第2章 年〜年

日本セメント:浅野セメントへの改組と相次ぐ合併による全国工場網の構築

1912年〜株式会社への改組と第1次大戦下に進んだ工場増設

日露戦争後の国力増大は官民の事業を勃興させ、浅野セメント合資会社は組織を改めた。1912年10月7日にまず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立され、同月24日には合資会社の資産、債権および債務のすべてを株式会社へ合併する仮契約が結ばれた。合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いてこの仮契約を承認し、商法上の手続きを終えて合資会社の名称が消滅したのは1913年2月である。株式会社は資本金500万円、うち払込額275万円の合資会社を合併し、490万円を増資して資本金500万円となった。同時に深川工場と門司工場は組織上それぞれ東京支店、門司支店と改称されて支店制が敷かれた。技術の最高指導者だった坂内冬蔵氏は1913年5月20日に技師長を辞し、技術顧問となった。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第2節 合資会社から株式会社へ
    • [1]日露戦争後の国力の増大はにわかに官民事業の勃興を促し、浅野セメント合資会社も時代の流れにそって株式会社に改組した
    • [2]1912年10月7日、まず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立された
    • [4]1912年10月24日、合資会社の所有資産・債権および債務のすべてを浅野セメント株式会社に合併する旨の仮契約が締結された
    • [5]合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いて合併の仮契約を承認し、合資会社の名称が消滅したのは大正2年2月だった
    • [6]浅野セメント株式会社は資本金500万円・払込額275万円の合資会社を合併したことにより490万円を増資して資本金500万円となった
    • [7]合併と同時に深川・門司両工場の名称を組織上、東京支店・門司支店と改称し支店制をとった
    • [8]技術の最高指導者として功績のあった坂内技師長は大正2年5月20日に技師長を辞任し、技術顧問として技術関係の重要問題に参画することとなった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史 p157 日本セメント
    • [3]企業の歴史:明治百年は浅野セメント株式会社の設立を1912年10月7日と記載している

1914年7月に始まった第1次世界大戦は翌年から景気を好転させ、セメント需要も大きく伸びた。この時期、浅野セメントは同業の救済を通じて工場を増やした。1890年4月に資本金20万円で発足した北海道セメントは、回転窯の運転開始により年産能力40万樽の大工場となったものの、社債46万円の返還に窮して整理に直面した。小野田セメント製造との合併交渉が同社相談役の井上馨氏の反対で潰れたのち、1915年2月下旬に浅野セメントへ救済を求め、両社は4月24日に合併契約書へ調印して7月25日に合併した。北海道セメントの名称は消え、のちの上磯工場となる北海道支店が発足した。資本金は1915年上期に200万円を増資して700万円、北海道セメント合併で718万円となり、1917年11月にはさらに782万円を増資して1500万円に達した。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第2節 合資会社から株式会社へ
    • [9]第1次世界大戦は大正3年7月に勃発し、翌4年から景気は好転してセメント需要も大幅な伸びを示した
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第3節 北海道セメント株式会社の合併
    • [10]北海道セメント株式会社は明治23年4月、函館区の有力者吉川泰次郎らが発起人となり資本金20万円で発足した
    • [11]回転窯の操業開始により生産高は急激に増加し、北海道セメント社は年産能力40万樽(約7万2600トン)の大工場となった
    • [12]北海道セメント社の資金難の直接の原因は社債46万円の返還に窮したことにあった
    • [13]小野田セメント製造株式会社との合併はほぼ交渉成立の段階まで進んだが、同社創業以来の後援者で相談役の井上馨の反対にあい取りやめとなった
    • [14]大正4年2月下旬に北海道セメント社は浅野セメントへ救済を要請し、4月24日に両社は合併契約書に調印、7月25日に合併した
    • [15]合併により明治23年以来の歴史をもつ北海道セメント社の名称は消滅し、新たに北海道支店として再出発した。これが上磯工場である
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第6節 当期間の業績
    • [16]資本金は大正4年上期に200万円増資して700万円(払込額550万円)に、同年下期は北海道セメント社の合併で718万円(払込額568万円)に増加した
    • [17]大正6年11月に川崎・北海道・門司各工場の増設資金へ充てるため782万円の増資を決定し、資本金は一挙に1500万円(払込額913万5000円)となった

新工場の建設も相次いだ。台湾では基隆と高雄の築港や縦貫鉄道の敷設で需要が伸び、浅野セメントは1913年7月に高雄州寿山の一部190甲について石灰石の払下げ認可を得て、150万円の予算で年産48万樽の工場建設に踏み切った。1915年8月に着工した台湾工場は1917年5月に回転窯の試運転を開始し、同年7月に設備を完成させた。神奈川県橘樹郡田島村の10万4052坪に建てた川崎工場も1915年4月に地鎮祭を行い、大戦の影響で機械の到着が遅れて1917年5月にようやく完成し、7月に操業を開始した。回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築と煉瓦積工事は清水組が請け負っている。両工場の回転窯はいずれもわが国初の大型窯だった。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第5節 台湾工場の新設
    • [18]日清戦争後に日本の領土となった台湾では基隆・高雄両港の築港、縦貫鉄道の敷設などの建設事業が相次ぎ、セメント需要も年々増加した
    • [19]大正2年7月、台南庁興隆内里打狗山(高雄州寿山)の一部190甲について石灰石の払下げを出願して正式に認可され、年産48万樽の台湾工場建設計画が150万円の予算で具体化した
    • [20]台湾工場は大正4年8月に建設へ着工し、6年5月に回転窯の試運転を開始、同年7月に工場設備の完成をみた
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設
    • [21]川崎工場の敷地は大正2年4月の重役会で神奈川県橘樹郡田島村大字大島新田10万4052坪に変更された
    • [22]川崎工場の建設工事は海岸の地盛工事から始まり大正4年4月に地鎮祭を行ったが、大戦の影響で諸機械の到着が遅れ6年5月にようやく完成し7月に操業を開始した
    • [23]川崎新工場の回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築およびれんが積工事の一切を清水組に請け負わせた
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント
    • [24]大正6年7月に川崎および台湾高雄へわが国初の大型回転窯を持つ新鋭工場を建設した
参考文献[1]-[24]
    • [1]日露戦争後の国力の増大はにわかに官民事業の勃興を促し、浅野セメント合資会社も時代の流れにそって株式会社に改組した
    • [2]1912年10月7日、まず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立された
    • [4]1912年10月24日、合資会社の所有資産・債権および債務のすべてを浅野セメント株式会社に合併する旨の仮契約が締結された
    • [5]合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いて合併の仮契約を承認し、合資会社の名称が消滅したのは大正2年2月だった
    • [6]浅野セメント株式会社は資本金500万円・払込額275万円の合資会社を合併したことにより490万円を増資して資本金500万円となった
    • [7]合併と同時に深川・門司両工場の名称を組織上、東京支店・門司支店と改称し支店制をとった
    • [8]技術の最高指導者として功績のあった坂内技師長は大正2年5月20日に技師長を辞任し、技術顧問として技術関係の重要問題に参画することとなった
    • [9]第1次世界大戦は大正3年7月に勃発し、翌4年から景気は好転してセメント需要も大幅な伸びを示した
    • [3]企業の歴史:明治百年は浅野セメント株式会社の設立を1912年10月7日と記載している
    • [10]北海道セメント株式会社は明治23年4月、函館区の有力者吉川泰次郎らが発起人となり資本金20万円で発足した
    • [11]回転窯の操業開始により生産高は急激に増加し、北海道セメント社は年産能力40万樽(約7万2600トン)の大工場となった
    • [12]北海道セメント社の資金難の直接の原因は社債46万円の返還に窮したことにあった
    • [13]小野田セメント製造株式会社との合併はほぼ交渉成立の段階まで進んだが、同社創業以来の後援者で相談役の井上馨の反対にあい取りやめとなった
    • [14]大正4年2月下旬に北海道セメント社は浅野セメントへ救済を要請し、4月24日に両社は合併契約書に調印、7月25日に合併した
    • [15]合併により明治23年以来の歴史をもつ北海道セメント社の名称は消滅し、新たに北海道支店として再出発した。これが上磯工場である
    • [16]資本金は大正4年上期に200万円増資して700万円(払込額550万円)に、同年下期は北海道セメント社の合併で718万円(払込額568万円)に増加した
    • [17]大正6年11月に川崎・北海道・門司各工場の増設資金へ充てるため782万円の増資を決定し、資本金は一挙に1500万円(払込額913万5000円)となった
    • [18]日清戦争後に日本の領土となった台湾では基隆・高雄両港の築港、縦貫鉄道の敷設などの建設事業が相次ぎ、セメント需要も年々増加した
    • [19]大正2年7月、台南庁興隆内里打狗山(高雄州寿山)の一部190甲について石灰石の払下げを出願して正式に認可され、年産48万樽の台湾工場建設計画が150万円の予算で具体化した
    • [20]台湾工場は大正4年8月に建設へ着工し、6年5月に回転窯の試運転を開始、同年7月に工場設備の完成をみた
    • [21]川崎工場の敷地は大正2年4月の重役会で神奈川県橘樹郡田島村大字大島新田10万4052坪に変更された
    • [22]川崎工場の建設工事は海岸の地盛工事から始まり大正4年4月に地鎮祭を行ったが、大戦の影響で諸機械の到着が遅れ6年5月にようやく完成し7月に操業を開始した
    • [23]川崎新工場の回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築およびれんが積工事の一切を清水組に請け負わせた
    • [24]大正6年7月に川崎および台湾高雄へわが国初の大型回転窯を持つ新鋭工場を建設した

1916年〜降灰問題の決着と関東大震災後の増資・合併・副業進出

深川工場は創業期から降灰の苦情を受けていた。1903年に回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と窯の増設で生産高が急増すると、外部へ飛散する降灰量も増えた。問題は1907年ごろから表面化して工場付近に深川青年団が組織され、当局への陳情と会社への抗議が続き、1910年から翌年にかけて対立は険悪になった。当局の斡旋もあり、浅野セメントは1911年3月、1916年末までに深川工場を撤廃すると区民側へ約束した。川崎工場はその代替として建てたものである。ところが1916年3月、アメリカ滞在中の高峰譲吉氏らからコットレル式電気集じん装置の情報が届き、同年7月の重役会は特許権と機械設備一切をアメリカから購入すると決めた。1917年12月23日に回転窯4基の装置が機能を発揮し、翌24日、深川青年団と区民代表は工場撤廃の要求を撤回した。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設
    • [25]明治36年に深川工場でわが国最初の回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と回転窯の増設によって生産高が急増した結果、外部に飛散する降灰量も増加した
    • [26]問題は明治40年ころから漸次表面化し、工場付近には深川青年団が組織されて当局に陳情し会社に抗議するなどして、43、44年ころ対立関係は険悪となった
    • [27]当局の斡旋もあって明治44年3月、当社は大正5年末までに深川工場を撤廃する旨を区民側に約束した
    • [28]川崎工場は深川工場撤廃の代替工場として建設したものである
    • [29]大正5年3月ころ、アメリカに滞在中で初代社長と親交のあった高峰譲吉博士らからブラウンの長石から加里を採取する方法について報告があり、コットレル式集じん装置の存在が判明した
    • [30]深川工場の撤廃期限が目前に迫り急を要したため、大正5年7月の重役会の決議によって特許権・機械設備その他一切を直接アメリカから購入することに決定した
    • [31]大正6年12月18日に試運転を行い、23日には回転窯4基の集じん装置が完全に機能を発揮することが確認された
    • [32]12月24日、初代社長をはじめ会社幹部と深川青年団・同区民代表者が協議し、区民側も集じん装置の効果を認めてついに工場撤廃の要求を撤回した

設備の拡張はその後も続いた。川崎第2工場は1918年10月に着工して1920年9月に完成し、門司工場には長さ200フィートの大回転窯が据えられて1922年秋までに4基が揃い、1923年の同工場の生産高は年産223万9821樽に達した。北海道第2工場は1917年9月に着工して1922年3月に竣工し、1925年の北海道工場の生産高は143万7075樽と北日本最大になった。増設資金を賄うため1920年7月の定時株主総会は1800万円の増資を可決し、1921年6月に資本金は3300万円となった。1923年9月1日の関東大震災では深川工場が火災で全設備を焼失し、機械や製品を含む損失額は186万4942円72銭にのぼった。川崎工場も煙突や原料粗砕室が大破し、両工場で工員6名が死亡した。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第3節 生産能力増強と増資
    • [33]川崎第2工場は大正7年10月に建設工事へ取りかかり、工事着手後約2年の9年9月に完成して試運転を開始した
    • [34]門司工場は大正9年から11年にかけての増設工事により200ft回転窯が計4基となり、12年実績で年産223万9821樽を記録して200万樽の大台を突破した
    • [35]北海道第2工場は大正6年9月に着工し、建設予算総額498万9000円で11年3月に工事を完成して試運転を開始した
    • [36]大正14年に北海道工場の生産高は143万7075樽(約24万7700トン)となり、北日本最大のセメント工場となった
    • [38]関東大震災で深川工場は地震のあと火災に襲われて工場の全設備を焼失し、機械・建物・原料品・製品などの合計損失額は186万4942円72銭で工員2名が死亡した
    • [39]川崎工場は火災を免れたものの第1工場の煙突2本が破損して原料粗砕室が大破し、第2工場でも大煙突2本の破損に加え変電室・原料粗砕室などが崩壊、工員4名が死亡した
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第6節 当期間の業績
    • [37]川崎・門司・北海道各工場の増設などのため大正9年7月の定時株主総会で1800万円の増資を可決し、10年6月に資本金は3300万円(払込額1950万円)となった

創業40年にあたる1923年10月、浅野セメントは3つの部門を加えた。浅野スレートを合併してスレート部とし、日本カーリットを合併してカーリット部とし、浅野同族から鉄筋コンクリート部を継承した。スレートは1914年12月に深川でわが国初の製造試運転にこぎつけた事業で、翌年2月に資本金30万円の浅野スレートとして分離していたが、1920年春からの不況で販売数量が半減し採算が悪化していた。カーリットはスウェーデンの化学者オスカー・カールソン氏が発明した火薬で、大戦により原料の輸入が途絶したことから浅野総一郎社長が国産化に乗り出したものである。資本金は1923年10月に3575万円、1924年6月には第二浅野セメントと大阪木津川セメントの合併で5631万円となった。初代社長は1930年11月9日に死去し、翌12月に長男で副社長の浅野泰治郎氏が2代目社長に就任し、1931年1月に総一郎を襲名した。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第4節 副業へ進出
    • [40]大正12年は当社が官営の深川工作分局セメント工場を借り受け創業してからちょうど40年目にあたる年だった
    • [41]大正12年10月、当社は浅野スレート株式会社を合併してスレート部とし、日本カーリット株式会社を合併してカーリット部に、さらに浅野同族株式会社の鉄筋コンクリート部を継承した
    • [42]大正3年12月にわが国で初めてのスレート製造の試運転を開始し、4年2月に資本金30万円の浅野スレート株式会社として分離・独立した
    • [43]大正9年春から不況となり、9年上期に650万枚だった浅野スレート社の販売数量は12年には半期約400万枚前後となり、価格も低落して採算は極度に悪化した
    • [44]カーリットとはスウェーデンの化学者オスカー・カールソンが発明した火薬である
    • [45]第1次世界大戦勃発後は火薬はもちろん火薬原料の輸入もほとんど途絶したため、初代社長は国内原料を利用した火薬製造に乗り出した
    • [48]昭和5年11月9日に創設者初代社長浅野総一郎が長逝し、同年12月に副社長浅野泰治郎(初代社長の長男)が2代目社長に就任、翌6年1月に総一郎を襲名した
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第6節 当期間の業績
    • [46]資本金は大正12年10月に浅野スレート社・日本カーリット社を合併して3575万円に増加した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史 p157 日本セメント
    • [47]大正2年に500万円だった資本金は13年6月の第二浅野セメント社・大阪木津川セメント社の合併により5631万円となり、工場数は2から6に増えた
参考文献[25]-[48]
    • [25]明治36年に深川工場でわが国最初の回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と回転窯の増設によって生産高が急増した結果、外部に飛散する降灰量も増加した
    • [26]問題は明治40年ころから漸次表面化し、工場付近には深川青年団が組織されて当局に陳情し会社に抗議するなどして、43、44年ころ対立関係は険悪となった
    • [27]当局の斡旋もあって明治44年3月、当社は大正5年末までに深川工場を撤廃する旨を区民側に約束した
    • [28]川崎工場は深川工場撤廃の代替工場として建設したものである
    • [29]大正5年3月ころ、アメリカに滞在中で初代社長と親交のあった高峰譲吉博士らからブラウンの長石から加里を採取する方法について報告があり、コットレル式集じん装置の存在が判明した
    • [30]深川工場の撤廃期限が目前に迫り急を要したため、大正5年7月の重役会の決議によって特許権・機械設備その他一切を直接アメリカから購入することに決定した
    • [31]大正6年12月18日に試運転を行い、23日には回転窯4基の集じん装置が完全に機能を発揮することが確認された
    • [32]12月24日、初代社長をはじめ会社幹部と深川青年団・同区民代表者が協議し、区民側も集じん装置の効果を認めてついに工場撤廃の要求を撤回した
    • [33]川崎第2工場は大正7年10月に建設工事へ取りかかり、工事着手後約2年の9年9月に完成して試運転を開始した
    • [34]門司工場は大正9年から11年にかけての増設工事により200ft回転窯が計4基となり、12年実績で年産223万9821樽を記録して200万樽の大台を突破した
    • [35]北海道第2工場は大正6年9月に着工し、建設予算総額498万9000円で11年3月に工事を完成して試運転を開始した
    • [36]大正14年に北海道工場の生産高は143万7075樽(約24万7700トン)となり、北日本最大のセメント工場となった
    • [38]関東大震災で深川工場は地震のあと火災に襲われて工場の全設備を焼失し、機械・建物・原料品・製品などの合計損失額は186万4942円72銭で工員2名が死亡した
    • [39]川崎工場は火災を免れたものの第1工場の煙突2本が破損して原料粗砕室が大破し、第2工場でも大煙突2本の破損に加え変電室・原料粗砕室などが崩壊、工員4名が死亡した
    • [37]川崎・門司・北海道各工場の増設などのため大正9年7月の定時株主総会で1800万円の増資を可決し、10年6月に資本金は3300万円(払込額1950万円)となった
    • [46]資本金は大正12年10月に浅野スレート社・日本カーリット社を合併して3575万円に増加した
    • [40]大正12年は当社が官営の深川工作分局セメント工場を借り受け創業してからちょうど40年目にあたる年だった
    • [41]大正12年10月、当社は浅野スレート株式会社を合併してスレート部とし、日本カーリット株式会社を合併してカーリット部に、さらに浅野同族株式会社の鉄筋コンクリート部を継承した
    • [42]大正3年12月にわが国で初めてのスレート製造の試運転を開始し、4年2月に資本金30万円の浅野スレート株式会社として分離・独立した
    • [43]大正9年春から不況となり、9年上期に650万枚だった浅野スレート社の販売数量は12年には半期約400万枚前後となり、価格も低落して採算は極度に悪化した
    • [44]カーリットとはスウェーデンの化学者オスカー・カールソンが発明した火薬である
    • [45]第1次世界大戦勃発後は火薬はもちろん火薬原料の輸入もほとんど途絶したため、初代社長は国内原料を利用した火薬製造に乗り出した
    • [48]昭和5年11月9日に創設者初代社長浅野総一郎が長逝し、同年12月に副社長浅野泰治郎(初代社長の長男)が2代目社長に就任、翌6年1月に総一郎を襲名した
    • [47]大正2年に500万円だった資本金は13年6月の第二浅野セメント社・大阪木津川セメント社の合併により5631万円となり、工場数は2から6に増えた

1924年〜セメント連合会の生産制限から戦時統制会の企業整備へ

関東大震災後の復興需要は見込みはずれに終わり、各社の増産計画だけが予定どおり進んだ結果、業界は生産過剰と在庫増を抱えた。1924年6月ごろから小野田セメント製造社長の笠井真三氏と浅野セメント取締役の金子喜代太氏がカルテル結成の準備にあたり、同年10月5日にセメント連合会が創設された。加盟は当時のセメント会社をほとんど網羅する18社で、全社の年間生産能力1599万6000樽のうち浅野セメントは679万2000樽と42.5%を占めた。ただし生産制限は設備の拡張自体を縛らず、輸出も制限外だったため、各社の拡張競争とダンピングが続いた。1930年1月の金輸出解禁後、第2次連合会は生産制限率を38%から56%へ高めたが市価は回復せず、1934年12月に発足した第3次連合会の下では朝鮮を舞台に空前の乱売戦が起きた。決着は1936年7月の笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定である。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第2節 セメント連合会の創設
    • [49]災害の復興事業は思うように進まず期待された大量需要は見込みはずれとなり、各社の増産計画だけが予定どおり進行して生産量が増加し、業界は生産過剰と在庫増を背景にカルテル結成へ向かった
    • [50]大正13年6月ころから小野田セメント製造社社長笠井真三と当社取締役金子喜代太の2人が中心となりカルテル結成準備に取りかかった
    • [51]大正13年10月5日の協議会で各社の意見は完全に一致し、第1次セメント連合会が創設された
    • [52]第1次セメント連合会には当時のセメント会社ほとんどを網羅する18社が加盟し、全社の年間生産能力は1599万6000樽(約275万トン)だった
    • [53]第1次セメント連合会加盟18社のうち当社の年間生産能力は679万2000樽で全体の42.5%を占めていた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)化学 p182 セメント・ガラス-延々とカルテル
    • [54]連合会内部でも生産制限は生産能力によることになっており設備の拡張自体には制限がなかったため各社の間で激しい拡張競争があり、輸出は制限外だったのでアジア市場へのダンピングが続いた
  • 百年史(日本セメント、1983年)第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界
    • [55]昭和5年1月の金輸出解禁により不況は深刻さを増し、第2次セメント連合会は生産制限率を5年初めに38%、8月からは56%に高めたが市価はいっこうに回復しなかった
    • [56]昭和9年12月に生産・販売両面を統制する第3次セメント連合会が発足したが、小野田セメント製造社ら3社は加盟せず、朝鮮でのダンピング合戦から空前の乱売戦が展開された
    • [57]昭和11年7月、小野田セメント製造社社長笠井真三とセメント連合会側代表の当社専務取締役金子喜代太のいわゆる笠井・金子協定によって朝鮮向け出荷協定が成立し、1年半にわたった乱売戦に終止符が打たれた

戦時統制は業界の組織を次々に組み替えた。1937年9月施行の臨時資金調整法でセメント製造業は丙種産業に指定され、石炭、紙袋、鋼材や耐火煉瓦といった補修資材の購入で強い制約を受けた。1940年2月には内地の全セメント製造業者26社が株主となってセメント共販株式会社を設立し、3月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制が始まった。第3次セメント連合会は同年9月に解散して日本セメント工業組合となり、太平洋戦争が始まった1941年12月18日にはセメント統制会が設立された。2代目社長の浅野総一郎氏は社長の職を辞して統制会会長に就任し、1944年2月には会長のまま社長へ復帰した。統制会の指令は公定価格の改訂から企業整備、生産力増強、設備の海外移設まで及んだ。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界
    • [58]昭和12年9月施行の臨時資金調整法によってセメント産業は丙種産業に指定され、石炭・容器(紙袋)・重要補修資材(鋼材、耐火れんがなど)の購入にはなはだしい制約を受けた
    • [59]昭和15年2月12日、内地の全セメント製造業者26社は自らが株主となってセメント共販株式会社を設立した
    • [60]セメント共販社は昭和15年3月1日に業務を開始し、同月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制を行った
    • [61]セメント製造業者は第3次セメント連合会を解散し、昭和15年9月に工業組合法による日本セメント工業組合を設立した
    • [62]昭和16年12月に日中戦争が太平洋戦争に発展し、商工省の指令によりセメント業者は12月18日にセメント統制会を設立して即日認可を受けた
    • [63]当社の2代目社長浅野総一郎は社長の職を辞してセメント統制会会長に就任した
    • [64]生産責任者は最初専務取締役浅野八郎であったが、昭和19年2月、浅野総一郎はセメント統制会会長のまま再度当社社長に就任し、生産責任者となった
    • [65]セメント統制会の指令は公定価格の改訂、販売機構の整備、企業整備、生産力増強、設備の海外移設など企業活動の全般にわたって空前の規模で行われた

商工省は1941年7月、当時22社あったセメント企業を10社程度へ整理する案を立てた。資本系列を同じくする各社の間では自発的な合併が先行し、浅野セメントは1939年10月1日に八代・佐伯両工場をもつ旧日本セメントを、1940年5月1日に土佐セメントを、1941年3月1日に日東セメントを、1942年3月に東亜セメントを合併した。旧日本セメントの合併では資本金を1000万円増資して1億1631万円とし、九州の工場は門司、香春を含めて4工場、月産11万8500トンとなった。石炭事情の悪化は本拠にも及び、創業以来56年にわたって操業し、1930年に東京工場と改称していた深川工場は、1939年11月に閉鎖された。設備は1940年10月に華北洋灰へ520万円で売却され、川崎工場も1941年3月28日に日本高炉セメントへ譲渡された。1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾した。

  • 百年史(日本セメント、1983年)第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界
    • [66]商工省は昭和16年7月、企業の合同(合併・買収)によって当時の22社を10社程度に整理する案をたてた
    • [67]セメント工業整備実施委員会の審議によらず資本系列を同じくする各社間に自発的な合併が行われ、当社は昭和14年10月に旧日本セメント社(八代・佐伯両工場)、15年5月に土佐セメント社、16年3月に日東セメント社、17年3月に東亜セメント社を合併した
    • [68]旧日本セメント株式会社は昭和14年10月1日に当社へ合併され、当社の資本金は1000万円増資して1億1631万円となった
    • [69]八代(月産2万6580トン)・佐伯(月産3万1550トン)両乾式工場を加え、九州における当社の工場は門司・香春両工場とあわせて4工場・月産11万8500トンとなった
    • [71]東京工場の全設備は昭和15年10月、華北洋灰社琉璃河工場建設のため華北洋灰股份有限公司に520万円で売却された
    • [72]昭和16年3月28日、当社は資産売買契約に基づき川崎工場およびその付属原料採掘場の事業設備一切を日本高炉セメント社に譲渡した
    • [73]昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日に戦争終結の詔書が放送された
  • 百年史(日本セメント、1983年)資料編 当社セメント工場の変遷/第4章第5節 東京工場閉鎖
    • [70]昭和5年7月、深川工場を東京工場と改称した。昭和13年10月施行の石炭配給統制規則によりセメント工業用石炭は激減し、創業以来56年にわたり操業を続けてきた東京工場は運転不能に陥って14年11月に閉鎖された
参考文献[49]-[73]
    • [49]災害の復興事業は思うように進まず期待された大量需要は見込みはずれとなり、各社の増産計画だけが予定どおり進行して生産量が増加し、業界は生産過剰と在庫増を背景にカルテル結成へ向かった
    • [50]大正13年6月ころから小野田セメント製造社社長笠井真三と当社取締役金子喜代太の2人が中心となりカルテル結成準備に取りかかった
    • [51]大正13年10月5日の協議会で各社の意見は完全に一致し、第1次セメント連合会が創設された
    • [52]第1次セメント連合会には当時のセメント会社ほとんどを網羅する18社が加盟し、全社の年間生産能力は1599万6000樽(約275万トン)だった
    • [53]第1次セメント連合会加盟18社のうち当社の年間生産能力は679万2000樽で全体の42.5%を占めていた
    • [54]連合会内部でも生産制限は生産能力によることになっており設備の拡張自体には制限がなかったため各社の間で激しい拡張競争があり、輸出は制限外だったのでアジア市場へのダンピングが続いた
    • [55]昭和5年1月の金輸出解禁により不況は深刻さを増し、第2次セメント連合会は生産制限率を5年初めに38%、8月からは56%に高めたが市価はいっこうに回復しなかった
    • [56]昭和9年12月に生産・販売両面を統制する第3次セメント連合会が発足したが、小野田セメント製造社ら3社は加盟せず、朝鮮でのダンピング合戦から空前の乱売戦が展開された
    • [57]昭和11年7月、小野田セメント製造社社長笠井真三とセメント連合会側代表の当社専務取締役金子喜代太のいわゆる笠井・金子協定によって朝鮮向け出荷協定が成立し、1年半にわたった乱売戦に終止符が打たれた
    • [58]昭和12年9月施行の臨時資金調整法によってセメント産業は丙種産業に指定され、石炭・容器(紙袋)・重要補修資材(鋼材、耐火れんがなど)の購入にはなはだしい制約を受けた
    • [59]昭和15年2月12日、内地の全セメント製造業者26社は自らが株主となってセメント共販株式会社を設立した
    • [60]セメント共販社は昭和15年3月1日に業務を開始し、同月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制を行った
    • [61]セメント製造業者は第3次セメント連合会を解散し、昭和15年9月に工業組合法による日本セメント工業組合を設立した
    • [62]昭和16年12月に日中戦争が太平洋戦争に発展し、商工省の指令によりセメント業者は12月18日にセメント統制会を設立して即日認可を受けた
    • [63]当社の2代目社長浅野総一郎は社長の職を辞してセメント統制会会長に就任した
    • [64]生産責任者は最初専務取締役浅野八郎であったが、昭和19年2月、浅野総一郎はセメント統制会会長のまま再度当社社長に就任し、生産責任者となった
    • [65]セメント統制会の指令は公定価格の改訂、販売機構の整備、企業整備、生産力増強、設備の海外移設など企業活動の全般にわたって空前の規模で行われた
    • [66]商工省は昭和16年7月、企業の合同(合併・買収)によって当時の22社を10社程度に整理する案をたてた
    • [67]セメント工業整備実施委員会の審議によらず資本系列を同じくする各社間に自発的な合併が行われ、当社は昭和14年10月に旧日本セメント社(八代・佐伯両工場)、15年5月に土佐セメント社、16年3月に日東セメント社、17年3月に東亜セメント社を合併した
    • [68]旧日本セメント株式会社は昭和14年10月1日に当社へ合併され、当社の資本金は1000万円増資して1億1631万円となった
    • [69]八代(月産2万6580トン)・佐伯(月産3万1550トン)両乾式工場を加え、九州における当社の工場は門司・香春両工場とあわせて4工場・月産11万8500トンとなった
    • [71]東京工場の全設備は昭和15年10月、華北洋灰社琉璃河工場建設のため華北洋灰股份有限公司に520万円で売却された
    • [72]昭和16年3月28日、当社は資産売買契約に基づき川崎工場およびその付属原料採掘場の事業設備一切を日本高炉セメント社に譲渡した
    • [73]昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日に戦争終結の詔書が放送された
    • [70]昭和5年7月、深川工場を東京工場と改称した。昭和13年10月施行の石炭配給統制規則によりセメント工業用石炭は激減し、創業以来56年にわたり操業を続けてきた東京工場は運転不能に陥って14年11月に閉鎖された

出典・参考

14件
出典・参考
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第2節 合資会社から株式会社へ
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第3節 北海道セメント株式会社の合併
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第6節 当期間の業績
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第5節 台湾工場の新設
  • 百年史(日本セメント、1983年)第2章第4節 降灰問題と川崎工場の新設
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第3節 生産能力増強と増資
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第6節 当期間の業績
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第4節 副業へ進出
  • 百年史(日本セメント、1983年)第3章第2節 セメント連合会の創設
  • 百年史(日本セメント、1983年)第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界
  • 百年史(日本セメント、1983年)資料編 当社セメント工場の変遷/第4章第5節 東京工場閉鎖
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 26 セメント p393 日本セメント
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史 p157 日本セメント
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)化学 p182 セメント・ガラス-延々とカルテル

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