、翌年11月に竣工して月産1万トンの能力増となった
- [31]西多摩工場3号窯の増設でわが国最初のエアクエンチングクーラをアメリカのフラー社から購入して新設し、クリンカの冷却温度を著しく引き下げると同時に2次空気の温度を引き上げて石炭を節約した
- [32]上磯工場は1952年4月に3号窯の増設に着工し同年11月に完成、わが国最初の三点支持全溶接回転窯であり、同工場の能力は月産3万3000トンとなって当社最大の工場となった
- [33]1950年6月に門司工場へ積込設備を新設すると同時に近海郵船所有の豊城丸をセメントタンカーに改造し、門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させて定期的に海上輸送した
- [34]荷受設備として2500トンサイロ2基などを備えた当社最初の包装所を横浜に新設した
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第2節 埼玉工場の建設
- [35]需要が特に増進した関東信越地区には西多摩工場をもつだけであった
- [36]西多摩工場は早強セメントならびに中庸熱セメントの生産を主体にしており、普通セメントの需要に対しては到底応じ切れない状態であった
- [37]1952年3月に具体的計画の作成に着手し、工場建設候補地として糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点が考えられた
- [38]西武沿線の埼玉県飯能町付近は豊富な埋蔵量をもつ武甲・日原の両原料山を背後に控え主要市場にも近いという好条件をもっていた
- [39]1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設する旨を決定した
- [40]双柳地区の一部に猛烈な反対運動が起き、翌1954年には飯能市長不信任決議、議会解散にまで発展し、1954年5月29日に飯能市へ協定の白紙還元を通知した
- [41]高麗川村に候補地を絞り、1954年6月に正式に話がまとまって1955年1月に工場誘致に関する協定書が締結された
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第7節 当期間の業績
- [42]1955年4月に埼玉工場を竣工させ、同年下期に同工場の特別償却を行った
1965年〜40年不況が促した集中生産と非セメント部門
1965年の不況で業績は急激に悪化した。過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰で操業率が下がり、原価高に加えて借入金と支払利息の増大が利益を圧迫した。1964年上期から利益は減り続け、1965年上期は辛うじて3億円の利益を出したにとどまった。同年5月、会社は原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出し、集中生産への移行、サスペンション様式の採用推進、原石自採比率の引上げ、重油焼成への転換、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利と減価償却負担の軽減など8項目を重要施策に定めた。人員は補充採用を行わない要員管理で減らし、従業員数は1965年10月の4,534名から1967年10月には4,111名となった。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
- [43]1965年の不況により業績は急激に悪化し、その主な要因は過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰にあった
- [44]操業率の低下は原価高を招き、さらに借入金と支払利息が増大してこれが利益を圧迫する原因となった
- [45]1964年上期から毎期利益は減少し続け、1965年上期は辛うじて3億円の利益を出したにとどまった
- [46]1965年5月に危機乗り切りの打開策として原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出した
- [47]重要施策は集中生産への移行の検討、製造様式の検討、原燃料費の低減、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利・減価償却負担の軽減、研究ならびに開発の重点化の8項目にわたった
- [48]補充採用は行わず要員管理によって合理化を進め、従業員数は1965年10月20日の4,534名から1967年10月20日に4,111名となった
1966年12月、40年不況を克服した井上英煕社長は会長に退き、武安千春副社長が社長に就任した。井上前社長は1947年7月以来19年にわたって代表専務取締役と社長の座にあり、対外的にも数期にわたってセメント協会会長を務めた。武安千春社長は量から質への企業体質改善という前社長の基本方針を引き継ぎ、目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品と副業品の開発促進、関係会社管理の強化を実行目標に掲げた。1970年3月には第1次体質強化策を提案し、原価の低廉な大型工場に運転を集約して、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止し他部門に転換するか閉鎖するとした。1969年度の1人当り労働生産性はセメント全社平均2,866トンに対し日本セメントは2,646トンと低かった。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
- [49]1966年12月に新体制により40年不況を克服した井上社長は会長に退き、武安副社長が社長に就任した
- [50]井上前社長は1947年7月以来19年の長きにわたって代表専務取締役・社長の座にあり、数期にわたるセメント協会会長として業界取りまとめの大任を果たした
- [51]新体制は井上前社長の経営基本方針である量から質への企業体質改善の強化促進を引き継いだ
- [52]武安体制の実行目標は目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品・副業品の開発促進、関係会社管理の強化の5つだった
- [53]1970年3月に第1次体質強化策を提案し、生産能力が大きく原価の低廉な大型工場に運転を集約し、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止して他部門に転換するかまたは閉鎖する方針を示した
- [54]1969年度の年間1人当りの労働生産性はセメント協会調べでセメント全社平均2,866トンに対し同社は2,646トンと低かった
非セメント部門の育成も1965年の体質改善方策から始まった。同年7月に埼玉、大阪両工場の遊休設備で石粉の生産を開始してアサノフィラーの商品名で発売し、1966年8月には大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した。1966年10月には西多摩工場でアサノアルミナセメント、1969年11月には1日強度が普通ポルトランドセメントの4倍に達するアサノスーパーベロセメントを発売した。1938年に香春工場の余剰電力を活用する鋳造所として始まった香春製鋼所は鋳鋼品から産業機械へ製品を広げ、1974年12月25日に機械事業部となった。総売上高に対する非セメント部門の売上比率は1965年度の3%から1973年度には21.8%へ上がり、1977年度の生産シェアは日本セメントが12.5%で首位、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%が続いた。
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第4節 経営多角化への指向
- [55]1965年7月に埼玉・大阪両工場の遊休設備を利用して石粉の生産を開始し、アサノフィラーの商品名で発売した
- [56]1966年8月に大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した
- [57]1966年10月に耐火性・早強性に優れたアルミナセメントを開発し西多摩工場で生産を開始、アサノアルミナセメントの商品名で販売した
- [58]1969年11月に1日強度で普通ポルトランドセメントの4倍、早強ポルトランドセメントの2倍の強度を発現するアサノスーパーベロセメントの販売を開始した
- [59]香春製鋼所は1938年1月に香春工場の自家発電による余剰電力を有効活用するため同工場の一部門として鋼塊の製造を開始したのが起源である
- [60]香春製鋼所は非セメント部門の主柱のひとつに成長し、1974年12月25日に機械事業部の設置をみた
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第1節 高度経済成長の転換期
- [61]総売上高に対する非セメント部門の売上比は1965年度の3%から1973年度には21.8%となった
- 証券アナリストジャーナル 1978年 16巻9号 p27 セメント業界の生産シェア
- [62]1977年度のセメント業界の生産シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%だった
参考文献[43]-[62]
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
- [43]1965年の不況により業績は急激に悪化し、その主な要因は過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰にあった
- [44]操業率の低下は原価高を招き、さらに借入金と支払利息が増大してこれが利益を圧迫する原因となった
- [45]1964年上期から毎期利益は減少し続け、1965年上期は辛うじて3億円の利益を出したにとどまった
- [46]1965年5月に危機乗り切りの打開策として原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出した
- [47]重要施策は集中生産への移行の検討、製造様式の検討、原燃料費の低減、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利・減価償却負担の軽減、研究ならびに開発の重点化の8項目にわたった
- [48]補充採用は行わず要員管理によって合理化を進め、従業員数は1965年10月20日の4,534名から1967年10月20日に4,111名となった
- [49]1966年12月に新体制により40年不況を克服した井上社長は会長に退き、武安副社長が社長に就任した
- [50]井上前社長は1947年7月以来19年の長きにわたって代表専務取締役・社長の座にあり、数期にわたるセメント協会会長として業界取りまとめの大任を果たした
- [51]新体制は井上前社長の経営基本方針である量から質への企業体質改善の強化促進を引き継いだ
- [52]武安体制の実行目標は目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品・副業品の開発促進、関係会社管理の強化の5つだった
- [53]1970年3月に第1次体質強化策を提案し、生産能力が大きく原価の低廉な大型工場に運転を集約し、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止して他部門に転換するかまたは閉鎖する方針を示した
- [54]1969年度の年間1人当りの労働生産性はセメント協会調べでセメント全社平均2,866トンに対し同社は2,646トンと低かった
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第4節 経営多角化への指向
- [55]1965年7月に埼玉・大阪両工場の遊休設備を利用して石粉の生産を開始し、アサノフィラーの商品名で発売した
- [56]1966年8月に大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した
- [57]1966年10月に耐火性・早強性に優れたアルミナセメントを開発し西多摩工場で生産を開始、アサノアルミナセメントの商品名で販売した
- [58]1969年11月に1日強度で普通ポルトランドセメントの4倍、早強ポルトランドセメントの2倍の強度を発現するアサノスーパーベロセメントの販売を開始した
- [59]香春製鋼所は1938年1月に香春工場の自家発電による余剰電力を有効活用するため同工場の一部門として鋼塊の製造を開始したのが起源である
- [60]香春製鋼所は非セメント部門の主柱のひとつに成長し、1974年12月25日に機械事業部の設置をみた
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第1節 高度経済成長の転換期
- [61]総売上高に対する非セメント部門の売上比は1965年度の3%から1973年度には21.8%となった
- [62]1977年度のセメント業界の生産シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%だった
1945年〜1980年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年04月期 | 単体 | 149 | n/a | n/a | 17 | 11.7% | n/a | n/a |
| 1957年04月期 | 単体 | 170 | +13.5% | n/a | 15 | 9.0% | n/a | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 186 | +9.8% | n/a | 17 | 9.3% | n/a | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 185 | ▲0.9% | n/a | 13 | 7.2% | n/a | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 224 | +21.2% | n/a | 18 | 8.3% | n/a | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 239 | +6.9% | n/a | 21 | 8.8% | n/a | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 249 | +4.1% | 25 | 17 | 6.8% | 12 | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年04月期 | 単体 | 1,072 | n/a | n/a | ▲6 | ▲0.6% | 0 | n/a |
| 1977年04月期 | 単体 | 1,167 | +8.8% | n/a | 0 | 0.1% | 3 | n/a |
| 1978年04月期 | 単体 | 1,312 | +12.4% | n/a | 39 | 3.0% | 15 | n/a |
| 1979年04月期 | 単体 | 1,464 | +11.6% | 16 | 105 | 7.2% | 42 | n/a |
| 1980年04月期 | 単体 | 1,707 | +16.6% | n/a | 45 | 2.7% | 25 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑
出典・参考
10件
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第1節 終戦直後の経営
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第2節 海外事業所と権益の喪失
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第2節 埼玉工場の建設
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第7節 当期間の業績
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第4節 経営多角化への指向
- 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第1節 高度経済成長の転換期
- 証券アナリストジャーナル 1978年 16巻9号 p27 セメント業界の生産シェア