第2章 年〜年

AGC:旭硝子の再発足とブラウン管・自動車ガラスへの多角化

1950年〜外地を失った会社が技術の買い手に徹した戦後復興

1950年6月に再発足した旭硝子が手にしていたのは、国内の工場と技術と人だけであった。終戦とともに外地の一切の資産と権益を失い、そのうえ財閥会社および過度経済力集中排除法の指定を受けて苦難に直面していたためである。資本金2億5,000万円で出直した会社は、戦後いち早く生産を再開して復興に力を注ぎ、欧米に対する立ち遅れを取り戻すため外国から新技術を導入して品質と生産性の向上に努めた。1950年には、日本のソーダ工業界に先がけて塩安とソーダ灰を併産するAC法の工業化に成功している。資本金は二度の増資を経て1954年7月に31億円となり、1955年3月期の売上高は81億8,000万円に達した。板ガラスとソーダはいずれも業界首位を占め、板ガラスは日本板硝子とともに業界の双璧と称された。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
    • [1]終戦とともに外地の一切の資産・権益を失い、財閥会社あるいは集中排除法等の指定を受けて苦難に直面した
    • [2]戦後いち早く生産を再開して復興に注力し、欧米に比べての立ち遅れを克服するため外国から新技術を導入して品質と生産性の向上に努めた
    • [4]資本金は新発足後二回の増加を経て1954年7月に31億円となり、1955年3月期の売上高は81億8,000万円だった
    • [5]板ガラス・ソーダの各事業はそれぞれ業界第一位を占め、板ガラスは日本板硝子とともに業界の双璧をなしていた
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [3]1950年 日本のソーダ工業界にさきがけてAC法(塩安・ソーダ併産法)による生産の工業化に成功した

旭硝子は、自社技術の純潔を守るより外の技術を買うことを選んだ。技術の純潔性に固執したがゆえに経営へ失敗した会社が少なくないという読みのもと、優秀であればどの国の技術でも積極的に導入し、買い手があればどの国へも輸出する方針を採ったのである。千葉工場で天然ガスの井戸を掘る際には、大阪の国際見本市で見つけたソ連製のターボドリルを採り入れて工期を縮め、天然ガスからアンモニアを合成する技術はアメリカの技術コンサルタントから輸入した。逆に、自社で開発した回転式電解槽はアメリカ有数のソーダ会社へ技術輸出することが決まっていた。導入と輸出を同じ天秤に載せた結果、1967年には製板でフルコール式とピッツバーグ式の二方式を持ち、型板のロールアウト式と磨板のフロート式も併せ持つに至った。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [6]技術の純潔性に固執したため経営に失敗した会社も少なくなく、旭硝子は優秀ならどの国の技術でも導入し、買い手があればどの国へも輸出する方針をとった
    • [7]千葉工場の天然ガス井戸の掘削に、大阪の国際見本市で見つけたソ連製ターボドリルを採用して工事をスピードアップした
    • [8]天然ガスからアンモニアを合成する技術をアメリカの技術コンサルタントCCCから輸入した
    • [9]自社開発の回転式電解槽をアメリカ有数のソーダ会社フーカー社へ技術輸出することがほぼ決定した
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [10]1967年時点でフルコール式とピッツバーグ式の二技術を持ち、型板ガラスのロールアウト式、磨板ガラスのフロート式の技術も併せ持っていた

イギリスではピルキントン一社が、フランスではサンゴバン一社が市場を押さえていた。ベルギーでも、EECの発足で規模を広げる必要に迫られたユニバーベルとグラベールの二社が1961年に合併してグラベーベルが生まれ、一社あたりの板ガラス生産能力は世界第一位となった。板ガラスが少数の企業に集約されるのは各国に共通する姿で、日本だけの事情から生じたわけではなかった。アメリカではPPGとLOFがほとんどの市場を占め、ドイツも二社が支配していた。日本では旭硝子と日本板硝子の二社体制に、1960年代へ入ってセントラル硝子が第三の会社として加わり、既存の二社にとって大きな刺激となった。それでも1971年の時点で旭硝子は板ガラス部門で5割を上回るシェアを占め、加工ガラスで6割、テレビブラウン管用ガラスで7割を超えていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [11]イギリスはピルキントン1社、フランスはサンゴバン1社が独占し、ベルギーではEEC発足に伴いユニバーベルとグラベールが1961年に合併してグラベーベルとなり一社当たり板ガラス生産能力で世界第一位となった
    • [12]イギリスはピルキントン1社、フランスはサンゴバン1社が独占し、ベルギーではEEC発足に伴いユニバーベルとグラベールが1961年に合併してグラベーベルとなり一社当たり板ガラス生産能力で世界第一位となった
    • [13]アメリカはPPGとLOFがほとんどの市場を占め、ドイツはデターグとデローフの二社が市場を支配していた
    • [14]日本では第三の会社としてセントラル硝子ができ、既存の板ガラスメーカーにとって大きな刺激となった
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [15]1971年時点で日本の板ガラス部門のシェアは50%超、加工ガラス部門は60%、テレビブラウン管用ガラスは70%超だった
参考文献[1]-[15]
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
    • [1]終戦とともに外地の一切の資産・権益を失い、財閥会社あるいは集中排除法等の指定を受けて苦難に直面した
    • [2]戦後いち早く生産を再開して復興に注力し、欧米に比べての立ち遅れを克服するため外国から新技術を導入して品質と生産性の向上に努めた
    • [4]資本金は新発足後二回の増加を経て1954年7月に31億円となり、1955年3月期の売上高は81億8,000万円だった
    • [5]板ガラス・ソーダの各事業はそれぞれ業界第一位を占め、板ガラスは日本板硝子とともに業界の双璧をなしていた
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [3]1950年 日本のソーダ工業界にさきがけてAC法(塩安・ソーダ併産法)による生産の工業化に成功した
    • [6]技術の純潔性に固執したため経営に失敗した会社も少なくなく、旭硝子は優秀ならどの国の技術でも導入し、買い手があればどの国へも輸出する方針をとった
    • [7]千葉工場の天然ガス井戸の掘削に、大阪の国際見本市で見つけたソ連製ターボドリルを採用して工事をスピードアップした
    • [8]天然ガスからアンモニアを合成する技術をアメリカの技術コンサルタントCCCから輸入した
    • [9]自社開発の回転式電解槽をアメリカ有数のソーダ会社フーカー社へ技術輸出することがほぼ決定した
    • [11]イギリスはピルキントン1社、フランスはサンゴバン1社が独占し、ベルギーではEEC発足に伴いユニバーベルとグラベールが1961年に合併してグラベーベルとなり一社当たり板ガラス生産能力で世界第一位となった
    • [12]イギリスはピルキントン1社、フランスはサンゴバン1社が独占し、ベルギーではEEC発足に伴いユニバーベルとグラベールが1961年に合併してグラベーベルとなり一社当たり板ガラス生産能力で世界第一位となった
    • [13]アメリカはPPGとLOFがほとんどの市場を占め、ドイツはデターグとデローフの二社が市場を支配していた
    • [14]日本では第三の会社としてセントラル硝子ができ、既存の板ガラスメーカーにとって大きな刺激となった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [10]1967年時点でフルコール式とピッツバーグ式の二技術を持ち、型板ガラスのロールアウト式、磨板ガラスのフロート式の技術も併せ持っていた
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [15]1971年時点で日本の板ガラス部門のシェアは50%超、加工ガラス部門は60%、テレビブラウン管用ガラスは70%超だった

1956年〜インドで15年の赤字に耐えて組み直したアジアの生産網

敗戦で失った海外市場を取り戻す最初の足場となったのはインドで、戦前はスエズ以東の板ガラス市場を日本の商権として握っていた旭硝子が、その市場を外国の手へ明け渡したことが出発点にある。1956年8月、インド産業金融公社の担保に入っていた不振の米国系企業について、ソルデプール・ガラスの買収により印度旭硝子を立ち上げ、ビハール州の工場が生産に入ったのは翌1957年6月である。出資はインド側の要請により、合弁の外資比率が4割以下へ絞られつつあった中で珍しく100%を認められたが、自社の設計ではない工場の運営は難しく、国内なら三年から四年で出る利益が出るまでに八年かかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [16]板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権であり、敗戦によりそれらの市場を外国に奪われた
    • [19]買収した工場が自社設計でなかったため運営がうまくいかず、日本なら3〜4年で利益を出せるものが8年目にしてようやく黒字になった
  • 日経BP社『日経ビジネス』1973年1月8日号「印度旭硝子(インド)のニッポン経営」
    • [17]印度旭硝子は1956年、経営不振でインド産業金融公社に抵当に入れられていた米国系ソルデプール・ガラスを買収して発足し、1957年からビハール州の工場で生産を開始した
    • [18]インドでの合弁企業の外資比率は40%以下に抑えられていたが、インド側の要請により印度旭硝子は外資100%の形をとる数少ない進出企業だった

生産は1958年に24万箱、1961年に37万箱と伸び、配当も間近とみられていた。ところが1962年秋の中印国境紛争で貨車もトラックも軍事優先となり、原料は入らず製品は運び出せなくなった。1963年以降は英国系のヒンドスタン・ピルキントンなど四社が生まれて六社の過当競争へ変わり、1965年の印パ戦争と、賃上げ・解雇をめぐるストライキでどん底に落ち込んだ。社内外から撤退論が上がったが、従業員約1,200人と家族を含む5,000人の生活を支えている以上へこたれるわけにはいかないとして事業を続けた。1972年には初めて法人税100万ルピーを納めるところまでこぎつけ、年産能力40万箱・シェア3割で同国業界の首位に立った。15年の赤字に耐えられたのは、この事業が本体の板ガラスとソーダに支えられていたからである。

  • 日経BP社『日経ビジネス』1973年1月8日号「印度旭硝子(インド)のニッポン経営」
    • [20]印度旭硝子の生産実績は1958年24万箱、1961年37万箱と順調だった
    • [21]1962年秋の中印国境紛争で貨車もトラックも軍事優先で止まり、原料は入手できず製品は運び出せなくなった
    • [22]1963年以降に英国系ヒンドスタン・ピルキントンなど4社が誕生して計6社の過当競争となり、1965年の印パ戦争と処分反対ストライキでどん底に落ち込んだ
    • [23]1966年の増資で切り抜けた際に社内外から転身論が上がったが、従業員約1,200人と家族を含む5,000人の生活を支えていることを理由に継続した
    • [24]1972年に初めて法人税100万ルピーを納め、年産能力40万箱・シェア30%でインド板ガラス業界のリーダーとなった

インドで得た足場は、1960年代を通じてアジア全域の生産網へ広がった。1964年にフッ素化学品の生産を始め、翌1965年にはタイ旭苛性曹達を設立してアジアでのクロールアルカリ生産に踏み出している。1967年の時点で海外子会社は印度旭硝子・タイ旭硝子・タイ旭苛性ソーダの三社を数え、台湾とインドネシアへは技術を輸出していた。インドネシア向けのソーダ電解プラント輸出は、同国が外国の技術によって設立した会社のうち最も利益を上げるものとなった。1971年にはインドネシアでの合弁設立を申請し、イランとフィリピンの板ガラス会社と技術提携を結んでいる。もっともインドでは自国資本の比率を高める政策が進み、印度旭硝子は1974年から出資比率を49%まで引き下げるよう要請を受けた。

  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1964年 フッ素化学品の生産を開始
    • [26]1965年 タイ旭苛性曹達社を設立しアジアでのクロールアルカリ生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [27]1967年時点の海外子会社は印度旭硝子・タイ旭硝子・タイ苛性ソーダで、台湾とインドネシアへ技術輸出を行っていた
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [28]インドネシア向けソーダ工場プラント輸出による国営会社は、インドネシアが外国の技術で設立した会社の中で最も利益を上げていた
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [29]1971年時点でインドネシアでの合弁会社設立を申請中であり、イラン・フィリピンの板ガラス会社と技術提携していた
  • 日経BP社『日経ビジネス』1973年1月8日号「印度旭硝子(インド)のニッポン経営」
    • [30]インド化政策により印度旭硝子は1974年から出資比率を49%まで引き下げることを要請された
参考文献[16]-[30]
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [16]板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権であり、敗戦によりそれらの市場を外国に奪われた
    • [19]買収した工場が自社設計でなかったため運営がうまくいかず、日本なら3〜4年で利益を出せるものが8年目にしてようやく黒字になった
    • [28]インドネシア向けソーダ工場プラント輸出による国営会社は、インドネシアが外国の技術で設立した会社の中で最も利益を上げていた
  • 日経BP社『日経ビジネス』1973年1月8日号「印度旭硝子(インド)のニッポン経営」
    • [17]印度旭硝子は1956年、経営不振でインド産業金融公社に抵当に入れられていた米国系ソルデプール・ガラスを買収して発足し、1957年からビハール州の工場で生産を開始した
    • [18]インドでの合弁企業の外資比率は40%以下に抑えられていたが、インド側の要請により印度旭硝子は外資100%の形をとる数少ない進出企業だった
    • [20]印度旭硝子の生産実績は1958年24万箱、1961年37万箱と順調だった
    • [21]1962年秋の中印国境紛争で貨車もトラックも軍事優先で止まり、原料は入手できず製品は運び出せなくなった
    • [22]1963年以降に英国系ヒンドスタン・ピルキントンなど4社が誕生して計6社の過当競争となり、1965年の印パ戦争と処分反対ストライキでどん底に落ち込んだ
    • [23]1966年の増資で切り抜けた際に社内外から転身論が上がったが、従業員約1,200人と家族を含む5,000人の生活を支えていることを理由に継続した
    • [24]1972年に初めて法人税100万ルピーを納め、年産能力40万箱・シェア30%でインド板ガラス業界のリーダーとなった
    • [30]インド化政策により印度旭硝子は1974年から出資比率を49%まで引き下げることを要請された
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1964年 フッ素化学品の生産を開始
    • [26]1965年 タイ旭苛性曹達社を設立しアジアでのクロールアルカリ生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [27]1967年時点の海外子会社は印度旭硝子・タイ旭硝子・タイ苛性ソーダで、台湾とインドネシアへ技術輸出を行っていた
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [29]1971年時点でインドネシアでの合弁会社設立を申請中であり、イラン・フィリピンの板ガラス会社と技術提携していた

1960年〜一貫メーカーという選択と、テレビ・自動車・住宅が運んだ需要

旭硝子が一貫メーカーであり続けたのは、第一次大戦で原料と耐火炉材の輸入が止まり、その自給を迫られた経験に発している。1967年の時点でも、この垂直的多角経営は今後も守り続ける方針に置かれていた。縦につながった多角化は、横に広げる多角化と異なり、景気の波を和らげるどころか、かえって波を生む要因になる。千葉の構えはまさにこの型である。天然ガスでアンモニアを合成し、アンモニアから塩化アンモンとソーダ灰を併産し、そのソーダ灰でガラスを作って加工ガラスにまで仕上げていた。その代わり、原料から製品までの工程が長い分だけ合理化できる箇所も多く、各段階で得る利益が重なるので、売上高に比べた利益率は高い水準に届く。専業を貫いた日本板硝子と比べてどちらが得策かは、時の経過を待たなければ答えの出ない問題だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [31]第1次大戦で原料や耐火炉材の輸入が止まったため、原料・炉材自給の必要から必然的に垂直的多角経営をせざるを得なかった
    • [32]1967年時点でも垂直的多角経営の方針は受け継がれ、今後も守り続けるものとされていた
    • [33]水平的多角経営が経済変動に対し安定要因として機能するのに対し、垂直的多角経営はむしろ変動要因として働く
    • [34]千葉で天然ガスからアンモニアを合成し、アンモニアから塩化アンモンとソーダ灰を併産、ソーダ灰を原料にガラスを作り加工ガラスとする一貫工程を持っていた
    • [35]原料から最終製品に至る工程が長いため合理化の余地が多く、垂直的な各部門の利益が積み上がって売上高に対する利益率は高くなる
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [36]一貫メーカーが有利か日本板硝子のような専業メーカーがよいかは時間が決定する問題であり、今後のガラス業界の方向を定める重要な論点とされた

戦後の成長を運んだのは、テレビ工業と自動車工業と建設業であった。1963年の時点で生産能力はテレビブラウン管が月産50万個、自動車ガラスが月産17万平方メートルにとどまっていたが、1967年にはテレビ用管球ガラスが月産60万個、加工ガラスが月産40万平方メートルへ伸び、名古屋のトヨタ自動車に近い塚口工場豊田分工場と、横浜の旧研究所跡の分工場を建設していた。テレビ用ブラウン管ガラスはアメリカのコーニング社からライセンスを取って生産し、1970年にはテレビ用バルブの生産量でアメリカを追い越した。白黒からカラーへの転換が需要をさらに押し上げ、1970年末のカラーテレビ普及率はなお4割台にとどまっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [37]戦後の発展は電子工業の一部であるテレビ工業、自動車工業および建設業の発展と歩みをともにするものだった
    • [40]テレビ用ブラウン管ガラスはアメリカのコーニング社からライセンスを取得して生産し、1970年にテレビ用バルブの生産量でアメリカを追い越した
    • [41]1970年末のカラーテレビ普及率は40%台にとどまっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [38]1963年時点の生産能力はテレビブラウン管が月産50万個、自動車ガラスが月産17万平方メートルだった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [39]1967年時点でTV用管球ガラス月産60万個、加工ガラス月産40万平方米に伸び、トヨタ自動車に近い塚口工場豊田分工場と横浜の元研究所跡の分工場を建設していた

日本の衣食は世界水準に達した一方で住は著しく立ち遅れており、所得が増えれば家計の支出は最後に住宅へ向かう。旭硝子は1963年の時点でそう読み、建材部門の将来に賭けた。その読みに沿って、スウェーデンから技術を導入した軽量気泡コンクリートのシポレックスを住友金属鉱山と共同で、無機質の吹付材であるボンタイルを関連会社で事業化し、いずれも高層建築の外装や躯体へ採り入れられていった。売上構成は1967年時点でガラス関係が7割、化学関係が2割五分、耐火煉瓦が五分であったが、1976年12月期にはガラス59%・化学37%・セラミックス4%へ移り、売上高は2,920億円余、純利益は92億円余を計上した。同じ年、イオン交換膜を用いた苛性ソーダの新製法と、液晶表示装置を手掛ける子会社の設立に踏み出している。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [42]衣食は世界水準に達したが住の立ち遅れが目立ち、所得が増えれば家計支出は最後に住宅関係へ向かうため建材部門の将来は極めて明るいとした
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [43]軽量気泡コンクリートのシポレックスはスウェーデンから技術を導入し住友金属鉱山と共同で販売、ボンタイルは関連会社で量産し京王プラザビルの外装などに使われた
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [44]1967年時点の売上構成比はガラス関係70%、化学関係25%、耐火煉瓦5%だった
  • 日本企業要覧 1977年版「旭硝子株式会社」
    • [45]1976年12月期の売上高は2,920億円余、純利益は92億円余で、事業別ではガラス関係59%、化学関係37%、セラミックス関係4%だった
    • [46]1976年にイオン交換膜を用いた苛性ソーダの新製法とGRC製品の本格販売を開始し、液晶表示装置の製造販売を目的とする子会社を設立した
参考文献[31]-[46]
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
    • [31]第1次大戦で原料や耐火炉材の輸入が止まったため、原料・炉材自給の必要から必然的に垂直的多角経営をせざるを得なかった
    • [32]1967年時点でも垂直的多角経営の方針は受け継がれ、今後も守り続けるものとされていた
    • [33]水平的多角経営が経済変動に対し安定要因として機能するのに対し、垂直的多角経営はむしろ変動要因として働く
    • [34]千葉で天然ガスからアンモニアを合成し、アンモニアから塩化アンモンとソーダ灰を併産、ソーダ灰を原料にガラスを作り加工ガラスとする一貫工程を持っていた
    • [35]原料から最終製品に至る工程が長いため合理化の余地が多く、垂直的な各部門の利益が積み上がって売上高に対する利益率は高くなる
    • [39]1967年時点でTV用管球ガラス月産60万個、加工ガラス月産40万平方米に伸び、トヨタ自動車に近い塚口工場豊田分工場と横浜の元研究所跡の分工場を建設していた
    • [44]1967年時点の売上構成比はガラス関係70%、化学関係25%、耐火煉瓦5%だった
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
    • [36]一貫メーカーが有利か日本板硝子のような専業メーカーがよいかは時間が決定する問題であり、今後のガラス業界の方向を定める重要な論点とされた
    • [38]1963年時点の生産能力はテレビブラウン管が月産50万個、自動車ガラスが月産17万平方メートルだった
    • [42]衣食は世界水準に達したが住の立ち遅れが目立ち、所得が増えれば家計支出は最後に住宅関係へ向かうため建材部門の将来は極めて明るいとした
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
    • [37]戦後の発展は電子工業の一部であるテレビ工業、自動車工業および建設業の発展と歩みをともにするものだった
    • [40]テレビ用ブラウン管ガラスはアメリカのコーニング社からライセンスを取得して生産し、1970年にテレビ用バルブの生産量でアメリカを追い越した
    • [41]1970年末のカラーテレビ普及率は40%台にとどまっていた
    • [43]軽量気泡コンクリートのシポレックスはスウェーデンから技術を導入し住友金属鉱山と共同で販売、ボンタイルは関連会社で量産し京王プラザビルの外装などに使われた
  • 日本企業要覧 1977年版「旭硝子株式会社」
    • [45]1976年12月期の売上高は2,920億円余、純利益は92億円余で、事業別ではガラス関係59%、化学関係37%、セラミックス関係4%だった
    • [46]1976年にイオン交換膜を用いた苛性ソーダの新製法とGRC製品の本格販売を開始し、液晶表示装置の製造販売を目的とする子会社を設立した

筆者考察

戦後の旭硝子は、外地の工場も市場も失ったうえで、戦前と同じ構えのまま再出発した。手元に残ったのは国内の工場と、ガラス・ソーダ・炉材を一つの工程に繋ぐ技術である。この会社が他社と違ったのは、その技術を守るのではなく、外から買い足すものと考えた点にある。ソ連製のドリルも米国のアンモニア合成も同じ天秤に載せ、自社で開発した電解槽は売りに出した。板ガラスの製法が世界に二つか三つしかないため、どの国でも二社か三社に収まる産業で、買える技術を全部買うことは、そのまま競争優位の幅を広げることだった。1971年に板ガラスで5割、ブラウン管用ガラスで7割を占めた地位は、その積み重ねの結果である。

垂直的多角経営には代償があった。原料から完成品まで自社の内側に抱えるため、景気が落ちれば全段が同時に落ちる。それでも旭硝子がこの形を捨てなかったのは、工程が長いほど合理化の余地が増え、各段の利益が最終製品に積み上がるからである。同じ理屈が海外でも働いた。印度旭硝子は15年にわたって赤字を出し続け、中印国境紛争と印パ戦争と長期ストライキに遭っても畳まれなかった。本体の板ガラスとソーダが、その赤字を吸収できる厚みを持っていたからである。テレビと自動車と住宅という三つの需要が同時に伸びた時期に、旭硝子はその三つ全部へ素材を出せる会社になっていた。

旭硝子の半期売上高 1963年6月期〜1966年12月期(単体・1964年12月期を欠く)(百万円)

22,230 63/6 25,870 63/12 26,760 64/6 26,690 65/6 27,340 65/12 29,260 66/6 34,520 66/12

1950年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a インドにガラス製造会社を設立(1956)
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年12月期 単体 1,374 n/a n/a 151 102 7.4% n/a
1971年12月期 単体 1,461 +6.3% n/a 148 92 6.3% n/a
1972年12月期 単体 1,638 +12.1% n/a 181 108 6.6% n/a
1973年12月期 単体 1,994 +21.7% n/a 222 132 6.6% n/a
1974年12月期 単体 2,386 +19.7% n/a 169 98 4.1% n/a
1975年12月期 単体 2,418 +1.3% n/a n/a 57 2.4% n/a
1976年12月期 単体 2,920 +20.8% 235 181 92 3.2% n/a
1977年12月期 単体 3,114 +6.6% n/a n/a 97 3.1% n/a
1978年12月期 単体 3,250 +4.4% n/a n/a 126 3.9% n/a
1979年12月期 単体 3,929 +20.9% n/a n/a 172 4.4% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • AGC 有価証券報告書 第101期(2025年12月期)【沿革】
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)2篇 日本会社史「旭硝子」
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻7号 村上正夫
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号 村上正夫
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻10号 山下秀明
  • 日経BP社『日経ビジネス』1973年1月8日号「印度旭硝子(インド)のニッポン経営」
  • 日本企業要覧 1977年版「旭硝子株式会社」

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