第4章 年〜年

日本セメント:秩父小野田との合併による太平洋セメントの発足

1980年〜工場を閉じ石炭に戻した減量経営

1974年12月25日、原島保氏が第6代社長に選ばれ、武安千春前社長は会長に就任した。第1次石油ショック直後の1974年度は実質経済成長率が戦後初めてマイナスとなり、重油と電力のコスト上昇でセメント産業の採算は悪化した。就任から3か月後、原島保社長は『1年で辞めるわけにいかなくなった』と語った(日経ビジネス 1975/3/17)。会社は1975年3月から役員報酬と管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた。雇用調整給付金の指定業種となったため一時帰休制度も採り、1975年6月の西多摩工場を皮切りに上磯、埼玉、大阪、八代の各工場へ広げた。1976年1月には50歳以上の従業員を対象とする勇退を労働組合に提案し、同年6月14日に勇退者350名を確認して、管理職を含め約400名が会社を去った。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第2節 石油ショックの克服
    • [1]1974年12月25日の第120回株主総会後の取締役会で原島保が第6代社長に選ばれ、前社長の武安千春は会長に就任した
    • [2]1974年度の実質経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、セメント産業も重油・電力などエネルギーコストの大幅上昇により採算が悪化した
    • [4]緊急対策として1975年3月から役員報酬および管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた
    • [5]セメント産業は1975年1月から雇用保険法の雇用調整給付金の指定業種となり、一時帰休制度を採用して1975年6月の西多摩工場に続き8・9月に上磯、埼玉、西多摩、大阪、八代の5工場で実施した
    • [6]50歳以上の従業員を対象とする勇退が1976年1月12日に労働組合へ提案され、同年6月14日に勇退者350名を確認し管理職を含め約400名が勇退した
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏(日本セメント)登場
    • [3]原島保は日経ビジネス1975年3月17日号の「新社長登場」で、社長になったら1年で辞めるわけにいかなくなったと述べた

1977年4月14日、会社はチャレンジ400とチャレンジ自立の2つの目標を労働組合に説明した。チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切り下げるもので、1977年上期の予算を基準に本社、支店と上磯、埼玉、土佐、香春、佐伯、糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定した。チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とした。1年を経ても好転せず、1979年1月の常務会で門司、八代両工場の基本方針を定め、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した。130名近くが他工場や日本イトン工業などへ配転・出向し、約40名が退職して、1980年4月に両工場は閉鎖された。門司工場は1893年、八代工場は1890年に建設された約90年の歴史をもつ工場だった。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [7]1977年4月14日に会社はチャレンジ自立と同時にチャレンジ400運動の趣旨を労働組合に説明した
    • [8]チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切下げるため、1977年上期の予算を基準に本社・支店・上磯・埼玉・土佐・香春・佐伯・糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定したものである
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退
    • [9]チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とするものであった
    • [10]1979年1月の常務会で門司・八代両工場の今後の基本方針を決定し、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した
    • [11]130名近い従業員が他工場、日本イトン工業の九州工場、飯田工業所へ配転・出向し、約40名が円満に退職して1980年4月に門司・八代両工場の閉鎖問題は全面的に解決した
    • [12]門司工場は西日本進出の拠点として1893年に建設され、八代工場は旧日本セメントが1890年に建設した工場で、両工場は約90年の歴史をもっていた

燃料は重油から石炭へ戻された。2度の石油ショックで熱量当りの重油価格が石炭価格を上回ったためで、1978年10月の佐伯工場5号キルンを最初に、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が石炭混焼を始めた。四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した。1979年4月には西多摩工場にタイヤの投入設備を新設し、ブリヂストンタイヤと共同開発した使用ずみタイヤの燃料利用を実用化して、同年6月に環境庁から環境賞を受けた。1979年には神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが上磯工場6号キルンで稼働し、1982年9月には香春工場7号キルン系統に最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成した。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [13]2度の石油ショックにより熱量当りの重油価格が石炭価格より高くなったため、石炭への転換が必要となった
    • [14]石炭転換は1978年10月の佐伯工場5号キルンから始まり、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が相次いで石炭混焼を開始した
    • [15]四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した
    • [16]1979年4月に西多摩工場へタイヤ給養設備を新設して使用ずみタイヤの燃料利用を実用化し、ブリヂストンタイヤとの共同開発により1979年6月に環境庁から環境賞を受賞した
    • [17]神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが1979年に上磯工場6号キルンで実用化された
    • [18]1982年9月に香春工場7号キルン系統にキルンとクーラの排ガスを利用した最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成し、同工場の電力費は大幅に低減した
参考文献[1]-[18]
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第2節 石油ショックの克服
    • [1]1974年12月25日の第120回株主総会後の取締役会で原島保が第6代社長に選ばれ、前社長の武安千春は会長に就任した
    • [2]1974年度の実質経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、セメント産業も重油・電力などエネルギーコストの大幅上昇により採算が悪化した
    • [4]緊急対策として1975年3月から役員報酬および管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた
    • [5]セメント産業は1975年1月から雇用保険法の雇用調整給付金の指定業種となり、一時帰休制度を採用して1975年6月の西多摩工場に続き8・9月に上磯、埼玉、西多摩、大阪、八代の5工場で実施した
    • [6]50歳以上の従業員を対象とする勇退が1976年1月12日に労働組合へ提案され、同年6月14日に勇退者350名を確認し管理職を含め約400名が勇退した
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏(日本セメント)登場
    • [3]原島保は日経ビジネス1975年3月17日号の「新社長登場」で、社長になったら1年で辞めるわけにいかなくなったと述べた
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [7]1977年4月14日に会社はチャレンジ自立と同時にチャレンジ400運動の趣旨を労働組合に説明した
    • [8]チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切下げるため、1977年上期の予算を基準に本社・支店・上磯・埼玉・土佐・香春・佐伯・糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定したものである
    • [13]2度の石油ショックにより熱量当りの重油価格が石炭価格より高くなったため、石炭への転換が必要となった
    • [14]石炭転換は1978年10月の佐伯工場5号キルンから始まり、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が相次いで石炭混焼を開始した
    • [15]四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した
    • [16]1979年4月に西多摩工場へタイヤ給養設備を新設して使用ずみタイヤの燃料利用を実用化し、ブリヂストンタイヤとの共同開発により1979年6月に環境庁から環境賞を受賞した
    • [17]神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが1979年に上磯工場6号キルンで実用化された
    • [18]1982年9月に香春工場7号キルン系統にキルンとクーラの排ガスを利用した最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成し、同工場の電力費は大幅に低減した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退
    • [9]チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とするものであった
    • [10]1979年1月の常務会で門司・八代両工場の今後の基本方針を決定し、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した
    • [11]130名近い従業員が他工場、日本イトン工業の九州工場、飯田工業所へ配転・出向し、約40名が円満に退職して1980年4月に門司・八代両工場の閉鎖問題は全面的に解決した
    • [12]門司工場は西日本進出の拠点として1893年に建設され、八代工場は旧日本セメントが1890年に建設した工場で、両工場は約90年の歴史をもっていた

1982年〜1,884億円の頂点と、大手6社が4社になるまで

1982年7月22日、7年半にわたり社長を務めた原島保氏は会長に退き、北岡徹氏が社長に就任した。単体売上高は1981年4月期の1,884億円を頂点に3年続けて減り、1984年4月期は1,589億円まで減少した。経常利益は1979年4月期の105億円から1984年4月期には9億円まで縮んでいる。1984年4月期の売上構成はセメントが1,265億円で80%を占め、その他は324億円にとどまった。同じ年鑑に載る他社の直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%であり、大手6社はいずれも1981年前後に売上高の頂点を打って以後減収に転じた。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [19]1974年12月以来7年半にわたり社長を務めた原島保は1982年7月22日に会長へ退き、北岡徹が新社長に就任した
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント
    • [20]単体売上高は1981年4月期の1,884億3,000万円をピークに1982年4月期1,764億4,000万円、1983年4月期1,665億5,000万円、1984年4月期1,588億8,000万円と3年続けて減少した
    • [21]経常利益は1979年4月期の105億5,000万円から1984年4月期には9億4,000万円へ縮小した
    • [22]1984年4月期の売上構成はセメント1,265億円が80%、その他324億円が20%だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [23]会社年鑑1986年版の直近期セメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%だった
    • [24]会社年鑑1986年版によれば三菱鉱業セメント2,161億円、小野田セメント2,027億円、日本セメント1,589億円、住友セメント1,425億円、秩父セメント717億円、大阪セメント556億円の6社はいずれも1981年前後に売上高のピークを打ち以後減収となった

需要そのものが減っていた。セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンを頂点に年々低減し、1982年度は7,237万トンとなって3年間で1,060万トンを失った。創立100周年を迎えた1983年の年頭、全体の6割強を占める官公需は財政難で厳しい抑制を受け、民需も不況と産業構造の変化でかつての力を失っていた。北岡徹社長はセメント需要の成熟化を認めざるを得ない局面と受け止めた。そのうえで、セメント部門で業界最優位の価格競争力を確立すること、成長の機会を新規分野に求めて研究開発と非セメント部門を強化すること、管理・間接部門を効率化して販売、研究開発、海外事業へ人員を重点配置することの3つを基本的方向に置いた。1983年2月には中央研究所本館を新築している。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [25]セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンをピークとして以後年々低減を続け、1982年度は7,237万トンとなり3年間で1,060万トンの大幅減を記録した
    • [26]北岡社長は1983年の年頭あいさつで、全体の6割強を占める官公需が財政難のため厳しい抑制を受け、民需も不況の影響と産業構造の変化でかつての力を失っているとして、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた
    • [27]北岡社長は価格競争力の確保、研究開発と非セメント部門、社内体制の効率・活性化の3つを基本的方向として示した
    • [28]創立100周年を記念して1983年2月に中央研究所本館を新築し研究施設を充実させた
参考文献[19]-[28]
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [19]1974年12月以来7年半にわたり社長を務めた原島保は1982年7月22日に会長へ退き、北岡徹が新社長に就任した
    • [25]セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンをピークとして以後年々低減を続け、1982年度は7,237万トンとなり3年間で1,060万トンの大幅減を記録した
    • [26]北岡社長は1983年の年頭あいさつで、全体の6割強を占める官公需が財政難のため厳しい抑制を受け、民需も不況の影響と産業構造の変化でかつての力を失っているとして、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた
    • [27]北岡社長は価格競争力の確保、研究開発と非セメント部門、社内体制の効率・活性化の3つを基本的方向として示した
    • [28]創立100周年を記念して1983年2月に中央研究所本館を新築し研究施設を充実させた
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント
    • [20]単体売上高は1981年4月期の1,884億3,000万円をピークに1982年4月期1,764億4,000万円、1983年4月期1,665億5,000万円、1984年4月期1,588億8,000万円と3年続けて減少した
    • [21]経常利益は1979年4月期の105億5,000万円から1984年4月期には9億4,000万円へ縮小した
    • [22]1984年4月期の売上構成はセメント1,265億円が80%、その他324億円が20%だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [23]会社年鑑1986年版の直近期セメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%だった
    • [24]会社年鑑1986年版によれば三菱鉱業セメント2,161億円、小野田セメント2,027億円、日本セメント1,589億円、住友セメント1,425億円、秩父セメント717億円、大阪セメント556億円の6社はいずれも1981年前後に売上高のピークを打ち以後減収となった

1980年〜1998年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1980年04月期 単体 1,707 n/a 45 2.7% 25 n/a
1981年04月期 単体 1,884 +10.3% 70 3.7% 16 n/a
1982年04月期 単体 1,764 ▲6.4% 41 2.3% 16 n/a
1983年04月期 単体 1,665 ▲5.6% 12 0.8% 15 n/a
1984年04月期 単体 1,588 ▲4.6% 9 0.6% 15 n/a
1985年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1996年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1997年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1998年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第2節 石油ショックの克服
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏(日本セメント)登場
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント

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