出光興産:イラン石油輸入と徳山製油所による精製業への垂直統合
日章丸のイラン航海から、徳山製油所による内製化へ
1941年〜統制と敗戦が残した1,000名と、石油以外の3年
戦時下の出光興産が石油を扱えた場所は、内地ではなく外地だった。1942年から1944年にかけ、陸軍と海軍の南方占領地区へ民需石油の配給要員として計166名を送り、うち27名が現地で死んでいる。南方軍は当初2,500人を要する国策会社を構想していたが、出光は必要人員を200人と見積もり、第一次の派遣を96名で受けた。1943年には北支の石油配給機構が簡素化され、配給は出光一社が担うことになった。国内では1944年に男子従業員の応召が進み、各店の店務の大部分を女子事務員と家族が引き受けた。そして1945年8月、朝鮮・台湾・満州・支那の全店を閉じ、海外財産を失った。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
- [1]1942年から1944年にかけ南方の陸軍地区へ148名、海軍地区へ18名の計166名を石油配給要員として派遣し、うち27名が戦死した
- [2]南方軍側は当初2,500人を要する国策会社構想を立てたが、出光は200人でやれると主張し、第一次派遣96名で受けた
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
- [3]1943年、北支の石油配給機構が簡素化され、配給は出光一社が担うこととなった
- [4]1944年は戦局逼迫で男子従業員が激減し、各店の店務の大部分を女子事務員および家族が担った
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [5]終戦とともに海外財産を喪失し、引き揚げ者全員を受け入れた
手元に残ったのは、約1,000名の従業員と200数十万円の借金だった。国内の営業は若松・刈田・名古屋の一部地区の配給に限られ、1945年9月に石油配給統制会社へ旧地盤の返還を求めたが拒まれている。海外にいた800名を含む人員を抱えたまま、出光興産は石油以外の仕事へ人を回した。1946年1月に開いた電気部は、GHQが計画した罹災ラジオ受信機の修理復旧に乗ったものである。当初は全国主要都市100ヵ所を構想し、1946年7月までに46ヵ所を開いた。最盛時には50の営業所と270名を擁し、ラジオ約3万5,000台を販売して約3万台を修理した。ただし投じた5,000万円に対して1,800万円の赤字を残し、1949年3月に全面閉鎖している。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- [6]終戦時に残ったのは約1,000名の従業員と200数十万円の借金だった
- [7]国内に残った営業は若松・刈田・名古屋の一部地区の配給業務のみで、1945年9月に石油配給統制会社へ旧地盤の返還を求めたが拒絶された
- [8]終戦時に海外にいた人員は800名で、1945年9月時点でこの人材を唯一の資本と位置づけて解雇しない方針をとった
- [10]1946年1月に電気部を開設し、GHQ指令による罹災ラジオ受信機の修理復旧に着手した。最盛時は営業所50・従業員270名で、ラジオ約3万5,000台を販売し約3万台を修理した
- [11]GHQ指令で全国800万台の罹災ラジオ受信機の修理復旧が計画され、出光は当初全国主要都市100ヵ所を構想して1946年7月までに46ヵ所を開設した
- [12]1946年1月に電気部を開設し、GHQ指令による罹災ラジオ受信機の修理復旧に着手した。最盛時は営業所50・従業員270名で、ラジオ約3万5,000台を販売し約3万台を修理した
- [13]電気部は投下資本5,000万円に対し1,800万円の赤字を出し、1949年3月に全面閉鎖した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [9]終戦で在外資産と国内の事業基盤を失い、旧海軍タンク底油の集積作業、ラジオの修理・販売、印刷、農業、水産、醗酵など各種の新規事業に従事した
石油に最も近い仕事は、旧海軍タンクの底に残った油だった。1946年4月、商工省から全国の旧軍用タンク底油の一手集積輸送を命じられた。厚岸から佐世保までの8ヵ所へ引揚従業員約200名を送り、ポンプが使えぬまま人力で汲み取っている。集めた量は1947年10月までに約2万キロリットルに達した。インフレで予算を超え、570万円の損失に終わっている。集めた廃油のうち約3,600キロリットルは、商工省から割り当てを受けて自ら再製した。鳥取の農場、茨城の醤油と食酢、三重の定置網漁業、東京の印刷も並行したが、いずれも1951年までに畳んだ。石油業への復帰は1947年10月で、石油配給公団の指定販売店として全国29店が選ばれた。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- [14]1946年4月25日、商工省より全国の旧軍用タンク底油の一手集積輸送を命じられた
- [15]厚岸・大湊・横浜・四日市・舞鶴・呉・徳山・佐世保の8ヵ所へ引揚従業員約200名を派遣し、ポンプが使えず人力で汲み取り、1947年10月末までに約2万キロリットルの廃油を集積した
- [16]厚岸・大湊・横浜・四日市・舞鶴・呉・徳山・佐世保の8ヵ所へ引揚従業員約200名を派遣し、ポンプが使えず人力で汲み取り、1947年10月末までに約2万キロリットルの廃油を集積した
- [17]タンク底油の集積作業はインフレで予算を超過し、570万円の損失となった
- [18]集積した廃油のうち約3,600キロリットル(全数量の約18%)を商工省から割り当てられ、出光が再製した
- [19]鳥取大山山麓の農場、茨城県石岡の醤油・食酢製造、三重県木ノ本の定置網漁業、東京品川の印刷を手がけたが、副業は1951年までにすべて廃止した
- [21]1947年6月の石油配給公団発足を受け、同年10月に全国29店が公団の指定販売店となって石油業へ復帰した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [20]1947年6月の石油配給公団発足を機に同年10月に29店舗が公団指定の販売店となり、石油業者として復帰した
参考文献[1]-[21]
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
- [1]1942年から1944年にかけ南方の陸軍地区へ148名、海軍地区へ18名の計166名を石油配給要員として派遣し、うち27名が戦死した
- [2]南方軍側は当初2,500人を要する国策会社構想を立てたが、出光は200人でやれると主張し、第一次派遣96名で受けた
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
- [3]1943年、北支の石油配給機構が簡素化され、配給は出光一社が担うこととなった
- [4]1944年は戦局逼迫で男子従業員が激減し、各店の店務の大部分を女子事務員および家族が担った
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [5]終戦とともに海外財産を喪失し、引き揚げ者全員を受け入れた
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- [6]終戦時に残ったのは約1,000名の従業員と200数十万円の借金だった
- [7]国内に残った営業は若松・刈田・名古屋の一部地区の配給業務のみで、1945年9月に石油配給統制会社へ旧地盤の返還を求めたが拒絶された
- [8]終戦時に海外にいた人員は800名で、1945年9月時点でこの人材を唯一の資本と位置づけて解雇しない方針をとった
- [10]1946年1月に電気部を開設し、GHQ指令による罹災ラジオ受信機の修理復旧に着手した。最盛時は営業所50・従業員270名で、ラジオ約3万5,000台を販売し約3万台を修理した
- [11]GHQ指令で全国800万台の罹災ラジオ受信機の修理復旧が計画され、出光は当初全国主要都市100ヵ所を構想して1946年7月までに46ヵ所を開設した
- [12]1946年1月に電気部を開設し、GHQ指令による罹災ラジオ受信機の修理復旧に着手した。最盛時は営業所50・従業員270名で、ラジオ約3万5,000台を販売し約3万台を修理した
- [13]電気部は投下資本5,000万円に対し1,800万円の赤字を出し、1949年3月に全面閉鎖した
- [14]1946年4月25日、商工省より全国の旧軍用タンク底油の一手集積輸送を命じられた
- [15]厚岸・大湊・横浜・四日市・舞鶴・呉・徳山・佐世保の8ヵ所へ引揚従業員約200名を派遣し、ポンプが使えず人力で汲み取り、1947年10月末までに約2万キロリットルの廃油を集積した
- [16]厚岸・大湊・横浜・四日市・舞鶴・呉・徳山・佐世保の8ヵ所へ引揚従業員約200名を派遣し、ポンプが使えず人力で汲み取り、1947年10月末までに約2万キロリットルの廃油を集積した
- [17]タンク底油の集積作業はインフレで予算を超過し、570万円の損失となった
- [18]集積した廃油のうち約3,600キロリットル(全数量の約18%)を商工省から割り当てられ、出光が再製した
- [19]鳥取大山山麓の農場、茨城県石岡の醤油・食酢製造、三重県木ノ本の定置網漁業、東京品川の印刷を手がけたが、副業は1951年までにすべて廃止した
- [21]1947年6月の石油配給公団発足を受け、同年10月に全国29店が公団の指定販売店となって石油業へ復帰した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [9]終戦で在外資産と国内の事業基盤を失い、旧海軍タンク底油の集積作業、ラジオの修理・販売、印刷、農業、水産、醗酵など各種の新規事業に従事した
- [20]1947年6月の石油配給公団発足を機に同年10月に29店舗が公団指定の販売店となり、石油業者として復帰した
1949年〜元売指定と日章丸が開いた輸入の口
1949年3月、出光興産は石油製品の元売業者に指定され、翌4月から民間として石油の供給業務を始めた。指定の根拠は経営の姿勢ではなく設備だった。当時の石油課長が輸入設備を持つ者を元売会社とすると決めたため、1948年12月に長崎と門司の油槽所を取得していた出光がこれに当たった。指定を受けたのは内外9社と出光であった。油を運ぶ手立ても、同じ時期に押さえにいった。1951年1月にタンカー建造の適格船主として指名され、播磨造船所へ18,774重量トンのタンカーを発注した。3月に起工して9月に進水させ、12月には米国向けの初航海へ送り出している。石油会社の自社運航タンカーとして戦後初の建造許可だった。
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [22]1949年3月に元売業者に指定され、4月から民間として石油供給業務を開始した
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- [23]当時の石油課長が輸入設備を持つ者を元売会社とすると定めたため、輸入設備を買収していた出光が元売業者となった
- [24]スタンダード、シェル、カルテックス、日本石油、日本鉱業、昭和石油、三菱、ゼネラル、日網の内外9社とともに元売業者の一つとなった
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [25]1951年1月、第六次追加計画造船のタンカー建造適格船主として出光ほか1社が指名された
- [26]播磨造船所へ18,774重量トンのタンカーを発注し、1951年3月起工、9月進水、12月に米国向け初航海へ出た
- [27]播磨造船所へ18,774重量トンのタンカーを発注し、1951年3月起工、9月進水、12月に米国向け初航海へ出た
- [28]石油会社の自社運航タンカーとして戦後初めて建造を許可された船であった
船と油槽所のどちらを先に建てるかでは、油槽所が先に立った。当初は興業銀行・第一銀行・勧業銀行が大口で融資する見込みだったが、造船所への回答期限の3、4日前に勧業銀行が降り、話は頓挫している。船が10数億円、油槽所が4億円という差から、まず油槽所を建てるという興業銀行側の助言に従った。運ぶ船を得たことで、輸入の中身も替わった。1952年5月に神戸へ入った第一船の積載は、ガソリン5,000トンだった。7月にヒューストンで積んだ第二船は1万7,000トンから8,000トンの満船である。この高オクタン価ガソリンはアポロガソリンとして全国で売られ、製油設備の近代化を促す契機になった。ヒューストンの運賃はカリフォルニアの倍だったが、自社船であれば運賃に利幅を乗せる必要はなかった。佐三氏は通産省の石油課長へ『私のところの船ですよ、運賃で儲けんでもいいですよ』と答えている。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [29]興業銀行・第一銀行・勧業銀行が大口融資の予定だったが、造船所への返事の3〜4日前に勧業銀行が断り、建造話は頓挫した
- [30]船が十数億円、油槽所が4億円であったため、興業銀行の助言に従って油槽所の建設を優先した
- [31]1952年5月、米国西海岸からの高オクタン価ガソリンを積んだ第一船が神戸に入り、ガソリンの積載は5,000トンだった
- [32]2回目はヒューストンで1952年7月3日に積み込み、ガソリン1万7,000〜8,000トンの満船で8月4日に川崎へ入港した
- [34]ヒューストンはカリフォルニアの倍の運賃で、朝鮮事変により運賃も高騰していたが、自社船であるため運賃で利益を取る必要がなかった
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [33]1952年5月にアメリカから高オクタン価ガソリンを輸入してアポロガソリンとして全国各地で販売し、品質に対する一般の認識を深めて製油設備の近代化を促す契機となった
1953年2月、出光興産はイラン国有石油会社と期間9ヵ年の石油売買契約を結び、支払いを半額は米ドル、半額は円払いのバーターとした。石油の国有化をめぐってイランが英国と係争していた最中の輸入断行である。日章丸は3月23日に神戸を出て4月10日にアバダンへ入り、2万1,000トンほどのガソリンを積んで戻った。帰路は船内の差押えを避けるために入港日を2日遅らせ、行き先を徳山と流布したうえで川崎へ入れている。5月6日、政府がイラン石油の輸入抑制策を採ると同時に、アングロ・イラニアン石油が積荷の仮処分を東京地方裁判所へ申し立てた。地裁は5月27日にこれを却下し、東京高等裁判所も9月11日に控訴を棄却している。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [35]1953年2月、イラン国有石油会社と石油売買の基本契約および補足協定を締結した。期間は9ヵ年で、支払方法は半額米ドル・半額円払いのバーターとした
- [37]日章丸は1953年3月23日に神戸を出港し、4月10日にアバダンへ入港した
- [38]日章丸は1万8,000トンほどを積む船で、このとき積んだガソリンは2万1,000トンほどだった
- [39]土曜午後から日曜に荷揚げすれば裁判所が休みで船内差押えを免れると計算して入港日を2日遅らせ、川崎入港を秘して徳山に入ると流布した
- [40]1953年5月6日、政府が暫定的にイラン石油の輸入抑制策をとり、同日アングロ・イラニアン石油が日章丸積載のイラン石油の仮処分を東京地方裁判所へ提訴した
- [41]1953年5月27日に東京地方裁判所がアングロ・イラニアン石油の提訴を却下し、9月11日に東京高等裁判所が控訴を棄却した
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [36]1953年5月、石油の国有化をめぐり国際紛争の渦中にあったイランから石油輸入を断行した
参考文献[22]-[41]
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [22]1949年3月に元売業者に指定され、4月から民間として石油供給業務を開始した
- [36]1953年5月、石油の国有化をめぐり国際紛争の渦中にあったイランから石油輸入を断行した
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- [23]当時の石油課長が輸入設備を持つ者を元売会社とすると定めたため、輸入設備を買収していた出光が元売業者となった
- [24]スタンダード、シェル、カルテックス、日本石油、日本鉱業、昭和石油、三菱、ゼネラル、日網の内外9社とともに元売業者の一つとなった
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [25]1951年1月、第六次追加計画造船のタンカー建造適格船主として出光ほか1社が指名された
- [26]播磨造船所へ18,774重量トンのタンカーを発注し、1951年3月起工、9月進水、12月に米国向け初航海へ出た
- [27]播磨造船所へ18,774重量トンのタンカーを発注し、1951年3月起工、9月進水、12月に米国向け初航海へ出た
- [28]石油会社の自社運航タンカーとして戦後初めて建造を許可された船であった
- [29]興業銀行・第一銀行・勧業銀行が大口融資の予定だったが、造船所への返事の3〜4日前に勧業銀行が断り、建造話は頓挫した
- [30]船が十数億円、油槽所が4億円であったため、興業銀行の助言に従って油槽所の建設を優先した
- [31]1952年5月、米国西海岸からの高オクタン価ガソリンを積んだ第一船が神戸に入り、ガソリンの積載は5,000トンだった
- [32]2回目はヒューストンで1952年7月3日に積み込み、ガソリン1万7,000〜8,000トンの満船で8月4日に川崎へ入港した
- [34]ヒューストンはカリフォルニアの倍の運賃で、朝鮮事変により運賃も高騰していたが、自社船であるため運賃で利益を取る必要がなかった
- [35]1953年2月、イラン国有石油会社と石油売買の基本契約および補足協定を締結した。期間は9ヵ年で、支払方法は半額米ドル・半額円払いのバーターとした
- [37]日章丸は1953年3月23日に神戸を出港し、4月10日にアバダンへ入港した
- [38]日章丸は1万8,000トンほどを積む船で、このとき積んだガソリンは2万1,000トンほどだった
- [39]土曜午後から日曜に荷揚げすれば裁判所が休みで船内差押えを免れると計算して入港日を2日遅らせ、川崎入港を秘して徳山に入ると流布した
- [40]1953年5月6日、政府が暫定的にイラン石油の輸入抑制策をとり、同日アングロ・イラニアン石油が日章丸積載のイラン石油の仮処分を東京地方裁判所へ提訴した
- [41]1953年5月27日に東京地方裁判所がアングロ・イラニアン石油の提訴を却下し、9月11日に東京高等裁判所が控訴を棄却した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [33]1952年5月にアメリカから高オクタン価ガソリンを輸入してアポロガソリンとして全国各地で販売し、品質に対する一般の認識を深めて製油設備の近代化を促す契機となった
1954年〜コンソーシアムが閉じた口と、徳山製油所への転身
裁判のあとに残ったのは、勝訴の記録ではなく、動かない契約だった。1954年4月に英米仏の8社が国際合弁会社を組み、8月5日にはイランとの間で石油協定が成立した。イラン国有石油会社は国際協定の枠を出られなくなり、出光との既存契約は履行が難しくなった。政府は8月16日にイラン石油の輸入を許可したが、直輸入は少量にとどまっている。許可された量は年間800万ドル、約50万キロリットルであった。訴訟は11月12日にアングロ・イラニアン側が取り下げた。1955年8月には第二次補足協定を結び、製品ではなく原油の輸入へ切り替えている。佐三氏はこの決着を、相手から妥協を申し込んできたもので『勝敗は表面は決していない』と述べている。製品を運ぶだけでは供給を握れないことが、この2年で明らかになった。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [42]1954年4月10日、アングロ・イラニアン40%、米国系5社各8%、ロイヤル・ダッチ・シェル14%、フランス石油6%の出資で国際合弁会社が結成された
- [43]1954年8月5日にイランとコンソーシアムの間で石油協定が成立し、イラン国有石油会社は国際協定の範囲内でしか動けなくなって、出光との既存契約の履行は困難となった
- [44]1954年8月5日にイランとコンソーシアムの間で石油協定が成立し、イラン国有石油会社は国際協定の範囲内でしか動けなくなって、出光との既存契約の履行は困難となった
- [45]1954年8月16日、政府はイラン石油の輸入を許可し、外貨割当と船積地指定を解除した
- [46]国際合弁会社の結成とイランとの協定成立により当初の意図の実現は困難となり、イラン石油の直輸入は少量にとどまった
- [48]1954年11月12日、アングロ・イラニアン石油は東京地方裁判所の訴訟を取り下げた
- [49]1955年8月27日に出光とイラン国有石油会社の間で第二次補足協定が成立し、出光はイラン原油を輸入することとなった
- [50]1954年の決着は相手方からの妥協の申し込みによるもので、裁判の決をとらずに妥協することとなった
- 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
- [47]1954年8月に問題が解決し、年間800万ドル(約50万キロリットル)の輸入が許可された
供給を握る側へ回る手立ては、製油所だった。1955年8月の閣議で、徳山の旧海軍第三燃料廠跡地のうち川東地区を出光へ払い下げることが決まった。1956年4月に大蔵省中国財務局と売買契約を結び、ただちに建設工事へ入っている。1957年3月17日に火入式、5月29日に竣工式を行っている。第一期工事の完成をもって、出光興産は販売業者から生産者へ移った。設計は米国のUOP社が担い、日産35,000バーレルの常圧蒸溜のほか、減圧蒸溜・流動接触分解・接触改質・接触水添脱硫の各装置を備えた。敷地は約175,000坪で、工事には延べ55万人の労務者が入っている。資金は、1955年10月に渡米した佐三氏がバンク・オブ・アメリカから取り付けた1,000万ドルの借款である。認可は1956年1月に外資委員会から得た。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [51]1955年4月の通産省方針発表を経て、同年8月の閣議で徳山川東地区を出光へ払い下げることが最終決定した
- [52]1956年4月28日に大蔵省中国財務局と売買契約を調印し、ただちに建設工事へ着手した
- [53]1956年3月27日に起工式、1957年3月17日に火入式、同年5月29日に竣工式を行った
- [56]設計は米国UOP社で、常圧蒸溜35,000バーレル、減圧蒸溜16,000、流動接触分解7,000、接触改質3,000、接触水添脱硫3,000の各装置を備えた
- [57]徳山製油所の敷地は山口県徳山市新宮町の約175,000坪で、第一期工事には延べ55万人の労務者が従事した
- [58]1955年10月27日に渡米し、バンク・オブ・アメリカからの1,000万ドル借款を仮調印、1956年1月17日に外資委員会の認可を得た
- [59]1955年10月27日に渡米し、バンク・オブ・アメリカからの1,000万ドル借款を仮調印、1956年1月17日に外資委員会の認可を得た
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [54]1957年3月に徳山製油所が竣工した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [55]1955年8月に徳山の旧海軍第三燃料廠跡地の払い下げを受け、1957年3月に徳山製油所の第一期工事が完成した
当時の出光興産は資本金2億円、借入は10数億円という身の丈で、銀行側は資本金ではなく{q2}と説明した。徳山が動いてから、会社の規模は一段変わった。1955年3月期に192億円だった売上高は、1957年3月期に243億円、1961年3月期には832億円となった。1966年3月期には2,090億円に達している。販売業者から生産者へ移ったことが、この伸びの土台にある。1963年1月に千葉製油所が竣工し、1964年9月には石油化学部門を分離して出光石油化学を設立した。1966年12月には209,413トンの出光丸が竣工している。生産調整に反対して1963年11月に石油連盟を脱退したのも、供給を自ら握った後の行動だった。
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
- [60]借款交渉当時の出光の資本金は2億円、借入は十数億円で、バンク・オブ・アメリカ側は資本金ではなく出光の経営方法に貸すと述べた
- [67]1966年12月、石川島播磨横浜工場で209,413トンの出光丸が竣工した
- 『株式会社年鑑』1959年版(半期合算)
- [61]売上高は1955年3月期192億円、1957年3月期243億円(単体)
- 『株式会社年鑑』1963年版(半期合算)
- [62]売上高は1961年3月期832億円(単体)
- 『株式会社年鑑』1967年版(半期合算)
- [63]売上高は1966年3月期2,090億円、当期純利益19.3億円(単体)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [64]1949年の元売会社指定、日章丸建造、イランからの石油輸入を経て、1957年に徳山へ製油所を建設し、販売業者から生産者となった
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [65]1963年1月、千葉製油所が竣工した
- [66]1964年9月、石油化学部門を分離して出光石油化学株式会社を設立した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [68]1962年10月の原油輸入自由化と同時に石油連盟による自主生産調整が実施され、出光はこれに反対して1963年11月に石油連盟を脱退した
参考文献[42]-[68]
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- [42]1954年4月10日、アングロ・イラニアン40%、米国系5社各8%、ロイヤル・ダッチ・シェル14%、フランス石油6%の出資で国際合弁会社が結成された
- [43]1954年8月5日にイランとコンソーシアムの間で石油協定が成立し、イラン国有石油会社は国際協定の範囲内でしか動けなくなって、出光との既存契約の履行は困難となった
- [44]1954年8月5日にイランとコンソーシアムの間で石油協定が成立し、イラン国有石油会社は国際協定の範囲内でしか動けなくなって、出光との既存契約の履行は困難となった
- [45]1954年8月16日、政府はイラン石油の輸入を許可し、外貨割当と船積地指定を解除した
- [46]国際合弁会社の結成とイランとの協定成立により当初の意図の実現は困難となり、イラン石油の直輸入は少量にとどまった
- [48]1954年11月12日、アングロ・イラニアン石油は東京地方裁判所の訴訟を取り下げた
- [49]1955年8月27日に出光とイラン国有石油会社の間で第二次補足協定が成立し、出光はイラン原油を輸入することとなった
- [50]1954年の決着は相手方からの妥協の申し込みによるもので、裁判の決をとらずに妥協することとなった
- [51]1955年4月の通産省方針発表を経て、同年8月の閣議で徳山川東地区を出光へ払い下げることが最終決定した
- [52]1956年4月28日に大蔵省中国財務局と売買契約を調印し、ただちに建設工事へ着手した
- [53]1956年3月27日に起工式、1957年3月17日に火入式、同年5月29日に竣工式を行った
- [56]設計は米国UOP社で、常圧蒸溜35,000バーレル、減圧蒸溜16,000、流動接触分解7,000、接触改質3,000、接触水添脱硫3,000の各装置を備えた
- [57]徳山製油所の敷地は山口県徳山市新宮町の約175,000坪で、第一期工事には延べ55万人の労務者が従事した
- [58]1955年10月27日に渡米し、バンク・オブ・アメリカからの1,000万ドル借款を仮調印、1956年1月17日に外資委員会の認可を得た
- [59]1955年10月27日に渡米し、バンク・オブ・アメリカからの1,000万ドル借款を仮調印、1956年1月17日に外資委員会の認可を得た
- 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
- [47]1954年8月に問題が解決し、年間800万ドル(約50万キロリットル)の輸入が許可された
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [54]1957年3月に徳山製油所が竣工した
- [65]1963年1月、千葉製油所が竣工した
- [66]1964年9月、石油化学部門を分離して出光石油化学株式会社を設立した
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
- [55]1955年8月に徳山の旧海軍第三燃料廠跡地の払い下げを受け、1957年3月に徳山製油所の第一期工事が完成した
- [68]1962年10月の原油輸入自由化と同時に石油連盟による自主生産調整が実施され、出光はこれに反対して1963年11月に石油連盟を脱退した
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
- [60]借款交渉当時の出光の資本金は2億円、借入は十数億円で、バンク・オブ・アメリカ側は資本金ではなく出光の経営方法に貸すと述べた
- [67]1966年12月、石川島播磨横浜工場で209,413トンの出光丸が竣工した
- 『株式会社年鑑』1959年版(半期合算)
- [61]売上高は1955年3月期192億円、1957年3月期243億円(単体)
- 『株式会社年鑑』1963年版(半期合算)
- [62]売上高は1961年3月期832億円(単体)
- 『株式会社年鑑』1967年版(半期合算)
- [63]売上高は1966年3月期2,090億円、当期純利益19.3億円(単体)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [64]1949年の元売会社指定、日章丸建造、イランからの石油輸入を経て、1957年に徳山へ製油所を建設し、販売業者から生産者となった
筆者考察
日章丸が1953年4月にアバダンへ入った航海は、国際石油カルテルを破った事件として知られるが、出光興産が手にしたものは通説ほど大きくない。東京地方裁判所も東京高等裁判所もアングロ・イラニアン石油の申し立てを退けた。ところが1954年8月にイランと国際合弁会社の間で石油協定が成立すると、9ヵ年の売買契約は履行しにくくなり、イラン石油の直輸入は少量で終わった。訴訟も判決ではなく相手方の取り下げで閉じ、出光佐三氏自身が勝敗は表面に出ていないと述べている。契約から取り下げまでに1年9ヵ月が過ぎ、残ったのは動かない契約だった。船を持っても、売る油の出どころは他人が握ったままであった。
足りなかったのは船ではなく、製油所だった。1957年3月に火を入れた徳山製油所は、輸入した製品を売る会社を、原油を買って製品を作る会社へ変えている。資本金2億円・借入10数億円の会社にバンク・オブ・アメリカが1,000万ドルを出したのも、担保や規模ではなく、この転換の見通しに対してであった。1955年3月期に192億円だった売上高が1966年3月期に2,090億円へ伸びた土台には、精製能力を自ら持ったことがある。1963年11月に石油連盟を脱退できたのも、生産の量を他社と相談せずに決められる立場を先に作っていたからだった。販売から精製へ踏み出すまでに、創業から46年がかかっている。
- 各年3月期の単体売上高。徳山製油所は1957年3月17日に火入式を行った。
- 出所は『株式会社年鑑』1959年版・1963年版・1967年版(半期合算)。
1941年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 192 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 194 | +1.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 243 | +25.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 357 | +46.9% | n/a | n/a | 昭和四日市石油を設立(1957/11) |
| 1959年03月期 | 単体 | 470 | +31.7% | 3 | 0.6% | 昭和四日市石油四日市製油所が完成(1958/05) |
| 1960年03月期 | 単体 | 680 | +44.7% | 2 | 0.3% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 832 | +22.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 996 | +19.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 1,000 | +0.4% | 8 | 0.9% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 1,700 | +70.0% | 4 | 0.2% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 2,000 | +17.6% | 4 | 0.2% | 出光石油化学徳山工場が竣工(1964/10) |
| 1966年03月期 | 単体 | 2,090 | +4.5% | 19 | 0.9% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 2,350 | +12.4% | 18 | 0.8% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 2,716 | +15.6% | 6 | 0.2% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 2,968 | +9.3% | 9 | 0.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算
出典・参考
11件
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「八章 大東亜戦下の人力顕現」
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「四章 戦後の資金繰」
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「二章 日本再建への苦闘」
- 『出光五十年史 本編』(出光興産, 1970年)「三章 戦後の国家的石油政策の推進」
- 『会社銀行八十年史』(1955年)出光興産の項
- 『株式会社年鑑』1959年版(半期合算)
- 『株式会社年鑑』1963年版(半期合算)
- 『株式会社年鑑』1967年版(半期合算)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)