第1章 年〜年

AGC:旭硝子の創立と日本初の板ガラス工業生産

1907年〜輸入依存を断つために三菱が送り込んだ岩崎俊弥と尼崎工場

1907年9月8日、岩崎俊弥は三菱財閥の支援を受け、資本金100万円で旭硝子株式会社を設立し、本社を兵庫県尼崎に置いた。当時の日本は窓用板ガラスをほぼ全量を海外からの輸入に頼っており、国内で工業的に生産できる技術を持つ企業はまだどこにも存在しない状況であった。1909年4月に尼崎工場を建設してベルギー式手吹法による窓硝子の製造を開始し、翌1910年1月には菱印の商標で製品の市販に踏み切り、日本で初めての板ガラスの工業生産にこぎつけた。輸入品との価格競争を覚悟したうえで、まず国産化そのものを目的に据えた事業設計であり、民族資本企業による輸入依存脱却への挑戦という色合いが強く打ち出された創業案件である。

  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は岩崎俊弥(三菱財閥の支援)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]創立時の資本金は100万円
    • [3]1907年9月8日 岩崎俊弥が三菱財閥の支援で資本金100万円により旭硝子株式会社を創立、本社を兵庫県尼崎に置いた
    • [5]尼崎工場はベルギー式手吹法で窓硝子を製造、製品は菱印の商標で市販
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [4]1909年 尼崎工場で日本初の板ガラス工業生産を開始

創業から七年のあいだ、旭硝子は無配を続けた。初代社長の岩崎俊弥は三菱本家の岩崎小弥太の弟にあたり、第一高等学校を中途退学してイギリスへ留学し応用化学を学んだのち、帰国後に三菱で相応の地位に就く道を自ら放棄して独立した。明治末期の日本の板ガラス需要は年間4,000万円から5,000万円に上りながら、それを満たす国内生産は皆無で、全量が輸入で賄われていた。だが1910年に市場へ出した国産板ガラスは、人間の肺活量に頼る手吹き法で作られたため高度な熟練を要し、均一で良質な製品を安定して作ることが難しく、第一次大戦が始まるまで毎年の赤字計上を余儀なくされた。転機は戦争が運んできた。欧州からの輸入が途絶した間に国内市場を押さえ、それまで欧米製品に頼っていた東南アジアや中近東からも注文が殺到した。

  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
    • [6]創業後7年間は無配という苦難時代が続いた
    • [10]第一次大戦中にヨーロッパからの輸入がとまった間に国内市場を独占した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [7]初代社長の岩崎俊弥は岩崎小弥太の弟で、第一高等学校を中途退学しイギリスに留学して応用化学を学び、三菱での地位を自ら放棄して独立した
    • [8]明治末期の日本の板ガラス需要は年間4,000万〜5,000万円で、国内生産は全くなく全部が輸入に依存していた
    • [9]1910年に国産初の板ガラスを市場に出したが、手吹き法は高度な熟練を要し均一で良質な製品をつくるのが困難で、第一次大戦開始まで毎年赤字だった
    • [11]第一次大戦で欧米製品が日本市場から姿を消し、欧米製品に依存していた東南アジア・中近東からも日本へ注文が殺到した

国産化は、後工程や原材料の内製化へと連鎖していく流れへとつながった。1914年に北九州の牧山工場を設置して西日本に生産拠点を広げ、1916年にはガラス溶解窯の構造材である耐火煉瓦の自社生産を開始してセラミックス事業へと参入し、同年には横浜の鶴見工場も置いている。牧山・鶴見の両工場ではラバース式機械吹法を採り入れて手吹法から機械生産への転換を図り、翌1917年にはガラスの主原料であるソーダ灰の製造にも参入し、原料から最終製品までを自社で手掛ける一貫生産体制を構築し上げた。その後も1928年に尼崎の硝子工場をフルコール式に、1931年に鶴見の硝子工場をピッツバーグ式に改造して連続生産技術を取り込んでいき、後のセラミックス・化学品の事業群は、すべてガラスを作るための副資材内製から派生したものであり、創業期の自前主義が後年の多角化戦略の原点となる遺伝子を形づくったと位置づけることができる局面である。

  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [12]1914年 牧山工場を設置し西日本に生産拠点を拡大
    • [13]1916年 耐火煉瓦の生産を開始しセラミックス事業に参入、同年 鶴見工場を設置
    • [15]1917年 ソーダ灰の製造を開始し一貫生産体制を確立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]牧山・鶴見工場はラバース式機械吹法を採用し手吹法から機械生産へ転換
    • [16]1928年に尼崎硝子工場をフルコール式に、1931年に鶴見硝子工場をピッツバーグ式に改造
参考文献[1]-[16]
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は岩崎俊弥(三菱財閥の支援)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]創立時の資本金は100万円
    • [3]1907年9月8日 岩崎俊弥が三菱財閥の支援で資本金100万円により旭硝子株式会社を創立、本社を兵庫県尼崎に置いた
    • [5]尼崎工場はベルギー式手吹法で窓硝子を製造、製品は菱印の商標で市販
    • [14]牧山・鶴見工場はラバース式機械吹法を採用し手吹法から機械生産へ転換
    • [16]1928年に尼崎硝子工場をフルコール式に、1931年に鶴見硝子工場をピッツバーグ式に改造
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [4]1909年 尼崎工場で日本初の板ガラス工業生産を開始
    • [12]1914年 牧山工場を設置し西日本に生産拠点を拡大
    • [13]1916年 耐火煉瓦の生産を開始しセラミックス事業に参入、同年 鶴見工場を設置
    • [15]1917年 ソーダ灰の製造を開始し一貫生産体制を確立
  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
    • [6]創業後7年間は無配という苦難時代が続いた
    • [10]第一次大戦中にヨーロッパからの輸入がとまった間に国内市場を独占した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [7]初代社長の岩崎俊弥は岩崎小弥太の弟で、第一高等学校を中途退学しイギリスに留学して応用化学を学び、三菱での地位を自ら放棄して独立した
    • [8]明治末期の日本の板ガラス需要は年間4,000万〜5,000万円で、国内生産は全くなく全部が輸入に依存していた
    • [9]1910年に国産初の板ガラスを市場に出したが、手吹き法は高度な熟練を要し均一で良質な製品をつくるのが困難で、第一次大戦開始まで毎年赤字だった
    • [11]第一次大戦で欧米製品が日本市場から姿を消し、欧米製品に依存していた東南アジア・中近東からも日本へ注文が殺到した

1918年〜ソーダ灰の値崩れと大陸への展開、日本板硝子との複占

アフリカのマガジ湖で豊富な天然ソーダが見つかり、神戸の鈴木商店系である太陽曹達がその輸入権を一手に握って安値で日本へ持ち込んだ。原料を自ら作る設計は、その原料の市況が壊れたときに最初の試練を迎えることになる。旭硝子は顧問の西川博士らを現地へ派遣し、処理加工に難点が多く品質も不純で用途は低級な方面に限られるという報告を得た。それでもマガジ産と英国ブラナー・モンド社の製品が日本市場で争奪戦を演じたため、100ポンド当たり6円だったソーダ灰は一挙に半値の3円へ落ち、1922年には3円を割り、翌1923年には2円50銭まで下がった。同業の一社は三年続いた苦境に耐えられず作業休止に追い込まれたが、旭硝子は塩化石灰や局方重曹といった副産物の製造を新たに起こしてソーダ事業を続けた。ガラスを兼業していたことが、原料部門の赤字を吸収する余地を与えていた。

  • 『産業フロンティア物語 ガラス〈旭硝子〉』(1967年)
    • [17]アフリカのマガジ湖で発見された天然ソーダが、鈴木商店系の太陽曹達を通じて安値で日本へ輸入された
    • [18]旭硝子は顧問の西川博士らを現地へ派遣し、マガジ産ソーダは処理加工に難点があり品質は不純で用途は低級な方面に限られるとの報告を得た
    • [19]マガジ産と英国ブラナー・モンド社の市場争奪により、100ポンド当たり6円のソーダ灰が3円へ半減し、大正11年に3円を割り、大正12年には2円50銭まで下落した
    • [20]同業のソーダ会社は三年続いた苦境に耐えられず作業休止に至った
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [21]旭硝子は危機を乗り切る方法として新たに塩化石灰・局方重曹などの副産物の製造を開始した

戦前の旭硝子は、内地よりも外地に多くの工場を構える会社であった。1925年4月に南満州鉄道と折半出資で昌光硝子を設立して大連に板ガラス工場を建て、1936年9月には華北の秦皇島にある耀華玻璃のベルギー資本を肩代わりして日華共同経営に当たり、翌1937年9月には昌光硝子の子会社として奉天に満州昌光硝子を置いた。ソーダの主原料である塩に着目して1936年4月に満州塩業の創立へ参画し、同年5月には南満州鉄道らとの共同出資で満州曹達を設立している。耐火煉瓦でも1941年11月に三菱鉱業と折半出資で北朝鮮の清津へ工場を建て、朝鮮・満州向けの供給に当てた。板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権とされており、敗戦によって外地の一切の資産と権益を失ったことは、工場を手放すと同時に多年培ってきた市場を明け渡すことでもあった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [22]戦前は内地にある工場の数よりも外地にある工場の数のほうが多かった
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
    • [23]1925年4月 南満州鉄道と折半出資で昌光硝子を設立し大連に板ガラス工場を建設、1936年9月 秦皇島の耀華玻璃のベルギー資本を肩代わりして日華共同経営、1937年9月 奉天に満州昌光硝子を設立
    • [24]1936年4月 満州塩業の創立に参画、同年5月 南満州鉄道その他との共同出資で満州曹達を設立
    • [25]1941年11月 北朝鮮の清津に三菱鉱業と折半出資で清津工場を建設し、朝鮮・満州へコルハート煉瓦を供給した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [26]板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権であった
    • [27]敗戦により外地の一切の資産・権益を失い、海外の工場だけでなく多年培ってきた市場も失った

板ガラスの製法はベルギーで開発されたフルコール法とアメリカで発達したコールバン法に大別され、旭硝子は前者を、日本板硝子は後者を採った。製法が限られればメーカーの数も自ずと限られ、各国の板ガラス工業は例外なく独占か寡占に収まる。日本板硝子の前身である日米板硝子は1918年に資本金300万円で設立され、その3分の1は特許と技術を出したアメリカのリビー・オウエンス社へ交付し、残りを住友や旭硝子など大阪財界が払い込んだ。若松に建てた工場は歩留まりが悪く経営が行き詰まり、住友は旭硝子へ経営を委任しようとしたが拒まれ、やむをえず自ら引き取っている。関東大震災による需要急増で経営は改善し、1931年には国産品奨励の風潮を受けて社名から米の一字を外した。ほかの参入者は両社に対抗できず、1941年には二社の独占へ戻った。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [28]板ガラスの製法はベルギーで開発されたフルコール法とアメリカで発達したコールバン法に大別され、旭硝子はフルコール法、日本板硝子はコールバン法を採用していた
    • [29]製法が限られるため板ガラスメーカーの数は自ずと限られ、世界各国で独占または寡占状態にある
  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
    • [30]日米板硝子は1918年に資本金300万円で設立され、うち3分の1を特許と技術を提供した米リビー・オウエンス社に交付し、残りを住友・旭硝子など大阪財界が払い込んだ
    • [31]若松工場は歩留まりが悪く経営が行き詰まり、住友は旭硝子に経営を委任しようとしたが拒まれ、やむをえず自ら引き取った
    • [32]関東大震災で板ガラス需要が急増して経営が改善し、1931年に国産品奨励の風潮に応じて社名から「米」を外して日本板硝子となった
    • [33]板ガラス生産に乗り出した他社は両大手に対抗できず解散または吸収合併され、1941年には二社の独占に戻った
参考文献[17]-[33]
  • 『産業フロンティア物語 ガラス〈旭硝子〉』(1967年)
    • [17]アフリカのマガジ湖で発見された天然ソーダが、鈴木商店系の太陽曹達を通じて安値で日本へ輸入された
    • [18]旭硝子は顧問の西川博士らを現地へ派遣し、マガジ産ソーダは処理加工に難点があり品質は不純で用途は低級な方面に限られるとの報告を得た
    • [19]マガジ産と英国ブラナー・モンド社の市場争奪により、100ポンド当たり6円のソーダ灰が3円へ半減し、大正11年に3円を割り、大正12年には2円50銭まで下落した
    • [20]同業のソーダ会社は三年続いた苦境に耐えられず作業休止に至った
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [21]旭硝子は危機を乗り切る方法として新たに塩化石灰・局方重曹などの副産物の製造を開始した
    • [26]板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権であった
    • [27]敗戦により外地の一切の資産・権益を失い、海外の工場だけでなく多年培ってきた市場も失った
    • [28]板ガラスの製法はベルギーで開発されたフルコール法とアメリカで発達したコールバン法に大別され、旭硝子はフルコール法、日本板硝子はコールバン法を採用していた
    • [29]製法が限られるため板ガラスメーカーの数は自ずと限られ、世界各国で独占または寡占状態にある
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [22]戦前は内地にある工場の数よりも外地にある工場の数のほうが多かった
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
    • [23]1925年4月 南満州鉄道と折半出資で昌光硝子を設立し大連に板ガラス工場を建設、1936年9月 秦皇島の耀華玻璃のベルギー資本を肩代わりして日華共同経営、1937年9月 奉天に満州昌光硝子を設立
    • [24]1936年4月 満州塩業の創立に参画、同年5月 南満州鉄道その他との共同出資で満州曹達を設立
    • [25]1941年11月 北朝鮮の清津に三菱鉱業と折半出資で清津工場を建設し、朝鮮・満州へコルハート煉瓦を供給した
  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
    • [30]日米板硝子は1918年に資本金300万円で設立され、うち3分の1を特許と技術を提供した米リビー・オウエンス社に交付し、残りを住友・旭硝子など大阪財界が払い込んだ
    • [31]若松工場は歩留まりが悪く経営が行き詰まり、住友は旭硝子に経営を委任しようとしたが拒まれ、やむをえず自ら引き取った
    • [32]関東大震災で板ガラス需要が急増して経営が改善し、1931年に国産品奨励の風潮に応じて社名から「米」を外して日本板硝子となった
    • [33]板ガラス生産に乗り出した他社は両大手に対抗できず解散または吸収合併され、1941年には二社の独占に戻った

1939年〜戦時統合で消滅した社名と旭硝子としての再発足

戦前の旭硝子は、板ガラスにソーダや耐火物を加えた事業群を軸に成長を遂げ、世界一級のガラスメーカーと呼ばれるまでになっていた。だが戦時統制が深まるなかで段階的な企業集約に組み込まれ、1939年に昭和化学工業を、1942年に大阪晒粉をそれぞれ合併して事業規模を拡大したうえ、1939年には兵庫県に伊保工場を新設して生産能力を積み上げた。その延長線上の1944年、旭硝子は日本化成工業と合併して三菱化成工業株式会社と改称し、資本金は1億1,079万円となった。創業から37年で旭硝子の名はいったん表舞台から消え、会社はガラス・セラミックス・化学品を併せ持つ巨大な戦時統合体の一部となった。軍需資材としてのガラスと化学品が同じ法人で運用される戦時経済特有の編成がここで成立し、生産技術と人材がこの統合体の内部に広く温存されたことが、後の多角化の素地ともなった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [34]戦前に板ガラス・ソーダ・耐火物を軸に成長し世界一級のガラスメーカーとなった
    • [35]1939年 昭和化学工業と、1942年 大阪晒粉とそれぞれ合併し事業規模を拡大
    • [38]合併相手は日本化成工業、改称後の社名は三菱化成工業株式会社、改称後の資本金は1億1079万円
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [36]1939年 伊保工場を新設
    • [37]1944年 日本化成工業と合併し三菱化成工業株式会社へ改称

かつての社名である旭硝子を名乗り、資本金2億5,000万円の会社としてガラス部門が再出発したのは1950年6月1日で、上場も同じ年のうちに果たした。その前提は、戦後の財閥解体と過度経済力集中排除法の下で、企業再建整備法による整備計画が同年1月に認められ、三菱化成工業が旭硝子・日本化成工業・新光レイヨンへと三社に分かれることが決まった点にある。再出発した時点の事業は、ガラス、セラミックス、ソーダ灰など創業以来の領域を出ていなかった。それでも戦時中に同じ社内にあった化学品の知見と技術者を手放さずに済んだことが、1964年のフッ素化学品参入、そして1965年以降にアジアで広げたクロールアルカリ事業へとつながった。社名がいったん消えて再び戻ってきたという経験は、後年にブランドを掛け替える判断を下すうえでの心理的な抵抗を薄くする役割をも果たしたと評価できる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [39]1950年6月1日 ガラス部門が旧名の旭硝子として資本金2億5000万円で再発足し同年に株式上場
    • [40]1950年1月 企業再建整備法に基づく整備計画が認可され三菱化成工業を3社に分離
    • [41]三菱化成工業は旭硝子・日本化成工業・新光レイヨン(現三菱レイヨン)の3社に分離された
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [42]1964年 フッ素化学品の生産を開始
    • [43]1965年 タイ旭苛性曹達社を設立しアジアでのクロールアルカリ(化学品)生産を開始
参考文献[34]-[43]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [34]戦前に板ガラス・ソーダ・耐火物を軸に成長し世界一級のガラスメーカーとなった
    • [35]1939年 昭和化学工業と、1942年 大阪晒粉とそれぞれ合併し事業規模を拡大
    • [38]合併相手は日本化成工業、改称後の社名は三菱化成工業株式会社、改称後の資本金は1億1079万円
    • [39]1950年6月1日 ガラス部門が旧名の旭硝子として資本金2億5000万円で再発足し同年に株式上場
    • [40]1950年1月 企業再建整備法に基づく整備計画が認可され三菱化成工業を3社に分離
    • [41]三菱化成工業は旭硝子・日本化成工業・新光レイヨン(現三菱レイヨン)の3社に分離された
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [36]1939年 伊保工場を新設
    • [37]1944年 日本化成工業と合併し三菱化成工業株式会社へ改称
    • [42]1964年 フッ素化学品の生産を開始
    • [43]1965年 タイ旭苛性曹達社を設立しアジアでのクロールアルカリ(化学品)生産を開始

筆者考察

旭硝子が板ガラスの会社でありながらソーダと耐火煉瓦を抱えることになったのは、多角化を志したからではない。板ガラスを作り続けるために要る原料と炉材が、輸入でしか手に入らなかったからである。第一次大戦で欧州との取引が途絶したとき、道は二つしかなかった。ガラスの生産を落として耐えるか、原料と炉材そのものを作り始めるか。岩崎俊弥が選んだのは後者で、1916年に耐火煉瓦、1917年にソーダ灰へ手を伸ばした。この選択は、板ガラス一品の会社を、ガラスと化学と窯業の三本柱を持つ会社へ作り替える。創業から十年で決まった構えは、その後の百年にわたって変わらなかった。

三本柱の意味は、1920年代にソーダ灰の値が半分以下へ落ちたときに現れた。アフリカ産の天然ソーダと英国資本の争いに巻き込まれ、100ポンド6円だったソーダ灰は2円50銭まで下がる。ソーダだけを作っていた同業は作業を止めたが、旭硝子は止まらなかった。原料部門の赤字を、完成品であるガラスの利益が吸収したからである。垂直に連なった事業は、好況のときに変動を増幅する代わりに、一つの段が崩れたときには他の段が支える構造でもあった。1944年に社名が三菱化成工業へ変わり、1950年に旭硝子として戻るまでの六年は、その構えの上に積んだ技術と人が別の法人の内側で温存された期間だった。

旭硝子の資本金 1907年の創立から1944年の戦時合併まで(百万円)

1 創立 41.98 42年 110.79 合併後

出典・参考

8件
出典・参考
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
  • 『産業フロンティア物語 ガラス〈旭硝子〉』(1967年)
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫

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