第1章 年〜年

出光興産:門司での出光商会創業と低価格参入による販路拡張

満鉄の規格突破から、石油業法下の商権喪失へ

1911年〜機械油の行き詰まりと、下関の漁船燃料への転換

出光佐三氏は1909年に神戸高等商業学校を卒業し、神戸の酒井商会で小麦粉と機械油を扱う丁稚として2年を過ごした。店を出したのは1911年6月20日、福岡県門司市東本町である。元手は、神戸高商の在学中に知り合った日田重太郎氏が、京都の別荘を売った代金から渡した8,000円である。返済も利子も営業報告も求めない金で、条件は家族が仲よくすることだけだった。佐三氏はそのうち2,000円を返し、6,000円で店を出している。階下の半分に机と椅子、機械油の見本瓶を数本置いただけの店で、店員は数名。日本石油の特約店として、マシン油・シリンダー油・車軸油・グリースを扱った。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 酒井商会時代」
    • [1]出光佐三は1909年3月に神戸高等商業学校を卒業し、神戸の酒井商会に約2年在籍したのち、1911年6月20日に門司市東本町一丁目で出光商会を開店した
    • [2]出光佐三は1909年3月に神戸高等商業学校を卒業し、神戸の酒井商会に約2年在籍したのち、1911年6月20日に門司市東本町一丁目で出光商会を開店した
    • [3]創業資金は、神戸高商在学中に知り合った日田重太郎が京都の別荘を売った代金から供した8,000円である
    • [4]日田は返済・利子・借用証書・営業報告のいずれも求めず、家族が仲よくして主義を貫くことだけを条件とした
    • [6]開店時の店舗は二階家の階下前半分を事務室とし、机と椅子数脚、機械油の見本瓶が数本という設えで、店員は数名だった
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 戦前出光の資金繰」
    • [5]8,000円のうち2,000円は日田へ返し、残る6,000円を元手とした
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [7]創業者出光佐三の個人経営により福岡県門司市に出光商会を創設し、関門地区を中心として石油販売業を開始した

機械油は、当時すでに先細りの商材だった。動力は蒸気機関から電動機へ移りつつあった。日本石油下関販売店長の谷川湊氏も、門司のスタンダード石油の坂本尚五郎氏も、佐三氏に機械油では売れないと告げていた。実際、朝5時台の一番列車で炭鉱を回る日々を2年続けても得意先はできなかった。行き先を変えた先は、関門海峡を挟んだ下関だった。1909年ごろから山神組や林兼商店が、朝鮮沿岸の漁船団から買い取った漁獲物を発動機船で内地へ運ぶ事業を始めていた。その燃料油はまだ誰も押さえていなかった。出光商会はここへ入り、1914年ごろには山神組所属の全22〜23隻をはじめ、大口需要家の大部分へ油を納めるまでになった。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 初期出光の営業活動」
    • [8]創業当時はスチームエンジンから電動機への転換期にあたり、機械油の需要は減退しつつあった
    • [9]創業当時はスチームエンジンから電動機への転換期にあたり、機械油の需要は減退しつつあった
    • [10]日本石油下関販売店長の谷川湊と門司スタンダードの坂本尚五郎の双方から、機械油は売れないと忠告を受けた
    • [11]朝5時から6時の一番列車で出て夜9時に帰店する炭鉱回りを続けたが、得意先はできなかった
    • [12]1909年から1910年ごろ、下関では山神組(日本水産の前身)と林兼商店が、朝鮮沿岸の漁船団から漁獲物を買い取り発動機船で内地へ運搬する事業を始めた
    • [14]1914年ごろには山神組所属の全漁船22〜23隻をはじめ、大口需要家の大部分に燃料油を供給していた
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [13]1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手して成功した

この市場で出光商会がしたのは、油の質を上げることではなく、等級を下げることだった。灯油やガソリンから32度から33度の軽油へ、さらに精製前の未洗い軽油へ、最後は重油へと、売る油のグレードを落として単価を下げていった。日本石油から下関は出光の区域ではないと咎められると、佐三氏は『海上には区域はないじゃないか』と応じ、以後、同業者から出光は海賊と呼ばれた。売り方だけでなく、配給の手立ても替えた。こま型の計量器と横向きのガラス管を積んだ配給船を自ら考案し、罐に詰めて渡す供給を、船から直に量り売りする中味給油へ切り替えている。罐代と輸送費が落ちる仕組みだったが、2年ほどは誰も使わなかった。2、3艘が使い始めてから一気に広まっている。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 初期出光の営業活動」
    • [15]灯油・ガソリンから32〜33度の軽油、中等・下等品、日本石油から回してもらった未洗い軽油、さらに重油へと油のグレードを下げて単価を下げた
    • [16]日本石油から下関は出光の販売区域ではないと言われ、以後「出光は海賊」と呼ばれた
    • [17]こま型計量器と横向きガラスパイプを備えた計量器付配給船を考案建造し、従来の罐詰供給に代えて中味給油を始めた
    • [18]計量器付配給船は2年ほど誰にも使われず、2〜3艘が使い始めてから一気に普及した
    • [19]計量器付配給船は2〜3艘が使い始めてから一気に普及し、罐代と輸送費が下がった
参考文献[1]-[19]
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 酒井商会時代」
    • [1]出光佐三は1909年3月に神戸高等商業学校を卒業し、神戸の酒井商会に約2年在籍したのち、1911年6月20日に門司市東本町一丁目で出光商会を開店した
    • [2]出光佐三は1909年3月に神戸高等商業学校を卒業し、神戸の酒井商会に約2年在籍したのち、1911年6月20日に門司市東本町一丁目で出光商会を開店した
    • [3]創業資金は、神戸高商在学中に知り合った日田重太郎が京都の別荘を売った代金から供した8,000円である
    • [4]日田は返済・利子・借用証書・営業報告のいずれも求めず、家族が仲よくして主義を貫くことだけを条件とした
    • [6]開店時の店舗は二階家の階下前半分を事務室とし、机と椅子数脚、機械油の見本瓶が数本という設えで、店員は数名だった
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 戦前出光の資金繰」
    • [5]8,000円のうち2,000円は日田へ返し、残る6,000円を元手とした
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [7]創業者出光佐三の個人経営により福岡県門司市に出光商会を創設し、関門地区を中心として石油販売業を開始した
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 初期出光の営業活動」
    • [8]創業当時はスチームエンジンから電動機への転換期にあたり、機械油の需要は減退しつつあった
    • [9]創業当時はスチームエンジンから電動機への転換期にあたり、機械油の需要は減退しつつあった
    • [10]日本石油下関販売店長の谷川湊と門司スタンダードの坂本尚五郎の双方から、機械油は売れないと忠告を受けた
    • [11]朝5時から6時の一番列車で出て夜9時に帰店する炭鉱回りを続けたが、得意先はできなかった
    • [12]1909年から1910年ごろ、下関では山神組(日本水産の前身)と林兼商店が、朝鮮沿岸の漁船団から漁獲物を買い取り発動機船で内地へ運搬する事業を始めた
    • [14]1914年ごろには山神組所属の全漁船22〜23隻をはじめ、大口需要家の大部分に燃料油を供給していた
    • [15]灯油・ガソリンから32〜33度の軽油、中等・下等品、日本石油から回してもらった未洗い軽油、さらに重油へと油のグレードを下げて単価を下げた
    • [16]日本石油から下関は出光の販売区域ではないと言われ、以後「出光は海賊」と呼ばれた
    • [17]こま型計量器と横向きガラスパイプを備えた計量器付配給船を考案建造し、従来の罐詰供給に代えて中味給油を始めた
    • [18]計量器付配給船は2年ほど誰にも使われず、2〜3艘が使い始めてから一気に普及した
    • [19]計量器付配給船は2〜3艘が使い始めてから一気に普及し、罐代と輸送費が下がった
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [13]1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手して成功した

1914年〜満鉄の規格を書き換えた2号冬候車軸油

大陸への足がかりは、南満洲鉄道への車軸油だった。当時の満鉄はスタンダード・アジア・テキサスの外国油が押さえており、日本石油には良質すぎて国内で売れない青色の高級車軸油が滞留していた。出光商会はこれを調合して満鉄へ持ち込み、スタンダードが1石36円で見積もったところへ半値の18円を出した。日本石油下関販売店長は、大連では外国品に関税がかからず日本品は運賃を上乗せして運ぶのだから競争にならないと反対している。満鉄の規格も米国油を標準にしていたため、日本油は比重が重く引火点が低いとして不合格とされた。沙河口工場の試験と奉天から撫順までの実走行試験を経て、採用までに2年を要している。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [20]1914年に旧満鉄へ機械油を納入したのをきっかけに、石油製品その他の一般市販も行って満州一帯に基盤を築いた
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [21]満鉄への車軸油はスタンダード・アジア・テキサスの外油が独占していた
    • [22]日本石油には良質すぎて売れない青色の高級車軸油が滞留しており、これを調合して満鉄向けに転用した
    • [23]見積もりにあたり、スタンダードの1石36円に対して出光は半値の18円を出した
    • [24]日本石油下関販売店長は、大連では外国品に関税がかからず日本品は運賃を上乗せして持ち込むのだから競争にならないと反対した
    • [25]満鉄は米国油を標準に規格を定めていたため、日本油は比重が重く引火点が低いという2点で不合格とされた
    • [26]用度課から現場、技術者へと説得を重ね、沙河口工場の試験機による試験と奉天〜撫順間の実走行試験を経て、採用まで2年を要した

規格そのものを動かしたのは、寒さだった。1916年から1918年にかけて、厳寒期に車軸油が凍って車軸を焼く事故が相次いだ。数百輛の貨車が損傷して停滞し、満鉄は間接損害を除いて300万円から400万円を失っていた。出光商会は1917年に耐寒車軸油の見本300函を提出していたが、2年のあいだ返事がなかった。1919年2月7日の夜、零下20度の戸外に各社の油を並べた。ヴァキューム社製もスタンダード社製も固まり、出光の冬候車軸油だけが流動性を保った。翌8日には零下21度で貨車を走らせ、他社品が車軸箱のウールを押し出すなか、出光の見本油だけはウールを動かさなかった。引火点は満鉄規格の160度に対し130度以上で折り合っている。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [27]1916年から1918年にかけて厳寒時の機械油凍結による車軸焼損事故が頻発し、数百輛の貨車が損傷停滞して、満鉄の損害は間接損害を除き300〜400万円に達した
    • [28]1916年から1918年にかけて厳寒時の機械油凍結による車軸焼損事故が頻発し、数百輛の貨車が損傷停滞して、満鉄の損害は間接損害を除き300〜400万円に達した
    • [29]1917年に耐寒車軸油の見本300函を満鉄へ提出したが、以後2年間音沙汰がなかった
    • [30]1919年2月7日夜、零下20度の戸外での粘度試験でヴァキューム社製・同B816・スタンダード社製はいずれも固体化し、出光の冬候車軸油のみ流動性を保持した
    • [31]1919年2月7日夜、零下20度の戸外での粘度試験でヴァキューム社製・同B816・スタンダード社製はいずれも固体化し、出光の冬候車軸油のみ流動性を保持した
    • [32]1919年2月8日、零下21度で4種の油を車軸ボックスに詰めて貨車を運行したところ、ヴァキューム社品はウールがカバーを押し開けて飛び出し、出光の見本車軸油はウールが少しも動揺しなかった
    • [33]引火点は満鉄規格の160度に対し、見本油の130度以上で合意した

2号冬候車軸油の採用は、大陸で店を開く根拠になった。出光商会は1916年に大連へ支店を置き、1919年に青島、1920年に京城、1922年に台北と店を伸ばしている。朝鮮では、日韓併合時の関税据置によって鉱油が無税同様の特例税率に置かれていた。スタンダードとライジングサンは各地の資産家を組合に組織し、他社品を締め出していた。佐三氏は朝鮮総督府の林繁蔵氏・草間秀雄氏や日本石油の津下紋太郎副社長を動かし、特例関税の撤廃を運動した。1929年の関税改正で石油と揮発油の価格は暴落した。1932年の業界誌は、出光商会の各種油類の売上高が年1,000万円以上に及ぶと伝えている。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
    • [34]創業当初は機械油と海上燃料油の販売を門司・下関・博多を中心に手がけ、逐次、支那大陸・朝鮮・台湾・満州へ販路を拡張した
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [35]1916年に大連へ支店を開設し、満鉄納入と一般市販のほかセメント・火山灰・各種機械工具も扱った
    • [36]1919年に青島、1920年に京城、1922年に台北へ店を置いた
    • [37]日韓併合時の関税据置宣言により、鉱油をはじめ7品目が無税同様の特例税率に置かれていた
    • [38]スタンダードとライジングサンは京城・元山・平壌などで資産家を集めて組合を組織させ、他社品を扱えば戻しを出さない仕組みで市場を押さえていた
    • [39]朝鮮総督府の林繁蔵・草間秀雄、日本石油の津下紋太郎副社長を動かして特例関税の撤廃を運動し、1929年の関税改正で石油・揮発油が暴落した
    • [40]朝鮮総督府の林繁蔵・草間秀雄、日本石油の津下紋太郎副社長を動かして特例関税の撤廃を運動し、1929年の関税改正で石油・揮発油が暴落した
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく」
    • [41]1932年時点で出光商会は朝鮮・満州・台湾まで足を伸ばし、各種油類の売上高は1年1,000万円以上に及んでいた
参考文献[20]-[41]
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [20]1914年に旧満鉄へ機械油を納入したのをきっかけに、石油製品その他の一般市販も行って満州一帯に基盤を築いた
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [21]満鉄への車軸油はスタンダード・アジア・テキサスの外油が独占していた
    • [22]日本石油には良質すぎて売れない青色の高級車軸油が滞留しており、これを調合して満鉄向けに転用した
    • [23]見積もりにあたり、スタンダードの1石36円に対して出光は半値の18円を出した
    • [24]日本石油下関販売店長は、大連では外国品に関税がかからず日本品は運賃を上乗せして持ち込むのだから競争にならないと反対した
    • [25]満鉄は米国油を標準に規格を定めていたため、日本油は比重が重く引火点が低いという2点で不合格とされた
    • [26]用度課から現場、技術者へと説得を重ね、沙河口工場の試験機による試験と奉天〜撫順間の実走行試験を経て、採用まで2年を要した
    • [27]1916年から1918年にかけて厳寒時の機械油凍結による車軸焼損事故が頻発し、数百輛の貨車が損傷停滞して、満鉄の損害は間接損害を除き300〜400万円に達した
    • [28]1916年から1918年にかけて厳寒時の機械油凍結による車軸焼損事故が頻発し、数百輛の貨車が損傷停滞して、満鉄の損害は間接損害を除き300〜400万円に達した
    • [29]1917年に耐寒車軸油の見本300函を満鉄へ提出したが、以後2年間音沙汰がなかった
    • [30]1919年2月7日夜、零下20度の戸外での粘度試験でヴァキューム社製・同B816・スタンダード社製はいずれも固体化し、出光の冬候車軸油のみ流動性を保持した
    • [31]1919年2月7日夜、零下20度の戸外での粘度試験でヴァキューム社製・同B816・スタンダード社製はいずれも固体化し、出光の冬候車軸油のみ流動性を保持した
    • [32]1919年2月8日、零下21度で4種の油を車軸ボックスに詰めて貨車を運行したところ、ヴァキューム社品はウールがカバーを押し開けて飛び出し、出光の見本車軸油はウールが少しも動揺しなかった
    • [33]引火点は満鉄規格の160度に対し、見本油の130度以上で合意した
    • [35]1916年に大連へ支店を開設し、満鉄納入と一般市販のほかセメント・火山灰・各種機械工具も扱った
    • [36]1919年に青島、1920年に京城、1922年に台北へ店を置いた
    • [37]日韓併合時の関税据置宣言により、鉱油をはじめ7品目が無税同様の特例税率に置かれていた
    • [38]スタンダードとライジングサンは京城・元山・平壌などで資産家を集めて組合を組織させ、他社品を扱えば戻しを出さない仕組みで市場を押さえていた
    • [39]朝鮮総督府の林繁蔵・草間秀雄、日本石油の津下紋太郎副社長を動かして特例関税の撤廃を運動し、1929年の関税改正で石油・揮発油が暴落した
    • [40]朝鮮総督府の林繁蔵・草間秀雄、日本石油の津下紋太郎副社長を動かして特例関税の撤廃を運動し、1929年の関税改正で石油・揮発油が暴落した
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
    • [34]創業当初は機械油と海上燃料油の販売を門司・下関・博多を中心に手がけ、逐次、支那大陸・朝鮮・台湾・満州へ販路を拡張した
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく」
    • [41]1932年時点で出光商会は朝鮮・満州・台湾まで足を伸ばし、各種油類の売上高は1年1,000万円以上に及んでいた

1929年〜石油業法と専売制による商権の移転

関税を動かして開いた市場は、開いた先から他社に取られた。1930年に日本石油が京城へ支店を置くと、出光商会の朝鮮での地盤は全13道から3道へ縮んだ。1935年に野口遵氏が設立した朝鮮石油が日本石油の営業権を継ぐと、販売区域は中央の1地区だけになった。台湾でも1929年に日本石油が台北へ販売店を出して地盤が削られている。同じ1935年に満州国が石油専売制を実施すると、佐三氏は、20年余りをかけて『営々として築き上げた商権は唯一片の法令によって取り上げられた』と振り返った。専売の実施に対しては、米英が既得権益の侵害と九ヵ国条約への抵触を理由に抗議している。ただし専売の下部配給の大部分は出光商会が請け負っており、商権が消えたのではなく、その主体が国家へ移ったとみるほうが実態に近い。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [42]1930年に日本石油が京城に支店を設置し、出光の朝鮮での地盤は全鮮13道から3道へ縮小した
    • [43]1935年に野口遵が設立した朝鮮石油が日本石油の営業権を継承し、出光の販売区域は中央の1地区のみとなった
    • [44]1929年に日本石油が台北へ販売店を設置し、台湾でも出光の地盤が削減された
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「九章 戦前店主の公的活動」
    • [45]1935年に満州国が石油専売制を実施した
    • [47]満州国の石油専売では下部配給の大部分を出光が担当し、満石機械油の満州国内販売と北支向け輸出も行った
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「六章 石油国策遂行に邁進」
    • [46]1935年の満州国石油専売の実施に対し、米英は既得権益の侵害および九ヵ国条約への抵触を理由に抗議した

国内でも、販売は国家の配給機構へ移っていった。1934年に石油業法が施行され、1936年3月には石油聯合株式会社が資本金30万円で設立された。1938年には揮発油と重油の販売取締規則が出て、5月から切符制が敷かれた。1939年9月には石油配給統制規則の実施とともに石油共販株式会社が発足している。翌1940年1月には府県ごとの石油販売会社が置かれ、国内の石油卸売と小売の部門は石販と組合に吸収された。配給統制が強まるにつれ、出光商会は1940年以降に下関・萩・山田といった店を順に閉じた。1941年7月に北支石油協会が設立されると北支の石油部門も同協会へ移り、出光からは高橋店長以下12名が転出した。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「六章 石油国策遂行に邁進」
    • [48]1934年に石油業法が施行された
    • [49]1936年3月、国産揮発油聯合会を解散して資本金30万円の石油聯合株式会社が設立された
    • [50]1938年3月に揮発油・重油販売取締規則が出され、同年5月から切符制が実施された
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
    • [51]1939年9月、石油配給統制規則の実施とともに石油共販株式会社が設立された
    • [52]1940年1月に府県石油販売会社が設立され、国内の石油卸・小売部門は石販と組合に吸収された
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「九章 戦前店主の公的活動」
    • [53]配給統制の強化により1940年以降、下関・萩・山田の各店を逐次閉鎖し、国内出光の営業は縮小していった
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
    • [54]1941年に北支石油協会が設立されて北支出光の石油部門が吸収され、出光からは高橋店長以下12名が同協会へ転出した

売り場を失った出光商会が資本を向けたのは、輸送と製油だった。1938年6月には、傍系の昭和タンカーの社船として積載量14,000トンの日章丸が進水した。1,300トンの光安丸と600トンの米寿丸も社船に加わり、合資会社九州製油所へも出資している。1939年8月には上海浦東で大油槽所を起工し、翌1940年4月に落成させた。この資金は、第一銀行の渋沢敬三副頭取が無担保で即諾した500万円で賄われている。同じ1939年12月には、新京へ満州出光興産を、上海へ中華出光興産を設立した。1940年3月には東京に資本金400万円で出光興産株式会社を立て、出光商会の朝鮮・台湾・関東州と内地の営業財産を継承させている。

  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「六章 石油国策遂行に邁進」
    • [55]1938年6月に進水した日章丸(一世)は積載量14,000トンで、傍系の昭和タンカーの社船だった
    • [56]出光の社船として1,300トンの光安丸と、1941年3月進水の600トンの米寿丸があった
    • [57]国内営業の縮小に対し、輸送部門と製油部門へ進出し、合資会社九州製油所へ投資した
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「七章 中華出光概史」
    • [58]上海浦東の大油槽所は1939年8月3日に起工式、1940年4月20日に落成式を行った
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 戦前出光の資金繰」
    • [59]上海のタンク建設のため大蔵省からドル建て取引として500万円の許可を取得し、第一銀行の渋沢敬三副頭取が無担保で即諾した
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
    • [60]1939年12月、上海に中華出光興産株式会社を、新京に満州出光興産株式会社を設立した
    • [61]1940年3月、出光商会の朝鮮・台湾・関東州および内地の営業財産を継承し、資本金400万円をもって出光興産株式会社を設立して本社を東京に置いた
参考文献[42]-[61]
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
    • [42]1930年に日本石油が京城に支店を設置し、出光の朝鮮での地盤は全鮮13道から3道へ縮小した
    • [43]1935年に野口遵が設立した朝鮮石油が日本石油の営業権を継承し、出光の販売区域は中央の1地区のみとなった
    • [44]1929年に日本石油が台北へ販売店を設置し、台湾でも出光の地盤が削減された
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「九章 戦前店主の公的活動」
    • [45]1935年に満州国が石油専売制を実施した
    • [47]満州国の石油専売では下部配給の大部分を出光が担当し、満石機械油の満州国内販売と北支向け輸出も行った
    • [53]配給統制の強化により1940年以降、下関・萩・山田の各店を逐次閉鎖し、国内出光の営業は縮小していった
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「六章 石油国策遂行に邁進」
    • [46]1935年の満州国石油専売の実施に対し、米英は既得権益の侵害および九ヵ国条約への抵触を理由に抗議した
    • [48]1934年に石油業法が施行された
    • [49]1936年3月、国産揮発油聯合会を解散して資本金30万円の石油聯合株式会社が設立された
    • [50]1938年3月に揮発油・重油販売取締規則が出され、同年5月から切符制が実施された
    • [55]1938年6月に進水した日章丸(一世)は積載量14,000トンで、傍系の昭和タンカーの社船だった
    • [56]出光の社船として1,300トンの光安丸と、1941年3月進水の600トンの米寿丸があった
    • [57]国内営業の縮小に対し、輸送部門と製油部門へ進出し、合資会社九州製油所へ投資した
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
    • [51]1939年9月、石油配給統制規則の実施とともに石油共販株式会社が設立された
    • [52]1940年1月に府県石油販売会社が設立され、国内の石油卸・小売部門は石販と組合に吸収された
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
    • [54]1941年に北支石油協会が設立されて北支出光の石油部門が吸収され、出光からは高橋店長以下12名が同協会へ転出した
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「七章 中華出光概史」
    • [58]上海浦東の大油槽所は1939年8月3日に起工式、1940年4月20日に落成式を行った
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 戦前出光の資金繰」
    • [59]上海のタンク建設のため大蔵省からドル建て取引として500万円の許可を取得し、第一銀行の渋沢敬三副頭取が無担保で即諾した
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
    • [60]1939年12月、上海に中華出光興産株式会社を、新京に満州出光興産株式会社を設立した
    • [61]1940年3月、出光商会の朝鮮・台湾・関東州および内地の営業財産を継承し、資本金400万円をもって出光興産株式会社を設立して本社を東京に置いた

筆者考察

出光商会の30年は、良い油を売った歴史ではなく、油の等級を市場ごとに付け替えた歴史である。下関の漁船には灯油から未洗い軽油、さらに重油へと質を落として単価を下げ、満鉄には日本石油で売れ残っていた青色の高級車軸油を外油の半値で入れた。片方では品質を捨て、もう片方では品質で押している。ただし、どちらの市場でも既存の業者は手をつけていなかった。機械油の行商で2年間ひとつも得意先ができなかった出光佐三氏に、他社が埋めている市場へ正面から入る余地はなかった。机と椅子、見本瓶を数本置いただけの店から始めた以上、選べる相手はもともと限られていた。売る油を選ぶのではなく、油の等級で買い手を選んだのが門司の商会の作り方であった。

この売り方には、買い手が規格を持つ場合にしか通じないという限界があった。満鉄が凍らない油を必要としたのは、車軸焼損で数百輛の貨車が止まり、間接損害を除いて300万円台の損失が出ていたからである。出光の見本が採用されたのも、零下20度の戸外で他社品が固まるなか流動したという、測れる事実によっている。ところが1930年代に入ると、買い手は鉄道会社から国家へ替わった。満州国の石油専売も、朝鮮石油の設立も、石油業法も、油の性能では動かない。満州国の専売でも下部配給の大部分を請け負ってはいたが、それは売り先を国家に一本化される代わりに、価格も数量も自分では決められない立場を意味した。20年かけて築いた販路が配給機構へ移ったとき、出光商会に残ったのは売り場ではなく、人と船だった。

出光商会の店員数 1923年から1937年まで(人)

55 1923 150 1931 400 1937
  • 1923年は社史の「五十〜六十名に充たず」から中間の55人を置いた。1931年は創業20周年時点の約150名、1937年は大陸の支店・出張所40余ヵ所を擁した時期の「四百名になんなんとする」による。
  • 出所は『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)。

出典・参考

14件
出典・参考
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 酒井商会時代」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「五章 戦前出光の資金繰」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 初期出光の営業活動」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 海外市場への発展」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「九章 戦前店主の公的活動」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「六章 石油国策遂行に邁進」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
  • 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「七章 中華出光概史」
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく」

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